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時々更新mn日記

( 2024/07 ← 2024/06 → 2024/05 )


[ 函館研修旅行その他。 ]
函館研修旅その他



2024年6月16日は4時間ほど歩いてすっかり疲れました。五稜郭まではたどり着きましたが、勿論箱館奉行所の中を見学してきました。
ただ、ここで大雨。

こののちは函館駅へと戻りました。そこで買ったハセガワストアの焼き鳥弁当が今回の旅行の最後を飾りました。一番おいしかったのはこれかも。残念ながら写真はありません。


そこで箱館その他として一番初め。ラスト。


四角いコンクリート製の電柱なども残っていました。


新選組ファンにはこのあたりも欠かせませんね。五稜郭タワーに関係するものがたくさんありました。


函館ドッグ前の倉庫群はさびれた感じ。

金森倉庫群の中はお土産物屋、飲食店がたくさんありますよ。


函館マリーナ近くの建物。中を覗いたら喫茶店みたい。外見からはそれは感じられなかった。


洋風な住まい。

古い建物。


一番古い市電。木製なので晴れた日の土日に一度動かすとのことでした。

函館ドッグ前の市電。ここはひとつの終点。

北島三郎が二時間半かけて通った函館西高。八幡坂を上りきったところにあります。

坂の下から函館山を見上げると、雲がかかりました。途中の旧区民公会堂がきれいでした。


昼の元町公園

夜の元町公園。

函館の街もコロナを経てようやく元気になりかけとのこと。観光客は台湾人が多い。古いものと新しいものの混在。洋と和。市電は遅い。空地はたくさんある。地元のスーパーは元気。晴れれば空はきれい。
また来ます。



2024/06/29(土) 晴れ


[ 函館研修旅行その3 ]
函館研修旅行その3

函館湾にできるだけ沿って歩きました。行きどまっては戻りでした。このあたりの倉庫街は日曜日ということもあって寂しい感じ。草も生えっぱなしで昨日の金森倉庫街とは雲泥の差。やがて箱館丸が展示してありました。



箱館丸は日本初の洋式商用帆船とのこと。海沿いに飾ってありました。この真向いの住まいの屋根は「平ら」。函館は雪は風で飛ぶので平らでいいそうです。そして売り家の値段は3DKで3千万円弱。


(このお宅の値段ではありません。)
そんな情報を仕入れながら緑の島の向こうにある碑を目指しました。新島襄が函館からアメリカに密航した記念碑で、これが私の目的でした。




新島の十年前には吉田松陰が下田から密航しようとして死罪になりました。新島がなぜ基督教に期待を抱き密航を企てたかはよくわかっていませんが和田洋一さんの「新島襄」によれば「自由と文明へのあこがれ」が強かったのではないかと書かれていました。
ともかくこの後10年ののちに宣教師として帰国するまで、幸運が彼について回りました。京都で同志社を作りましたが、その出発点を見てきました。この碑の場所は少しわかりづらいところにありました。人気の少ない所にある碑と説明の看板を後にして赤レンガ倉庫街を目指すと、途中、新島襄が密航の際に姿を模したブロンズ像が飾られていました。こちらは港に面したところにあり、メジャーでした。



金森倉庫群がある西波止場に戻ってきました。函館の町を早歩きで見てきましたが、まだ時間があったので、市電に乗って、五稜郭前を目指します。そこで目にしたものは「丸井今井」地元というか北海道のデパートです。



地下の食料品店街でお土産を仕入れてから五稜郭まで歩きました。この道が結構長い。途中「薬師四文屋」あったのにはびっくりしました。


中野区の新井薬師発祥の焼き鳥屋さんです。たまに行っておりますが、五稜郭にもありました。この五稜郭あたりが一番の繁華街です。昨日はタワーから見ただけの五稜郭内にある箱館奉行所に入りました。




2024/06/28(金) 晴れ


[ 函館研修旅行その2 ]
函館研修旅行その2

元町公園の山側にある旧区民公会堂はブルーグレーとイエローの色鮮やかな洋風建築です。



昼の景色もいいですが、ライトアップされた夜もおすすめです。(夜にもう一度訪れました)このあたりから平行移動で行けます。目ざとい会長と副会長は「日本で二番目においしいメロンパンアイス」でおなかを満たしております。この後向かったのは「ハリストス正教会」です。




1864年校祖新島襄が函館からアメリカへ密航した時に、当時の司祭ニコライさんがいた教会です。現存する建物は明治40年の函館大火の後にたてられたもの。白壁に緑の搭が特徴です。
ここを後にすると函館港内の金森倉庫街へと車を進めました。赤レンガ倉庫街として有名です。いくつもの倉庫の中にはお店がひしめき合っておりました。スカーフや帽子、コースターなどが目を引きましたが、何も買わずに出てきました。反対側には「ラッキーピエロ」函館だけにあるハンバーガー屋さんです。




行列で一時間待ちということで買い物はあきらめました。ハンバーガーと小物類のレジを分けてくれれば多少のものは買えたのに、と思っています。
さて次はいよいよ五稜郭です。函館の街の繁華街中心地です。今から40年ほど前に函館五稜郭タワーに上りましたが、今回のはその時の倍の高さ107メートル。五稜郭の全容が見渡せるようになっています。上って降りるだけでした。




その後トラピスチヌ修道院を経て今夜の宿湯の川温泉「花びし」へ。夕食後再び同じタクシーにて函館山へと向かいました。函館山は334メートル。夜の駐車場は観光バスとタクシーしか登れません。天気はくもり。おそらく山頂からは夜景は見えないとのことでした。その通り、山頂は霧の中。2メートル先も確かではありません。夜景はあきらめて函館夜景のビデオ鑑賞。山を下りて二合目で車を止めて夜景を見ました。二合目は路肩に車を止めて降りて鑑賞しましたが、結局この日は、皆さんここで降りて鑑賞したようです。



聞けば6月は見えるのが一週間くらいとのことでした。
夜中まで宿で話をしたのに6時には起きて風呂に入り7時からは朝飯。塩辛、イカにイクラ、ラーメンもあり、おなかに入れたところで8時過ぎから行動開始。私は湯の川から市電に乗り、昨日行った「函館ドッグ前」まで行きました。



2024/06/27(木) 晴れ


[ 函館研修旅行1 ]
函館研修旅行



去る2024年6月15日早朝十四日会会員9名を乗せた新幹線は、一路函館を目指しました。この会は材木屋さんの集まりの一つで二年に一度のペースで旅行に出かけています。今回は函館。港町。列車を使うのは久しぶりです。
新幹線駅函館北斗で乗り換え函館につきました。早速駅前の食堂で昼飯、海鮮丼です。見た目も小ぶりで金額は観光者用料金でした。  ここから9人乗りタクシーに乗り込んで観光です。まずは石川啄木が住んでいたという青柳町から森昌子の歌で有名になった立待岬へ。



津軽海峡に面した岬ですが、あいにくの曇り空。対岸は見えません。ここを後にすると市内に戻り、元町あたりから神社、寺社、教会巡りです。函館市電の終点、「ドック前」あたりから見学開始です。弁天様のある函館厳島神社へ。さらに曹洞宗の高竜寺へ。




欅つくりの山門には、龍や鳳凰、獅子の彫刻が施されており見事でした。本堂の中も見せていただきました。本堂には直径一メートルもある木魚が置かれてありました。日本最大級とのことでした。
タクシーは元町に戻り、まずは北島三郎が通った函館西高へ。山の中腹にあります。ここから坂を下ると波止場が見えます。




この八幡坂を歩くことにしました。函館の街は函館山を背にして北へ下がっています。その途中が坂道です。降り切ってしまえば平地ですから、坂の町という表現は適当でないかもしれませんが、坂の中腹に寺院教会が詰まっています。





2024/06/26(水) 晴れ


[ 中野支部会開かれる ]
中野支部会開かれる



去る6月20日中野駅北口「第二力酒蔵」において中野支部会が開かれました。8名の出席でした。理事会報告に続き夏の納涼会の話から始まりました。夏は鰻がいいのではないかという話でまとまりました。

現在新東京は15支部から13支部へと減少し、5支部会「城北、情勢、城南」の体制から南北になりました。中野支部は北側に杉並支部は南側に属することになりました。中野でも支部会がもたれるようになって20年。支部的なまとまりも数の減少とともに進んできたと思います。また支部会を持つ他の支部も増えてきたと思います。

さて、数の減少で組合の仕事も変化していくと思います。組合員は一人で仕事をしている方が増えて、その応援に組合からの応援が必要な時代になりました。組合員が動かなくて良い体制が求められています。また組員同士のつながりも緊密になる必要があります。

もう現実的にこれらは解決していけそうです。さらに請求書のメール配信。支部費などの引き落とし。だんだんといろいろなものが整理されていきます。これらを歓迎しながらいきたいと思います。

さて話は変わって、気になることが。最近哲学堂のテニスコートが新しくなりましたが、これらに関しては、素人の設計士を使ったとか、中野区の職員も何も知らない方が担当であったり、施工も不十分であったり、とかの問題点もありますが、それ以上にコートを使う方が減っているのが気になります。テニスをする方が減ったのかしら。子育て世代の生活が厳しくなったので遊んでいられないのかなどなど、中野支部会でも子育て世代は「子供にお金がかかる」と話していました。



一説には函館よりもおいしかったとか。


2024/06/21(金) 晴れ


[ 十四日会研修旅行余話 ]
十四日会研修旅行余話

新島襄は私が卒業した同志社を作った方です。今回函館の旅行をしましたが、その際、新島襄の密航の碑だけは見ておきたいと思いました。函館からアメリカにわたり10年間ほどアメリカ暮らしをして帰国しました。その間、キリスト教に入信し、また岩倉使節団の木戸孝允との接触から、その引き立てもあり、帰国後英学校を創ることになりました。

新島襄は江戸時代の終わりごろに上州安中藩の江戸屋敷で下級武士の長男として生まれています。5人目にやっと男の子が生まれたのですが、その時祖父が「しめた」といったところから「七五三太」(しめた)と名付けられたといわれています。

元服したころから、海外先進国とその文明にあこがれるようになります。そして幕府の軍艦操練所で洋学を学びます。当時この操練所には「全国各藩から500から600名の若者が集まっていた。教師は、長崎海軍伝習所でオランダ人の教えを受けた7名の侍と土佐生まれの漁民中浜万次郎であった。」(和田洋一著新島襄より)漢訳聖書との出会いがキリスト教へと傾斜していきます。それが国外脱出につながり、実際キリスト教文明に飛び込んでいきます。

1864年新島は日本の運輸船「快風丸」に乗り、アメリカ渡航を目指して箱館(函館市)へと向かいました。新島は箱館に潜伏している間に、ロシアの司祭ニコライ・カサートキンと出会い、日本語や日本の書物について教えました。聖書に関心が深い新島にニコラスは弟子にならないかと勧めましたが、アメリカへ行くという意志は固かったのです。


(函館ハリストス正協会。荘厳な感じでした。このニコライさんは後年お茶の水のニコライ堂を作った方です。)
そしてついに新島は箱館港から小舟に乗り、さらに米船ベルリン号で出国します。

密航時の姿です。

この石碑で、コロナ前までは慰霊祭が開かれておりました。


函館観光といればまずは五稜郭

トラピスチヌ修道院

函館の夜景

これは二合目からです。山頂は霧で何も見えず。怖いくらいでした。でも霧はすぐに晴れたようで、この後ホテルに帰って山頂の生テレビを見ていたらかなり夜景が見えていました。6月は月のうち一週間くらいしか見えないとのことでした。

お土産のひとつは五島軒のカレーにしました。


2024/06/19(水) 晴れ


[ 45年も経つと ]
45年も経つと



鏡を見ながら自分も歳をとったと思うこの頃です。
今から45年ほど前の写真を見る機会がありました。
ここには8人が写っていますが、生きているのは私を含めて二人。時の流れを感じます。




同期の人たちが、病気をしたから、亡くなったに変わるこの頃です。
右端の髪の長いのが私です。


2024/06/08(土) 晴れ


( 2024/07 ← 2024/06 → 2024/05 )


[ 管理者:大野満生 ]


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