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思い出
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思い出
わが社は創業が父であり、私は苦労知らずの二代目さんです。父は第二次世界大戦に徴兵検査で合格し、昭和20年に入隊しました。何月かは正式に知りません。西へ向かいました。福岡県の大刀洗というところで敗戦を迎えました。あと一週間戦争が長引けば朝鮮半島へと向かっていたといました。この間死人を見たことがないとか、配給されるものは何でも「飲みます、食べます、すいます」と言って確保すること。それを欲しい人に分ければ立場がよくなる、というのが処世訓です。祖父が21歳、祖母が17歳の時に生まれた長男で、年子で妹と弟がいました。小さなころから食事の支度をしてからから小学校に通った方でした。長男だったので芝浦工業高校にに行き、三菱重工業に勤めてからの入隊でした。戦後、体を壊して結核を病んだので、祖母の実家である埼玉県の飯能にあった平沼製材所の東京営業所として、中野区に材木屋のお店を出しました。場所は今の石又材木店が戦争中に一時的に使用していた場所を買いました。まずは建物を。そして土地を買わせていただきました。昭和24年8月の夏のことでした。 私が生まれたのは昭和26年3月です。細長の6畳に同じだけの畳の部屋、二階があり、階段を上がると7畳の畳の部屋が一間ありました。ここで生活していました。むき出しの押し入れならぬ棚がありました。一階には土間でかまどがありました。トイレの位置は覚えていませんが井戸もあり、鶏を飼っていました。小学校へ上がるまではこの住まいでした。
お店に電話が入りました。
小学校へ入学です。
こんな時代もありました。
さて、こんな話をする予定ではありませんでした。新東京木材商業協同の歴代理事長さんには、引き立てていただきありがとうございました。ご期待には応えられませんでしたが、
まずはS理事長。たたき上げの理事長さんで、木材屋さんでした。一人の材木屋さんが身体を使ってできる売り上げは150万円から200万円。それ以上は無理だ、といった言葉が残っています。
次に、K理事長。新東京の建材課の創設だけではなく、自身のコネを使いながら若い人を育てた方でした。委員会好きとして知られましたが、引退後交通事故で亡くなりました。現練馬支部長の父親とは親友。現在常務や支部長クラスの方の仲人を行い若い方の発掘および育てることに力を注ぎました。私もこの方のおかげでかなり勉強させていただきました。
次の理事長さんはその方の父親が副理事長で終わったので、「息子を理事長にしたい」という念願でなられました。当時の常務クラスの方が理事長に就いた方がよいかなと思っていました。
なかなかうまくはいきませんね。私の時代の理事長職は、大体この方という前評判がありました。が、そういう風にいかないのが現実です。2年間なり、4年間を安定的に務めるのは体力気力にプラスして運も大事です。何から始めるか、そのタイミングも難しいところです。私にはできませんでした。
難しいものです。増資も組合員平等に同じ数だけすればできますが、反発もあるでしょうね。組合の役員の給料を上げようとした理事長さんもいましたが、現役の時にはその主張は通りませんでした。人をまとめるのは難しいです。
今小学校のクラス会を開こうと思っていますが、わずか20人足らずの人を纏められずに現在に至っています。
2024/07/28(日)
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