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あれから50年
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あれから50年
あれからは、大学の卒業試験から50年という意味です。 卒業までに数多くの単位を残していたために一つ落とすと卒業がおぼつかないという、あまり人に言えない中で卒業試験に臨んでいました。
しかし京都の冬は寒く、しかも下宿は京間の8畳でガラス窓の向こうには冷気しかありませんでした。いくつかの卒業試験を済ませたある日、風邪をひいてしまい、試験が受けられなくなりました。まず安田君が来てくれて泊ってくれました。その次の日には丁野君が来て病院へ連れて行ってくれました。京都の安井病院というところへ行きました。風邪と診断されて試験を3つパスしました。
そうなると卒業が覚束なくなるという私の現実がありました。私の年代は「学生運動」のあおりを食らった、70年安保世代の最中です。卒業せずに留年は当たり前。実際大学4年生の三分の一は留年、5月卒業、9月卒業などでした。5月卒業は5回生とならずに前期分の授業料を支払うと、卒業させてくれました。実際ゼミの先生や単位の取れなそうな先生のところに行って「就職が決まっているので何とか卒業させてください」とウイスキーを一本持って自宅を訪ねた者もいます。今でも数年に一度会っています。
9月卒業は、一年分の授業料を前払いして夏前までに卒業させていただきものたちです。ゼミの卒業会には参加できませんでした。そこで卒業できなかった方にK君がいます。労働基準監督官になりましたが、卒業前から一度も会っていません。元気なのでしょうか。消息は知りません。
また明らかに5回生になった方もいます。勿論ゼミの卒業会には参加しませんでした。その方は十年前には一度フェイスブックで名前をお見掛けしましたが、いつの間にか、そこからも居なくなりました。
さて、私は、安井病院で診断書を作成してもらい、「追試」をうけました。3科目です。2月の頭だったと思いますが、受けました。三科目とも事前に「本試験の問題」は友人を通して知っていました。よくしたもので、本試験を知っていれば60点は取れるという「やさしさあふれる」ものでした。一日のうちに三科目受けました。そして3科目受けたのは私だけでした。
無事卒業できました。
年を取ると変なことを思い出すものですね。この50年忘れていたことが急に出てきました。みんなの友情に感謝するとともにいまだに繋がりを持っていることに誇りを持っています。いい人たちに出会いました。それは小学校、中学、高校、大学、商店街、材木屋と私の人生のなかで出会った方々の全てとは言いませんが、高い確率でいい人に巡り合えたので私は幸せな男なのだと感じています。これからも今少しこの道を進みたいと思います。
2023/01/22(日)
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