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時々更新mn日記

( 2016/12 ← 2016/11 → 2016/10 )


[ 気が滅入る ]
気がめいる


日曜日夕方家に戻るとFAXが届いていました。
5年先輩の訃報を伝えるものでした。70歳でした。坂本英二さんでした。長い闘病生活から解放されたという意識と残念という気持ちが入り混じっています。全く気が滅入ります。お酒を飲むしか解決法がありません。
今年に入ってから、田巻哲也、八木清一、そして坂本英二さんと3人の先輩が亡くなりました。68歳、68歳、そして70歳でした。

想い出深い人たちに死なれるという経験が増えています。


2016/11/30(水) 晴れ時々曇り


[ 神宮のイチョウ並木へ ]

明治神宮のイチョウ並木へ



銀杏の名所としては昭和記念公園が有名ですが、こちら神宮外苑もよくテレビで放映されます。11月27日曇り空でしたが、こちらに向かいました。

思ったよりも先のとがった銀杏の木でした。









2016/11/28(月) 曇り時々雨


[ 新東京木材創立70周年祝賀会 ]
新東京木材商業協同組合70周年記念パーティー



去る11月26日土曜日、池袋メトロポリタンホテルにおきまして、新東京木材商業協同組合の創立70周年記念祝賀会が開かれました。当日は内田理事長のあいさつに続いて吉条全木蓮会長などご来賓のあいさつのなどを経て乾杯に移り2時間ほど祝賀会は続きました。

さて、この祝賀会では、久しぶりに盟友窪寺さんとお会いすることが出来、記念に写真を撮ってきました。彼はいつも忙しくて、ジャパンホームショーなどへ行っても等身大のパネルしか置いてなく、社員の方に聞いても「さっき帰りました」とか「明日来ます」という感じで生のご本人に会えないままでした。彼も元気そうだったので安心しました。あまり仕事をしすぎないようにしてもらいたいと思います。










2016/11/27(日) 晴れ時々曇り


[ 想い出話 ]
想い出話


私は学生時代に京都にいました。北区小山板倉町というところに4年間お世話になりました。夕食がついて12500円でした。京間の8畳間でしたが、布団、電気こたつ兼ちゃぶ台、水屋、本棚、電気スタンド、カセットラジオに電気コンロと湯沸かしポット。洋服は押し入れの中に入れていました。あとはトースターがありました。スーツなどは持っていなくて紺のブレザーが一着とレインコートがありました。衣文かけの記憶はありませんが、広々としたところに寝ていました。

夏は暑く冬は寒いという自然の摂理にかなったところにいました。この下宿から少し離れたところに通称「パクロー」の下宿がありました。東に二筋南に二筋ほど下がったところにありました。入学してしばらくしたころにはこの下宿にお世話になりました。当時5回生の「パクロー」氏がいらっしゃったからです。1969年生6月から8月にかけて通いました。時には泊めていただきました。昨年5月に「パクロー」氏にお会いした時に、「69年当時、お世話になりました」とあいさつしたら、「全く覚えておらん」といわれましたが、よく考えてみれば、ほんの数か月の話なので、覚えていなくて当然でした。

話は変わって
私の下宿から北へ一筋、東へ20メートルほど行ったところに貴田さんの下宿がありました。貴田さんは私よりも2年上です。目の前はお風呂屋。確か初音湯といったと思います。小山板倉町には今一軒お風呂屋さんがありましたので、普段はそちらに行っていましたが、貴田さんを知ってから時折こちらにも来ました。

この下宿は築50年くらいの建物で、貴田さんは玄関横の3畳間が寝室でした。2階にも下宿人がおりました。そちらにもお邪魔したことがありましたが、部屋が傾いており、私はこの2階では眠れないと思いました。

さてこの貴田さんの下宿は部屋には机だけ。洋服や布団は2階へ上がる階段の共有スペースに置かれていました。この下宿は鍵もなく門限もないため、いろいろな方が出入りしていました。

その中でも一番は八木さんでした。当時工学部の4回生。大阪の実家に帰れない時は必ずといってよいほどこの下宿に来ていたと貴田さんはいわれます。私はそれまでの3年間は知りませんが、八木さんが4回生の秋に知り合い、翌年も大学に残りましたので、約一何半ほどお付き合いできました。私が1回生から2回生の時です。

貴田さんと同期の山本さんと八木さんの3人は良くつるんでいました。八木さんは貴田さんの下宿に来て、貴田さんがいないと私の下宿に来て、よくお話をしてゆきました。その後貴田さんの下宿に行き、あるいは縄のれんや石松などへと繰り出しました。また山本さんがバイトしていたすぐ近くの中華料理屋へも行きました。ある時、お金が足りなくなって「大野、お前、山口さんの所へ行って借りてこい」ということがありました。

私の下宿から西へ150メートル行き、20メートルほど下がったところに山口さんの下宿先があり、玄関先で呼び出して「お金を借りました」。山口さんは同期の女の子です。

1年上の飛鳥井さんが、橿原から烏丸車庫近くの下宿に引っ越してきてからは飛鳥井さんも加わりました。これらは1969年の秋から1971年初めまでの話です。

話は変わりますが、烏丸車庫から修学院の高久さんの下宿へは良く通いました。ここには今村さんや大谷さん、森下さんなどがおりました。ここへは横田さんという1年上の先輩によく連れて行っていただきました。まだ1回生のころ横田さんに連れられて、横田さんが私の下宿に来て、「高久さんの所に行こう」ということになって3キロほど歩いて修学院松ヶ崎の下宿まで行きました。途中酒屋で安いウイスキーを買って、それで飲もうというわけです。

ある時、まだ1回生だったと思いますが、酔いつぶれてしまい、森下さんの部屋で戻してしまいました。戻したという意識もなく、翌日頭は痛いし、自分が何をしたのかもわからない状態でした。森下さんには本当に申し訳ないことをしました。森下さんとは賀状の交換をしておりますが、横田さんは、1971年から消息が知れません。お元気でいられるといいのですが・・・

下宿からみはいろんなことを思い出します。

貴船荘やら、内藤アパート、一乗寺の安田君の下宿。

丁野君の山科四宮の下宿へは4回生の時にお世話になりました。何せ四宮という駅を降りてから坂道を15分ほど上らなければなりません。あるお茶屋さんの社長の別宅でしたが、当時3人か4人生下宿生がおりました。丁野君の下宿には風呂はついているし、テレビがあったのでよく出かけておりました。四宮の駅を降りるとまず「ソレイユ」という喫茶店に入り、一息ついてから下宿まで歩きました。ここに娘さんが二人おりました。どちらか「もらってくれない」と丁野君は言われていました。彼はもてましたから。

「ソレイユ」はまだあるそうです。どちらかの娘さんが継いだのでしょか。一度訪れたいと思っています。娘さんはどうなったのでしょうか。もう60歳は超えていると思いますが・・・



2016/11/25(金) 晴れ


[ 早稲田高校71期テニス会 ]
早稲田高校71期テニス


高校の71期が8年前からテニスの集まりをしていると教えていただき、11月23日則子ちゃんとともに参加してきました。

石神井にあるテニスクラブで汗をかいた後は、石神井公園内のイタリアンでした。

食事もおいしくいただきました。年に2階の開催とのことでしたが、また呼んでもらおうと思っています。





そして今朝は雪。
11月としては54年ぶりとか。
小学6年生の時に経験したはずなのに覚えていません。
昨日でなくてよかった。
昨日は高校の友人と話が出来てうれしかったです。
私の人生の空白部分がかなり埋まってきました。




積もらなければいいのだけれど。
今日のテニスはコート不良のためありません。



2016/11/24(木) 雪


[ 柳井の街は ]
柳井の街は


先日、NHKの番組で、笑福亭鶴瓶の「家族に乾杯」に山口県の柳井市が映るよ、と連絡をいただきました。

鶴瓶は確か本名は駿河学君で、1951年生まれ。京都産業大学で、「あのねのね」の清水、原田と一緒につるんでいた仲間だったと思います。私は早生まれなので69年に同志社に行きましたが、彼らは70年入学だと思います。

さて、柳井は3年近く前に、友人の墓参りに行きました。今回は、その街並みを思い出して、今は亡き梅本君の住まいが映るかな、などという希望を持ちながら、見ていました。

初めに映ったのは、柳井の駅から東北に伸びるメインストリート。すぐに川沿いに変わってそこで鶴瓶と平愛梨さんが待ち合わせ。お寿司屋さんが出て来ました。おそらく梅本君の住まいはこの川を少し下って行ったあたり。残念ながら映ることなく、二人は柳井の北西にある体育館へ。柳井は卓球が盛んな土地だそうで、その体育館で、別行動に。鶴瓶さんは東へ行き笠佐島へあたり、愛梨さんは白壁通りから少し入った織物の体験ができる資料館へ。

そこから少し下ると白壁通りが映りました。この通りを過ぎて一番最初に写った大通りを突っ切れば「誓光寺」が映るはずでしたが、そういうこともなく、番組は終了してしまいました。「誓光寺」には梅本君が眠ります。

というわけでしたが、一度訪れた街並みを思い浮かべながら、また梅本君を思い出しながら小一時間を過ごしました。

今年は例年よりも喪中はがきが多くて参ります。まあしょうがないのでしょうが・・・




梅本君の独特の字です。
彼の家の店に書かれてありました。3年前に写したものです。




2016/11/23(水) 曇り


[ 先輩の訃報に泣く ]
訃報に泣く


大学の先輩からY氏の訃報の電話をいただく。なぜか泣けてくる。聞けば、7年前の皮膚がんを患い、昨年からは胃癌。今年7月にかなり深刻な事態になり、その方が今月初めにお見舞いに行った時には余命1か月といわれたとのこと。それが直に他界された。ご家族の心中や如何に。

大学時代の私が一回生の時の4回生。よく飲みに連れて行っていただきました。わずか一年半ばかりのつながりだったけれど鮮明に覚えています。

最後にあったのが今から4年半前でした。大学のサークルの会合でお会いしました。気軽に近況を語り合った後、世代別に分かれたので私は少し年代の下の人たちと飲みましたが、その方は同世代の方と朝まで過ごしたとのこと。翌日朝に電話をいただきました。ところが私はすでに朝早く違う場所に移動していたために会うことは出来ませんでした。

結局それっきりになってしまいました。

さて、昔話。
そのYさんは大阪出身の関西人。私は一回生の時の4回生です。5年で卒業したために2回生の時まで約一年半つながっていました。卒業後は高校の先生になられたと聞いています。

私は36歳の時に、京都に出かけた際にY氏に会い、またそのご家庭にお邪魔して奥様と生まれたばかりのお子様に会っています。その時、南禅寺の豆腐屋に連れて行っていただいたのを覚えています。奥様が運転されて四条大宮から東山の南禅寺に行きました。

それ以前、学生時代の思い出になります。下宿でビールを飲むときは、当時は瓶ビールしかなかったので飲むには栓を開けなければなりませんでした。Y氏は歯が丈夫だったので口で開けていました。

Y氏から教わった一番のことは人間関係論でした。有り体に云えば、恋愛関係論ないし、誰が誰を好きで、誰とどういう関係にあるか、それが組織全体のどのように影響を及ぼすかといった問題でした。だれとだれがどのような関係にあり、それを維持するために如何に動けばいいのか、どういうことに気を付けて行動するのが良いかなど、わけのわからないことを教えていただきました。これが何となく一番影響を受けているところです。

今一つは、当時家永三郎氏がおこした教科書裁判に関して、でした。Y氏は教育関係に、教職に着こうとしていただけに、教科書裁判には関心が高かったようで、1970年春当時、それをさかのぼること数年間の教科書裁判ないし、教育関係の新聞記事を読み、必要と思われることを抜き書きするという仕事をお手伝いしたことがありました。ほんの一か月でしたが、資料館に通い、新聞を丹念に読み、必要と思われることを抜き書きしていました。今ならスキャナーで読んでコピーすれば済むようなことです。私は京都新聞ないし、読売新聞を読んで必要と思われるところを写しました。6人くらいが参加したと思いますが、そのうちのおひとりとは今でも交流があります。そんなつながりの基礎を作ってくれました。

私は大学一年生の時、しかも後期から歴史学研究会に入りました。右も左もわからない私の傍で、当時4回生のYさん、三回生のKさんともう一人のYさん。そして2回生のAさん。一回生のYさんに私。この辺りでつるんでいました。歴史学研究会には1969年9月から入りましたので、Yさんと1970年いっぱい付き合いがあったとしても一年半です。

その中で大阪に帰れない時には烏丸車庫付近で飲み、下宿に泊まりあい、すごい時には3畳間に男5人で寝ました。身動きできないくらいでしたが、若かったのでしょう。眠れました。

この当時よくおごってもらった寿司屋「石松」は去る11月三日に北大路に行ったさい、建物は変わっていたけどお店は健在だったのを見てきました。

Yさんは今一人の岐阜出身のYさんと名古屋のKさんの三人でいつもつるんでいました。なかなか表舞台には出て来ませんでしたが、その三人は年に数回会っていたと聞いています。今回Yさんがお亡くなりになられて、このお二方は家族葬にご参列されたとお聞きしました。良かったと、素直に思います。

私も今回電話をいただいたKさんと下宿先が大変近くて、私も良く寄せていただきましたが、YさんもKさんがいなくても家に帰れない時にはkさんの下宿で泊まっていきましたので、そんな時、大野の下宿に来て「飲みに行こう」と誘っていただいた感じです。今回の訃報にふれてとても悲しいです。Yさんの写真を探しましたがはっきり写っているものがないことも発見しました。いつも身近にいた人のように思っていましたが、こんなに早いお別れになるとは思いもよらず、ただ涙が出て来ます。信じられませんが、信じたくもありませんが、おそらく間違いではなさそうです、あとは夢の中で会話してみたいと思っています。

その時に話していた言葉を少しずつ思い出しながら、偲びたいと思います。まずはお悔やみ申し上げます。1948年3月8日生まれ68歳は早すぎます。



当時の京都北区小山板倉町にあった私の下宿を中心にしてすぐ北に良く泊まったKさんの3畳の下宿があり、その真ん前は銭湯でした。当時はまだ市電が走っていましたし、今は北大路ですが、昔は烏丸車庫といい、市電の車庫でした。ここに「石松」という江戸前のすし屋さんがありましたが、先日11月3日にこの前を通った時には、建物はビルになっていましたが、お店は健在でした。

私の下宿とともに思い出のお店がものが残っていたのには、ほっとさせられるものがありました。

ただ残念なのはY氏の写真はすべて小さなものか、ピンボケなので実際を伝えられないことです。昭和23年3月8日生まれ。68歳でした。ただただ残念です。


これまた、鴨川近くにある古本屋。当時のまま残っていました。



すし屋の石松はビルの中にありました。当時は木造2階だけで、1階のみがお店でした。

2016/11/20(日) 晴れ


[ スーパームーン ]
スーパームーン


68年ぶりのスーパームーンにはじめてお目にかかります。68年前はもちろん生まれていません。昨日満月の日は曇りだったので今日十六夜にお月目にかかりました。明るくて大きなそれでした。

さて、話は変わりますが、夏目漱石の逸話の一つに彼が松山中学の先生をしているとき、英語の授業で「I LOVE YOU」を和訳した話です。「私はあなたを愛します」と訳すのでしょうが、そこは漱石。日本人ならそんなことは言いません。「月がきれいですね」くらいに訳しておきましょう、と答えます。

この日本人なら、というフレーズがいいですね。私も「月がきれいですね」と問いかけてみたいですね。



十六夜に取り忘れたので明け方の寝待ち月です。我が家から撮りました。


2016/11/17(木) 晴れ


[ なつかしの歌声 ]
なつかしの歌声


流行歌の昭和史の勉強とは名ばかりでしたが、学生時代の後期にはラジオから流れてくる歌を聞いている時間がかなりありました。テレビはありませんでしたし、夜中は深夜ラジオを聞いていました。人と一緒に過ごす時間以外は一人でしたから、ラジオをかけて時たまカセットに録音するという塩梅でした。もちろん当時のはやり歌も聞いていましたが、戦前から戦後にかけての歌を聞く機会に恵まれました。そのためか今でも口ずさめる歌がたくさんあります。

当時、カールマルクスの「資本論」が5巻セットで2500円でしたが、私はそれよりも「日本流行歌史」を選びました。1800円でした。その一番最後に掲載されていた歌詞は「わたぼこの中に咲いた花」でしたが、改訂増補版が出たときにカットされていました。おそらく政治的なことだと思います。

そんなことを思い出しながら今一つの私の宝物である「なつかしの歌声」(正・続)を見ながらその時代の唄を思い出してみたいと思います。この本の正の方は昭和初期の「波浮の港」に始まり、昭和16年まで掲載されています。そして続の方は昭和17年から昭和30年までです。「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年で幕を閉じるというのは一つの見識なのでしょう。昭和の流行歌というくくりがいいのだと思います。

この中には戦前では東海林太郎、藤山一郎をはじめとして淡谷のり子、松平晃、高峰三枝子、霧島昇、小畑実、李香蘭さんなどがいます。

戦後では、それらの方に加えて、田畑義夫、菊池章子、岡本敦郎、笠置シヅ子そして美空ひばり、三橋美智也につながってゆきます。

さて、そんな中でも歌に好みがでます。今名前をあげなかったディックミネ、戦後でいえば鶴田浩二や春日八郎が好きです。たぶん自分で歌いやすい歌を歌った方だからだと思います。

上海ブルース、夜霧のブルース、赤と黒のブルース、好きだった、赤いランプの終列車をよく口ずさみます。



歌いやすいというのは、長く愛されるための一つの方法です。良く言葉が思い浮かぶといつも感心しています。歌いやすい歌を書いてみたいというのは私の中では一つの夢です。


2016/11/16(水) 晴れ


[ 高原の駅よさようなら ]
高原の駅よさようなら


小畑実が歌う「高原の駅よさようなら」は昭和26年つまり私が生まれた年の流行歌です。佐伯孝夫作詞で佐々木俊一さんの作曲です。

「しばし別れの夜汽車の窓よ いわず語らずに心と心 またの会う日を目と目で誓い、涙見せずにさようなら」という魅力的な歌詞がつけられています。私も鼻歌でよく歌っています。

これを歌った小畑実さんは朝鮮生まれで、1979年にゴルフ場で倒れてそのまま亡くなっています。55歳でした。その頃の私はよくテレビを見ていましたので、ワイドショーで知りました。この「高原の駅よさようなら」以前には、「湯島の白梅」とか「勘太郎月夜唄」などのヒット曲があります。

小畑さんの本名は、朝鮮姓ですが、小畑姓を名乗ったのは、秋田で下宿していた際、大家さんである小畑イクさんに面倒を見ていただいた関係からだと聞いています。(一説には孤児だった彼を小畑イクが引き取ったと書いてあった書物もありました。)

このイクさんが育てたもう一人の子供に小畑達雄がいます。姉の子ですが、若くして亡くなっています。スパイとされて亡くなりました。立花隆さんの著書以来、また全協の活動などから、スパイ説は成り立たなくなっています。もう80年以上も前の話です。正式に汚名を返上する時期が来たように思います。

この歌をユーチューブで見ると、映画「高原の駅よさようなら」の一場面で、水島道太郎さんが、信濃追分で汽車を待つ場面が出てきます。私も中学一年生の時にこの駅に立ちました。もう50年以上前の話になりましたが・・・・




2016/11/15(火) 晴れ


[ さきたま古墳群へ行く。 ]
さきたま古墳群



埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」へと行ってきました。東北道を羽生で降りて20分ほどで着きます。

先ずは「博物館」でお勉強。高校生の団体が見えていました。その方々に交じって見学。一番有名な国宝「「金錯銘鉄剣」や土器、埴輪を見学。これらが古墳の中から出てきたことを確認してから古墳へと足を進めました。この辺りは今から1500年ほど前に古墳が作り始められおよそ200年の間に古墳はつくられました。現在残っているのは9基です。


埼玉県の件名由来の碑



さきたま史跡の博物館



埴輪の馬が再現されていました。



中央には稲荷山古墳から出土した金の銘が入った鉄剣が展示されています。国宝です。



外に出ると景色は秋色。



ランチです。右側にあるのは「ゼリーフライ」という行田名物です。衣のついていないコロッケという感じです。



後ろに見えるのが稲荷山古墳です。



現在工事中で上まで登ることはできませんでした。



代わりに日本で一番大きい円墳として知られている丸墓山古墳に登り、そこから稲荷山古墳を写しました。この古墳は高さ19メートルだそうです。周りに高い建物を造らないようにしているせいか見晴らしが良い所です。



ここから2キロ離れた忍城へも行きました。城下まつりの最中で、博物館は入場無料。忍城おもてなし甲冑隊なる、コスプレ隊のおもてなしを受けました。それだけでなく、場内ではコスプレする男の子女の子がたくさんいました。コスプレする人のメッカになっているのだと思いました。

関東平野は広いと感じて戻ってきました。



2016/11/14(月) 曇り


[ 川島行灯祭りにいく。 ]
川島行灯祭りに行く


11月12日テニスを終えて家に戻ってから川島商店街へと繰り出しました。今日と明日行灯祭りが開かれるので行ってみることにしました。

ただいま6時半。いつもならば、行灯に明かりが入っているのに、今回はその行灯すらありません。事故が多いのでやめたのかな。この日は土曜日。子供連れの方が数多く参加していましたが、マジックショーやジャズコンサートなど少し大人向けのイベントが多く、子供向けのイベントが少ないように思いました。それは食べるものにも反映されていました。

私たちも、ここで食べたのは大石さんの「月見うどん」だけ。






そういえばもうすぐ満月。月曜日がスーパームーンですが、天気が良くないので、13日のうちにお月様をじっくり眺めることにしましょう。







2016/11/13(日) 晴れ


[ 鼎泰豊 ]
鼎泰豊



東京新宿に高島屋というデパートがあります。新宿駅の南口に今年バスターミナルが出来て一層便利になりましたが、その南側になります。東急ハンズが併設されており、また紀伊國書店も隣にあります。

高島屋に行くには新宿駅ないし新宿三丁目駅からかなり歩くので我が家からは便が良いとは言えません。それでも今年台湾へ行き、台北で食べた小籠包の味が忘れられずに新宿へと足を運びました。台湾で食べたお店が「鼎泰豊(デンタイフォン)」。その支店が日本にたくさんあると聞いて、新宿で食べることにしました。

実は数か月前に下見に行ったのですがかなりの行列に出会い、これは平日の昼間に来るべきだと悟っていました。そこで今回、開店時間の11時前に高島屋に行き、並んでみました。行列はすでに出来ていましたが、立って待つのではなくて椅子が用意されており、それに座って待ちました。待つこと30分で中に入ることが出来ました。

小籠包と大根餅に、酸辣湯麺とワンタンメンをいただいてきました。

台北でもかなり待たされたので、そのことを思えば、新宿高島屋で十分でした。

小籠包もおいしかったのですが、ワンタンメンは麺が細くてワンタンがおいしく、スープが抜群でした。大根餅は味噌がかなり辛いです。



この高島屋の中には、「おたる政寿司」とか天ぷらの「天國」などの有名店も多く入っており、遠くへ行かなくてもその土地の味を味わえるようになっています。

また来よう。




2016/11/11(金) 曇り時々雨


[ 東京行灯祭 ]
第5回東京行灯祭



川島商店街では来る11月12、13の両日「東京行灯祭」を催します。

この行灯祭りも第5回を数えることが出来ました。屋台も出れば路上パフォーマンスもあります。若い学生さんたちのアート作品も出ます。

この催しは川島商店街では、夏の夜店市、10月末のハロウィンに続くイベントに成長しています。ぜひご来場を





2016/11/09(水) 晴れ


[ 50年ぶりの大原の里 ]
50年ぶりの大原の里


大原へは高校の修学旅行で行ったきりでした。その時は寂光院と三千院の両方をお参りしたと思います。寂光院のさびれた風情と大原の里を見て、生まれて初めて唄を作りました。その唄はすっかり忘れましたが、この地は記憶に残る土地になりました。

1969年に同志社大学に入学して翌年、この大原の里の奥にある阿弥陀寺で追い出しコンパがありました。その時に同期生4人とその地まで行ったことは覚えています。横山、山口、田中君と私です。

あれから46年が過ぎました。

もう一度訪れたいと思っていましたが、機会に恵まれ2016年11月3日にこの地を訪れました。三千院までの道のりは記憶の外でしたが、お庭に入れば来たような記憶が甦ります。

この日は暖かくてこの地の紅葉はまだでしたが、コスモス畑に始まり三千院を散策してきました。帰り道には永六輔さん作詞の「女ひとり」の碑がありました。かなり前にできていたと思いますが、初見です。

この後、大原からバスで国際会館を経て北大路に向かいました。ここは昔烏丸車庫と呼ばれていました。通称六間衣棚という呼び名で表されたところに私は下宿していました。5年程前に一度訪れましたが、その下宿はまだ健在でした。なぜかうれしくなり、パチリ。

その後宇治に移動して島一郎先生の墓園にお参りして今回の目的を果たしました。




バスで大原まで行き、三千院に向かう途中にコスモスの里があります。ここでちょっと一休み。



三千院は定番ですね。ここで拝観料や御朱印をいただきお土産など合計三千円ほど使いました。



お庭はいい感じです。朝早かったので人もまばら。これがなおさら雰囲気を盛り上げました。



高校の先輩永六輔さんの「女ひとり」の碑もありました。



大原から昔の烏丸書庫へ戻り、自分が暮らした下宿先がまだ健在でるので感激しました。戦前の建物だと思いますが、築80年は経っていると思います。当時も古かったのですが、50年近くも経っていまだに残っていると、まだまだ残したいという気持ちになります。この後、本日の目的である宇治の天ヶ瀬墓園に今は亡き島一郎のお墓参りに行き、無事に目的を達成しました。





2016/11/06(日) 晴れ


[ 島一郎先生の墓参り ]
島一郎先生の墓参り



11月3日午後3時過ぎに京都駅に島ゼミ5期生5人が集まり、島一郎先生の眠る天ヶ瀬墓園に向かいました。3年前は6人でしたが、そのうちの一人が昨年亡くなり、その報告もかねて、今回5人が墓参に参加しました。

ここ天ヶ瀬墓園は宇治市の南にあります。墓園の隣は靖国寺といいます。大学3回生の時に合宿で来たことがあります。その南に広がる墓園は午後三時を過ぎるとアベックだけという静かな場所です。

宇治には「花やしき」という有名な旅館がありますが、そこへは先生が亡くなる3年前に5期生できました。そこを過ぎて墓園に着き、先生にお花と線香を手向け、さらには西君が亡くなったことを報告して墓参を終了しました。

その後、京都近くの彩花亭で会食し近況報告しました。一次会だけでしたが、長時間にわたり、いろいろな話をしました。特に今回は西君の最後及びその前後一年間のことを聞けたので、ありがたかったです。







2016/11/05(土) 晴れ


( 2016/12 ← 2016/11 → 2016/10 )


[ 管理者:大野満生 ]


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