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時々更新mn日記

( 2016/08 ← 2016/07 → 2016/06 )


[ 中野新橋に住んでいると ]
中野新橋に住んでいると




中野新橋に住んでいると参議院選挙も東京都知事選挙も「関わりがない」ように思えます。候補者を見ることもなく、選挙カーに出会うこともなく、ただ選挙期間が過ぎてゆきます。

自民党の推す候補に石原慎太郎が出てきたのには興ざめでした。現在の状況を作り出した張本人が白々しく応援に駆け付け、息子の推す候補の応援をする、いくら息子が頼りなくても何か間違ってはしませんか、という気持ちになりました。

都知事選挙はマイナスポイントの少ない方に入れるという、投票行動になりそうです。

さて、7月29日は東京ドームで野球観戦。ヤクルト対読売です。神宮でヤクルト戦を観戦した2回は、いずれも山田がホームランを打ちましたが、今回はなし。読売が阿部坂本のホームランで勝ちました。バックスクリーンのすぐ横という席だったので全体が見渡せて面白かったです。2本のホームランも良く見えました。







2016/07/30(土) 晴れ


[ 映画「錆びたナイフ」を見る ]
映画「錆びたナイフ」を見る


砂山の砂を指でほってたら
真っ赤に錆びたジャックナイフが出てきたぜ


今月のチャンネルNECOは石原裕次郎の命日月ということもあって、裕次郎映画を4本ほど放映しています。その中の「錆びたナイフ」を見ました。この映画を見るのは、もちろん映画館では一回見た記憶がありますが、あとの3回はテレビです。しかも今のような42インチというレベルではなく、せいぜい半分の21インチないし、14インチくらいでしょうか。迫力は断然違います。

しかも65歳という年齢で見るとアラもたくさん見えてしまいます。ただ石原裕次郎の魅力は十二分に引き出されていると思います。この映画の前には「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」が出されており、押しも押されもしない地位が確定した映画になるのでしょう。

これ以後は「明日は明日の風が吹く」「風速40米」「赤い波止場」などを経て、それ以後はぱっとしない映画が中心になります。

そんなことはあまり関係ありませんが、裕次郎という俳優の魅力はこの映画には出ています。アップになった時の表情です。愁い、悲しみ、孤独感、若者が抱える感情を素直に表しています。

いいですね。

同じく、「錆びたナイフ」から十数年を経た映画「影狩り」も同じくチャンネルネコで放映してあり、見ましたが、こちらは裕次郎の魅力といったものではなく、その当時主流だった「劇画」といわれる漫画の世界を実写化したもので、今見るとつまらない映画でした。

20歳で見るのと65歳で見るのでは、当たり前ですが、同じ気持ちにはなりませんが、20歳で見た映画は、若い時の恋人に出会ったような「わくわく」感があります。ドキドキします。
このドキドキ感が、青春です。このときめきを大事にしていきたいと思います。



2016/07/27(水) 曇り


[ このところの読書 ]
このところの読書


アトランダムに買ってあった本や書棚に積んであったそれを読み返しています。半日雨の日、テニスの予定がない時など椅子に腰かけて読書です。

「日本の古墳」小林行雄。「誰も知らなかった日本史」出口恒。「プロレタリア文学はものすごい」荒俣宏。「私の昭和史」和田洋一。「父伊藤律」伊藤淳。「私の1960年代」山本義隆。「日本会議の研究」菅野完。「二人でひとりの明治天皇」松重楊江。などです。
近代史から現代史に関するものが多いように思います。

「誰も知らなかった日本史」の著作者は出口恒さん。初めてお名前をお聞きしましたが、出口王仁三郎さんのひ孫にあたられる方でお父様は、早稲田中学の先輩にあたります。王仁三郎といえば「大本教」ですが、それとは別にというか血筋的に言うと、天皇家の血筋につながる方です。そのこともあって戦前に宗教的な弾圧を受けます。京都府の綾部や亀岡が大本教の本拠地です。昔王仁三郎さんが書いたものを少し読んだ記憶はありますが、さっぱり覚えていませんし、わかりません。ただ、書かれた方は天皇家の北朝の系統の血筋をひいている方です。この方のお父さんは同志社中学を出た後に、早稲田中学に入りなおした方でして、(ちょうど戦争の時期と重なっていたので、今とは学制が違いますが)私とはくしくも同名の学校を逆に入った方で、なぜか親近感を持ってしまいました。

一日中椅子に腰を掛けて本を読んでいると腰が痛くなることがわかりました。


2016/07/25(月) 曇り


[ 近所で食事 ]

近所で食事


最近できたそば屋に入ってみました。聞けば二か月前からオープンとのこと。駅からは少し離れたところにあるので、立地条件は良くありませんが、どんな感じかと思って入ってみました。掻き揚げそばとミニカレーを頼みました。ボリュームは十分ですが、掻き揚げはいまいち。はるか昔ですが、三十年ほど前にあった立ち食いそば屋の掻き揚げと比べると天と地。昔食べたものがおいしかったことを思い出すだけでした。値段も安いし、そのくらいしか取れないのだし、開店二か月ですが、早くもどれくらい持つのか心配になりました。

夜は夜で焼鳥屋へと出かけてみました。
一時期よりもネタは大きくなりました。でも全体的には、ダウン傾向は否めません。たぶん値上げはできないが、それに引き換え仕入れ価格は上昇。利益を削って営業をしている感じです。

店を出てから、すぐそばのすし屋のおかみさんと目が合ってしまいました。以前は良くランチに行きましたが、このお店がランチをやめてしまってからもう一年半くらい店の前を行き来するだけです。

近所で食事もつらいものがあります。



2016/07/24(日) 晴れ時々曇り


[ 早稲田大学の方々 ]
早稲田大学の人たち


高校が早稲田高校ということで、自分では早稲田大学に行きたいと思っていましたが、断られたので、同志社に行きました。それはよかったと思っています。

が、どこかにあこがれが残っていたのでしょう。

京都から帰ってきた1973年から4年にかけて早稲田大学の今でいうオープンカレッジに週に一回行くとともにいくつかの早稲田大学生と友人になりました。その一つが日本史研究会の人たち。今一つが早稲田の法学部の人たちです。

同志社から早稲田大学に移ったHさんを軸にして友人関係は広がりました。Hさんは、その当時に付き合っていたKさんと数年後に結婚しました。25歳の時だったと思います。その披露宴を大隈庭園内の会場で行いました。双方の友人が40人ほど集まりました。

その披露宴を行うにあたって準備会を開きました。その数10回くらい。準備会に参加した方々とすっかり仲良くなって盛り上がっていました。その中からもう一組まとまりました。

その仲間とは彼らが卒業して直に会えなくなりましたが、30代に入るころまでは細々とつながりは持っていました。

ふたたび会うことを考えるようになったのは50歳前後だと思います。個別にしか会うことはできていませんが、少しずつ昔の交友関係の復活を目指しています。

そしていつかは会っておきたいと思うようになりました。



2016/07/23(土) 晴れ時々曇り


[ 日本史研究会の人たち ]
日本史研究会のこと


私の友人関係は、材木屋さんと近所を除けば、小学校、中学・高校・大学、そして卒業してすぐに知り合った早稲田大学の方々です。早稲田大学の方々も系統が二つあり、日本史研究会と早稲田の法学部を中心とする方々になります。今思い返すと、同じ早稲田でもその二つとは別系統の塊もありました。若い頃はすぐに友達になり、数年間のつながりで自然とつながりが消えました。日本史研究会関係と早稲田の法学部関係はそれでもわずかながらまだ少し繋がりがあります。生きているうちにあっておきたい人もいます。

1973年のこと。
早稲田大学内に日本史研究会がありました。文学部の方を中心にした集まりでした。その最後にいたのが小林君。その前が厚沢さん。その前が成田龍一、鶴園裕さんなどです。1951年ないし、50年生まれの私と同じ年の方が成田、鶴園です。そこにはMさんやYさんもいました。

文字通り日本史特に近代史から現代史につながる時期を研究対象としていた方が多くいました。指導教授としては鹿野政直さんや由井正臣さんたちになります。

ひょんなことからこの研究会に顔を出すことになりました。実際、早稲田大学の方だけではなく、日本大学や慶応大学の方が顔を見せていたのを覚えています。同時に私のような同志社を卒業したものや早稲田を中退した方も紛れ込んでおり、日本史研究会はあくまでも早稲田大学の中の研究会でしたが、平行して同じメンバーで今一つの研究会というか飲み会を持っていました。池袋に住むM君の所へはよく泊まりに行きました。73年から74年にかけてです。

それから一年経って、現役のメンバーはいなくなったと思いますが、OBという形でその時の方々はつながりを持っていると思います。私は部外者になりますが、その頃のことは楽しい思い出です。

そのつながりで、成田龍一さんの本を読んだりしています。かれの文章は我々の時代の文章だと感じています。



2016/07/22(金) 曇り時々雨


[ 永六輔と大橋巨泉 ]

永六輔と大橋巨泉


自分たちが、影響を受けた人たちが亡くなってゆきます。
永六輔は中学の先輩。大橋巨泉は誕生日が一緒。わけのわからない関係ですが、若い頃影響を受けた人たちだと思います。戦争を知っていて、小学生時代に終戦を迎え、何もかも無くなった時から、自分たちの生活を切り開いた方々です。人がやらなかったことを行ってきた人たちということでは、幸せな人たちだと思います。

永六輔といえば、「女ひとり」が私には一番記憶に残っています。

京都大原三千院
恋に疲れた女がひとり

大橋巨泉といえば、11PMもそうですが、「巨泉・前武のゲバゲバ90分」でしょうか。面白い番組でした。この中から出てきた「あっとおどろく為五郎」は、当時流行りました。

親よりも若くて兄貴分見たいな年代の方が、亡くなっていく年になりました。自分が65歳ですから、そういうものなのでしょう。少し寂しい感じです。



2016/07/21(木) 雨


[ 早稲田高校同期会の写真 ]
高校同期会の写真

先日7月3日の早稲田高校同期会の写真が送られてきました。





2016/07/20(水) 晴れ時々曇り


[ 古屋君と切手 ]

古屋君と切手


小学生時代を思い出していたら、ひとつ出てきました。
小学校の4年生から一緒になったクラス仲間に古屋君がいます。当時背の順に並びましたが、順に大溝、古屋、大野、大矢、梶、梶野、田中、紅林、瀬元と続いていました。ラストは根本、松石、松島です。いつも近くにいるのは背の低いものばかりでした。そしてそのあたりはそのあたりでまとまります。今でも大矢と梶野は近所に住んでいるのでたまに会って飲みます。

大溝君は極端に背の低い子でした。体育の時間相撲を取らされると大溝に古屋が勝ち、古屋と私が相撲を取ることがたくさんありました。彼は足腰が強くてなかなか倒せませんでした。彼を倒すと大矢君が待っていて大抵負けました。

さて、古屋君の家はお父さんがタクシーの運転手。彼もそうなりました。今は何所に住んでいるのか知りませんが15年ほど前に近くで見かけたので声をかけました。「結婚が遅かったので、娘さんがまだ小さいと話してくれました。その子のたぶん今では二十代の半ばだと思います。

古屋君とはこんな思い出があります。私は切手を集めるきっかけを作ってくれました。当時記念切手などは新しいものは郵便局で買い求めることが出来ましたが、少し古いものはどこで買うのか、わかりません。そんなとき古屋君が連れて行ってくれたのが、杉並の和田にあった「しもた屋です」つまり普通のお宅でした。

「切手見せてください」というと奥さんが出てきて玄関先で見せてくれます。玄関は引違の一間幅。一間の式台があって框が一段上がっています。その式台の所に数冊の切手帳を出してくれます。その中から自分がほしいと思うものを選ぶのです。買って帰る時もあれば、買わずに失礼することもあります。大抵は古屋君と二人で行きました。一人で行った時もあります。二人で行った際に欲しいと思った切手がありましたが、あいにく持ち合わせがなくて帰ってきたことがあり、その切手を買い求めに一人で行きました。それがいま手元に残っているうちのどの切手だかは覚えていません。切手を集めたのもそのあたりの数年間だけです。買いに行った場所も覚えていませんが、そこへ連れて行ってくれたのが古屋君だということだけが記憶に残っています。そして今でも私の手元には数冊の切手収集帖があります。値段の張るものは少ないですが、切手を集めた時期がありました。古い記憶がよみがえりました。




2016/07/19(火) 晴れ時々曇り


[ 石原裕次郎命日 ]
石原裕次郎命日

7月17日は石原裕次郎さんの命日です。今から29年前に亡くなりました。その時私は妹の家にいました。生まれて半年になった甥を訪ねて、その帰りに乗ったタクシーの中で訃報を聞きました。実際危ないということはマスコミを通じて聞いていました。その時のタクシーの運転手さんは石原裕次郎よりも大映の本郷功次郎のファンで、そっちの方が「いい演技してました」と話してくれました。私には、年齢的なものだと思いますが、裕次郎の方が身近でした。石原さんは52歳で亡くなりました。

私は今でも裕次郎の映画を見、そして歌を聞いたり、歌ったりしています。私が裕次郎を好きになったのはなぜでしょうか。それは一つには赤木圭一郎の存在です。私が小学校5年生の時に事故で亡くなった赤木の死亡を伝える読売新聞の記事を覚えていたことに始まります。

そして死後数年を経たときに、テレビで赤木の映画を放映しました。その時に赤木主演の映画を10本ほど見ました。そこから赤木の映画や歌にはまりました。私が自分の意志で買ったレコードは赤木圭一郎のLPが始めでした。高校生でしたが、親と一緒に新宿三丁目にある「世界堂」まで行きました。高かったです。

さてそれよりもかなり前、おそらく小学校の5年せいか6年になったころ、クラス仲間とは別に近所の遊び友達が数多くいました。一つのグループはカズオ、とノブオに私の三人組。年は私が一番上で一年したがカズオ、二年したがノブオでした。この三人に数人を加えたのが学校から帰ってきて近所で遊んでいました。鬼ごっこにかくれんぼ、コマ回し、新宿御苑や井の頭公園、大宮公園までよく出かけていました。一年上のナガちゃんも時に加わっていました。

それとは別に数年上のトシちゃん、キヨちゃんと小林君がいました。近所の自転車屋の二人の息子とその奥に間借りしていた小林ご夫妻の息子である小林君です。

小林君は私よりも4歳ないし5歳年上だったと思います。小林君はすでに中学生だったと思いますが、私が中学生になってからも付き合いがありましたので、(その後、私が高校生になっても、あるいは大学生の時までは近くに住んでいたと思います)4年間くらいは私に影響を与えました。

喫茶店に連れていてもらったのも小林君ですし、赤木圭一郎が自動車事故で亡くなったことも教わりました。哲学も教えてもらいました。当時わかりませんでしたが。

将棋を教えてくれたのも彼ですし、近所の碁会所にも連れて行ってもらいました。笹塚にある将棋屋さんにも連れて行ってもらいました。我が家から20分くらい歩いていきましたが、甲州街道が広がるころだったと思います。甲州街道を渡ったところにある普通の家の二階だったと思います。よくそういうところを知っている人でした。その頃は中学を卒業してもう働いていたのでしょうか。支払いは彼がしたと思います。私はお金を持っていませんし・・・

「オタクは」という言葉をよく使っていました。相手にたいして、どういう人かわからないので、失礼にならないようにそういう言葉を使っていましたが、今なら「あなたは」でよいのではないかと思っています。

さて前置きが長くなりましたが、その小林君の髪型は裕次郎と同じでした。そう裕次郎も教わりました。小林君の存在そのものが裕次郎みたいだったのです。私が実際に映画館で裕次郎を見るのは、大学生になってからです。千本中立売というやや怪しい場所にあった千本日活での「逃亡列車」とか「夕陽の丘」あたりだったと思います。また裕次郎を映画館で見るということは本当に数が少ないです。大学生のころには、もはや裕次郎は時代遅れであり、高倉健や菅原文太、小林旭、渡哲也、高橋秀樹あたりがコンスタントに映画に出ていたからだと思います。

裕次郎はほとんどテレビで見ました。「錆びたナイフ」「勝利者」「鷲と鷹」「清水の暴れん坊」「鉄火場の風」「銀座の恋の物語」「狂った果実」「陽のあたる坂道」などですが、どちらかというと初期の方が好きですね。若くて粗野な感じ.やはり若いということが一番でしょうか。

私の一番好きな裕次郎映画は「赤い波止場」。左利きの殺し屋に扮した裕次郎と神戸の街は、その後関西へ行く下地になったようにも思えます。今日は命日。「赤い波止場」のビデオでも見て、「口笛が聞こえる港町」という裕次郎の歌を聞くことにしましょう。

2016/07/17(日) 曇り


[ やっと有りつけたくず餅 ]
やっと有りつけた葛餅


5月の末に深大寺に行きましたが、その際自宅で食べようと「葛餅」を買ってきました。無事帰宅したのが午後4時過ぎ。ところが5時前になってお客さんが見えました。以前私の部屋のすぐ下に住んでいた方でした。といっても年齢は5歳。今年の一月にすぐ近く(徒歩2分)のマンションに引っ越しをされた方です。

今回は、彼女の伯父さんと一緒に自転車に乗って我が家を訪問してくれました。彼女にとっては遠出、だったのでしょう。

「ピンポン」をして、「こんにちは」とあいさつされました。突然の訪問で何事かを思いましたが、この下に住んでいたことを思い出して訪ねてくれました。玄関先でしたが、お話をしました。さすがに女の子です。自分の家の近況を話してくれました。自分の誕生日のことや7月に妹か弟が出来ること。その予定日と同じ誕生日のお友達が幼稚園にいるけど、その人とはあまり親しい関係ではないこと。親友は○○ちゃんで、その子の誕生日はいついつであること。

貴重な個人情報満載の話でした。

何かお土産と思いましたが、我が家には子供にあげるジュースやお菓子などはおいていません。果物でもあればよかったのですが、それもないし・・・

そこで則ちゃんが思いついたのが先ほど買ってきた葛餅。たくさんお話をきたせてくれたお礼に、持って行っていただきました。

その後、鎌倉に行ったときにも葛餅を見つけましたが、あまり商品として良いものではなかったのでパスしました。今日新宿へ出たついでにそのことを思い出し、葛餅を買い求め、かつ食べました。一か月半の思いのある葛餅でした。おいしかった。



今回は、船橋屋の「くず餅」です。二年前に亀戸天神の本店でも食べそこなったものです。


2016/07/13(水) 曇り時々雨


[ スーパー銭湯に行く ]
久しぶりにスーパー銭湯に



7月10日、参議院選挙の投票を終えたあとに、小平霊園に墓参りに行き、その帰りスーパー銭湯に寄ってきました。小平霊園では、2月に行ったきりでしたので、草木が伸びていましたが、一時間半ほどかけてきれいにしてきました。当日は暑かったのでズボンまでびっしょり濡れてしまい、銭湯に寄っていくことにしました。

小平霊園には数多くの有名人が眠っていますが、今回は私の所のお墓に近い、山本七平、宮本百合子、佐野学さんの所へも寄ってみました。松島詩子さんのお墓はわかりませんでした。松島詩子さんは山口県柳井市の出身で「喫茶店の片隅で」などモダンな歌を歌った流行歌手です。

さて、スーパー銭湯は「おふろの王様」花小金井店へと行きました。以前良く通いましたが、何年ぶりでしょうか。思い出せないくらい久しぶりです。そこへ行けば思い出すこともたくさんありますが、花小金井店と聞いて、場所や中の様子が思い出せなくなっています。これがおそらく「年」というやつです。

今年も両親のお墓参りを済ませることが出来ました。




何とか今年も掃除が出来た大野家のお墓です。



宮本百合子のお墓は、ほかの所よりも大きなところです。



佐野学さんのお墓は、新しくなっており、右側に小さく碑が建っていました。三角形をした場所に建てられてありました。

2016/07/12(火) 晴れ


[ 新東京木材中野支部の納涼会 ]
新東京木材中野支部の納涼会


去る7月8日には、中野サンプラザにおきまして新東京木材中野支部の納涼会が開かれました。今回は14日会との合同開催にし、18名の参加を見ました。

バイキング形式のビアパーティーでした。食べ物も豊富で飲み放題なのであっという間の2時間半でした。

ただ、周りも同じような団体さんだったのでうるさい感じはまぬかれません。しかし、知り合いもいたりして業界人としてはよかったと思っています。皆さん金曜日の夜となると中野あたりに繰り出すのだと再認識しました。







2016/07/09(土) 雨


[ 七夜会 ]
七夜会


早稲田高校OB会に知る人ぞ知る「七夜会」があります。昭和44年3月に卒業した人たちが、その年の7月7日から毎年欠かさずに続けてきた「集まり」です。幹事の片山君と井手さんの二人の力で始まり続いています。48回になりました。

その時代、早稲田高校は高2の途中から進学校別に「コース」というものを作っていました。クラスはA組からG組まで7クラスありましたので、それを目指す大学別に国立の文化、国立の理科、私立の文化、私立の理科という風に分けて授業が行われました。HRが終わると、それぞれの「コース」の部屋に散ります。7つのコースに分かれました。私はクラスはF組。コースは文科系でした。6コースと7コースが私立の理科系でしたが、6コースがやや優秀な方、7コースはそれ以外の理科系希望者、となっていました。

この第7のコースは、他のコースと違って部屋は二階にありました。他のクラスは3階にありました。どうしてそうなったかはわかりませんが、一段下に移動したクラスでした。そのためこのコースは通称「バカコース」と呼ばれておりました。このクラスになった方々も自分たちをそう呼んでいました。

そういう人たちだからまとまりがあります。

近年は、7コースにいた人たちばかりでなく、同期生ならだれでもよい、という風になったので、私も参加させていただきました。

今回も、7月7日の午後7時から開かれました。外苑前にある周富徳のお店で中華です。15人ほど集まりました。

せんだっての同期会で顔を合わせた人以外に、35年ぶりくらいになるH君がきました。彼とは高校時代同じクラブで、彼が部長、私はひらでしたが、同期の4人でよく遊びました。ボーリング、ハイキングなども行いましたが、授業が終わってから屋上で4人でサッカーのまねごとをしていました。

そんな懐かしさを含みながら「七夜会」は終了しました。
来年も行うそうですが、参加者生希望もあり、昼間になるかもしれません。遠くから来る人も多いので「昼間がいい」。仕事をしていないので「昼間でいい」など、私たちを取り巻く環境が変わってきました。そうなると「七夜会」の名称は?

幹事の方たちは、来年に向けて走り出しています。



先週に続いて246沿いです。



2016/07/08(金) 曇り


[ 弥生町3丁目街づくり ]
弥生町3丁目地区町つくり


中野区には、道が狭く消防車の入らない町がたくさんあります。その代表的なところは上高田と弥生町3丁目です。3丁目には親の家がありました。今は妹夫婦や甥が住んでいます。

その町に道の拡幅の話がだいぶまとまりました。いよいよ拡幅するところのお宅を壊して、道路を作ることになりました。

その一つ、写真は(有)根岸建設さんの駐車場とアパートがあったところも整理されて道路になりました。これから正式なものになると思いますが、小云う箇所が弥生町3丁目だけでも4か所はあります。特に川島通りから方南通りに抜ける道は時間がかかると思いますが、その北側の嘗て川島の都営住宅があったあたりは早くに正式な道路となるでしょう。



根岸建設さんの横には南に抜ける道路が出来ます。



それと直角に交差する道路ができると信号なしで柳通りに抜けられます。道路になる両側は新築住宅になります。



正面左側が根岸建設さまの建物になります。



川島通りから方南通りに抜ける予定の道路です。ここは両側の家がそれぞれ一メーターずつ取られます。まだ道路になるまでには、時間がかかりそうです。

道ができると人の流れも変わります。

6月26日の日曜日には、川島通りの朝市があり、行ってきましたが、5年前、10年前と比べると雲泥の差です。店主が年を取り、お店を開いているところも減りました。さらに朝市に参加するお店も減り、人通りもまばらです。寂しい限りですが、これが現実です。商店街はマンションないし駐車場になっていくのでしょうか。

昔を知っているので余計に感じます。


2016/07/06(水) 晴れ


[ 夏は始まりすぐ終わった ]
夏は始まりすぐ終わった


7月3日は高校の同期会でした。が、同時に高校野球も始まりました。わが母校早稲田高校は神宮球場で第一試合が行われ、0対8で負けました。校友会にすぐに届いた知らせは、「9回まで出来ました」でした。

コールド負けが多い中で9回まで出来たことが今年の誇りです。今年の夏の甲子園行きはその日の午前中に終わりました。



2016/07/05(火) 曇り


[ 早稲田高校同期会 ]
高校同期会


7月3日の東京は32度を超える夏日で、暑かったです。これが昨日だったら、私はたぶんテニスコートで倒れていたでしょう。

この暑い日は、二年に一度開催している早稲田高校の同期会でした。 349名の在籍者のうち68名が出席しました。卒業して48年経過していますので、出席率としてはよい方だと思います。 前回も出席しましたが、変わらない方から老けた方まで様々です。そんな中、84歳の恩師がとても元気でした。古典の先生ですが、授業も文法などは教えたことがなくて、いつも歌舞伎の話ばかりでした。実際歌舞伎に関する著書を10冊以上出しており、本人曰く、好きなことは徹底してやると長生きできると話しておりました。まだまだやりたいことがあるので、元気に生きていきたいと話されていました これにあやかろうと思っています。

さて、わが母校は、サラリーマン家族だけなく、自営業者の子弟が数多く通った学校でした。そのため、米屋、酒屋、製本屋に材木屋など、親が商売人の方が数多くいました。従って、「自分の代で閉める」という人もかなりいました。私のその一人になりますが・・・

それにしてもまだまだ現役でいる方は若い感じだし、引退した人は年寄りに見えます。不思議なものです。元気でいる人はやりたいことを続けている人だということですから、仕事でなくても、趣味でもやり続けたいと思いました。





2016/07/04(月) 晴れ


[ ふれあいテニス大会 ]
ふれあいテニス大会


中野テニス連盟が主催する「ふれあいテニス大会」が去る7月2日哲学堂運動公園庭球場で開催されました。午前9時から5時まででした。4人一組でコートに入り、20分で交代するシステムでテニスを楽しみます。参加に先立って当日会場で自分の名前と自分の力具合(職う、中級、上級)などと書き込むと同等の方と対戦させていただけます。昨年までは10月に開催されていましたが、今回は7月開催となり、それが浸透していなかったせいか、比較的すいていて数多く対戦することが出来ました。

中でも16歳のN君とペアを組んで女性相手に2試合しましたが、初めの女性二人に対しては快勝することが出来ました。ところが、次に相手をしていただいた相手には、ぼろ負け。力の差を感じました。相手がうまかったのです。

が、初対面の若いN君と2度も組めて若い息吹を感じてきました。N君は9月からカナダへ留学するそうです。素敵な人生が待っていることを願います。

則子さんとも2度ほど対戦しましたが、結果は忘れました。当日は途中から良い天気になり、日焼け止めを塗りましたが、効果はありませんでした。また2度ほど着替えましたが、着替えは今1枚必要だと感じました。水もたくさん飲みました。梅干を持参していけばよかったと反省しております。

所で、ベランダのトマトも赤くなってきました。2つほど食べました。これで、ピーマン、シソ、キューリ、ゴーヤに続いてトマトも食べました。今年植えたものは一通り、食したことになります。



2016/07/03(日) 晴れ


( 2016/08 ← 2016/07 → 2016/06 )


[ 管理者:大野満生 ]


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