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時々更新mn日記

( 2016/07 ← 2016/06 → 2016/05 )


[ 夏が来た。 ]
夏が来た


まず暑いです。
それにも負けずにテニス、頑張っています。




さて、スイカをもらいました。冨里スイカの姫まくらです。
冷やして早速いただきました。甘いです。芯ばかりでなくて側まで甘いです。
暦は6月ですが、もう夏ですね。





梅雨の湿り気は残っていますが、我が家の床は本物の木なので素足でいてもべとべと感はないです。窓を開けておくと自然の風が通り抜けます。




年寄りには夏は厳しいものがあります。夏負けしないようにおいしいものを食べておこうと思います。

2016/06/27(月) 晴れ


[ レンジ壊れました。 ]
レンジ壊れました。



30年間使った電子レンジが壊れました。
冷凍ご飯を温めることも肉を解凍することもできずに不便を味わっています。おかずは冷たいまま食べるなど、して過ごしています。

冷蔵庫が壊れたときにも大変不便を感じましたが、電子レンジも必需品になっていることを感じています。思えば、冷蔵庫もレンジも電話もテレビもなく、ラジオの音を聞いて生活していたはずですが、エアコンもスマートフォンも当たり前になってみるとこれを失うことはイコール生活が維持できないとなってしまいそうです。

今回、レンジに加えて水も買いました。何でも買う時代です。



2016/06/26(日) 晴れ


[ 大東建託顧問会 ]
大東建託顧問会



大東建託中野支店の顧問会が開かれました。あと二年顧問をしていただきたいといわれて引き受けることにしました。顧問の役割としては、顧客の紹介ということになるのだと思いますが、いまだ成約に至ったところはありません。自分自身が賃貸事業は副業という考えがあり、さらに賃貸物件は20戸以上貸し出せれば、採算になると思っているからです。自分の所はその規模に達していませんので、懐具合から行くと「手残りが少ない」ということになりますが、自分の年齢と相談した結果、賃貸経営をしています。

時間が出来て好きなことをしている、というメリットは何物にも代えがたいものがあります。ただ、時間があると時間に追われることがないので緊張感を持続するのが難しくなり、中途半端のなってしまうのが欠点です。

さて、大東建託は、今期で43期目にあたるそうですが、順調に業績を伸ばしています。あと5年くらいは大丈夫だと思っています。その後はこれまでに作った賃貸物件の管理部門が事業の中心となっていくと思われます。

ちなみにこの一年間でも売上高、営業利益、経常利益、当期純利益、受注高、入居率、等は前年を上回っています。

地方からせめて大都市にはいってきた会社です。地方は飽和状態なので、これ以上増やさない。これからは都市部へ。特に東京へと集中していく方針で行くそうです。そうなると中野支店の役割は大きいものになります。新宿を抱えているからです。北新宿や中央1丁目あたりは、これから住居として活用されやすい場所です。この辺りで勝ち抜けるかが、この会社の取り敢えずの明暗を分けるところになりそうです。何もできませんが、とりあえず顧問になりました。

2016/06/23(木) 雨


[ 野球観戦 ]
野球観戦



東京ドームでの野球観戦です。今日は巨人対楽天戦。
今回は外野席です。巨人も楽天も応援できる相乗り席です。
従って楽天の攻撃時はこんな感じ。




しかし試合は巨人が制して終了。ホームランも4本出ましたが、見ることが出来たのは坂本の打球だけ。あとは今回の席からはわかりませんでした。特に2本はレフトフライに見えました。




話は変わりますが、
オコエは足が長くてかっこいいですが、桑田真澄さんが言っていたように打撃は未熟さを感じてきました。それにしても楽天の選手の名前がわからない。知らない選手ばかりが先発です。

この日もオレンジのTシャツが各座席に配られました。5回の裏にこれを着て人文字を作るためでした。作られた文字は長嶋茂雄さんの80歳の誕生日を祝うものでした。長嶋さんもドームに来ておられ、手を振っていましたが、私の席からは何処にいるのかわかりませんでした。良い日に当たりました。
2016/06/17(金) 晴れ


[ 神田川 ]
神田川


「あなたはもう忘れたかしら」

こんな歌詞で始まる「神田川」を初めて聞いたのは1973年だったと思います。春に東京に戻ってきていました。そしてこの年の一年間は週に一回ほどのペースで早稲田大学の友人の所へと通っていました。またその方とは別にやはり早稲田の人と知り合いになり、その彼の下宿へも泊まりに行きました。学生時代からの延長線上にまだ私はいたことになります。話をしたり、お酒を飲んだりしていました。もちろん本を読んだり、映画を見に行ったり、遊びにも行き、また合宿もしました。結構青春でした。早稲田大学には二つのグループと友達になりました。どちらのグループとも楽しい思い出があります。

このそれぞれのグループから合計二組の夫婦が生まれました。私が26歳の時だと思います。友人が主体となって披露宴や宴会をしました。そしてかれらとも少しずつ距離が出来ました。というかお互い「生活」がかかり始めました。仕事が中心になり、会う機会も減りました。そして十年に一度か二十年に一度といった感じでしか会えなくなっています。年月を経て賀状の交換も少なくなりました。ということは、今年あたり住所のわかっている人だけでもそろそろ会っておこうと思っています。

さて神田川は私の住む中野新橋を流れる川です。時折氾濫しておりましたが、今ではその心配はなくなったと思います。あちこちに水をプールする施設が出来ましたので・・・

さてさて、歌の神田川は、私の所よりももっと下流、高田馬場ないし早稲田辺りになるのでしょうか。1973年はこの歌のように切ない感じの歌が流行っていました。この半年後「22歳の別れ」を深夜放送で聞きました。その日は私の22歳の誕生日でした。そんな思い出があります。




この写真は私の家よりかは少し上流の所で撮りました。中野車庫という京王バスの車庫があるところです。向かいにあった佼成病院も環状7号線に移動して、この旧病院も解体中です。父も義母もお世話になった病院です。30数年前にはこの病院も一度水没しました。



2016/06/15(水) 雨


[ 雲母とアジサイ ]
雲母とアジサイ



平日に行けるようになったのに、なぜかお出かけは日曜日になってしまうこの頃です。平日テニスが忙しいおかげでしょうか。日曜日が休息日になっています。そこで鎌倉まで出かけてきました。5年程前でしたら、新宿へ出て、湘南ライナーで鎌倉へ、という道筋だったと思いますが、今では地下鉄副都心線を使って中野新橋から新宿三丁目へ出て、乗り換えて横浜に行き、JRで、鎌倉を目指すのが得策です。値段も時間も短縮されます。

今回も北鎌倉で降りて、円覚寺、明月院、建長寺から鶴岡八幡宮をへて鎌倉駅へ行き、歩いて銭洗弁財天に向かうつもりでした。銭洗弁財天近くの甘味処「雲母(きらら)」で、白玉あんみつを食べることもメインの一つです。

そこからタクシーで高徳院へ行き、大仏を見てから江ノ電に乗り、腰越あたりで降りて江の島駅まで海岸を歩いて小田急電鉄で新宿まで戻ってくるというストーリーを考えていました。

ところが北鎌倉での混雑を見て、これは先に「白玉あんみつ」をいただいた方が良いと判断しました。北鎌倉駅で降りずに鎌倉まで来て、銭洗弁財天方向に向かいました。その隧道の手前に「雲母」はありました。訪れるのは初めてです。すでに11時前で行列は60人ほど。あきらめるわけにもいかず、並びました。2時間15分ほど待って「白玉あんみつ」にありつけました。足が棒になるという経験をしました。新幹線に乗っていれば京都に着いていました。






さてここを過ぎて銭洗弁財天、佐助稲荷と御朱印をいただき、鎌倉駅からJRに乗って北鎌倉まで戻り、当初の予定の明月院を目指しました。車窓から見た午前中の光景は「行列」でした。午後3時を過ぎていましたが、人の流れは絶えていません。線路際を歩いて左に曲がると、お店もありまた出店も出ていました。その隣が一般の住宅という鎌倉ならではの光景です。この時期を除けば人通りは少ないのでしょうが、今日は特別です。5分も歩くと入り口に差し掛かりました。65歳以上の割引はあるのかと目を凝らしましたが、入場料は一括500円。早速支払って入場です。アジサイは所狭しと咲いています。ここのアジサイは「ヒメアジサイ」といって日本古来の種がその8割を占めています。淡いブルーで咲いて時間の経過とともに色が濃くなってゆくということでした。見せる演出がたくさんなされており、どの通路を通ってもアジサイは見ることが出来ます。

人を見るのかアジサイを見るのかというくらい人でごった返していましたが、アジサイは入りに統一感があり、きれいでした。写真に収めましたが、自撮りをする人の多さに現在を感じてきました。人に頼んでシャッターを押してもらうという習慣はなくなったようです。

私も写真を頼んで撮ってもらい、また自分でも景色を取りましたが、アジサイの中に人の頭が写る、といった感じを受けました。

明月院には依然幾度か訪れたと思いますが、秋ないし初夏です。6月のこの時期に来たのは初めてでした。人の多さには少し辟易しましたが、混雑するにはそれなりの理由があることもわかりました。よい時に来たと感じ、疲れましたが、良かった1日でした。




アジサイの間に人の頭が出てきます。



2016/06/13(月) 雨


[ ふるさと納税 ]
ふるさと納税


最近はやっているものの一つにふるさと納税があります。私はまだ行ったことがありません。来年あたりから始めようと思います。則ちゃんは数年にわたって行っています。立派です。

そのうちの一つ、今年も焼酎の3点セットを送っていただきました。昨年はハムや豚肉、牛肉に桃。一昨年は松島の牡蛎をいただきました。が、この牡蛎は量が多くて二人ではそれを食べこなすのに大変でした。日持ちはしないので、数日牡蛎ばかりで、さすがに辟易してしまいました。送っていただいて申し訳ないのですが、自分たちには牡蛎はお店に食べに行く方が合理的だと考え、それ以後は頼んでいません。

さて桃は、収穫時に送っていただくものですし、豚や牛肉も人気商品なので、二、三か月待ちとのことです。

さて話は変わりますが、中野の十四日会の関係者2名が結婚しました。うれしい話を久しぶりに聞きました。若い人が結婚するという話はいいものですね。





2016/06/12(日) 曇り


[ 今年もすだれをかける季節が来ました。 ]
今年もこの季節が来ました。



我が家の玄関は東にありますが、この季節になるとお日様が朝早くから玄関に差し込み、暑くなります。そこで毎年玄関前にすだれをかけています。昨年は雨漏り騒ぎで、掛けた途端に外して、そのままでした。

が、今年は、屋上に登ってみて、雨漏りは大丈夫だろうと判断したので簾をかけることにしました。昨年と違うのは材料もそうですが、柱を建てられる位置が少し違うのでそれなりに工夫してみました。

どんどん下手になっていく感じがします。が、何とかすだれをかけ終えました。








2016/06/11(土) 晴れ


[ お店がどんどんなくなる ]
お店がどんどんなくなる



中野新橋や川島商店街は私の故郷になります。
川島商店街は大正時代の終わりごろから続いている商店街ですが、ここ5年十年で廃業が相次ぎ、今では昼間も閑散としています。個人商店中心の町でしたが、店主が年を取り、後継ぎに店を譲っても生活が成り立たない、という関係で店を閉めるところが増えています。本当に川島商店街で買い物をしようとしてもボールペン一本買えなくなりました。薬屋もありません。スーパーを除けば肉屋が一軒。魚屋が一軒。パン屋が一軒、といった具合です。私も最近はパンとうどん麺以外は、買い物に出なくなりました。買えるものが少なくなりました。

中野新橋商店街も同様です。外食したくても行けるところが減りました。数年前まではまだ、外食店もそれぞれの特徴があり、「また来よう」という気になりましたが、そういう店は減りました。外食というと、中野坂上まで通うようになりました。そのお店も来客数は減っています。忙しいというところに出くわさなくなっています。

じり貧を感じます。

そこへきて貴乃花部屋の移転も発表されました。すでに売却しており、部屋は賃貸物件として格安で貴乃花が借り受けていたそうですが、それも限界に来たようです。先代の親方は中野新橋に部屋を持つようになってから、中野新橋に溶け込み街の発展に尽くしていただいたと思いますが、二代目にはその力がないようです。代替わりすると、それまでのように立ち行かないのだと思います。自分自身を顧みても維持は難しいものです。

個人のお店はなくなりつつあります。そしてスーパーも思ったほどの売り上げは無くなっているように思います。大昔の賑わいを知っているので、寂しい気持ちですが、どうすることもできなくなっています。行くところが無くなって、「家で飲んで食べる」そんな生活になりつつあります。地域からの未来創生のヒントは今のこの町からはヒントも受けることが無くなった感じです。

2016/06/09(木) 曇り時々雨


[ 下宿無上 ]
下宿無上



1969年の4月5日に同志社大学経済学部に入学し1973年3月21日に卒業したという証明証を大学に申請して、無事届きました。私が来年春まで生きていたら年金の申請のために必要になる書類の一つを今のうちにいただきました。


入学して数日後、8日の日に今出川キャンパスを歩いていたらとあるサークルに勧誘され、そのまま入ってしまいました。全くの偶然ですが、そこから現在まで繋がりのある人たちと出会いました。そしてその方たちの下宿へと泊まり歩く生活の始まりでした。

パクロー、野口、田口、丁野、安田、貴田さん、森下さんと、今考えると意外に泊まったところは少ないものでした。もっと泊まり歩いた感じはするのですが、学生時代はそのくらいでした。卒業してから、そして京都へ行った時には、川隅、田村、四方、坪井、田中、米田、飛鳥井、横山、川瀬といったところに泊まらせていただきました。

そのあたりがごっちゃになっているのだと思います。

初めて泊めていただいたところはパクロー宅。私の下宿先のすぐ近くでした。そしてすぐ、野口君の所へも行きました。野口君の所は一回だけです。パクローさん宅には、69年に、ことあるごとに泊まっています。69年の夏まででしたが・・・

69年の秋からは、丁野宅が主に泊まるところでした。彼は3つの下宿をへて卒業しますが、そのどれも泊まらせていただきました。その次が安田宅でした。一乗寺に有った下宿へは何度も通いました。

さて、泊まらないまでも人の下宿へはよく訪れています。高久さん、森下さんをはじめとして田巻、川上、小山、松下、岡本、阿部さんや兼八さん、西川さん、吉田さん、など。かなりあります。

その中で記憶に残る下宿を2つあげるとすると一つは貴船荘。3人の先輩のいる下宿でした。中でも2階に住んでいた方の下宿へは同期の女の子と通いました。ほんの3か月くらいの間の話ですが、小説にしたいくらいです。

さて今一つは銀閣寺近くにあった未亡人下宿でした。ここの特徴はかなりの豪邸でした。1階には女のご主人とその愛人が住んでおり、二階の4部屋を下宿として貸し出していました。ここを訪れたときには、まず玄関で靴を脱ぎ、脱いだ靴を持って二階に上がりました。友人との話が終わると靴を履いて二階のベランダから下に降りました。電柱を伝わったように覚えています。

さてその反対に、私の下宿に泊まって云った方々は後輩を除くと、数はぐっと減ります。峰やん、丁野、安田、平木くらいしかいないと思います。岡本君には、私が誰かに呼び出され、留守をした際に、食べようと思った「タコ焼き」を食べられてしまいました。ほかの誰もが一階の大家さんに声をかけてから、二階の私の部屋に入ってくるのに、彼だけは黙って上がってくる人でした。それだけシャイな人ですが、この「タコ焼き」はいまでも覚えています。

つまらないことばかり思い出すこの頃です。下宿は楽しいものでした。



2016/06/07(火) 曇り時々雨


[ 百合子ダスヴィダーニャ ]
「百合子、ダスヴィダーニャ」沢部ひとみ



宮本百合子のお墓が東京の小平氏にある小平霊園にあります。ドウダンツツジで回りを囲んだ大きなお墓です。そこには梅の木が植えられていました。小平霊園には、祖父母、大叔母そして両親が眠っています。さらに言えば二つのお墓の距離は2百メートル足らずです。そんなに近い所にあっても今まで知りませんでした。そんなこともあり、この本を読んでみました。

その前に、中村智子さんの「宮本百合子」を読んで、そのラストにこんな話が載っていました。

平田敏子さんの「愛と死について」という一説に晩年の百合子の小さなエピソードが載っています。その一節です。

「もし、Mさんと離れて暮らさなければならなくなった場合、身の回りの世話をする女の人が、きっと彼のことを好きになっちゃうでしょうよ」
「私は、その場合、年上の女性として、これまで文学というものを仕事にしてきた人間として、どういう解決をするのが一番人間的なのでしょうねえ」
「それがいまのわたしの宿題なの」
私はできるだけ無邪気な顔をしてきいた。「その年上の女の人が死んでしまった場合は?」と。
「そりゃ、問題ないわよ。相手に死なれたら、当然残されたものには、新しい生活がはじまる」


この百合子の予言は当たり、百合子は急逝します。この本はそれをさかのぼること二十数年前。百合子が湯浅芳子と一緒にソビエトで暮らした二十代後半を描いています。この年になるとこのような関係が理解でします。そして男ができると、それまでの自分を否定して生きていく百合子についても言及していきます。重点の置き方が違ってくるのですが、当事者にとってはそれは180度の転換になります。

昭和の初期にそんな生き方をしていた二人で出会える本です。いつの時代も先を行く人たちは先進的です。理解はできませんが、恵まれた人たちでないと、時代を作れないのかもしれません。



「ダスヴィダーニャ」というのは、日本語では「さよなら」という意味だそうです。この本は宮本(中条)百合子を通じて、その相方の湯浅芳子の伝記になっています。

2016/06/06(月) 晴れ


[ 65歳の記念に ]
65歳の記念に


65歳の記念に中野区のミックスダブルスへ二人で出てきました。壮年の部です。結果はラブで負けてしまいました。しかしコンソレでは二勝して優勝。強いものには負けるが同レベルだと勝てる。そんな自分たちの力を再確認した次第。

さて、節目に来ると人生を振り返ります。
小学校時代。これがなければ私の人生は始まりません。則子さんが川島の都営住宅に引っ越してこなければ出会いはありませんでした。もちろん私が越境入学して神明小学校に入学していなければ、ありません。向台小学校に行けば、五輪眞弓になっていたかもしれません。

中学には、越境入学出来ませんでしたので、私立に行きました。早稲田中学・高校と進んだので同志社大学がありました。18歳から22までを過ごした京都は楽しい思い出は詰まっています。もちろん今だからそう言えるのですが、思い悩み苦しみそして楽しみました。多くの同期生や先輩、後輩に恵まれていまだにつながっている方が数多くいるのですから、この時期に得たものは私の人生に一番影響をもたらしたと思います。

卒業して家業につきましたが、実際は家業についたなんて言えるものではありませんでした。卒業時の体重は48キロ。50キロを超すことはあまりなかったので、材木を担ぐというよりも2トン車の上から降ろす仕事が大半でした。しかも、降しては休憩。おろしては休憩の繰り返し。さらに水曜日は疲れて夕飯も食べずに早く寝てしまう。日曜日は午前中起きていられない、など初めの数年間、3年くらいは同様だったと思います。

それでもほかに行き場がなかったので、いやでも続けていると、まず身体が出来てきました。体重が増えてきました。53キロ、57キロ、60キロと二十代の後半になると増加してきました。そんなに食べた記憶はありませんでしたが、体重が増えると重たい材木でも担げるようになります。そうすると自信がついてきます。

30代の前半は、バブル期と重なり、仕事は忙しかったです。二十代の頃も休みは日曜日だけでしたし、その日曜日に配達が入ることもありました。特に4月から7月にかけては休めなかったのを覚えています。その代り、8月末から、10月にかけては、旅行してきましたし、正月休みも一週間ありましたので、どこかへ出かけては京都へ最後一泊して帰る、というパターンで過ごしました。それもあってこの時期に行ったところは、名古屋、奈良、橿原神宮、金沢などで、ラストは京都で誰かしらと会っていました。後輩が卒業していますと、行きどころもないので、自然と足が遠のきました。

特に専門的に建築の仕事を学んだのではないので、材木屋としてはいつも半人前でした。わが社のお客さんに浦和さんと高橋さんという好対照の顧客がいました。浦和さんは、次に行う現場図面と木拾い表を細かく書いてきて見積もりを作るように指示されました。実際に使う長さで書いてありましたので、これは助かりました。例えば「庇材」として5種類の木材のサイズが書いてあり、それをどう使えばその形になるか、想像できたからです。さらに見積もりをした仕事の95%は決まりました。「決まったよ」と言われれば、こちらとしては足らない材料をそろえておけばいいので、楽でした。さらに支払いも堅かったので、わが社では一番計算の出来るお客さんでした。

高橋さんは浦和さんとは反対に、新築なり改修の図面を持ってきて、「これ見積っとけ」というだけでした。私は浦和さんの木拾い表を中心にして材料をひとつずつ拾っていきました。あらかじめ梁の大きさと樹種は聞いていましたので、それに従って見積もりをしました。これは主に夜の仕事になりました。桁や胴差は1本多めに見積もって、そのほかの良く使ってしまう下地材も多めに拾っていました。ほとんどこの二人に仕事を教わったのだと思います。

30代の前半はバブル期でした。朝早くから働き、夜は飲みに行き、時には夜まで仕事をしていました。若いということは身体が続くということです。さすがに徹夜はできなくなっていましたが・・・

こういうことは長くは続きません。30代後半になると疲れが出て、動けない時期が来ました。体調が思わしくないのです。仕事の悩みや個人的な悩みも重なって「将来に対する不安」を感じるようになりました。まだ父親が元気でしたので、何とかなりましたが、37歳ぐらいの一年はぱっとしない時期でした。

その将来に対するぼんやりとした不安、今までのやり方では「立ち行かない」「続かない」と感じていた不安を解消するために材木市場の中の「青年部」、といってもおじさんばかりでしたが、そういうところに顔を出し、研修旅行があれば参加してみました。当時出始めだった「プレカット工場」の見学旅行や製材工場の見学は、その土地の名物を食し、名産を食べるといったものも含めてありがたかったです。

そんな風に、少し世界を広げるようになるとわが町「中野区」の中でも若い人を集めようという機運を作ってくれる人が現れました。窪寺伸浩さんという若くて頭の良い人です。私の20代の頃はわが社ではほとんど木材だけで仕事が成り立っていました。30代になると木材とともに新建材の割合が増えてきました。商売を大きく行っているところは「木材・建材」の割合が「3対7」と聞いたことがあります。

窪寺さんの出現は、木材・建材の販売から「材工」「住宅」に軸足を移すというものでした。その中でよりよい、自分自身がお勧めできる木材を多用する、その中心に材木屋がならなければいけない、そういったものでした。かれの参加するグループの研修会にも泊りがけで参加させていただきました。

それとともに、彼が中心となって中野区の「若手会」を作ってくれたことが私の人生を大きく変えました。私は40歳になっていました。もちろん当初から参加された、伊藤、井上、太田そして亀山各氏からは教えていただくことばかりでした。練馬や豊島の材木屋さんともつながりが出来ました。さらに都内の材木屋さん、つくばの材木屋さんへと広がります。

仲間がいる、数多くの多様な仲間がいる、というのは人を勇気づけます。その人の持ち味を出していただくだけで、会合も盛り上がります。この時期に仕事の方向性を見出したことで、その後二十年仕事を続けられたのだと思います。(実際には、方向性を見出しただけで実践は自分ではできませんでしたが)これが私の転機だったと思います。

この後、43歳の時に父が入院。すぐ母親も入院。しかも母親は闘病生活になりました。ここからは自分が迷っている余裕もなく、ただ来る日も来る日もノルマをこなすばかりでした。

そうこの頃は集中していましたね。

テニスもこれくらいの集中力が必要です。




ミックスダブルス、一般の部の決勝戦。応援していた方は負けてしまいました。

2016/06/05(日) 曇り時々雨


[ 新茶をいただきました。 ]
新茶をいただきました。



同志社時代のゼミ生から掛川の新茶をいただきました。早速いただいてみると甘い香りが口に残ります。

私の母親は静岡県富士宮市出身でしたので静岡茶には縁がありました。お盆に富士宮に行けばおいしいお茶にありつけましたし、母親が生きていた二十数年前までは誰かしら親戚からいお茶をいただいて飲んでいました。私は材木屋でしたので、大工さん相手に十時と三時、といっても一般の方にはわかりにくいでしょうが、休憩時間がありました。そこで「お茶」。来客が来れば「お茶」というのが定番でした。

そういう生活からは離れてしまいましたが、人が来れば緑茶を出すというのは普通のことでした。家内の親友が訪ねてきた時に私はお茶を入れて差し出したら、家内に「よくしつけたね」と言っていましたが、私にとってはごく普通のことでした。

とはいっても、そういうお茶を飲みながら四方山話をするといった生活とはお別れしていますが、今回お茶をいただいて、緑茶の良さも思い出しています。お茶を飲みながら話をする大事さを再認識しています。

掛川茶と聞いて、藤枝市に母親が住んでいるテニス仲間に少しおすそ分けしました。たかがお茶。しかしながら人と人を結び付けてくれます。Kさんありがとう。また再会したいですね。



我が家のベランダのプランター内の野菜もここ二週間でだいぶ伸びました。ピーマンはすでに一つですが、収穫して食べました。植物の生命力はすごい。




2016/06/03(金) 晴れ


[ 先日の電話から ]
先日の電話から




もう二週間ほど前になると思いますが、同志社時代の友人の一人Kさんから電話をいただきました。明日東京に行きますが、「会えますか」という話でした。あいにく用事があり、「申し訳ないが、だめです」という返事をしました。彼は急に休みが取れて「伊藤若冲展」を見るためにこれから夜行バスに乗るといっていました。


その彼と私は何回会ったでしょうか。私は1969年度生。彼は1974年度生。学生時代は交流はありません。が同じ研究会に属していた関係から、私が卒業してから4,5年を経たころ、奈良県の橿原神宮で先輩の結婚式があり、お招きを受けて参加してきました。友人のCさんと二人が同志社時代の友人として招かれました。

そのあと大阪に泊まり、横山という友人と天王寺で飲みました。翌日ビジネスホテルで目を覚ましてから、京都へ二人で向かい、その研究会の会合へ行くことにしました。喫茶店「トリオ」で部会を開いているとのことでちょっとの間参加してきました。

Cさんと私はその時、参加していた方々と顔を合わせ、何か苦情を言ったように思います。

その時Kさんはその場にいたそうで、その場にいたIさんとともに40年を経て、Cさんと接触できました。Cさんがかなり有名人になったということも関係しているでしょうが、先日、Cさんは京都へ行った際に、KさんとIさんに再会しました。

はるか昔、40年前に30分か、小一時間会って話しただけのつながりなのに縁があって再会したそうです。

私もその場に行きたかったですが、それはこの次にしましょう。

人のつながりは不思議なところがあります。先日もテニス仲間の一人と居酒屋で飲んでいたら、「京都に住んでいたことがある」「上京区」などといった言葉が出てきたので、私もいたよ。「同志社だよ」と言いましたら、私は94年度生と言われてびっくり。はるか後輩ですが、「飲みに行こうか」というと三回に一度は付き合ってくれます。向こうは当然のことながら仕事をしていますので、こちらもわきまえて誘っているつもりですが、25年も下の後輩に会えるとは、しかもテニス仲間として会えるとは思いもよらなかったので、かなり感激しています。テニスと同時にテニス後も楽しみが増えています。



2016/06/02(木) 晴れ


( 2016/07 ← 2016/06 → 2016/05 )


[ 管理者:大野満生 ]


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