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時々更新mn日記

( 2016/02 ← 2016/01 → 2015/12 )


[ 同じところにいた人たち ]
同じところにいた人たち


テニス仲間の一人に若いKさんがいます。両手のフォアが強くて、今年の私の課題に一つにKさんのフォアに負けないスイングをするというのがあります。そんな彼女と食事をする機会があり、もちろん二人きりではありませんが、ひょんなことから同じ大学を出たことがわかりました。はるか後輩になりますが、なかなか同志社卒に出会うことがないので、びっくりポンでした。

私がこの仕事に就いたとき、大和木材という木材問屋の社長さんが同志社でした。次が則子さんの同級生でした。この方は則ちゃんの高校のクラス会に二次会から私が参加したところ、同志社出だということがわかりました。さらに同じ経済学部で、何の因果か、二年後輩でした。従って則ちゃんとはタメの付き合いですが、私のことは先輩と呼びます。不思議な関係ですが、向こうの方が生活力はあります。

さて、私も勤め人生活でもしたら、同じ大学出に出会えたかもしれませんが、現実にはこのくらいしか知り合いはいません。

ところが、フェイスブック上では同じゼミを卒業した、いわば同門の後輩がたくさん活躍していて、知り合いは増えました。その中の一人である早瀬さんは6年後輩になります。もちろん時代は違いますし、会ったことはありませんが、島一郎先生のゼミ生らしく同志社の卒業生をまとめています。彼がフェイスブック上で同志社の卒業生を千人以上集め、しかもリアルな世界でも集まりの中心にいると聞くと、島先生の教え子らしいと、私などはありがたい気持ちになります。若い頃は同志社卒業などということは口に出すことはありませんでしたが、この年になると同じところを出た人たちとの交流は楽しいものです。もちろん、大学に限らず、高校、小学校もそうですし、テニスの試合でご一緒いただいた方にも同様の気持ちを抱いています。

2016/01/30(土) 曇り時々雨


[ 北九州より戻る友もあれば、博多に移住する友もあり ]
北九州より戻る友あれば、博多へ移住する友もあり



東京生まれの友人が北九州へ行って早40年。その友が母親の介護のために昔の住まいへと戻ってきました。彼とは中学・高校時代の友人で、父親同士が小学校のクラスメイトでした。彼のお父さんは、今から25年ほど前に亡くなり、私はその時に会ったきりでした。それが昨年彼の自宅近くで偶然再会。現状だけは聞いていました。彼は何でも取り組んで、顔が広くて、彼のおかげで中学高校時代にはいろいろな経験をしました。一緒に酒を飲むこと。喫茶店に行くこと。学校帰りにタンメンや立ち食いの餃子屋へ行くこと。ボーリングをしたり、夜行列車に乗ってスキーにも行きました。高校3年生の夏に長野県の入笠山へ行った時には、それは受験を控えた勉強を兼ねた学校行事でしたが、自由時間に近くに来ていた女子高校生とハイキングをしていて雨に打たれた結果、その時彼と私を含めて5人くらいで行動していたと思いますが、泊まっていた寮のお姉さんたちが、裏口に回りなさいと言ってくれて、こっそりお汁粉をいただきました。彼のおかげです。彼は裏方のお姉さんと仲良くする特技を持っていました。

高校を卒業して私は京都へ行き、彼は静岡県の清水へ行きました。その後一緒に行動するということはありませんでしたが、中野駅前でばったり会ったり、同じ地下鉄の車両内で出会うなり、突然出会うという関係の人でした。そのことがあって彼の結婚式にもお招きを受けました。そのあと、彼は北九州へ仕事の関係で行き、そのままその地で孫も生まれて過ごしていました。こちらに戻ってくるとは全く考えていませんでした。

話は変わって。

小学校時代、あるいは幼稚園からの友人の一人であるT君は、今度杉並の家を離れて、博多へ行ってしまいました。彼とは幼稚園時代、一緒にお遊戯した中です。劇「桃太郎」の中で彼はサル。私はキジでした。背も私より少し高いくらいだったので、小学生時代も背の低いもの同士で一緒に遊びました。高校生になって杉並に引っ越した際にも同じく「桃太郎」でイヌを演じた田巻君とともに彼の家に行きました。彼の勉強部屋があり、そこには「松原智恵子のポスター」が貼ってありました。自分の部屋があるというのをうらやましく思いました。(私にも勉強部屋はりましたが、物干し場に行く通り道であり、個室がほしかったのです。)

さて、その彼とは36歳の時に開いた小学校のクラス会で再会。さらに48歳の時に会った時には、仕事を辞めていました。「俺にはどんな仕事が似合うと思う」と聞かれました。私は「出版関係かな」と答えましたが、彼がそれまでどんな仕事についていたのかも聞きませんでしたし、その後仕事に就いたと聞きましたが、その彼がどんな仕事だったかも知りません。

その後も何回か会うチャンスはありましたが、機会を逸しました。お母さんが亡くなったり、その法事であったりして、電話で話すことはあっても顔を見る機会がないままに今回博多に引っ越しましたという葉書が届きました。元気でいるようで、そこは安心しているのですが、会える時にはあっておかないと二度と会えない友人が増えています。

一週間前は高松にいる友人の誕生日。そして今日も友人の誕生日です。会っておきたい友人とは顔を見るのがいいです。今年はそういう年にしようと思っています。

2016/01/29(金) 雨


[ お祝い事 ]
お祝い事


甥の新築祝いに加えて菜乃ちゃんの誕生祝とお祝い事が続いています。私の年になるとその反対の出来事がたくさん増える中で、ほっとする時間が持てました。

菜乃ちゃんは4歳になりました。集中力も出てきて私には一層かわいい存在になっています。広い新居も見てきました。最近の住宅はよくできています。ほとんどがリクシルとTOTOでしたが・・・

甥の仕事もとりあえず順調のようなので安心してきました。








2016/01/26(火) 晴れ


[ 阿久悠は」いい ]
阿久悠はいい


友人の言葉に、「阿久悠はいい」というものがあります。
私自身、あまり阿久悠について知りませんでした。ピンクレディーの作詞家。スター誕生の審査員などなどです。

今から50年近く前に阿久さんの「ざんげの値打ちもない」の作詞でも、一番の歌詞が、2月に「やっと14になったころ」とうたい、2番の歌詞で5月に「今日で15というときに」という歌詞に違和感を覚えていてその良さがわかりませんでした。

それが40年の時を過ぎてみて、最近のことです。必殺仕事人の主題歌をいろいろ聞いているうちに小林旭が歌う「夢ん中」にたどり着きました。

男もつらいし、女もつらい
男と女はなおつらい

この歌詞にしびれています。

そこで急きょ阿久悠の「「愛すべき名歌たち」「書き下ろし歌謡曲」「作詞入門」などを読んでいます。






2016/01/24(日) 晴れ


[ 雪です。 ]
雪です。


昨日は哲学堂テニス場でテニスの試合に興じていましたが、今日は雪です。14時からテニスの予定がありますが、「雪中止」だともいます。明日もダメですかね。

さて、昨日は個人申し込みの団体戦で、普段試合したことのない方々と5試合行いました。男ダブが二試合、ミックスが3試合行いました。結果は、3対6。5対5。6対0。6対2。6対3でした。所詮は上がってしまいミスが多かったですが、徐々に普段の動きになりました。まだ思ったような動きはできませんでしたが、そこそこ勝てたのはパートナーの方々のお力です。ありがとう。

自分のミスも多く、欠点もわかりますので、少し直したいと思っています。試合に出てかなり自信になりました。




追記
今回の雪は雨になり、融けました。明日はテニスができそうです。



2016/01/18(月) 雪


[ 新東京木材賀詞交歓会 ]
新東京木材賀詞交歓会



1月15日は、新東京木材商業協同組合の賀詞交歓会が開かれました。芝浦にあるホテルインターコンチネンタル東京ベイで行われました。おいしい料理に加えてギターの生演奏で場を盛り上げていただきました。その方たちは「ドンアルマス」というフラメンコギターのデュオです。30代の若い人たちですが、年寄り向けに1970年代にはやったポピュラーなども交えてわかりやすく演奏していただきました。特にギターの指さばきは見ごたえがありました。今回は品川の大渕さんのご紹介とのことでしたが、組合もだんだんとこういう企画が増えていくのかなあと感じながら見ていました。楽しいに時間があっという間に過ぎました。

組合運営はなかなか大変そうですが・・・









2016/01/16(土) 晴れ


[ 今年も楽しい新年会 ]
今年も楽しい新年会


1月10日と11日は中野支部の新年会です。毎年箱根で行っていますが、今年も昨年泊まった「河鹿荘」で行いました。支部員が12名集まり楽しい新年会となりました。

亀山支部長のご挨拶に続いて、乾杯。宴会に入りました。今年も三味の音が響き、お座敷遊びを少し入れて楽しいひととき。ラストは最長老の佐藤様に〆ていただき、お開きとなりました。

二次会は部屋に備え付けのカラオケルームで過ごしました。








2016/01/11(月) 晴れ


[ テニスと材木屋2 ]
同人誌「旅想」に載せようと思っていて書いたものですが、原稿をどこに収めていたのか、忘れてしまい、お蔵入りになった原稿です。題して「テニスと材木屋2」
15年ほど前に書いた「テニスと材木屋」の続きです。

未発表なので載せておきます。

テニスと材木屋2



テニスを始めたのは50歳。現在64歳ですので足かけ15年になります。ある年は年に数回しかできませんでしたが、仕事を引退してからのこの2年間は62歳から74歳までの「おじさんクラブ」に入れていただいて週に3回から4回。別のサークルで週に1回とコンスタントにテニスをしています。この間、隣の杉並区にあるスクールにも通いましたが、現在は中野区の北側にある哲学堂運動施設と上高田運動施設、それに加えて新宿区の西落合テニス場でテニスを楽しんでいます。移動には車も使いますが、基本自転車です。自転車も時代と年齢に合わせてアシストになりました。約20分をかけての移動ですが、この10数年で周りの風景は大きく変化しています。

消費税が8%に上がる前あたりから東京ではそれまで落ち込んでいた景気が上昇傾向になり、住宅業界に活気が戻りました。自転車で哲学堂まで行く道の右左にある古い住宅が壊され新しい住まいに変わっていく様をこの二年間たくさん見てきました。自分たちのマンションが完成したのが三年前になりますが、その頃から中野区内の変化は大きいものがあります。それはまだ続いています。

建て替えられる住宅の大半は昭和50年まで建てられたアパートや住まいですが、その後に建てられる住まいの大半は大手のハウスメーカーのものです。大工・工務店の時代ではなくなりました。

それらの住宅はまず基礎がしっかりしています。次に工期を守るものが多いと感じています。早く出来ます。さらに外壁など綺麗に出来ています。設計力も高まり、少なくても外見は良く出来ています。それでは私が見て気になる所を挙げて見ましょう。

一つは構造材です。基礎はしっかりしているのですが、土台は米栂の防腐注入材が主流です。さらに柱や梁などはうすい板を貼り合わせた集成材になりました。集成材は強度はありますが、耐久性には疑問符が付きます。さらに水やシロアリには弱いものです。防腐剤を塗るなどの対策は施してありますが、本物の日本の木を使えば、より耐久性を保てると思っています。

今一つは、水に関することです。木造住宅の8割は水が関係して問題がおきます。今の木造住宅の建て方は基礎を作り、土台を敷き、床を張り、柱を建てて梁を渡して屋根を作り、壁を作っていきます。その間、雨が降った際に、その請負業者や工務店がどのような対応をするかで住まいの出来上がりには大きな違いが出てきます。

以前住んでいた住所の隣のお宅は、注文住宅でなかなか立派なお宅でした。小さな敷地に良く考えられて作られた住まいでしたが、中野区から遠い所に住む工務店さんが請けられました。上棟を終えた後、しばらく雨が降り続きました。屋根は出来ていましたが、壁の下地材は搬入されていただけで床に横積みでした。雨は床材が撓むほど降りました。請負業者はその間に顔を見せることはありませんでした。床の中央から階下へ雨漏りする状態になりました。やがて雨はやみましたが、床は張り替えることなく、仕上げ材を張り完成しました。早めにシートを掛けに来るなど、もう少し気を使っていただければ、そこまでならなくて済んだのにと思っています。

こんなことを言っている私ですが、昨年建てたアパートは2×4工法で、国産材を使っていないものです。さらにその6月末から屋上の防水が切れて自宅の雨漏りを経験しました。2か月掛かって直し、水が漏れてくる悩みから解放されました。今はほっとしています。

そんなことを考えると住まいづくりもまずは親身になってくれる人が第一で、その後に工法や材料が来るのかな、と思います。材木屋を40年間してきましたが、一生懸命に仕事をしてくれる人たちと出会えたことはひそかな誇りです。この人たちがいるうちに一仕事を行って、人生の完成を目指したい所です。そんなことを思いながら毎日ラケットを握り、ボールを追いかけています。
10数年前にドリンクを買っていた大黒湯は無くなり、空き地になり、月極めの駐車場に変わりました。またここにも建売住宅が建つのでしょうか。時代は急速に変わっていくものだと感じています。(2016年1月7日追記)



2016/01/10(日) 晴れ


[ 日本の木の家 ]
日本の木の家


全木蓮こと、全国木材組合連合会では、いろいろなパンフレットを出して木造住宅をPRしておりますが、その一つに先日のジャパンホームリビングショーで配布されていた「日本の木の家」という14ページの小冊子です。

つい50年ほど前まで、当たり前に作っていた住まいは程度の差こそあれ、日本の木を使った日本の木の家でした。それが私が材木屋になった40年前には輸入材が日本の住まいの主要な材料として使われるようになりました。外材は安い、それが使われた原因でした。

工務店さんの仕事はほとんどの場合新築でも外材が使われました。土台の柱も米栂材でした。梁だけはまだほとんどが日本の松でした。

それに対して大工さんの仕事はヒノキの土台にヒノキの柱。さらに必ず和室を作りましたので真壁用の柱はヒノキの無節が定番でした。ヒノキの3方無節、4方無節を使う大工さんがいましたので木材市場で選んできました。そのほとんどが吉野材でしたので、一本単価は4万円とか5万円とかしました。8畳一部屋作るのに柱は十数本必要でした。二部屋作って続き間にすると3方無節の柱が十数本と一方無節や二方無節の柱も同じくらい必要になり、それだけで60万円とか80万円とかの売り上げになりました。

柱にヒノキの無節を使うと敷居もヒノキになります。寄せも同様でした。廊下を作ればヒノキの縁甲板になり、それも当然のように無節でした。こうして国産材を用いた良質な住宅は建てられていました。

一方でアパートなどの建築は、単価優先でしたので、木造住宅は単価の安いものから高いものまでその幅がありすぎた、と思っています。そのため「木の家」といえば、安っぽい住宅の代名詞のようですが、木を使う、特に見えるところに使うことで住み心地はぐっと上がります。

床に使えば暖かい。壁に使えばよい香りがする。天井に使えば眠るときに安心感が生まれる。床ならば、杉か桐。壁ならばヒバかヒノキ。天井ならば杉が面白いと思います。何気なく使った木材でも「木材を使った」こと自体に意味があるのが住宅だと思います。壁一面にでも使うと住んでみてその良さがわかると思います。

これが12年前に作った自宅の結論になります。もうそろそろ給湯器がいかれそうです。IHのキッチンも疲れてきました。壁のクロス材も継ぎ目がはっきりするようになってきました。しかしながら木材に床は経年変化が味になっています。杉の床は床暖房を使わなくても温かいし、杉の壁材も空気を穏やかにしてくれています。クローゼットも扉を開ける度にヒバの香りがほんのりします。作った時にはお金がかかったと思いますが、これから直すことを考えると「直さないでよい」のは、トータルで安くなります。

我が家はとにかく「暖かい」「空気がきれい」「良い香りがする」という点では引けを取らないと思います。



2016/01/06(水) 曇り


[ あけましておめでとうございます。 ]
あけましておめでとうございます。


あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、新しい年の始まりにあたって、今年も病気することなく無事一年を乗り切りたいと思っています。皆様方もお元気で暮らされることをお祈りしています。

今年の初もうでは杉並にある堀之内の妙法寺から始まりました。車で横を通り過ぎることは多かったのですが、中に入ってお参りするのは初めてでした。お祖師堂へお参りして、そのまま本堂をお参りしてお屠蘇をいただいてきました。

元旦の夜は、妹の家で家族が集合。大好きな彩愛ちゃんや菜乃羽ちゃんと遊びました。

二日の日には、飯田橋の東京大神宮へと繰り出しました。飯田橋の駅前から牛込橋を渡り切ったあたりから、お参りの方々の行列が始まっていました。およそ2時間待ちとのことでした。若い方が年々多くなっているとのことでした。ここで御朱印帖を買い求め、赤福をいただいて神楽坂へと戻りました。神楽坂から早稲田へ抜ける道は、神楽坂から早稲田までが「神楽坂通り」。その先は「早稲田通り」だと思っていましたが、神楽坂から坂下門までが「早稲田通り」だとは初めて知りました。

神楽坂では年末に行った毘沙門天の善国寺で御朱印を求めてから大江戸線経由で戻ってきました。


初日です。


妙法寺です。



愛梨が書いてくれた似顔絵です。特徴をよくとらえています。



彩愛はかわいくなりました。


東京大神宮です。今年も良いことがたくさんありますように願っています。



2016/01/05(火) 晴れ


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[ 管理者:大野満生 ]


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