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時々更新mn日記

( 2015/01 ← 2014/12 → 2014/11 )


[ 今年一年を振り返って ]
今年一年を振り返って


今年一年を振り返ると、まず自然災害が目立ちました。次には消費税増税ですね。さらに自分自身についていえば体調不良になりました。その反面一年を通してテニスが出来たことも大きかったです。膝を左も右も痛くして休んだ時期もありますが、安定して体力を維持することが出来ました。旅行はあまり出来ませんでしたが、それでも沖縄、黒部、天童に四国に行くことが出来ました。大学時代の仲間8人と今は亡き梅本君のお墓参りにも行くことが出来ました。これも私にとっては記憶に残る出来事になりました。仕事はほとんどなくなりました。木材や新建材を売ることは無くなると思いますが、これまで40年間行ってきた経験を活かしてもう少しこの業界にいたいと思います。

さて、こんな風に考えて今年のマイベストを拾ってみました。



先ずは沖縄の海です。



万座温泉は雪の中でした。この露天風呂は寒かった。



立山のアルペンルートは雪の高さを見てほしい。



銀山温泉にも行きました。古い町並みは郷愁を感じます。



山口県柳井市で梅本君のお墓参りの後、岩国の錦帯橋へ行きました。仲間8人と一緒です。



高知では駅前にある3像の前で写真を写していただきました。

来年もよろしくお願いいたします。



2014/12/31(水) 晴れ


[ 今年も穴八幡へ ]
今年も穴八幡へ



今年も穴八幡へ行きました。穴八幡は新宿区にあります。わが母校である早稲田中学・高等学校のはす向かいにあります。昔の地名だと馬場下町だったと思います。当時といっても50年くらい前ですが、かの五木寛之氏が若い頃寝泊まりしたという庫裡も残っていました。今は全く新しい建物になっています。

時は流れ、今から30年くらい前からここの「一陽来復」というお札を受けるようになりました。このお札は冬至の日から節分まで配布され、当時の夜か、大晦日、さらに節分の夜中の十二時に貼ると効果があると言われていました。当時の日に受けに行くことが多かったのですが、混んでいて2時間乃至3時間くらいは並んでいただいていました。

それが、十年くらい前からはあまり混むことも無くなり、さらに私の方も冬至にこだわらずに行くので、5分待ちくらいでいただいてきます。今日もそうでした。今日が今までと違うのは、ここへ来るまで自転車を使ったことです。今までなら地下鉄か車でしたが、本日は自転車です。距離を大まか調べたところ、6ないし7キロくらいなので自転車を使いました。行きは神田川に沿って起伏の少ない所を行きました。34分ほどかかりました。




お参りを済ませてから、早稲田高校の建物を見て、三朝庵に入りました。信号の角にあるお蕎麦屋さんです。こちらではおろし天ぷらそばをいただきました。そばに柚子の粉を練りこんで「融通そば」の愛称で販売しています。縁起物としていただきました。





それから、高田馬場方面へと自転車を進めると途中に和菓子屋さんがあり、そこで赤飯おにぎりと豆大福、草もちを買い、公園でいただこうかと探していたら戸山公園に着いたのでそこで食しました。

戸山公園は東西に二か所あり、大きくわけて箱根山地区と大久保地区があります。明治通りを隔ててあるのですが、箱根山地区は、その名の通り箱根山という山手線内で一番高い山「箱根山」がある所です。高校時代のランニングコースでした。本当に小高い山なのですが、戦前には陸軍病院があり、731部隊の人体実験にも関わったとされるとこで薄気味悪い所です。今から二十年前に行った時も気持ちが悪くなりました。心霊スポットとして有名らしいです。

さて、この度行ったのは、反対側の大久保地区でした。ベンチに腰かけて食べていると、目の前に「新宿スポーツセンター」の建物が見えました。新宿区のスポーツ施設を一括で管理している所です。




私も西落合のテニスコートを利用していますが、冬場の午前8時から10時に西落合のテニスコートを借りると、このスポーツセンターまで、テニスコートのカギを借りに来なくてはいけないので、その時間帯はなかなか借りることが出来ません。職員さんの出勤時間が9時からなので、8時から借りる方は、ここまで鍵をとりに来なくてはなりません。仮に私が借りたとして、私の住まいからここまで30分弱、そこから西落合のコートまでが約20分かかります。さらの大変なのは、借りた鍵は、このスポーツセンターまで返さなければいけないというルールです。職員さんが9時過ぎには来ているので、その方に返せばいいと思うのですが、その職員さんがスポーツセンターまで返しに行くということはないので、そういうルールになっているそうです。そうなのでその時間帯にテニスコートを借りることはまずありません。


そんなことを思い出しながら、新大久保、大久保経由で我が家まで戻って来ました。大久保や新大久保は相変わらず韓国の方が多くて、日本語を聞くことが少ない所です。いっときの賑わいは無くなったそうですが、それでも数多くの韓流のお店は人で盛っていました。

12月30日は、あっという間に暮れました。いい運動になりました。


2014/12/30(火) 晴れ


[ 柳井の三角餅 ]
柳井の三角餅


山口県柳井市は岩国と徳山市の真ん中あたりの海沿いにあります。12月5日の金曜日にこちらに伺いました。新幹線で徳山まで行き、山陽本線で、柳井へ向かいました。戻る格好になりました。途中光市や島田を通りました。

柳井の駅前は整備されており、電線が地中に埋められており、すっきりとした感じです。メインストリートを北に行くと川にあたります。その向こう岸に白壁の街並みがあります。

左に行くと白壁の街。そこを右に曲がると三角餅の看板があります。三角餅は入れ物が三角形、中の牛皮も三角形のお菓子でした。その奥に誓光寺があります。12月5日、そこで梅本泰則君の墓参りをしました。彼は7年前に病気で亡くなりました。57歳でした。その日は祥月命日でした。本堂で御経をあげていただきました。そこには奥さんと娘さん、それの大学時代の8人の仲間とともに私もおりました。

梅本君とは同志社大学時代にはじめに1年間、いや半年ばかりの付き合いでした。1969年のことです。この年の初め大学受験をしましたが、東大が入試を中止したとしとして有名です。私は同志社へ行きました。

その時の仲間の一人が57歳で旅立ちました。彼は和太鼓の名手で、滋賀県の水口ばやしを復活させたひとりでもあります。若い時はもちろん50代になっても水口ばやしとのつながりは持っていたそうで、「水口ばやしをしているとき こころは菩薩になる」という名言を残しています。心優しい人でした。

お墓の前でカレッジソングを歌いました。同志社大学カレッジソングと云います。校歌です。私は出だししか覚えていないので、全部歌えたわけではありませんが、仲間が声を合わせて梅本君に歌をささげました。

その後、三角餅を買い、街並みを散策してここを後にしました。白壁の街。その屋根にはアオサギが止まっていました。置物かと見まがうほどでしたが、飛び立ってくれたのでわかりました。こういうのんびりとしたところで生まれ生きていれば、優しい人が出来上がるのだと思いました。自分は都会の中で生き急いできたのでいつもあくせくしていますが、もっとゆったりとした生き方のあることを教えられた旅でもありました。



柳井駅前です。メインストリートは見晴らしがよくなっています。


三角餅を販売している「きじや」さんの前を進んでいくとお寺があります。



誓光寺前です。



本殿でお経をあげていただきました。



誓光寺を後にして白壁の街並みの散策です。この街並みには、特産品である金魚の提灯も飾られていました。



屋根瓦に止まっていたアオサギが飛び立ちました。初めはオブジェかと思いました。



梅本君の自宅では、彼の自作の看板がありました。彼は呉服屋さんでした。



2014/12/29(月) 雨


[ 老人の世界 ]

老人の世界


老人の世界に足を踏み入れてから一年が経ちますが、一番変わったのは金銭感覚でしょうか。例えば昼間にテニスをします。中野区や新宿区の施設を使うと二時間で千円ないし千二百円で済みます。土日でも千八百円です。テニスは大抵4人以上で行いますので、頭割りをすると二時間を400円以下で過ごすことになります。施設に行くまでに30分帰りも30分かかります。行く前に着替えとストレッチをし、帰ってくるとアイシングと風呂に入りますので、それぞれ一時間以上費やします。縦4時間テニスをすると6時間以上要します。一日仕事です。家に帰ってから風呂に入って食事をとると眠くなって8時間乃至、9時間寝てしまいます。

昨日がそれでした。縦4時間テニスをして疲れて帰って来たので、良く眠れました。そんな生活を続けていると、千円というお金が大金に見えてきます。着るものもテニス用品はバーゲンを使いますので通常3500円するものが千円ないし千五百円で買うことになります。会場までの交通費を考えても安くなります。

こんな生活を続けてみると、ユニクロ製品が高いものに感じられてきます。面白いものです。感覚が変化します。

今まで普通に使っていたお金が老人の世界では一ケタ違います。食品などはどこが安いかチェックしながら過ごすようになりました。そしてその浮いた200円でテニスを一日するようになりました。老人の世界も楽しいものです。



2014/12/28(日) 晴れ


[ 誘遊四国 ]
誘遊四国




四国は愛媛県しか行ったことのない則子さんと愛媛県だけ行ったことがない私が、今年の正月から騒いでいた四国旅行へ、何とか今年中に行くことが出来ました。12月21日から25日のことです。

 



先ずは、香川県金毘羅様です。



本殿横からは讃岐富士や平野が一望できます。



金丸座へ行きました。



桂浜です。ここで五色の石を拾ってきました。



佐田の沈下橋です。車が通っていきました。四万十川の流れはゆったりとしたものでした。



佐田の沈下橋を正面から見ると、こんな感じ。車も人も通れる道でした。平成17年の台風では、この写真を写した土手を超えて水が溢れたそうです。



道後温泉はライトアップされていました。



色が変わります。



早速入る事にしました。



「神の湯」入口です。お湯は無色透明。さっぱりした感じ。湯船のお湯が流れてくるある石には山部赤人の万葉歌が彫られていました。




大山祇神社へも行きました。



ラストは来島海峡でした。

香川県の栗林公園、金毘羅宮、徳島県の大歩危小歩危、高知県の桂浜に四万十川。愛媛県の宇和島、西予市、道後温泉に今治など各県1から5か所を周遊するコースの旅でした。比較的のんびりしたツアーで、泊まった旅館やホテルも満足いくものでした。




2014/12/27(土) 晴れ


[ 忘年会 ]
忘年会


12月の半ばになり、忘年会のシーズンに入りました。11日には「十四日会」の忘年会が中野駅北口の「仲野屋」という焼き鳥屋さんで開かれました。私は日にちを間違えて遅れて参加しました。食べるものがおいしくて安いという中野ならではの会場でした。

一日おいた13日には、中野区立神明小学校を昭和38年に卒業した6年3組のクラス会が開かれました。今年2回目ですが、前回は欠席したので、この仲間と顔を合わせるのは、一年ぶりです。9人が参加しました。

36歳の時に正式な第1回が開かれて以来、28年が経ちますが、この所はミ二クラス会が中心になっています。

今回は新宿の居酒屋の集まりワイワイ。そのカラオケで古い歌ばかり歌いました。父の世代の歌、我々が生まれたころの歌。さらに小学生の時に見たテレビドラマの主題歌などなど。それでも1番多かったのは、グループサウンズでしょうか。加山雄三も歌いました。

カラオケの後は、新宿駅近くのイルミネーションを見てクリスマス気分を吸収して解散しました。次回は来年の2月から4月ごろに。その後は清里に一泊という予定です。その時まで頑張りましょう。







2014/12/14(日) 晴れ


[ 錦帯橋へ ]

錦帯橋


12月6日、岩国にいました。



まずは錦帯橋です。


遥か山の上にはお城が見えます。10年前に来た時には、真新しかった橋も経年変化で黒ずんでいます。


錦帯橋を下から覗くと、こんな感じです。まだ新しさが残っています。


旧目加田家住宅です。こちらの住宅の特徴は、まず平屋に見えますが、実は2階建てです。また1階の床も通常よりも高くなっています。これは錦帯橋の架かる錦川の氾濫を予定して水が来ない高さに床を設定しているためです。(万が一1階まで水が来ても2階に逃れることが出来ます)ボランティアガイドさんに説明していただきながら、見学してきました。


指をさしている所まで水が来たそうです。


この住宅の今一つの特徴は屋根瓦です。平瓦に両袖瓦を乗せています。両袖瓦は岩国瓦とも言われ、この地方特有のものだとのことでした。


岩国城からの眺めは最高です。遠くに岩国空港や岩国基地が見えます。眼下の錦帯橋もはっきり見えます。ここの景色は好きです。



2014/12/12(金) 晴れ


[ 尾道は坂の街 ]
尾道は坂の街



12月7日仲間8人と尾道にいました。千光寺公園から千光寺をお参りして、そこから街へと階段を下りていきます。


千光寺からの風景


階段を下っていくと、ネコがいたるところにいます。


階段の途中にある「昇福亭」


ブレンドコーヒーを頼むと、コーヒーの脇に庭に咲いている花が添えられていました。




尾道は階段の多い街です。以前長崎でも感じましたが、こういう場所で材木を運ぶのは遠慮したいです。


山陽本線の踏切がありました。千光寺前踏切です。


尾道のお寺は駅の東側に集中しておりますが、時間があったので、駅の西側も散策してみました。15分くらい歩くと「ダイソー」がありました。


その反対側には「大東建託」の看板が・・・これから建てるみたいです。


駅に戻りコミュニティーセンターでは、いけばな展が開かれていました。池坊でした。



2014/12/11(木) 曇り時々雨


[ 福山市鞆の浦 ]
鞆の浦



友人たちと2泊3日の山口の旅を終え、翌日のことです。一日時間が取れたので、広島県福山市の鞆の浦へと足を運びました。

鞆の浦は瀬戸内海の真ん中にあり、満潮時には海流が豊後水道や紀伊水道が瀬戸内海に流れ込んで、水流がぶつかり、干潮時にはここから東西に分かれていくという潮の分かれ目の港です。潮待ちの港として知られています。

この港を有名にしたのは近来では坂本龍馬でしょうか。「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」の衝突の結果、「いろは丸」は沈没してしまいます。龍馬は日本初の海難事故で、紀州藩から賠償金をせしめます。云々。そのお話は、平成の竜馬さんからお聞きしましょう。

さて、鞆の浦は観光地です。一日居ることが出来る所だと思います。特に散策できる町並みを持っている所です。


午前7時過ぎに日が昇りました。



対潮楼からの眺めです。向かいの仙酔島までは「平成いろは丸」で5分です。


ここから「いろは丸」に乗り仙酔島の散策をしてきました。


鞆の港です。保育園児たちが散歩に来ていました。


街並み散策開始です。



保命酒という養命酒のようなお酒が名産品です。ここは岡本亀太郎商店です。


同じく岡本商店です。


太田家住宅です。ここは元々「中村家」が住んでいて保命酒を作っていた所です。蔵が当時のまま残っていて保命酒つくりの一連の作業を説明していただけます。さらに母屋も公開していただいているので、30分はかかります。特に大広間の天井や長押、畳などは特徴のあるものを使っています。







山中鹿之助の首塚。その隣には、コーヒー屋さんの看板。さらに右に目をやると小さな橋が架かっています。これを「ささやき橋」といいます。ここで悲恋の物語が生まれています。




龍馬の隠れ部屋のある桝屋清右衛門宅では、隠れ部屋の見学だけではなく、平成の坂本龍馬さんによる龍馬一代記の説明があります。8人ほどの一団に交じって私もお話を聞いてきました。終わるころになると、「女龍馬」が登場したので記念に写真を写していただきました。

この竜馬に扮している方は「竜馬おもてなし大使」として地元では有名な方です。ボランティアの方ですが、普段のお仕事は「横浜ゴム」にお勤めだとか。観光客が来るとまずタイヤに目が行くと話していました。



最後に「崖の上のポニョ」の舞台となった「崖」を探しに行きましたが、よくわからずじまい。こんな石段が数多くある坂の町でもありました。

良く歩きました。




2014/12/10(水) 晴れ


[ あっという間に12月です。 ]
あっという間に12月です。


今年も一か月足らずになりました。あっという間に12月です。皆さんは今年一年どんな年でしたか。私はのんびりさせていただきました。

ただ生活には大きな変化がありました。例えば、スーパーに買い物に行きますが、安売りのチラシを見ることが増えています。中野新橋・川島通りあたりでもスーパーは曜日ごとに安売りを企画し、また月末、月初などでも特徴を出しています。そこをめがけて買いに行くことが増えています。

またお歳暮が来なくなりましたので、生活用品を買う、ということも経験しています。洗剤や醤油、石鹸などは頂き物で済ませてきた生活に慣れていたので、改めて買うので、物の値段がわかるようになってきました。

それとともにごく普通のサラリーマンの生活といったものも、こんな感じなのではないかと思うようになりました。お給料で暮らすというのは平凡を第一にします。平均的に暮らすことです。ですからそれ以外の出来事、例えば親戚の不幸などでの急な出費なども、今年も三つほどありましたが、今まででしたら苦痛に感じることもなく、また稼げばいいやくらいにしか考えなかったことが、「入ってこない。出るだけ」なのだと改めて感じています。のんきに60年過ごしてきました。

さて、早くも12月になりました。今年一年は本当に早いものでした。何もしていないからです。気合を入れ直さないとこのまま流されそうです。明日からは山口県です。

2014/12/04(木) 曇り時々雨


[ 菅原文太さん逝く ]
菅原文太逝く


菅原文太さんが亡くなりました。81歳でした。新東宝映画でデビューしてその後松竹へ。そして東映で花開きます。

私がスクリーン上で文太さんを見たのは、松竹映画「男の顔は履歴書」の中での朝鮮人の役でした。迫力がありました。

そして東映に入って、「まむしの兄弟」「緋牡丹博徒・お竜参上」など見ましたが、一番インパクトがあったのは、やはり「仁義なき戦い」でしょうか。妙にリアルな感じがして、それまでの任侠映画をブッ飛ばしてしまいました。仁義なく戦いはシリーズ化され、その殆どを見ています。

その後、菅原文太さんは、「トラック野郎」シリーズで二枚目半を演じます。初めはぼろいトラックでしたが、シリーズを重ねるごとにトラックが豪華になっていたのを憶えています。愛川欽也の「やもめのジョナサン」と良いコンビでしたが、すぐに下火になっていきました。

その後、NHKの幕末を描いた大河ドラマ「獅子の時代」で文太さんは会津藩士の役をやり、その役・平沼銑次は明治期になって自由民権運動に参加するといった流れだったと思います。

おりしも自由民権運動百周年を記念してその運動を広めようとして「百周年記念集会」が開かれたときがありました。この時菅原文太さんは、この集会で記念講演を行いました。私も見に行きました。そしてこの会場のトイレで横で用を足していたのを憶えています。一度だけ、お顔を拝見しています。

あれから30数年経ちました。

あの頃、見た人たちが次々と亡くなっていきます。悲しいですね。




2014/12/01(月) 雨


( 2015/01 ← 2014/12 → 2014/11 )


[ 管理者:大野満生 ]


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