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時々更新mn日記

( 2014/12 ← 2014/11 → 2014/10 )


[ 最近分かってきたこと ]
最近分かってきたこと



二十代の後半から時折ですが、万葉集を読み、古事記に接し、日本書紀は嘘が多いと感じながら過ごしてきました。万葉集は学生時代の後輩が「万葉集を弁証法的に読みたい」と訳の分からないことを言っていたのを受けて、この言葉が頭に残っていていつか万葉集を「読むぞ」と思ってきました。

20代の後半乃至30代の初めにNHKで梅原猛さんが「柿本人麻呂の歌」について解説していたのを噛り付いて見ていました。その頃は人麻呂に興味がありました。日本書紀には出てこない、正史に出てこない謎の歌人ですが、その歌には迫力があり、万葉集第一の歌人とされるほど多くの歌が万葉集には収められています。

その頃古事記と万葉集を読みました。良くわかりませんでした。膨大な量の歌を擁する万葉集に太刀打ちできるはずもなく、そのごく一部の巻1とか2乃至、巻11あたりを読んでいました。

それでも巻1と2は特別なメッセージを託した書だと感じていました。それから今回、渡辺康則さんの書に接して万葉集は日本書紀に対するアンチテーゼとして作られた書(全体ではありませんが)であり、日本書紀の記述の仕方にクレームをつけている書だとわかりました。その書き方は、史実の中に、そうではないものを含ませるというやり方です。一見するとすべてが史実に見えますが、よく読むと必ずしもそうは言っていない、という記述になります。嘘は最低限にして読む人を惑わせて、うわべを読んだだけではわからないという手法をとっているのだということです。

作った人のレベルの高さを感じます。見抜けないように改ざんしています。その人こそ、藤原不比等という人です。いつかこの方についても勉強していきたいです。歴史をつくりかえた政治家です。この方が藤原氏の母体をつくりました。この人の手法をもっと知る必要を感じています。その裏側に隠したかったものが見えてくると思います。そして時の権力者はいつもこういう風に歴史をつくりかえていくのです。

2014/11/30(日) 曇り時々雨


[ 私が住んでいるマンションは ]
私が住んでいるマンションは


私が住んでいるマンションは築38年になります。鉄筋の三階建ての3階に住んでいます。5世帯分のマンションです。約6千万円で親が建てました。

鉄筋のマンションは火災保険は安いですが、ランニングコストがかかります。さらに賃貸マンションですので、お客さんが入れ替わるたびに内装を直すことになります。ある程度の年月を経るとフルリフォームすることになります。

5世帯分あって、直していない所はありませんが、フルリフォームした所とそうでない所が出ています。フルリフォームした所は一部屋で約250万円かかりました。約10坪強の所に対しての金額です。

今まで、屋上の防水が5回。塗装のやり替えが2回。水漏れ事故などでの修理が6回。ガス漏れ1回などを記憶しています。そのほか高架水槽をやめて水道を直結にしたり、アンテナを建てたりしました。家賃の滞りも経験しました。今でも私は年に一度は屋上に登って屋上の点検をします。水たまりが出来ていないか、ごみはたまっていないかなどを点検しています。あと何年出来るでしょうか。

私は父からこのマンションの管理を任されてから18年くらいになりますが、かなりの頻度で問題が出ています。そして管理の問題はこの先も続きます。これまで投資した金額は2千万円を越していると思います。マンションは維持するのにお金がかかります。

マンション経営は、主業があって初めて成り立つものだと思っています。主業と副業の両輪でいるうちは、安定感がありますが、片翼になるとなかなか厳しいものがあります。

こうなると、「30年一括借り上げ」というトレンドにも意味が出てきます。私も一つこれに参加しましたが、誠に引退していく人にとってはうれしい仕組みとなります。良い所に目を付けたと思います。勿論これによって管理料を支払いますので、手残りは少なくなります。建物のボリュームによっては「面白くない」システムかもしれません。ただそれを良しとする人にとってはありがたいものになります。私はこれに乗ってみました。

自分の身体は楽になりました。今はこれで良しと思っています。また一生懸命働くようになるかもしれません。


2014/11/26(水) 雨


[ 自宅と・アパート・マンション ]
自宅とアパート・マンション



自宅とアパート・マンションを比較すると木材を使うという点では、やはり木材は自宅で使うものという気がしてなりません。それは自宅であれば、木材が痛めば直すことが出来ます。逆に痛んでいても直さずにそれを楽しむこともできます。いたって現実的な話からです。

例えば私の自宅の床には、杉材が用いられていますが、ものを落とした傷や日焼けの後、それに10年を経ている経年変化。それにはいつも行き来する所がすり減っているといったこともあります。まだ直す気にはなれません。

それがアパートであれば、何か直す方向で考えなくてはならないし、入居者に傷があることなどを了解してもらってからになります。従ってその方が出ていかれる時に多少傷が増えていても、入居者の瑕疵にはならないでしょう。

昨年マンションを建てましたが、貸マンションであったので、直すことは前提として作られています。まして大東建託で作りましたので、直すにしてもそこにお任せとなります。同じ仕様のマンションをつくることでコストダウンできます。

自宅はオンリーワンですが、アパートは共通仕様になります。自宅には木材を使いたいです。木材はいいですよ。気持ちが休まります。癒しという言葉がありますが、本当です。室内の空気も気持ちの良いものになります。自然界にあるものを使うことで環境にやさしいだけでなく、人間が本来暮らしていた世界に暮らすことになります。それがまた本来の暮らしでもあったのだと思います。



2014/11/25(火) 雨


[ 久しぶりに歩く ]
久しぶりの散歩



高倉健さんの追悼番組を見ていたら、健さんはロケ地に住む人々との触れ合いを大事にされていたことが良くわかりました。そして共演者との別れが、映画の完成が近づくという因果を経験しています。そのロケ地では、空いた時間にその土地をくまなく歩いて「感じる」ことの必要性を感じていたと思います。

そんなテレビを見ていたら、私も自分の生まれた町の近くを歩いてみようかと思ってしまいました。

そんな気持ちになったので散歩の開始です。

我が家は中野区弥生町2丁目にあります。ここから南下して弥生町3丁目にある川島通りへ。さらに南に行き、方南通りを突っ切って渋谷区に入りました。この辺りも昔、様々な大工さんが手掛けた住まいがありました。ここも直した、あそこは新たに住まいを建てた、など感慨に浸りながら環状六号線に出ました。



南へ歩いて、水道通りへと向かいました。途中右に道をそれて、昔、そう二十年ほど前に新築した住まいを探しましたが、わからなくなってしまいました。たぶん道を一筋間違えたのだと思いますが、その建物も思い出深い所でした。通りから私道を20メートルくらいバックで入っていくのですが、その途中のアパートの住人の方からバック音がうるさいという苦情が、いつも入りました。工事現場の監督さんが謝りに行っていました。わが社のトラックもバック音がしていたので、謝りに行った記憶があります。施主さんは穏やかな女主人の方でした。

さて、この場所がわからなかったので無理して探さずに、山手通りから水道通りに入り、新宿方面へと歩いてみました。途中新宿に向かって右側に「足心社」というデザインの会社、といってもビルの3階の1部屋使っていた会社があり、ここにも配達に来たなあ、と思いましたが、何処のビルかもわかりませんでした。もう30年近く前の話です。

ここから、昔セブンシティーというスポーツ施設があった跡を通り、新宿西口公園へと足を進めました。デング熱もあり、ここに足を踏み入れることはありませんでしたが、公園内を横切ってみました。

公園からは都庁の横を通り、新宿駅西口へ。
「まさみや」「呑者家」「老辺餃子舘」を横目で見ながら西口へ。小田急百貨店まで歩いてみました。

その後、家まで歩く元気が無くなり、地下鉄に乗って戻りましたが、久しぶりに自分の足で歩いてみました。今日はテニスがありません。こういう日こそ、歩かなければいけません。久しぶりに歩くと、新しい住まいも沢山建っており、外壁はサイディングで、外壁の色は白と黒。明るい色と濃い色のコントラストになっている所が多いのに気づきます。純然たる住まいは外壁の色が一色が多いのに対して、販売用のそれは二色以上使っているのが特色です。売り易くて、後での修繕はしにくいというのが特徴です。

ともあれ、新宿まで歩いてみました。この調子でもう少し身体を使ってみたいと思っています。


家のすぐそばにある都営住宅跡。ここにあるヒマラヤスギは55年前にすでにありました。


山手通りに出ました。この道も広がりました。広がっても真っ直ぐな道ではありませんし、高低差もあります。こういうことは歩いてみて実感できるものです。


新宿西口公園です。この辺りは子供の遊び場もあります。



都庁の横には、段ボールハウスが出来ていました。


「まさみや」です。何べんか飲みに行きました。


同じく「呑者家」(どんじゃか)です。


餃子のおいしい所です。


新宿の西口です。この辺りは50年前から知っています。このデパートは小田急百貨店と京王デパートですが、私の中学生の頃まで我が家の二階から見えました。高い建物がなかったのですね。40分ほど歩きました。





2014/11/24(月) 晴れ


[ 今月の「木材情報」 ]
今月の「木材情報」



この所、だいぶ寒い日が増えました。そして時々暖かな日が混じります。我が家でも暖房を入れました。ガスストーブも点けてみました。

さて、今月の「木材情報」には、プレカット情報として、二つの記事が載っています。一つは「ポラテック」。言わずと知れた日本一のプレカット工場です。断トツで日本一です。ここの工場も一度見ておいた方がいいですね。

今一つは和歌山県にある「山長商店」でした。こちらは和歌山にある材木屋さんであり、山も持っています。外材も扱えば、通常は紀州材の問屋さんでもあります。

ここが素晴らしいのは、育林からプレカットまでの一貫体制をとっていることです。次に山があることでプレカットで使う材料に関してもどこに何を使うか「目利きができる」強度不足にならないように「木配りができる」といった特徴を持っています。

さらに材料の「見える化」を進めています。材料の品質だけでなく、必要とあれば施主さんを招いて「山から加工過程に至るまでの見学ツアーを行っているとのことです。見学ツアーはつくばの肥田さんや益子さんも行っておりますが、このような一貫体制を進めてさらに次の一手を探っている山長商店から学ぶことは山ほどあると思うのは私だけではないと思います。




2014/11/23(日) 晴れ


[ 哀悼・高倉健 ]
哀悼・高倉健


健さんが亡くなりました。83歳でした。

私も若い頃に憧れ、網走番外地や昭和残侠電などの映画も見に来ました。また唐獅子牡丹の歌も好きで、いまでも時折歌っています。私が十代から二十代にかけての、今から40数年前の話です。

映画スターと言われる方々は数多くいますが、5本の指に入る方だと思います。私が見た映画は大多数がギャング映画乃至、やくざ映画でした。またそれが似合う時代でした。流行でした。映画館ではクライマックスになると「待ってました」というお客さんの掛け声が館内に響きました。世の中が荒れていた時でした。

それから数年後私は、京都から東京に戻ってきて、上板橋という所にあった映画館で高倉健の映画を見ました。何の映画かは覚えていないのですが、やはり掛け声がかかりました。

しかしそれは、「何度お前に騙され続けたか」といったものでした。痛快に悪役をやっつける建さんを見ても、現実にはそんなことは起こることもないので、幻想から覚めた大衆の叫びでした。

それでも健さんは前科者を演じ続けました。そして刑務所の慰問にも行きました。そのラストは「1日も早く更生してここを出てください」というものでした。

大衆的な俳優として、まぎれもないスターとして人生を全うしたと思います。



今日は手持ちの写真集を見て過ごします。



2014/11/18(火) 晴れ


[ 万葉集が暴くねつ造された天皇・天智 ]
万葉集があばく捏造された天皇・天智


渡辺康則著
大空出版

目次
序章  万葉コードがいざなう
1章  天智東征を詠(うた)う
2章  中大兄皇子、不在の証明
3章  斉明7年の皇太子二人
4章  「善隣国宝記」は語る
5章  長屋王と万葉史観
終章  権威を疑う


万葉集は4500首余りの歌が収録された歌集です。現在に伝わるものは全20巻。西暦600年代から750年くらいまでの歌が収録されています。この時代は倭と呼ばれていた国がそれより小さな国「日本」に併合された時代になります。そしてこの時期には、古事記と日本書紀という(あるいは風土記など)わが国の成り立ちに関する書物が編纂されています。

やや遅れて編集された万葉集にも、古事記や「日本紀」からの引用があります。
ところが、万葉集では、必ずしも日本書紀に書かれている内容とは同じではありません。それどころか、大きく違う所があります。その書かれ方の違いから天智天皇に迫ったのがこの本です。

640年から700年に至る政治状況は、蘇我氏の滅亡に始まり、斉明天皇、孝徳天皇、皇極天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇と続くと歴史の教科書には書かれています。その間661年の百済の滅亡と662年の白村江の闘い。さらに672年の壬申の乱。そして701年の大宝律令の制定などこの60年余りが今の日本の基礎になりました。

その中で、天智天皇は大和にある倭国の出身ではなく、簒奪王朝ではないかというのがこの本の主題です。それを万葉集に記述から証明しています。天智天皇の前身は中大兄皇子とされていますが、万葉集では一貫して「中大兄」で通しています。皇子が付かないということはその人が天皇の息子ではないことを表しています。それから考えるに、天智天皇は大和の王権系列ではなく、筑紫の王権の王ではないかとこの書は主張しています。読んでみて、前半はともかく、「筑紫の王権である」という所の論証は弱いと感じました。

天智天皇とその後の天武天皇とは兄弟であると言われながら、同母の兄弟だと言われながらお互いの子供を嫁にするといった関係などを考慮すると、兄弟というよりかは他人の可能性を否定できません。対立する王権と考えた方がすっきりします。日本書紀が天智天皇とそれを支えた藤原氏を肯定的に描くのに対して、万葉集は天武天皇系の没落に対して親しみを持つ人々の鎮魂歌の装いがあります。

少し時代は下がりますが、紫式部も源氏物語の中で「日本書紀の前身である日本紀は、変なことが書いてある」という発言をしています。日本書紀という書物は日本の成り立ちを書いた本ですが、同時に勝者の歴史を公にしたものだけに、勝者の視点に立っています。明らかに事実を捻じ曲げるということはしなくても読み手が間違うように書いてあります。そのあたりを渡辺氏はついています。この辺りはいい線言っていると思いました。

万葉集は魅力的な書です。巻1の冒頭から日本書記にはいない人々が出てきます。中皇命(なかつすめらみこと)、軍王(いくさおう)、井戸王(いのへのおう)そして神本人麻呂などもその系列に入ると思います。日本書紀には出てこないけれど政治的、文化的に大事な人々。これらの人を特定する仕事が渡辺氏の次の課題になっています。






2014/11/17(月) 晴れ


[ お前は肉を食べないから弱い ]
お前は肉を食べないから弱い。



我が家では父親が肉が嫌いでしたので、肉を食べるという経験は至って少ないものでした。朝はご飯に味噌汁。昼は鮪ブツ。夜も刺身か焼き魚でした。小学生の頃は給食でクジラの肉や脂身の豚肉が出ていましたが、後者は嫌いでした。

そんなこともあり、高校生になってからも肉を食べた記憶はあまりありません。大学生になっても同じです。大学生になると年に数回「すき焼き」コンパがありました。私はもっぱら豆腐と白菜でしのいでいました。

卒業するころになると我が家でもすき焼きをしたり、豚の生姜焼き、鶏のから揚げなどが出てきました。酢豚も記憶に残っています。母親が肉が好きでようやく我が家の食卓にも肉が出るようになりました。たぶん父親と母親の力関係が変わってきたからだと思います。すき焼きや焼き肉を食べる機会が増えました。

そんな中でも父は相変わらず肉を食べることは少なかったと思います。そんな父も母を亡くして数年を経ったころから肉を食べるようになりました。食事のメニューを考えるのが大変で、宅配のおかずをとったり、総菜屋で買ってきたものが食卓に上り出すとさすがに魚料理だけでは朝・昼・晩と三食食べ続けるのは飽きたみたいです。ある時、訪問医に「食べ物の好き嫌いはありますか」と聞かれたときに「ありません」と答えて、そばにいた家族は呆然としました。それからしばらくして肉も食べ始めました。

さて、表題は私の話です。大学時代、私が肉を食べないのを見た先輩がそう言いました。鋭い人で剃刀みたいに切れる人だという印象がありました。しかし飲んで酔っ払ってくると、古賀メロディーを歌っていました。「酒は涙か溜息か」が得意でした。その方は奈良の生協に勤めていましたが、3年ほど前に他界されました。2年先輩の金井保さんです。62歳だと思います。

私は今では肉を週に三回は食べますので、あの頃よりかは強くなっていると思います。
それでも40年以上前の言葉が鮮やかに思い出されます。この言葉を聞いたのは、京都の宇治市にある靖国寺での合宿の時です。靖国寺の南の山には島一郎先生のお墓があります。色々なものが繋がりを見せる60代です。


2014/11/16(日) 曇り


[ ジャパンホーム&ビルディングショー ]
ジャパンホーム&ビルディングショー


11月12日から14日にかけて東京ビッグサイトでジャパンホーム&リビングショーが開かれています。今年も招待券が届きましたので、行ってきました。

まず目を引いたのが、「応急仮設住宅」です。




7.5坪タイプと9坪タイプの二つの図面も示されていました。



次に目についたのはサイディングのプレカット加工機です。




こんな風に自在に加工できます。




またおなじみの中国木材さんをはじめとする日本の木造住宅を担っている木材会社や工務店さんも多数参加しておりました。




吉野石膏の隣には、「クボデラ有限会社」も出店していました。あいにく窪寺社長はいませんでしたが、彼は頑張っていますね。




2014/11/13(木) 晴れ


[ 第3回行灯祭 ]
第3回行灯まつり



近くにある川島商店街では、さる11月8日、9日第3回行灯まつりが開かれました。商店街のあちこちに行灯を立て、その灯りで夜を演出します。若い人たちの発想で始まったものだと思います。空模様はあいにくでしたが、多くの人、時に子供たちやその親で賑わっていました。そして若者たちの姿も数多くいました。

川島商店街自体が衰退しつつある中で、イベントを続けていくのは大変だと思いますが、地元ではない人たちの発想を借りて、場所を提供して、イベントを始める・続けることは良いことだと思います。惜しむらくは商店街の中に普通の住宅が増えたことであり、廃業したお店も増えシャッターが下りていることです。

しかしこの時期の企画として、行灯まつり良いと思います。




豆電球の明かりもありますが、丸めた紙の中にはろうそくの明かりもあります。


2014/11/10(月) 晴れ


[ 父に似てきたかも ]
父に似てきたかも



最近喉がいがらかったり、首を回したりしていると父に似てきたかと思うようになりました。喉は喘息気味の症状ですし、首を回したりしているのは肩が凝っている証拠でしょう。

父は20代前半で戦後すぐ結核にかかったと聞いています。その頃伊香保温泉で療養していた写真が残っています。若い頃から病気がちでした。子供の頃嫌だったのは、背中に「吸い付き」というお灸をする仕事でした。黒い小さなコップに新聞紙を入れて火をつけてそれを背中に押し付けるのです。しばらくすると膿が出てきました。6か所か8か所ありました。又父がうつぶせに寝て土踏まずや背中に私が乗り、マッサージすることでした。父が30代の半ばの話です。(これは私も同年代の頃に甥に乗ってもらっていました。気持ちが良いものです)

また30代の後半から血圧が高くて、いろいろな医者にかかりました。大阪まで治療に行っていた記憶があります。健康器具も沢山持っていました。

30代、40代50代の終わりの二年間は大抵何か体の変調を訴えて休むことが多かったように思います。60代に入り一度腰を悪くしたことがありましたが、その後は順調な生活でした。

70代に入るとまず胆石でした。その入院中に母親の癌が見つかり、二度の手術と1年5か月の闘病生活を経て母が亡くなりました。しばらくは気を張っていましたので病気にはなりませんでしたが、一年を経るころから脳梗塞が始まりました。やや重いものから軽いものまで十数回経験しました。救急車を呼ぶことも同じくらいで、東京医大へ搬送されて、そこで朝まで点滴とか、しばらくして帰されることやほかの病院へ入院することなどなどがありました。

今から十五年ほど前に、疥癬にかかり、看護婦さんの監視のできる隣りの部屋でほぼ寝たきりで三か月ほど入院した結果、歩けなくなりました。リハビリ病院として島村記念病院を紹介され、そこに5か月ほど入院しました。リハビリ病院といっても週に3回から4回ほど20分の治療でした。病状は進展しませんでした。

そこで則子さんの伝手をたどって東京厚生年金病院へと転院させていただきました。

転院の旨を島村記念病院へ告げると、「よく、そんないい所へ行けましたね」と言われたことが印象的でした。島村記念病院は月に50万円前後の入院費がかかりましたが、厚生年金病院は10万円以下でした。(もう厚生年金病院はありません)

厚生年金病院では「三か月で歩けるようにします」と先生から言われましたが、その通り三か月で日常生活が送れるようにしていただきました。看護する方々も学生の方が多くて、その方々に通常のリハビリだけではなくて手引き歩行などをしていただき、歩けるようになりました。素晴らしいものです。

その結果、父は退院してその後一年間は自宅で生活しておりました。日常生活はほとんど自分でできました。77歳を迎えていました。この頃から介護編制度が出来て「デイサービス」を受けるようになりました。要介護状態とされました。

そしてデイサービスに通うようになると、そこが楽しくて週2回が3回へ。週5回行きたいという風に変化していきました。知った方も通っていたので楽しくなったようです。

この頃から夏には脳梗塞で入院。冬場も風邪をこじらせて入院することになりました。それぞれ2週間くらい入院してもらいました。父が入院すると私どもの「楽な時間」が確保できました。と同時にこの頃、父の歩行などを見ていて、これは「パーキンソン病」ではないかというお医者さんがいました。そこでどこのお医者さんかは忘れましたが、かなりの権威の方に自宅に来ていただき診察していただきました。結果は「パーキンソン症候群」ということで難病指定していただきました。このことで介護状態が2になったと思います。

それと同じころですが、これは気が付くのが遅かったのですが、父の右目が見えなくなっていました。言わなかったのでわからなかったのですが、眼科に連れて行くとほぼ失明状態でした。それと歯が折れて治療にすることになりました。

80歳を迎えるころに12月半ばでしたが、入院することになりました。当初の診断は肺炎でしたが、近所の佼成病院へ入院したところ、心筋梗塞と言われました。おそらく1週間くらいが山なので、選択肢は3つくらいと言われました。新種の薬を使うことを進められました。こちらは急に言われたので迷ってしまいましたが、先生の判断で2番目に強い薬を使っていただきました。私が翌々日に見に行った時には、父の顔が普通になっていたのを憶えています。

その時、先生から言われたのは、三つある心筋のうち枝分かれした所の発作だったので助かったのだろうということ。および、これから生活のレベルが落ちておそらく寿命はあと二年と言われたことでした。(実際、2年とちょっとで寿命はつきました)

それから少し歩くと息切れしてしまいました。川島の夏祭りの時に川島通り商店街という300メーターくらいの商店街の端から歩くともう息切れしてしまいました。

幸いデイサービスには週に五日ほど通っていました。勿論介護保険では賄いきれないので、実費の支払いをしていました。病院には行けないので訪問医療の「ヒロクリニック」の先生方にも自宅へ来ていただきました。また私や妹の都合のつかない時には、ショートスティーに一週間から10日ほど入ってもらいました。こちらは父がショートスティーに入っている間に用事を済ませたり、旅行していました。これはその翌年私が中野支部長になると一層加速しました。理事会に出るため、理事会が開かれる毎月13日からその他の会合が終わる20日くらいまでは父にはショートスティーなどに入っていただきました。

ここから私が学んでことは、まず水を飲む。夜中のおしっこを警戒して水を飲まなかった父に対して寝る前には必ずコップ一杯の水を飲む。夜中にトイレに起きても同様。(実際父は8時半に眠ると、12時、2時。4時、6時と2時間おきに起きていた。こちらは2時までは付き合えたけれど、4時以降はほとんど知らない。眠っていた)

身体をよく動かす。身体を使って疲れることです。

そしてお酒を控えることです。父は自宅にいる時には、毎日1合ほどの日本酒の熱燗をいただいておりましたが、入院したり、ショートスティーの期間は飲むことが出来ません。アルコールが切れると禁断症状が出ました。幻覚や錯覚。思い込みです。突然指をさして「10年玉が落ちている」とか「あっ、ネズミ、ネズミ」などの幻覚はかわいいものでしたが、入院中に人のベッドに入ってしまい、そこから出ないとか、夜中に看護婦さんに電話を掛けさせて「今、院長の退院許可が出たから、迎えにこい」というのには閉口しました。他の入院患者の方にかなり迷惑をかけた病人でした。

心筋梗塞から約2年になる少し前にブース記念老人保健施設グレースに入所することが出来ました。そして肺炎をおこして併設されているブース記念病院へと移るのにそれほど時間はかかりませんでした。ここに入院中に「お酒が飲みたい」というので「冷なら出せるけど」と話したところ、「冷は身体に悪い」と言ったのが、話としてはほぼ最後でした。

口からは食べないし、点滴などをしても漏れてしまうようになったので、先生と話をして「経管栄養に切り替える」ことにしました。話が出来なくなるといけないと思ったので叔父などに父の病状を伝えておいた方がいいでしょうかと、先生に話したところ、「その方がいいでしょう」と言われたので親戚に連絡をしました。

ところが、その晩に父は亡くなってしまいました。本人の目の前で経管栄養に切り替えると話したのが、よほど嫌で亡くなったのだと思っています。(私もいやです)

82年の生涯でした。祖父が77歳。祖母が76歳。母が66歳。母方の祖父が84歳。祖母が82歳。大体このくらいまででしか生きられません。90歳を過ぎて元気な方は生まれた時からの「力が違う」と思います。私も小さい頃に結核にかかり、自然治癒しましたが、その名残でしょうか。父に似てきたかと思います。父に似てきて少し安心するのは、父の年を目標に出来ることです。親の背中を見てきたつもりなので、あまり迷惑をかけないように生きてみたいと思っています。

今日は則子のお父さん武治の命日です。生きていれば99歳。則子の母玉恵さんも同じ年生まれです。ということは来年は二人の生誕百年になります。



2014/11/09(日) 雨


[ 舟木一夫を聞いていると ]
舟木一夫を聞いていると


一日おきか、気が向いた時には、YOU TUBEで音楽というか歌謡曲を聞いています。自分の中にも流行があって、懐メロだったり(緑の地平線とか365夜)、フォークソング(よしだたくろう)だったりしています。そして一番安心して聞いているのが舟木一夫です。

若い頃は、当時の流行した高校三年生から始まる学園ソングばかりでしたが、最近では舟木がもっと年を取ってからレコーディングしたものに興味が移っています。それでも舟木の二十代後半あたりなのですが・・・

具体的に唄の題名を述べれば、「水色の人」「京の恋唄」「どうしているかい」「サンチャゴの鐘」そして「初恋」や「夕笛」もいいですね。

しっとりしているものがワードを打つBGMに丁度よくなっています。作曲家の遠藤実さんが、舟木一夫を発掘した時に、「舟木の声をマイクを通して聴くと往年の高峰三枝子の様なすばらしい歌声になる」といったのを思い出しています。今聞いていてその通りだと思っています。

さて、舟木というと今一人友人の顔が浮かびます。二十歳の時に八ヶ岳で滑落死した山崎正一郎君です。高校の同級生です。山が好きで旅行が好きで花を愛し、優等生だった彼を思い出します。カメラが好きで自宅に暗室がありました。高校時代同じ歴史研究部で一緒でした。と言っても私は高校一年の終わりに入部したので、実活動一年半ですが、彼は6年間早稲田中学高校で、歴史研究部で過ごしました。彼曰く「舟木一夫は嫌いだが、歌ってる唄はいいよな」でした。

45年を経てその人の言葉を思い出しています。



2014/11/07(金) 晴れ


[ 眼鏡を二つ作りました。 ]
メガネを二つ作りました。


ガイアの夜明けを見られましたか。沖倉製材所社長に、中島材木店社長。それに小金井の小嶋工務店社長と多摩産材をブランド化した「TOKYO WOOD」について、東京の木材を使って住まいを建てる事業について熱く語っていました。現在は構造材を使う段階ですが、内装材にも広げたいという話をしていました。中島社長は中野の窪寺さんの友人。沖倉社長は私もフェイスブック上での友人です。小嶋工務店さんは、確かつくば緑友会の益子さんの知り合いだったと思います。小嶋工務店に内装材のサンプルを届けてもらいたいという益子さんからの依頼で一度サンプルを届けた記憶があります。十年以上前の話ですが・・・

そういう人たちがいずれも第一線の人になりました。

さて、今までかけていたメガネが合わなくなったのでメガネを作りました。
私はパソコンの前に向かっている時と運転やテニス用の二つを主にかけています。その二つとも合わなくなったと感じていました。検眼をしていただくと、遠目用は今までよりも4段階弱めのもので大丈夫ということがわかりました。それを運転用にして作りました。

今一つ作ることにしました。パソコン用です。それはどちらかというと「遠近というよりも中近」といった感じで遠目も弱いものにしました。それでも運転できる範囲に遠目を設定しました。そして近いところはパソコンや携帯電話などを見る時に不自由しないことが前提です。同じフレームの色違いで作ってみました。

遠目は大成功。そして今一つは早くも近い所が合わなくなっています。まだひと月なのに・・・


2014/11/05(水) 晴れ


[ ガイアの夜明け ]
ガイアの夜明け

全木連の企画部部長細貝さんからのメールです。
本日11月4日、テレビ東京の「ガイアの夜明け」(22:00時から22:54まで)におきまして「日本の宝の山を活かす」という番組が放映されます。
まず岡山県西栗倉村。この地で林業の再生を考えます。切った丸太を加工してユニークな床材を開発した方々のうちに一人牧大介さんが紹介されます。「百年先の森林構想」の一つだと言います。
次に、東京の木で東京に家をつくるを合言葉に多摩産材の活用を図る、沖倉製材所さん。「東京の木で家を建てよう」というコンセプトだ。自社独自の基準で乾燥させ製材、更にそれを数値化して品質と強度を“見える化”する・・・これを売りに、「TOKYO WOOD」というブランドを立ち上げました。
またこれを使って家を建てる小金井市の小嶋工務店さん。モデルハウスの見学者のほとんどは、「東京の木で家を建てる」ことなど考えたこともなかったという。
これらの挑戦はうまくいくのか。今夜の放送をぜひ見てください。



2014/11/04(火) 晴れ


[ テニスを楽しむ ]
テニスを楽しむ

岡田瑛
岩波新書



目次
だれにでもできる
7色のショット
シングルスとダブルス
サーブ化レシーブか
ネットプレーの魅力
駆け引きの楽しさ
テニス界の革命児
天候と健康
テニスのマナー
テニスをより楽しむ法



今から30数年前に岩波新書の一冊として出された本です。文字通りテニスを楽しむための予備知識としてこの本を持っています。そして久しぶりに読み返してみました。本の魅力は読みたい時に読み返すことが出来ることです。

私はテニスをしていますが、ほとんどがダブルスです。つまりパートナーがいつもいます。二人の敵と一人の味方がいて点数を取り合っています。自分のショットで得点することは少なく、味方のポーチや相手の失敗によって点数を重ねていきます。そうすると味方が決めてもらえるボールを送ることが一番大事になってきます。味方に不利にならないボールを送ること。味方に迷惑をかけないボールを打つことが重要になってきます。独りよがりは慎まなければなりません。この本の中には、ダブルスの心構えとして、著者が実際に行った戦法が披露されています。

それは、
勝ち抜くために
まず、自分のサービスゲームはキープする。
次に自分の頭上に上がったロブは自分で取りに行く。
さらに、お互いを信頼しあい、ラリー中は相手の動きに注意を集中し、決して後ろを振り返らない。

その三つのことを決めて試合に臨んだことが書かれています。この三つはまだ私には出来ていませんが、心構えとして憶えておきたいと思います。

後ろに走るのが嫌で真上に上がったロブは後衛に任せることが多いし、パートナーがどこへ打つかを心配して後ろを振り返ってしまい、パートナーに自分の目線が入ってしまい、ミスショットを誘発してしまうことがあります。今の私のテニスのレベルでは、この三つを守って、後は思いっきり振りぬくことくらいで良いのだと思います。久しぶりにこの本を読んでテニスがより面白くなりそうです。





2014/11/02(日) 晴れ


[ オソマツの思い出 ]
オソマツの思い出




1969年4月に同志社大学の合唱団ムギで一緒だったオソマツこと、梅本泰則さんは今から6年前に57歳でこの世を去りました。私が彼の死を知ったのはそれから3年経った時でした。

今年で7回忌になります。そこで当時からの友人が12月にお墓参りに行こうと企画しています。私も参加したいと考えています。

オソマツ君は山口県柳井市の出身。大柄な体格にやさしい性格。入学してすぐに太鼓にはまり、私の記憶でも民謡と和太鼓といえばオソマツという印象を持っています。私が聞いたのは滋賀県の水口ばやしが初めてだと思います。それから亡くなるまで数十年水口ばやしとのつながりがあったと聞いています。

私は個人的に話したことは少なくて、従って思い出すことも少ないのですが、1969年夏に鳥取県の浜村に合宿に行ったときの行きの列車でモジャや峰やんと共に話をビールを飲んでいたくらいです。浜村海岸での一回生だけの集合写真にもオソマツだけ写っていません。それはちょっぴり残念です。

そういえばこんなことがありました。学生会館の二階にあった生協の本屋でたまたま隣にオソマツが来たとき、彼は「大野。参考書、どれがいいか教えてくれ」と私にいました。自分で決めきれない所がありました。

その反面好きなことを一途に続けていく人でした。1969年度一回生用の名簿に「ムギへの入団動機」について「楽しいからなあ」と一言、書いてあります。そしてこの言葉を聞くだけで、「オソマツらしい」と私はホッとします。

彼とは私が団を離れたため、ほんの短い時間しか共有できませんでしたが、心に残る人でした。3年前に「オソマツが亡くなっていた」という話を聞いた時、ショックでした。そしてその時の友人に「今会っておかなければ、もう会えないだろう」という気持ちになりました。それから毎年一度その時の仲間に会うことが出来ています。今度は私がオソマツに背中を押されました。




浜村海岸での一枚。中央の眼鏡をかけているのがオソマツ。オソマツの写真はこれ一枚しかありません。ちなみになんで「オソマツ」と言われたのかも知りません。でも梅本はやはりオソマツという名が似合っていました。



2014/11/01(土) 雨


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[ 管理者:大野満生 ]


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