[ホームへ] [他の月を見る]


時々更新mn日記

( 2014/07 ← 2014/06 → 2014/05 )


[ 中野新橋の行方 ]
中野新橋の行方


二十年ほど前の地図には中野新橋商店街も表通りはお店が並んでいました。それが今では店舗は空いている所が出てきています。さらにマンションになってしまっている所も数多くみられます。

私も地元を愛すべく週に一、二回外食しますが、行くところが決まってしまっています。たまに久しぶりに訪れても後悔が先に立ちます。また新規の開拓もあまりしていません。

行くところは、焼き肉なら「かずん」、イタリアンなら「タベルナパパ」、寿司屋は「みゆき寿司」のランチ。「鳥貴族」に「やるき茶屋」くらいになってしまいました。

来客があるとそのほかのお店にも顔を出してはいますが、いまひとつピンときません。「モスバーガー」や「ドトール」が撤退して3年以上たちますが、新規に出来たお店も3年持たずに変わっていきます。そして「これは」という所が無くなっています。

この前も、近くの開店寿司屋に入りましたが、失敗でした。ここも以前は川島の商店街にお店を出していたこともあり、おいしければ、商店街の集まりの時にお弁当を頼もうかと思いましたが、「それはもう無理だ」と悟りました。しばらくたって、寿司を食べたいと思った時に、豊玉北にある「銚子丸」へ行きましたが、レベルの差は歴然。同じレベルは期待しないとしてもせめてどこかで秀でた所がないと自然と足が向かなくなると思いました。そしてなかなか入る気になりません。こうして中野新橋も衰退していくのかと思っています。



駅前の通りの両側には多くの個人商店が並んでいました。およそ35年前の地図です。この地図にもざっと100店舗以上が載っていますが、今確認できるのは、およそ20軒。五分の四が無くなっています。





2014/06/30(月) 晴れ時々曇り


[ 雑感 ]
雑感



今月の「木材情報」には、この25年間の木造住宅の変遷に関するレポートがあります。
今から25年前というとバブルが弾けて、木造住宅の低価格化が本格化した時期です。それまでの木造住宅は、工務店が主体であり、その工務店の中にも幾人かの大工があり、だれが墨付けをして誰が刻んだかで、まず上棟の時にスムースに行くのか、あるいはやり直しがあるのかなど、個人差が出てしまうものでした。「うまい人とそうでない人」の差が激しいものがありました。何処の工務店に頼むかだけでなく、その下の誰かまで指名して建てれば、失敗しないと私なども考えていました。

そのあたりが崩れ始めてプレカットが増えてくると平均的な住まいは造られるようになりましたが、そこから先のレベルの高い仕事は少なくなりました。必要性も薄れました。

プレカットが普及したおかげで、建前までの材料は工場に任せることが出来ました。真壁づくりの柱などを一部屋分自分で番付を振って収めることはありましたが、そこまででした。その頃見せる柱材に関しては、手カンナ加工をお願いしていました。すぐに真壁つくりは無くなりましたが・・・

従って木造建築もプレカットで作る「巨大なプラモデル」と手作り感の高い建築の二つに分かれたと思います。前者はわが社でもいくつか行いましたが、後者の経験はありません。それに一番近いものが19年前、あるいは、15年前、10年より前になるでしょう。数えられるくらいです。

後者の建築を行っている所は、数は少なくなっていますが、まだあります。中野区だと横田木材(株)。茨城県だと益子材木店や(有)ヒダの建築はそういうものです。手間や時間はかかりますが、本当に一生のものを手にすることになると思います。

我が家も鉄筋の3階建ての3階にありますが、10年前にリフォームして、内装に一部木材を使いました。床、壁、天井などに用いていますが、その部分が自然に変色して、時間の経過とともに深みを増しています。
一方クロスを張った所は、剥がれ始めています。現パナソニックの建具は四方枠が少しいびつになっています。枠の厚みが25ミリでは引っ張られて隙間が出来ます。また、我が家ではありませんが、ドア枠が外れて閉まらなくなったお宅を見ました。そこは三方枠の右下のビスが効かなくなったためだと思います。この辺りは無垢材であれば、解決が容易かと思いますが、既製品の枠では、ビスの打つ場所が決まっていますので、取り替えるという選択肢しか残されていないかと思います。

そんなことを考えると無垢材の優位性は確かだと思います。

昔の建築が長持ちしたのは、悪くなった箇所の把握が容易で、しかも見えるので直すのも難しくなかったということでしょう。ただし直し方には、その柱を継いだりする技術は、考えられないくらい高いものがあります。単なる「芋継」ではありませんので、それを目にするとただただ圧倒されます。

上手い人から下手な人まで職人さんがいて、それぞれの役割があった時代に生きてきたのが私の世代だと感じています。大した広さの土地も持たず、フォークリフトもなく、ただただ自分の体力だけで仕事をこなせた良い時代は去ったのだと感じています。私も40年近く仕事が出来たことには、不思議な気がします。いよいよ自分も過去の人間になってきたと思います。



2014/06/29(日) 曇り時々雨


[ 玉ひで ]
人形町玉ひで


6月27日、人形町にある「玉ひで」に行きました。たまには下町へ出かけておいしいものを食べようという趣向の第一弾です。



午前10時50分に人形町に着きました。すでに「玉ひで」の前には10人ほどの行列が・・・11時20分開店とのことでしたが、思い切ってそのまま並ぶことにしました。金曜日だったのですが、人が来ますね。



開店した時には50人ほどの行列が出来ていました。並ぶこと30分。中に入れていただきました。履物を預け、帳場で先に食券を買って、案内を待ちます。堀炬燵式のテーブルに相席で2人ずつ4人が掛けました。私たちの前に座られた方は、宇都宮から国立博物館の「故宮展」に来られたとのこと。その前にネットで調べてここに食べに来たとのこと。



「元祖親子丼」はこんな感じです。モモ肉と胸肉の二種類の肉に卵だけのシンプルなものでスプーンでいただきます。

食べ終わると元来た道を通らずに玄関へと案内されます。一方通行で靴を履けるようになっていました。

人形町といえば水天宮。お参りしようとしたら、建て替え中とのこと。明治座近くにある仮宮まで行ってお参りをしてまいりました。



そしてテレビの「新参者」で有名になった「柳屋」へ。鯛焼きのお店です。焼き手は若い衆が一人。お客さんは15人くらい並んでいます。待つこと30分。鯛焼き2個を手に入れて人形町を後にしました。




2014/06/28(土) 雨


[ 大野鐵男お別れ会 ]
大野鐵男お別れ会


平成26年6月26日
東京ドームホテル地下一階天空
文京区後楽1−31−61


大野鐵男さんのお別れ会がさる6月26日東京ドームホテル地下一階にある「天空」で開かれました。主催は二葉製本株式会社でした。当日献花の後、天空にて食事会が開かれ、参加者約110人によって、送っていただきました。

故人は私にとっては、祖父の弟に当たります。従って父とは、叔父甥の関係になりますが、鐵男さんが大正8年生まれ、父喜平が大正12年生まれと、4歳しか違いがありません。

まずこの鐵男おじさんには、父の二人の弟を二葉製本で雇っていただきました。さらに、祖父、祖母、母、父の4人お実質的な葬儀委員長として送っていただきました。本当にお世話になった方です。

競艇が好きで、歌が下手で、腕時計は数百万もするものを身につけていました。専用の運転手さんがいて、会社の会長さんでした。現在では最高顧問でしたが、さる4月18日に老衰のため、94歳で幕を閉じました。

私は甥の子供という立場ですので、父や叔父さんについてはいろいろと話を聞いています。お会いしたのはいつも葬儀の会場ないし、誰それの何回忌という場所でしたが、「よく来たね」に始まり、叔父の失敗談や、親戚内部の話なども伺いました。

二葉製本自体が家族経営の時代があり、また親族を雇っていたこともあり、そのことでうまくいかなかったことや親戚中を面倒見た話などが記憶に残っています。

私にとっては、父が見合いした時に、一緒に上野駅まで行ったのに、相手が来なかった話が記憶に残っています。その時の相手が来ていれば私はいませんので、不思議な気がします。昭和23年ごろの話です。その頃の鐵男おじさんは、30歳を超えたあたりかと思いますが、髪の毛は後ろ髪しかなかったと聞いています。私の祖父もそうでした。祖父の面影を一番強く残していたおじさんがいなくなって、自分も本当に年を取ったのだと感じてきました。お別れ会に参加していただいた方々は出版、製本関係の方が数多くおられましたが、本当にありがたく思いました。私は親戚の末席ですが、本当にお世話になったおじさんだと感じた一日でした。改めてご冥福をお祈りしております。









2014/06/26(木) 晴れ


[ 神宮で野球観戦 ]
神宮で野球観戦


6月22日は夜中から雨。朝はもちろん、昼ごろになっても止まなかったのですが、神宮球場へ問い合わせをしたところ、行う方向で準備しているとのこと。合羽やタオルなどを持って野球観戦へと足を進めました。元はといえば、新聞を購読した際に頂いたもの。いわば「タダ券」ですが、晴れならば、行ってみたいと思っていたので、行くことにしました。幸い、千駄ヶ谷の駅に着くころから雨はやみ、これならば行うことは確実だと思いレフト側のオリックス応援団の下の席に腰を下ろしました。一番前の席でした。

東京ヤクルト対オリックス戦でした。両軍ともに名前を知っている選手は少なく、その意味では新鮮でした。3時間半にわたる熱戦、に終止符を打ったのはヒットとフォアボール2つで満塁になった後の犠牲フライ。レフトフライでした。イチローならホームで刺せたかな、などと思いながら神宮を後にしました。

神宮球場で野球を見に行ったのは、中学生以来だと思います。かれこれ、50年前でした。その頃の外野席は芝生でどこへ座っても良かったように覚えています。山内和弘選手が外野を守っていたと思いますが、それも確かではありません。昔のことです。

なお、ヤクルトの新キャラクターがこの日、発表されました。ヤクルトを背負ったツバメで、「トルクーヤ」というネーミングに決まりました。コメントしづらい名前でした。


2014/06/23(月) 晴れ


[ おっちゃん ]
「おっちゃん」


私には二人の「おっちゃん」がいます。この場合の「おっちゃん」は「ち」にアクセントがあるのではなくて、「お」にあります。父が叔父二人に対して「おっちゃん」と呼ぶのでいつも不思議がっていました。成人して、何かの本の後書きに「男兄弟の一番下の人を、おっちゃんと呼ぶ」とありました。父が言っていたのは「これだ」とわかりました。

大阪の方が、長女を「いとはん」、末娘を「こいさん(こいはん)」と呼ぶのと一緒です。

父は自分の末の弟と、妻の弟に対していつも「おっちゃん」と呼んでいました。その父も晩年になって、母を亡くしてから、自分の娘と一緒に住むことになり、孫に対しては名前で呼んでいましたが、妹に対しては「お母さん」と呼び、私に対しては「お兄ちゃん」と呼んでいました。傍から見たら、その関係性が見えませんね。

妹の初めの子供は女の子でしたが、口が遅くて私の事を「てっくん」と呼んでいました。私が自分に指をさして「おじさん」と教えると「てっくん」と帰ってきます。本人の中では「おじさん」と言っていたのでしょうが、聞こえてくるのは「てっくん」でした。その子も2歳を過ぎることから突然「おじさん」と言えるようになり、「てっくん」と呼んでいたことなど、すっかり忘れています。

その子も二人も娘を持ちました。姪の子供ですから、孫世代に当たります。姪が私の事をおじさんと呼ぶので、当然のことながら私は「おじさん」と呼ばれています。自分からも「おじさんと遊ぼうよ」と誘います。上の子は小学校に上がりましたので、段々と遊んでくれなくなっています。下の子は2歳なので、まだ私は「知らないおじさん」の域を出ていませんが、今少し大きくなって私の事を何と呼ぶのか、楽しみです。



2014/06/22(日) 雨


[ 今年もすだれを作りました。 ]
今年も簾を作りました。


夏本番に向けて今年も簾を作りました。現在の我が家ではまず東から上がる太陽が強いので、玄関に簾を作りました。昨年と同じ場所に昨年使った材料で作りましたが、材料が余ってしまいました。昨年の方がしっかりしたものを作ったみたいです。ともあれ、簾は完成しました。






さて、この所、自分の足が気になっています。足の計測会をしてから、わかったことは右足が左に比べると一回り小さいということでした。それがわかるとこれまでのことが良くわかります。

例えば、普通に靴を履くとして右はすんなり入りますが、左は靴ベラを用いないと踵を踏んでしました。また、今まで買った靴のうち、一番のお気に入りは、なぜか左右のかたちが少し違うものでした。見た目は不恰好でしたが、履くとすんなり足になじみます。その靴は買った時には、底が減ったら、張り替えればよいと言われて買いましたが、作っている所がすでにありません。足に合っているので、捨てることも出来ずにいましたが、その理由も自分の足の大きさに由来するものだと、今回わかりました。

そこでテニスをする時でも、右足の降ろし方や降ろした時の踏ん張り方などに気を付けています。右足も鍛えないといけませんね。



2014/06/18(水) 曇り時々雨


[ 二班の旅行 ]
二班の旅行



中野支部の二班の旅行で群馬県四万温泉へと行ってきました。ここ四万温泉へは一番入口の「やまぐち館」へ来たことがありましたが、今回は一番奥の「たむら」です。

イメージとしては「たむら」は一軒家的なものを持っていましたが、実際に行ってみると、どでかいホテルでした。大衆向けの「グランドホテル」が500人収容。同じ経営の「たむら」が300人収容とのことでしたが、現在では、300人と150人くらいまでしかお客さんを取らないそうです。勿論人が集まらないということもありますが、スタッフの数も年齢の上がった人ばかりで、そのあたりも関係していると思います。若いスタッフの数はガクンと落ちます。

それに夜外出するといってもその行き場がありません。今回も若い人たちは、夜食事に出ましたが、私はマッサージにかかって風呂に入ってというのんびりとした時間を過ごしました。

ここのお風呂は6つあります。川べりに建てられたものが多く、水の音を聞きながらお湯に浸かってきました。6つのお風呂のうち、4つまでは入りましたが、あとの二つは見ただけで入ってきませんでした。

のんびりとした二日間でした。

「たむら」の玄関です。



メインストリートです。「ゆうみん」でラーメンと餃子を食べました。





スマートボール場もありました。昼間は人が入っていました。






オロナミンの看板も残っていました。


緑の中でのんびりするには四万温泉は良い所だと思います。ただ、とりたてて「これ」といったものはありません。以前「やまぐち館」へ訪れたのが15年ないし20年前。まだコンパニオンを呼んでひと騒ぎする元気はありましたが、あれから月日が流れて、そんな贅沢をする人も少なくなってきました。また、その時に相手をしてくれた人たちがそのまま年を取ってこの四万に住み着いているようにも思えました。20歳年を取りました。二日目に入った食事処「ゆうみん」では年取った親父さんが一人で作っていました。前日に売りすぎて、この日の一番に入りましたが、餃子は7人前の注文に対して、4人前で売り切れ。ラーメンも作る時間が半端でなくかかりました。一番大変だったのは私たちの後に入ったお客さん。チャーハンを頼みましたが、出てくるまでに40分はかかったと思います。

ここで見たことは日本の縮図であり、わが業界でもあり、また全国各地にあるシャッター商店街でもあるとも感じてきました。四万温泉も「たむら」が最先端です。しかし、最先端が引っ張るだけでは、全体が引きあがるとは限りません。

今回も昼に着いて、翌日の昼過ぎにバスで帰りましたが、丸24時間いられるような体制を街自体が作らないと、沈む一方だと思いました。

それでもこの日の夜中から朝にかけては、「四万から草津までのマラソン大会(スパトレイル)」があり、宿泊した翌日の朝5時スタート。宿の前を760人の方が駆け抜けていきました。スポットのイベントと、日常亭なウリ。この街にはまだ普通の一日に「何を売りたいのか」がないように思いました。ないからのんびりできたのかもしれませんが・・・

2014/06/16(月) 晴れ


[ 生活保障 ]
生活保障――排除しない社会へ


宮本太郎
岩波新書


目次

はじめに――生活保障とは何か
第1章 断層の広がり、連帯の困難
  1 分断社会の出現
  2 連帯の困難
  3 ポスト新自由主義のビジョン

第2章 日本型生活保障とその解体
  1 日本型生活保障とは何だったか
  2 日本型生活保障の解体
  3 「生きる場」の喪失

第3章 スウエーデン型生活保障のゆくえ
  1 生活保障をめぐる様々な経験
  2 スウエーデンの生活保障
  3 転機のスウエーデン型生活保障

第4章 新しい生活保障とアクティベーション
  1 雇用と社会保障
  2 ベーシックインカムの可能性
  3 アクティベーションへ

第5章 排除しない社会のかたち
  1「交差点型」社会
  2 排除しない社会のガバナンス
  3 社会契約としての生活保障

おわりに――排除しない社会へ
あとがき
参考文献


「生活保障」とは何か。著者は「それは、雇用と社会保障を結びつける言葉である。人々の生活が成り立つためには、一人ひとりが働き続けることが出来て、また何らかのやむを得ず事情で働けなくなった時には、所得が保障され、あるいは再び働くことが出来るような支援を受けられることが必要である。生活保障とは、雇用と社会保障がうまくかみ合って、そのような条件が実現することである。」としている。

終身雇用・年功序列といわれた日本型生活保障社会が解体して、その後にどのような社会のデザインを描くか、それを考えた時に雇用保障と社会保障の関連性はいかなるものなのか、格差を縮めていく社会つくりを目指すための提言や実践例をたくさん掲げている。難しい内容の本である。






2014/06/13(金) 晴れ


[ 消費税ジワリ ]
消費増税ジワリ


消費税が上がってから2か月半が経ちました。初めは大したことないと思っていたこの値上げがジワリと効いてきています。買い物をして消費税額を見たり、自分で売ったものに対して税額を書いてみると考えていたよりも金額が大きいことに気が付きます。

消費増税は私自身は賛成していますが、これ以上あげていくと生活破たんするところがかなりあるのではないかという危惧が出てきています。思ったよりも打撃が大きいように思います。

そのせいかはわかりませんが、最近はどこへ行っても混んでいません。もっとも混んでいる日に出かけていないこともあります。車を走らせていても池袋市場なら、今までは30分かかるとみていたものが、20分から25分で着きます。テニスコートへも今までよりも5分ほど早く着きます。車の数も減っているのでしょうか。

私も収入が減ったので今までよりも使えるお金が減っています。消費税が上がるとすれば、それに対抗するには使わない、ということになります。使うにしても安いところを探すということになります。主婦がスーパーのチラシを片手に自転車を走らせるという感覚がわかるようになりました。

日用品レベルでもそうですし、住宅のような金額の大きなものならば、消費税は重くのしかかるように思います。




2014/06/12(木) 雨


[ 秩父事件 ]
秩父事件


井上幸治
中公新書


目次
まえがき
1  絹と生糸
2  秩父自由党
3  困民党の運動
4  困民党の組織と論理
5  武装蜂起
6  本陣の崩壊
7  山中谷
8  八ヶ岳山麓
9  始末記
参考文献


著者の井上幸治氏は秩父の生まれであります。埼玉から山梨にかけて、あるいは青梅あたりには、井上さんがたくさんいます。私の祖父の祖父は井上文蔵といいます。青梅の生まれです。そして飯能で大野家を継いで後半生を行きました。

さて、この本を初めに読んだのは今から44年ほど前になります。大学の2年生でした。高校生の時に社会科の先生に「明治10年代の国民的運動は?」と聞かれて答えることのできなかった私は、江戸幕府の崩壊から日本が近代国家への道を歩みだそうとしている頃に興味はありましたが、自由民権運動という答えは出てきませんでした。自由民権運動は。国会の開設、憲法の制定、地租の軽減、不平等条約の改定、言論・集会の自由などを掲げた運動で、全国各地で学習熱は高まりました。

そんな思い出のある自由民権運動のラストを飾った事件が「秩父事件」です。1884年の約半年間に起きたこの事件は、日本の軍隊と農民が衝突するというショッキングな一面と、高利貸への打ちこわしの際にはっきりとした規律を持っていたので、非常に特異な事件として当時から考えられていました。実際、事件から百年を経た1984年には、「秩父事件百周年記念事業」が催されて、秩父事件にかかわった家族や子孫の名誉回復がなされました。

その時までは「秩父騒動」とか「秩父暴動」などと言われていましたが、悪いことをした人たちではなかったことを改めて書き記した最初の本がこの井上さんの本になります。

著者の井上幸治さんはフランス革命の研究者として有名な方でしたが、「秩父事件」という自分のふるさとに題材を写して新書をあらわしました。数多くの警察資料やの参加農民の尋問調書から、まとめられたものであり、新書といっても読みごたえはかなりあります。(実際井上氏には、秩父事件に関して秩父事件史料大成や「完本・秩父事件」という分厚い本もあります。)

秩父地方は生糸の生産地として幕末から明治の初めに栄えましたが、明治14年に始まる松方デフレの影響をもろに受け、生糸の生産価格が半減することにより、農民層の没落が始まります。生糸生産を維持するために高利貸から金を借りると、法外な利息を取られ没落のスピードが増します。

そこで高利貸に対して返済の据え置きなどを求めて請願運動を行います。1884年の8月末くらいの事だと書かれています。はじめに中心になった人が27名。それが集会を山の中で開いた時が130人。集会を開いては解散させられるので戦術を転換して、警察署に困民の委任状を持って請願して、裁判に訴えようと考えます。「穏やかに請願するなら、差支えない」という承認を警察から取付けて、小鹿野という町で開いた集会が600人。それでも高利貸は返済の据え置きなどを認めてくれなかったので、高利貸への打ちこわしや証書類の焼き捨てという蜂起に打って出ることにしていきます。

そして11月1日の夜に秩父の椋神社に集まり、蜂起の目的と役割表を発表します。総理、副総理、会計長、甲大隊長、乙大隊長など38人に及ぶ役割を決め、また「私ニ金品ヲ掠奪スルモノハ斬」など5か条の軍律を定めます。この時集まった人数は3000人といわれております。勿論いろいろな村から駆り出されているので、「各村から何人」という割り当てがあり、お金を払って代人を立てたという所もあります。が、悪徳な高利貸しか狙わなかったことや、狙った先の高利貸と話し合って、「借金半減。10年据え置き分割払い」の要求を突き付けて「呑まなかった所」を打ちこわした、などとも書かれています。

主な攻撃の先は高利貸でしたが、警察やその先にある軍隊とも衝突してけが人や死人が出たことも数多くあります。

そして軍隊の鎮圧されてしまいます。11月4日には本陣は解体し、敗走するものや信州へその思想を広げようとするものなど、いくつかのグループに分かれてしまいます。全体としてみればあっけないのですが、この事件に参加した人の意識は高くて、生き残った人は、そのレベルの高さを残しています。農民でありながらも教養のある方が多くいたということでしょうか。それは長年にわたる自由民権運動の成果だったのだと思います。参加者の総勢は1万人を超えるといわれています。事件後の裁判の結果は、重罪296名。軽罪448名。罰金2642名で、その規模の大きさがわかります。

この事件の首謀者7名は死刑判決を受けます。そのうちの一人井上伝蔵は、事件直後から行方をくらまし、欠席裁判で死刑判決を受けました。彼は北海道に渡り、名を変え、大正7年に死の間際、自分が「井上伝蔵」であることを打ち明けます。35年が経っていました。井上伝蔵については、また読む機会があれば、書いてみたいと思います。

今一人落合寅市という方がいます。通称「ハンネッコの寅市」と呼ばれたと書かれています。ハンネッコは秩父の上吉田の地名だと書いてあったのですが、いつも気になっていました。今回読み直すなかで、秩父の地図を見ながら、どのあたりの人たちが参加したのかというのを見ていたら、上吉田に「半根子」という地名がありました。これが「ハンネッコ」なんだとわかりました。漢字でも書いてもらうとすぐに解ったのですが、些細なことですが、長年の疑問が解けてすっきりしています。




2014/06/10(火) 曇り


[ あなたは自分の身体のサイズを知っていますか。 ]
自分の身体のサイズ


あなたは自分の身体のサイズを知っていますか。

私は身長、体重、体脂肪率などは把握しています。従って洋服のサイズや股下などはわかります。若い頃はAB4というサイズで大抵間に合いましたが、今ではそれよりも太めなので、そのあたりを考えて選んでいます。ユニクロならウエスト85センチ股下73センチで、シャツなどはLサイズにしています。上着はMなので、試着は必ずします。

さて、アシックスというメーカーが主催した「足の計測会」というのがあり、行ってきました。もう十年以上前に足の大きさを図りましたが、今回の靴選びはテニスシューズです。以前計測した時よりも機械が進歩しており、立体的に把握してもらいました。その結果、左足の方が長さも幅も、甲の高さも右よりも一回り大きいことがわかりました。自分の足にふさわしいと思われるシューズも手に入れてきました。「右と左を別々に買えないか」「注文して作ると幾らくらいかかるか」なども聞いてきましたが、「テニスシューズでは行っていない」との返事をいただき、とりあえず、それはあきらめてきました。どこかのメーカーで行っていたかと思いますが、次の機会にしたいと思います。

ともあれ、自分の足の特性を掴むことが出来ました。皆さんも自分の身体のサイズを知ってみませんか。段々と歳をとると、身長は縮みがち、また今私は体重を落としているので、胸囲やウエストも小さくなりつつあります。この辺りも頭に入れながら、自分の身体のサイズを維持していきたいと思います。



2014/06/08(日) 雨


[ アナと雪の女王 ]
アナと雪の女王


話題の映画を見に行きました。雨で仕事が延期になったので映画にしました。平日の昼間だったのでかなり空いていました。それでも子供連れやカップル、女性同士など、比較的若い年齢層に交じって、見てきました。

デイズに―映画だったのですね。字幕版しか見つからなかったので、原語を聞きながら、見ましたが、なかなかよく出来ていた映画で、ヒットするのがわかります。主題歌もいいですよね。

「アナと雪の女王」を見てきたと人に言ってしまいそうです。



2014/06/07(土) 雨


[ 坂元裕二朗読劇場 ]
坂元裕二 朗読劇場2014


則子の友人から誘われて青山の草月会館で行われていた「坂元裕二朗読劇場2014」の昼の部を見てきました。午後3時開演なので空席が目立つかな、と思っていましたが、500人ほどの席の大半は埋まっていました。

この日の俳優さんは満島真之介×倉科かなさんで、3時から4時半まで水も飲まずに朗読しておりました。6月3日から5日まで、日替わりで俳優さんが変わるという設定なので、他の方の事はわかりませんが、「まあまあかな」というのが私の印象です。倉科さんの方が声の通りも良く、聞きやすかったですが、大事なところでセリフを読み直すというか、詰まってしまったりしている所が気になりました。

満島さん方は、朗読劇なので、ソファアイスに腰掛けて座ったまま台本を読むというだけなので、長い脚を持て余しているようで、足を組みかえたり、身体の向きを変えたりなど椅子の高さが合わないようで気の毒でした。そのせいもあって声もこもりがちで、声が通らないという感じでした。

さらにそこに輪をかけたのが、私らの後ろにいたおばちゃん。座席から物を落として静寂が崩れました。勿論寝ている方も数多くいて、私の眠かったですが、寝ている人の数を数えて我慢しました。

脚本はなかなか面白く出来ていると思いましたが、それをこなすには俳優さんの力がもう少し高くないとダメかなと感じております。しかしながら、スタッフの予想よりもお客さんは入ったようで、平日の昼間にしては来客数は多いと思いました。これまであまりこのような生の劇を見る機会は少なかったのですが、少しでも多く、見てみたいと思います。私も20代の半ばくらいにTBSの裏のアングラ劇場のようなところで見てから、あとはコマ劇場くらいしか知りませんが、いろんなものを見てみようと思っています。

ともあれ刺激のある1日でした。




2014/06/05(木) 雨


[ 毎日遊んでいていいのだろうか ]
毎日遊んでいていいのだろうか。


表題はテニス仲間の口癖です。今入れてもらっているサークルの一つに定年過ぎていることが有資格者という団体があります。今のところ一番の若手が私の63歳。一番上は74歳になります。メンバーは14人くらいです。そのほかにビジターの方も見えます。週に3回くらいのペースで昼間にテニスをしています。私も特に用事が入っていない限り、参加しています。

仕事をしているときは「仕事の鬼」と言われたが、今では「仕事を呉れと云っても」「仕事がない」と言われ、毎日遊んでいるけれど・・・

毎日遊んでいて、いいのだろうか。

みんなときどきそう思うそうです。

「今年こそは、本当に、一生懸命働くぞ」
今は亡き高田渡氏の歌詞の一節です。その気持ちは私もあります。今までしてきた仕事以外に出来ることは、限られています。働くという気持ちをより掻き立てるもの、感じなくなっています。

仕事もして、遊んで、健康でいる事が一番いいように思います。昼間は気持ちの良いヒマつぶしをして健康的に生きています。



2014/06/04(水) 晴れ時々曇り


[ 厚いですね。 ]
暑いですね


毎日暑いですね。土曜日の昼間に2時間。日曜日の昼間に4時間テニスをしたら、すっかりバテてしまいました。昨日は少しだけ仕事をして、今日は草刈です。疲れが残る感じがあります。良く眠れなくなりました。また水分はしっかり取っているつもりですが、汗となって出ていく部分が多いようで、トイレに行く回数が減っています。

その代り、シャワーを浴びる回数が増えています。今は一日、3回から4回です。そして40度くらいのお湯につかります。それが気持ちの良い時間です。

今年もベランダに野菜を植えました。早くもキューリが出来ました。早くも食卓に上っています。おいしいですよ。






さて、中野区長選挙が始まりました。3人の候補者がいます。現職が強いのかもしれませんが、チェンジも選択肢です。権力は握ると手放したくなくなるものです。自制できる人を選べる仕組みを作りたいです。


2014/06/03(火) 晴れ


( 2014/07 ← 2014/06 → 2014/05 )


[ 管理者:大野満生 ]


- CGI-Island -

Thanks to CGI-StaTion & 手作りCandy