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時々更新mn日記

( 2013/09 ← 2013/08 → 2013/07 )


[ 午前5時40分の風景 ]
午前5時40分の風景


夜といえば、9時ないし10時には寝ています。それというのも日中はテニスで体を動かすことが増えているからです。腕も顔をも焼けています。日焼け止めを塗っているのでそんなには黒くなりませんが、この年になって日焼け止めを使うとは思いませんでした。

昼間動くので、夜はよく眠れます。そのついでに朝も早いです。昨日が5時。今朝は4時45分でした。もう少し眠ろうかと努力しましたが、駄目だったので諦めて時過ぎに起きました。起きてコーヒーを入れてのんびりしていました。朝起きると軽く体操します。脚や膝を伸ばすことが多いです。そしてそれはベランダで行います。犬を散歩する人。新聞を配る人。そしてごみを出す人など。近所の人々は5時40分には動き出します。それを見ながら私も体操を終えます。一日の始まりです。


2013/08/29(木) 晴れ


[ 今年の夜店市は ]
今年の夜店市は


今年の夜店市は、雨が降り始めたこともあって、あまり長い時間参加しませんでしたが、それでもいくつか今年の特徴がつかめました。

ひとつは、例年より出店数が少なくなっていました。川島商店街のお店の数自体が減っているので仕方ないことではありますが、例年なら食べることが出来た「海鮮焼きそば」や「一串寿司」などは今年はありません。お店が無くなってしまったからです。また焼きそばやお好み焼きを買い求めて食べましたが、例年と比べると、味がかなり落ちているともいました。作り手が素人になったからだと思います。

これをわが業界に当てはめると、腕の良い職人がいなくなり、工場生産品を取り付けるだけの流れ作業のなかにいるだけの人が仕事を担当するようになっています。技術を伝えていくことは大変ですが、大事なことだと考えるようになりました。継承よりも変革を重視してきた考え方を少し改めようと思っています。




2013/08/28(水) 晴れ


[ 談志絶唱昭和の歌謡曲 ]
談志絶唱 昭和の歌謡曲


立川談志著
大和書房

目次
まえがき
第一部 歌謡曲は恋愛の応援歌であった
第二部 胸がキュンとなる大歌手との思い出
第三部 「軍歌」から「愛の歌」へ
第四部 消えた日本の青春
第五部 歌と酒でメロメロになる
あとがき



先年亡くなった立川談志師匠の6年前の著作です。
酔うとでてくる歌謡曲の数々。それに加えて、大歌手との思い出が満載。その思い出は、三橋美智也なら、冬の小樽で歌謡ショーが終了した後に、部屋に談志が押しかけて、ひと騒ぎした話。さすが三橋先生。酒は出してくれる。自ら歌ったり、三味線を弾いてくれたり、夜中まで付き合ってくれたそうです。翌日にはレコーディングがあるというのに…

こんな話が春日八郎だったら、「他人の歌を歌うのは下手だった」となり、淡谷のり子さんだったら、「後ろのバックバンドの男たちは、皆関係を持った人たちだったとか、いう話も出てきます。三浦光一と榎本美佐江がトイレで○○、という話も出てきます。

さて談志師匠は幼いころから歌うのが好きで、またレコードを聴いて育ったので、古い歌をよく覚えています。中野の「艶歌」で歌うのが好きで、歌いだすと止まらないそうです。みんな暗記している所が素晴らしいです。昭和の歌は、歌いやすくて歌詞もわかりやすいものでした。その中にワンフレーズとびぬけた歌詞があれば、最高です。

談志師匠の好きな歌は「上海ブルース」「パリの夜」「故郷の話をしよう」です。好きな歌手は田端義夫さん。この方も先ごろ亡くなりました。そして好きな作詞家は横井弘。

特に「哀愁列車」の3番の歌詞がお気に入りだそうです。

泣いてないて 泣いているのを知らぬげに
窓は二人を遠くする
堪えきれずに 見返れば
すがるせつない 瞳(め)のような
星が飛ぶ飛ぶ 哀愁列車

このラストにある「星が飛ぶ飛ぶ」という所が特にいいと書いてあります。

昭和の大天才立川談志師匠の歌謡曲への思い入れを書いた本でした。私も歌謡曲は大好きです。自転車に乗れば歌いだします。




2013/08/27(火) 晴れ


[ 藤圭子 ]
藤圭子


前橋育英の甲子園初優勝とイチローの4000本安打に沸く新聞のそばには、藤圭子の死去のニュースが紙面を飾っていた。飾っていたというのはおかしいと思うが、そちらの方が自分には思い入れが深かった。

1969年に「新宿の女」でデビューした時に、私が大学一年生でした。テレビは持っていなかったので、ラジオから流れるその声に魅了されたのでした。ドスの利いたその声から少し年上の女の方を想像していましたが、実家に帰ってテレビを見た時、そのかわいらしい顔にびっくりしたものでした。顔と声のギャップも彼女の魅力の一つだと思います。

「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」「命預けます」「恋仁義」などをはじめとして、多くのヒット曲を飛ばしました。なかでも「京都から博多まで」は私自身よく歌いました。

私の学生時代と重なる人の一人として、また同じ年生まれの人間としてどんな生き方をしていくのか、どこかで注目していただけに残念な気持ちは残ります。数年前、もっと前になるかもしれませんが、「銀行口座は持っていない」とか「現金しか頼れない」とかいううわさ話を聞いていました。年を取ってくると不安な気持ちは増え続けます。そんな不安の発露だったかと思いますが、なんとなく釈然とはしません。同世代の人がいなくなるのは、寂しいものです。これからはこういう話が増えるのでしょう。仕方ないですが・・・

暗い時代が一つ終わった気もしています。


2013/08/24(土) 晴れ時々曇り


[ ある工務店の社長さんと話していて ]
工務店の社長さんと話していて



ある工務店さんお社長さんと話をしていて、「大工仕事を伴う仕事はひと段落」と言っていました。今は外装工事や屋根工事が中心で、玄関サッシの交換などの仕事もあるということです。仕事は切れることはないけれど、大工仕事を伴う仕事はまず、少ない、さらにそれは儲からないと話してくれました。

私なりに思うことを重ねて言えば、町場の工務店の実力がかなり落ちているということです。大工の高齢化もあるでしょうし、仕事自体をこなしていないこともあるでしょう。今まで技術の継承をうたっていた所でも繋いでくれる人がいないことです。ある程度の年齢の方がいなくなれば、ガクンとレベルが落ちるのだと思います。

そのことは我が材木業界についていえば、たぶん、材木の扱いがわからなくなるということだと思います。今私も細々と材料を売っていますが、ほぼ誰でもできる仕事だけをこなしています。私がやる必要性を感じていません。かといって難しい仕事をこなす実力も無くなっています。仕事は総合力です。

木造建築はより一層「特定の人」に守られていくしか残された道はないのだと思います。


2013/08/23(金) 曇り時々雨


[ 今年も川島夜店市が開かれます。 ]
今年も夜店市が開かれます。


近くの川島商店街の夜店市が、来る8月22日、23日に開かれます。第46回を数えます。今年も盛り上がるでしょうか。平日の川島商店街の人通りは少なくなっています。各店主の高齢化も進みました。あと数年で、がらりと変わってしまうと思います。そういう私も商店街を使う頻度が減っています。

それは一つには、川島商店街の方に行く用事が少なくなったこと。今一つは肉の松本を除いて競合店が増えていること。パンとかバナナとか牛乳といったものを買う場合は安いところを目指すか、ポイントの付くところで買うようになったこと。これを材木店に当てはめると、近くの材木店で買うことよりもホームセンターで買うこと、といった状況と同じでしょうか。

先ほどあげた肉の松本は、音案自体は少し高めですが、肉自体に味があります。牛肉でも豚肉でもそうです。他では味わえないおいしさがあります。オリジナリティーがあればそこそこ売れると思います。

夜店市には行きたいと思っています。




2013/08/20(火) 晴れ


[ お盆の過ごし方 ]

お盆の過ごし方


今年のお盆の過ごし方は、例年と少し違っています。いつもならどこかへ出かける予定を優先していましたが、今年は旅行の予定は8月末に設定したので、お墓詣りに行きましたが、あとは家にいます。といってもテニスの予定はかなりあります。この暑さの中、水分や塩分補給をこまめにとって汗をかいています。

お墓詣りは何時も三か所です。自分の親・祖父の所、嫁さんの実家に母親の実家です。年に一度の顔出しです。大野の方の祖父の兄弟は二人健在ですが、祖母の兄弟はもう誰もいません。父の兄弟も5人のうち残す所2人になりました。母の兄弟も7人の内、3人です。

今年も静岡県富士宮にある母の実家を訪ねましたが、おばさんは年を取りました。従兄弟も定年や還暦になりました。実権も子供世代に移りました。だんだんと隠居に近い人が増えました。孫が出来た所は、その傾向が一層強いと思いました。時代はこうして移ってゆきます。

50年ほど前の子供の頃遊んだ山川は少し形を変えただけで残っていますが、小学生のころにいたお爺さんおばあさんはもういませんし、伯父さんや伯母さんも鬼籍に入る方が増えました。

今年は自分の引退開始にしたせいか、周りもまたそうなっている、と感じて富士宮を後にしました。


2013/08/15(木) 晴れ


[ パノラマ市場 ]
パノラマ市場


甲斐大泉の駅から少し下がった所に「パノラマの湯」があります。ここのお風呂からは富士山が正面に見える所です。そのパノラマの湯の隣にあるのが、「パノラマ市場」です。先週ここに行ってきました。今回はあまり名所などを訪ねることもなく、のんびりするのが目的でしたので、この市場で朝の9時半過ぎから買い物をしてきました。

ナスにキューリ、レタス、ピーマン、玉葱にジャガイモ、カボチャにスイカ。そして桃。6000円くらい買い込みました。お陰でこの一週間、新鮮野菜に果物で潤っています。スイカも桃も当たりました。スイカは甘く、桃は柔らかくて瑞々しいものでした。幸せな気分です。



2013/08/12(月) 晴れ


[ 残暑お見舞い申し上げます。 ]
残暑見舞い


暑いです。特にここ3日間は暑さが厳しいです。来週半ばより夏休みに入りますが、我が家でも夜も朝もクーラーを消す暇がありません。本当に厳しい暑さです。クーラーのない生活は考えられなくなりました。スーパー、図書館などに避難して日が落ちるのを待ちましょう。

来る8月14日より18日まで夏休みです。よろしくお願いいたします。


2013/08/11(日) 晴れ


[ 長崎平和宣言 ]
長崎平和宣言


8月9日は長崎に原爆が落とされた日です。68年前のその日、アメリカの爆撃機が、原子爆弾を落としました。熱戦、熱風、放射線の威力は凄(すさ)まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていた町は一瞬で廃墟となり、24万人市民のうち、15万人は傷つき、そのうち7万4千人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は68年経った今もなお、放射線による白血病やがん発病への不安、そして深い心の傷を抱えています。


こんな風に、田上長崎市長は「長崎平和宣言」を読み揚げました。それに続けて、

今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備印会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に南アフリカなどの提案国は、我が国にも賛同の署名を求めました。しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではないという文言がいけいれられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と世界の誰にも被爆の経験を被爆国をしての原点に反します。

こんな風に話しています。

私は今年、広島の原爆資料館に行きました。40数年ぶりでした。10年ほど前には長崎の原爆資料館へも行ったことがあります。長崎も広島もその資料館は、以前よりきれいに整理されていていました。初めて行った時の私の年齢が若かったせいか、昔の方が、インパクトが強いものでした。それでも、折に触れて、そういう場所を訪れることで、自分の感覚を磨き、人としても感性を鍛え直すことが必要だと思います。

昨年2月のことになりますが、大学時代のサークルのOB会で、長崎で被爆された方の講演がありました。私よりも10歳上くらいの方でした。その方は幸い、発病されておりませんが、爆心地から2キロくらいの所で被爆され、当時4、5歳の子供でしたから、10メートルくらい飛ばされたそうです。さらに、親戚の家を訪ねるために爆心地を通って行ったことが、あとから分かったとも話されました。

被爆者で作られている集まり、(団体名は失念しました)で活躍されているとのことでした。

また、大学時代の仲間には、被爆であることは伏せていた、と話されましたが、「みんな知っていた」そうです。知っていて、普通に付き合ってくれたそうです。

そんな講演を聞いていたら、私の一年下の方が、突然、祖母が広島で被爆した話をし始めました。そういえばA君は広島市の北の方だった、と思い出しましたが、身近にそういう人がいると、関心が深まります。

さて、今福島では、東京電力福島第一原子力発電所の事故が収束せず、放射能の被害は拡大しています。この福島にも建築労働者だった小学校の同級生が働いています。地震後すぐの3月15日に招集がかかり、もう二年半行っています。土、日には帰ってきているようですが、初めの仕事は自衛隊の重機が入れるように道を片付ける所から、始めたそうです。最近の仕事が楽になったみたいですが、あまり行きたくないので、「もうやめようか」と言っています。被爆していなければいいのですが・・・

8月は、日本人が平和をそして戦争の悲惨さを考える月でもあります。



2013/08/10(土) 晴れ


[ あなたはいくらくらいの現金を見たことがありますか。 ]
あなたはどれくらいの現金を見たことがありますか。


商売をしていると、お金を払わない方も多いですが、その反対に払いの良い方がいます。そういう人たちに支えられて、今まで何とか生きてこられました。

あなたはどれくらいの現金を見たことがありますか。

私の経験では、648万円が最高だと思います。これは55歳で満期になった簡易保険が利息も入れてこれくらいの金額になりました。郵便局の職員の方が現金で持ってきてくれたので、すぐさま、妻についてきてもらって銀行に預けました。小切手で1千万円とか、800万円はありますが、現金は迫力があります。

現金の迫力については、思い出すことがあります。

もう45年以上前になりますが、多摩地区にいた大地主さんがわが社から材木を買ってくれた時期がありました。水道屋さん経由で、うちの近くの大工さんが仕事を請負ました。およそ15年間買っていただきました。その方の仕事は、その大半が、自分の土地にアパートを建てるというものでした。アパートを建てる時には、一度に大抵2棟ないし4棟ほどたててくれました。30棟くらいは建てていただいたと思います。

また、千葉県の上総一宮に別荘を数棟建てました。初めて別荘を建てた時には、私はまだ高校生だったと思います。夕方4時ごろから一宮に向けて父が運転し、配達に行き、建前材を降ろしてきました。降ろす場所に懐中電灯を二つ当てていたのが、私の仕事でした。夜の十時ごろに帰ってきました。

この時の仕事のお金が同かは定かではありませんが、父も母も留守の時に、この方が、お金を持ってきてくれました。夏休みだったのでしょうか。まだ高校生でしたが、「早く領収書を書け」といわれました。そこで見たお金は札束三つ。300万円でした。大学卒の初任給が3万円あるかないかの時代でした。父と母は、留守にしていた非礼を、その方に電話していました。

その方は脳こうそくで倒れ、69歳で亡くなりますが、亡くなった後にわかったことがあります。

別荘を建てた隣の家とか、自宅から西武線を挟んで反対側に建てた所などの名義が、「2号さん」や「3号さん」でした。後を引き継いだ、長男の方が、お線香をあげに行った際にそれとなく教えてくれました。



2013/08/09(金) 晴れ


[ 家に勝る処なし しかし ]
家に勝る処なし しかし


7月4日、5日で小旅行に行ってきました。退職後、個人営業になってからは時間を持て余すことも多く、またドライブにも行かなくなっていたので、運転も定期的に行った方が良いと思い立ち、行きました。当初は、軽井沢ないし、別所温泉あたりを考えていましたが、久しぶりの運転なので、行きなれた清里にしました。ペンションもいつものいろり」でのんびりしました。キッズメドウズ、清泉寮、パノラマ市場に「パノラマの湯」。とりたてて変わった所はありません。

午後7時からの食事を終えると、8時には就寝。翌日も8時の朝食までゆっくりしていました。

いつもならこの後、清里見学ないし、小淵沢あたりで遊んでくるのですが、今回は、甲府に戻って、「ほったらかし温泉」に行こうと思っていました。もう10年くらい来ていないと思いますが、笛吹川沿いにあるフルーツ公園を通り抜けた所にある温泉です。

実際に着いてみると、眼下に広がる景色は、素晴らしいものがあります。それがここのウリです。あまり人が来ない所でしたが、道は整備され、マイクロバスなら十分通れるくらいになっていました。500円だった入場料金も700円に上がっていました。仮設のプレハブで作った「お休み処」が5K×10Kの木造の建物が2つに変貌していました。「盛っている」のがよくわかります。夏場も冬場も朝一番の日の出を拝むコースもありました。

さて、とはいうものの全体を通して考えると、ペンションのベッドは我が家のものよりも小さく、トイレも狭くしかも近づいても蓋が自動で開かないなど、欠点が目立ちます。食べるものが出てくるのはうれしいのですが、ゆっくり眠れたかというと、ノオです。

家にいるのが一番になっています。それでも変化を求めて旅に出ます。



雪のない、夏場に来るのは久しぶりです。キズメドウズです



写真では、ユリ園があるそうですが、実際には・・・



この緩斜面のリフトの下には、3年前までユリ園があったそうです。
この緩斜面は滑りました。スキーで上から滑ってくるのは楽でしたが、歩いて登ってみるると、かなり急です。



所を変えて「ほったらかし温泉」です。
この十年ですっかりメジャーになりました。


今日は曇り空。従って富士山は見えません。「あっちの湯」で甲府の街を見下ろしてきました。




2013/08/07(水) 晴れ


[ 在りし日の小川さんを偲ぶ ]
在りし日の小川さんを偲ぶ


世田谷の材木店の社長である小川博さんがさる7月27日に72歳でお亡くなりになりました。小川さんは気さくな方で、新東京木材の理事ならびに常務として長年組合で活躍された方です。組合のお偉いさんとしては、威張ることもなく、まともな方でした。

私が小川さんに初めてお会いしたのは、私が40歳、小川さんが50歳の頃だったと思います。新東京昭和会の研修旅行で、天竜のプレカット工場を見に行った時でした。小川さんは当時昭和会の会長さんでした。研修旅行では、バスの一番前の席で、酔っぱらいながら行く先々の工場案内をしていました。天竜市あたりの製材工場はどこに何があるのかよく知っているようで、次々と工場の名前をあげていました。


次に、話をしたのがそれから十年を経たころでした。東京木材ネットワークのお祭りで、アースデイだったかと思いますが、代々木公園でのイベントの後の飲み会で、一緒に会場まで歩きながら話をしました。中身は忘れましたが、にこにこしていて、人懐っこそうに話をしたのを覚えています。

それからしばらくして、横田さんや小川さんが中心になって、テニスをしているのを聞いたので、私も参加させてもらうことにしました。まだ私は始めたばかりでした。家内と二人で、世田谷の大蔵でテニスをしては、すぐ近くにある焼き肉店で3時間くらい食べるという、テニスが二時間でしたから、テニスをしに来たのか、焼き肉に来たのかわからないような会でした。

焼き肉を焼いていて「ミノ」を焼いていれば、「山吹の・・・」と太田道灌の歌を口ずさみ、「みの一つだに、なきぞかなしき」と続けるのでした。教養人でした。

テニス合宿も私が参加させていただいたのは、軽井沢が2回、伊豆稲取が1回、そして昨年9月に秩父で行われた、たぶん4回だと思います。昨年9月の合宿では、お酒を飲み過ぎて、足を足られるくらい酔っぱらってしまったので、「小川さんも、お酒が弱くなられた」という印象でしたが、それでもテニスをすれば、相手の力を利用して、ライジングで打ち返す技は優れたものでした。

また、理事会でご一緒した2年間では、私の質問に対して、私の質問自体が優れていたかどうかはわかりませんが、フォローしていただきました。理事会終了後も肯定的な意見をいただきました。

人を否定するようなことを言われる方ではなかったので、包容力があったのでしょう。いつもにこにこして、はにかんでいる姿しか浮かびません。

昨年9月のテニス以来、お顔を拝見した記憶がなく、今回の訃報に接し、ただただ残念の一言です。もっといろいろと聞いておけばよかったことも残っていますが、今はご冥福をお祈りするだけです。

最後に、世田谷の厚生年金施設のテニスコートと秩父の写真を掲げて、在りし日の小川さんを偲びたいと思います。


2008年5月


2012年9月
いずれも前列左が小川さん
2013/08/03(土) 晴れ


( 2013/09 ← 2013/08 → 2013/07 )


[ 管理者:大野満生 ]


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