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時々更新mn日記

( 2013/08 ← 2013/07 → 2013/06 )


[ 野球観戦 ]
野球観戦


7月30日には、東京ドームで野球の観戦をしてきました。

新東京木材商業協同組合の中野支部第2班の会合は、今回は東京ドームへの野球観戦になりました。昨年は4、5回見に来たと思いますが、今年は初めてです。座席もバックネット裏の良いところを選んでいただきましたので、楽しめました。試合は、4対1で、ジャイアンツの勝ち。相手のヤクルトの選手の名前が知らない人ばかりになっていました。世代交代を感じますね。

さて、今日の日刊木材新聞には、新理事長である内田鉄夫氏の抱負が載っていました。それによると、「組合事業のかなめである木材・建材販売の売り上げ増を目指した利便性の向上と、再開発が決定している中野市場の移転に関して意欲を示す」としています。

現在木材・建材販売は、池袋、中野、川崎と三つの場所を拠点にしていますが、将来的には、池袋と、中野と川崎を統合した新たな拠点、地の利に優れた場所を新たに設けるという構想を示しました。

新東京木材は単価は安くないですが、便利なところにある仕入先ですので、うまくいくといいですね。



2013/07/31(水) 晴れ時々曇り


[ 60歳から家を建てる ]
六十歳から家を建てる


天野彰
新潮社

目次
序章   なぜ六十歳で家を建てるのか
第一章  決断すると見えてくる現実のいろいろ
第二章  マンション、二世帯住宅、田舎暮らしの落とし穴
第三章  実例、六一歳からの家
第四章  資金工夫のあれこれ
第五章  美しく老いるための家
あとがき



60歳から家を建てるとは、魅力的な題名です。実際退職して、自由に使えるお金が少なくなってくると、住まいのような大金がかかることは避けたい気もします。が、これが出来るということは、人生がより豊かになるということです。

そんな住まいを60歳から建てた方々の実例を紹介しながら、話を進めていきます。著者は設計士ですので、打ち合わせで、それぞれの家族から話を聞けるので、実例集が面白いです。

夫婦二人の生活では、寝室は同じ部屋ではなくて隣同士に。それの行き来ができるものや建具一枚で仕切るものなど。だんだんと個々の要求を活かしながら、住まいを作っていきます。

住まいを作るための資金として、60坪くらいの広い土地であれば、「半分売って、住まいを建てる」「家を後ろ側に曳いて駐車スペースを作り、そこを貸す」「自販機を置く」「アパート併用住宅を作る」などをあげています。さらにその中で作る住宅は、「吹き抜けを作る」「高床式にする」などあとから改造しやすいことに注意を向けています。

天野さんは、初めて住まいを作った時に、コンクリートの打ちっぱなしを選びました。その結果、奥さんの健康を損ねたという経験を持っています。そのため、住まいには、自然の素材を活かして使うことに熱意を持っておられます。60歳を超えた住まいには、自然素材を用いることを私もお勧めいたします。

60歳から住まいを作ると、若返るそうです。そうありたいです。




2013/07/30(火) 曇り


[ 服部之総から学んだこと ]
服部之総から学んだこと。



服部之総さんは歴史家です。戦時中の一時期、花王石鹸の社長を務めたことがあります。が、在野の歴史家です。明治維新期の研究者です。

この方から学んだのは、歴史を勉強する場合、詳細な年表を作ること、というものです、例えば、A、B、C、D、Eという事件があったとしています。これが一応今まで言われていた年代順だとすると、前に起きた事件が後に影響したことになります。しかし、D、Eの年代が、実は時代が「後先」だったとします。そうすると、D事件の影響でE事件が起こったのではなく、その反対だと考えるのが自然です。

人間の記憶は時々「うそをつく」ので、起きたことを時代順に並べることで、その事件に至る経緯や、評価が出来るというものです。

これに絡めていうと、「自伝は嘘が多い」ということも書いていました。福沢諭吉という方の自伝にも、自分に不都合なことは嘘を書いていると書いてありました。自分をよく見せようとするので、嘘が混じるのでしょう。

あとは自伝はどうしても自慢話が多くなるので、これを見極めて自伝は読みなさいと書いてありました。自伝を読む際にどれほどできているかは、わかりませんが、気を付けています。

また、都合の悪いことは、人のせいにして逃れる人もいるので、そのあたりも誰が初めに行ったことか、次に続いたのは誰か、などやはり順番を押さえることが物事を理解するのに大切だと書いてありました。

歴史は原因があって結果を生じるもので、その反対ではないことを教わりました。


2013/07/27(土) 曇り時々雨


[ 友人の母親が ]
友人の母親が


友人の母親が、ケア付きの介護老人ホームに入る予定で、いくつかその場所をあたっているうちに体調不良で入院することになりました。年齢も87歳と聞いていますが、どんどん悪い方にいっているとのことです。医者からは「胃瘻」を勧められたそうですが、「母親に胃瘻は勧めないのが、最後の親孝行だ」といっていました。胃瘻を勧められるくらいですから、食べられないようです。

私もその話を聞いて、「胃瘻はやめた方が良い」と話しました。身近な人が胃瘻にしたために9年半ほど生き続けました。最初の二年ほどは意識もあり、私の顔もわかったようですが、それからあとは、命があるといえばそうですが、本人にも周りにも良い結果をもたらしたとは言えないと思っています。

私自身がそうなった場合は、胃瘻は望みません。

ここで思い出すのは、私の父は、担当医が「明日から経管栄養にしようかと考えている」と本人と私ら二人を目の前にして語りました。午前中の検診の時でした。その日の午後10時過ぎに息を引き取りました。

「よっぽど、経管栄養が嫌だったんだね」と二人で話しています。私も望みません。親子は似たもので、臆病です。


2013/07/26(金) 曇り時々雨


[ 14歳からの哲学 ]
14歳からの社会学



宮台真司
世界文化社

目次
まえがき
1  自分と他人
2  社会とルール
3  こころとからだ
4  理想と現実
5  本物とニセモノ
6  生と死
7  自由への挑戦
8  BOOK&MOVIEガイド
あとがき
用語集



14歳は多感な時期です。これからの将来に対する不安もあれば、肉体的には大人になります。社会とのつながりも意識するようになります。学校での勉強には、ある程度正解がありますが、社会に出てから起こることには、必ずしも正解があるわけではありません。どちらの道を選んでも大差がないかもしれません。それでもより正解に近いものを求めて、自分なりの考えを進めていきます。そんな年齢の方が対象の社会学者が書いた本です。

第4章で「本物とニセモノ」という題がありましたが、この中に「感染動機」という用語が出てきます。ラストのある用語集には「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思うこと、と書いてあります。若いころは人からの影響がストレートです。良くも悪くもストレートです。感染して、そういう人になりたいと思うことで、より自分を磨いていきます。

私が影響を受けた人は、列記すれば、赤木圭一郎、石原裕次郎、五木寛之、岡潔、羽仁五郎、服部之総、江口朴郎、武谷三男、中井正一、などでしょうか。高倉健や渡哲也の写真集も持っていますので、このあたりの影響も大きいです。映画館から出てくると主人公になりきっていたりします。その方々の著作物を読めば、おうむ返しに人に話したりしていました。


さて、人間は社会的な存在です。人は社会を離れて生きていけません。誰かが作ってくれた米やパンを食べ、ユニクロの服を着ています。大工さんが手を入れた住まいに快適に住んでいます。自給自足などはあり得ません。みんな人の手を通したものを使わせていただいて、生活が成り立っています。年をとればとるほど、自分だけでいる事は難しく、人に力を借ります。ということはこちらからも手助けをしなければなりません。そうしないと助け合いになりません。

私の仕事で云えば、職人さん同士は、「人の貸し借り」をします。上棟時に人手が足りなければ、「仲間」から借りてきます。その反対に借りた所が忙しければ、自分が手伝いに行きます。そうして仲間が成り立っています。そうして社会が成り立っています。あまりずるして生きても良い結果は生まれないと思います。

良い結果を生み出すために日々努力です。努力した挙句、良い結果を生み出せないのは、仕方がないものです。それは恋愛と同じです。

14歳からの社会学は、62歳にも当てはまります。





2013/07/25(木) 曇り時々雨


[ ああ りんどうの花咲けど ]
ああ りんどうの花咲けど



先日といっても6月の30日のことですが、小学校のミニクラス会がありました。二次会はカラオケ店へ。色々な歌を歌ってきましたが、途中で私は
舟木一夫の「ああ、りんどうの花咲けど」を入れて歌いましたが、同級生のだれもが「知らない」といわれてしまいました。

そこそこ売れた歌だと思っていたので、自信を持って入れたのですが、誰も知りません。従って自分だけで歌いましたが、同じ年でもその時何に関心を持っていたかで、「知る、知らない」ということを改めて感じました。

その時は、「学生時代」や「仲間たち」を〆の歌にしました。



2013/07/24(水) 曇り時々雨


[ 半年ぶりに墓参り ]
半年ぶりに墓参り


この所時間は有り余っているのに仕事は進まないという傾向にあります。「急ぎの仕事は忙しい人に頼め」とは、いい格言です。暇を持て余すと、何事もいい加減になっていきます。

そこで、半年ぶりでしたが、7月21日、小平にある先祖のお墓に行って、掃除をしてきました。

つげの木や満天星つつじも一回り大きくなってしまいました。昨年の夏には一度かなり摘めて小さくしたつもりでしたが、一年間でかなり伸びました。植物の力は偉大です。一昨年までは、お墓の後ろに大きな松の木がありました。この松の木のおかげで、日当たりは丁度良いくらいでしたが、この松が切られてしまいました。松ぼっくりは落ちることが無くなくなりましたが、日当たりはまともです。木々の葉っぱは日当たりが良すぎて、赤茶けていました。

今年は特に急に暑くなったので、この傾向が一段と強いです。急な暑さに植物も耐えています。


2013/07/23(火) 晴れ


[ 今の事務所は ]
今の事務所は



駐車場を直してボード置き場にいていた場所を材料置き場にしています。木材は横置き、建材は立てかけています。その一角に事務所を作ってあります。ストッカーの上に杉の板材を置いただけの簡易な事務所ですが、結構便利です。
難点は、エアコンとトイレがないことです。トイレは近くの公園まで行きます。エアコンはありませんが、この場所にいる時間も限られているので、今のところあまり気になりません。

といってもさすがに35度を超えた時には、閉め切っていると「むっと」するので、出入り口を開けて風を通しましたが、それでも外気温が高いとちょっと勘弁です。また寒い時期も耐えられないと思うので、この事務所にいる時間は限られます。
ただ、ここにいると一人で好きなことが出来るので、とてもリラックスします。男にはこういう場所が必要です。と思います。

さて、参議院選挙が終わりました。大したサプライズもなく、自民党の圧勝でした。これから三年間は選挙がないでしょうから、この体制で行くのでしょうが、弱い者いじめにならないようにしてほしいものです。

今日もそこそこ暑く成りそうですが、テニスの予定も入っていますので、少し体を動かして、肌を焼いてきます。


2013/07/22(月) 晴れ


[ 中野支部の納涼会が開かれました。 ]
中野支部主催の納涼会が開かれました。


さる7月19日には、中野支部主催の納涼会が中野駅南口「三河屋」で開かれました。中野十四日会の方にも声をかけて、総勢22名の参加となりました。
普段、支部主催の総会や新年会でも15名を超えることは少なくなってきたので、人がたくさん集まるとそれだけで力になります。人が集まれば、話が弾みます。20人もいると話が出来なかった人も出ますが、元気な顔を見るだけでも力をもらえます。

私にとっては、たぶん一年半ぶりに窪寺さんに会えたことは収穫でした。普段はフェイスブック上でしか話をしていませんでしたが、久しぶりに生の顔と声を聞きました。

窪寺さんで思い出すのは、一番目には、十四日会を作った方だということです。彼が中野中の材木屋さんを回って、下準備をして十四日会を作ってくれました。十数人を集めたのは、彼の力です。

また、窪寺さんがなんで二代目会長になったのか、覚えている方も少なくなりました。二代目の会長さんは、当時の役員方との話で、別の方が受けてくれるはずでした。みんなのいる前で決めたので、私も大丈夫だと思っていましたが、数日後、人から「おら、知らねー」といううわさを聞きました。

そこで今一度拡大役員会を7名で開いて、話をした結果、窪寺さんに受けていただきました。窪寺さんは私にとっては恩人です。

その時断った方は、その後も、ことあるごとに主張をころころ変える人でした。自分の都合だけで動いている方なので、自分の主張が通った時には、いいのですが、通らなかった時には、理不尽なことを平気でして来ます。

「俺がいないときに決めて旅行は無効だ」とか「来月は誕生日だから、その日の会合は避けてくれ」など、みんなのいる前で決めても平気で壊しに来ます。この手の話は尽きません。

一言いうことで、人が傷つくということはわからないようです。逆に言われるとキレてしまいます。かわいそうな生い立ちですが、もうそろそろ大人になってもいいのではないかと思います。そうでないと死んだ親がかわいそうです。

話が脱線しましたが、窪寺さんは盟友です。あまり仕事をし過ぎて、身体を壊さないように過ごしていただきたいと思います。昨日もウーロン茶で過ごしていましたが、それくらいがいいです。暑い夏なので、水分と休養は十分にとりましょう。




2013/07/20(土) 晴れ時々曇り


[ 日よけを作る ]
日よけを作る



今年の夏は暑いので、数か所に日よけを作りました。特に朝方の日差しが強いので東側には念入りにしました。おかげで、日差しは弱まり、涼しい風が窓から入ってきます。ちょっとした工夫で夏を乗り切ることが出来そうです。




2013/07/19(金) 曇り時々雨


[ フルコースはいらない ]
フルコースはいらない


この所、定期的に外食することが増えています。どこへ行っても量が食べられなくなっています。フルコースがいらなくなりました。頑張って食べてしまうこともありますが、そうすると後がいけません。おなかが一杯のままで、朝まで消化しきれないでいます。発する言葉は「おなかが苦しい」です。

だんだんと年寄りらしくしていかなくてはいけません。食べることも良くわきまえていただかないといけません。一品ないし二品少ないくらいで、慣れていきましょう。



2013/07/18(木) 曇り時々雨


[ 自走する力 ]
自走する力


田原洋樹著
アートビレッジ社

目次
プロローグ 40歳定年制の時代がやってくる
ショートストーリー
STEP1 現実を把握する
STEP2 ありたい姿を考える
ショートストーリー
STEP3 課題を整理する
STEP4 こだわりを持つ
ショートストーリー
STEP5 ありたい姿へ向けて走りはじめる
ショートストーリー
エピローグ 人生を二度楽しめる時代
オプション あなたの自走パターンをチェックしよう


前著に続いて、著者二冊目の本です。二冊書くことが出来ると次から次へとアイディアが浮かんでくるのでこれからもたくさん書くことが出来るのではないかと読みながら思いました。

さて、目次にあるように終身雇用が必ずしも多数派で無くなっている時代では、転職することは普通のことになります。私には子供いませんが、二人の甥はいずれも転職を経験しています。転職して良くなっていくのかどうかは、本人次第ですが、そのもとになる考え方を身に着ける上では、本書は役に立つのではないかと思いました。

前著=「一年目から結果を出し続ける営業マネージャーが必ずやるべきこと」と比べると、肩の力が抜けて少し自然体になっているかと思います。それは田原総一朗氏との関係などに表れていると思います。著者の普段の仕事から生まれた自信が蓄えられつつあるのだと思います。

本文の間に入ってくる「コラム」と「ショートストーリィー」ンバランスも悪くないと思います。

その中で一つだけ気になったことがあります。ほんの些細なことなのですが、書いてみます。64ページにショートストーリィーの主役である、山田希望さんが森商事を訪ねる場面です。その森商事の二代目社長さんのお名前が「森二郎」となっていました。

ここを読んで、私はこんな風に感じました。二郎さんというお名前は、次男につける名前ですね。そうするとお兄さんがいて、例えばお名前は「太郎さん」とか「総一郎」さんとかいう感じでしょうか。この方は会社を継がなかったのだと。だから二代目社長はしっかりした次男なんだと。こんな読みで良かったのでしょうか。それとも・・・

私には最後のオプションで自走するパターンを4つに分け、それぞれ歴史上の人物になぞらえて区分けしてあるところがいまひとつピンときませんでした。歴史上の人物は前半生がわからない方が多く、また一般的に言われているイメージでしか把握できないので、それが本当だったか、わからないからです。その意味では、この4人の方の生き方をこれから勉強されるのが良いと思います。

織田信長も「尾張のたわけもの」といわれていましたが、斉藤道三との初対面の折には、有職故実に則った作法で対面を果たしました。これなどは普段から行っていなければできないことです。たぶん一通りのことは習得していたのでしょう。日本人は突然変身してヒーローが生まれるのを好みますが、(もちろん私も)実際にはその裏に不断の努力はあるのだと思います。

さて、田原氏の二冊目も快調だと思います。40代から50代は人生で一番男の力が発揮できる時です。ともすると周りの方が「何でも言うことを聞いてくれる時期」でもあります。楽しいですよ。ただし、それに溺れないようにしたいものです。私は一時期溺れました。

これからの活躍を期待します。




2013/07/12(金) 晴れ


[ 暑い ]
雷雨あり。エアコン入れる。そして真夏日。



雷雨が続いています。夜の外でのテニスは雷も手伝いお休みです。
ついにエアコンを入れました。入れないと眠れません。早くもエアコンが必要になってしまいました。

それにしても暑いです。昼間に働くだけでも熱中症になりそうです。仕事をしているときでも、朝起きてから、二時間ごとにシャワーを浴びていたことを思い出します。また、昼の時間帯をできるだけ長くとって、昼寝もしていました。仕事を朝の早い時間帯ないし、夕方にしていました。圧倒的に朝の方が楽でしたが・・・

真夏日が続いています。午前中には窓を開けて風を通し、東側の窓には日よけを作りました。エアコンは午後から入れるようにしています。四方に窓がある住まいなので、風は通るのですが、風のやんだ状態の時も増えています。さらに風があっても暑いです。

ここまでで四日かかりました。それくらい暑いです。
もうそろそろ午後の4時半です。一日が終了していきます。今日も大した仕事はしませんでしたが、風呂に入って一杯やります。

2013/07/11(木) 晴れ


[ 暑いです。七夕です。 ]
暑いです。七夕です。


梅雨明けした途端に暑いです。35度を超えました。
我が家でも扇風機を使い始めました。また、窓の外側に日よけを作りました。
窓を開ければ風が入ってきますが、なま暖かい風です。
これから10日間は暑い日が続くので、体を慣らさないといけません。
水分をこまめにとって、休憩も十分にとりましょう。
午後から3時くらいまでのテニスはやめましょう。特に年寄りにとっては、身体に悪いです。快適な環境で行うようにしましょう。

というわけで、日曜日は一日中家にいました。水を飲んで、シャワーを浴び、寝転がっていました。

夕方からは雷が鳴って、夕立です。彦星と織姫さんはもう来年に向けて離れ離れになったのでしょうか。中野区は雷注意報発令中です。


2013/07/07(日) 雷


[ 飛鳥学講演会 ]
飛鳥学講演

古都飛鳥保存財団主催の飛鳥学講演会がさる6月30日に有楽町の「よみうりホール」で開かれました。前もって申し込んでいたので、参加してきました。

講演の内容は発掘報告として、相原嘉之氏の「飛鳥寺西の歴史的変遷」と飛鳥学講演として加来耕三氏の「飛鳥と聖徳太子」という題名で行われました。


まず初めに主催者である明日香村村長の森川さんがあいさつに立ち、飛鳥の魅力について語りました。
第一には、飛鳥は日本の国の始まり・誕生地である、ということです。日本の誕生が西暦700年前後だとすると、間違いなくこの地は日本国の誕生の中心地であると思います。
第2には、古墳時代から後の日本文化が残っている場所であると話されました。
続いて、これが第3になるのでしょうが、景観の良さを揚げておられました。人間と自然が共有している空間が今なお残っていることを揚げました。
これをこれからも残すために協力をお願いして、ご挨拶は終了しました。

続いて、相原氏の報告は、飛鳥寺の西側の発掘調査の成果を話されました。この場所で一番有名なのは、乙巳の変(私のが習った頃は大化の改新といった)の発端となった「蹴鞠のできる空間」=槻樹の広場があった所とされています。平成20年から始まった発掘で、この場所が特定できれば、日本書紀の記述は正しかったことになります。しかしながら今回の発掘では、それらしきものは出てこなかったと話されました。

ただし、この地域は斉明朝には、石敷広場になっているので、壬申の乱の折には、近江軍の軍営地として使われ、天武朝には、夷狄の饗宴空間として使われたとする日本書紀の記述を裏付けるものとなったとした。

続いて行われた加来耕三氏の講演は二時間にわたる熱弁で、加来氏が従来行っている講演にプラスして表題にある「飛鳥と聖徳太子」に絡めて話をされました。現在歴史の教科書では聖徳太子という名は消えていることから初めて、その廐戸王の政治について語られた。このあたりの中身についてはあまり面白くありませんでした。

面白かったのは加来氏はNHKの大河ドラマの時代考証を依頼されてその仕事に携わっていてことがあるそうで、その番組の時代考証のいい加減さに関して、でした。例えば、「江(ごう)」では、原稿用紙にして200次位しかわかっていない方を主人公にしたドラマアは時代考証のしようのないことや「篤姫」では、小松帯刀との恋愛ドラマに仕立てた作家との話では、接点のない二人は「どこかですれ違ったかもしれない」ということにしてドラマつくりを始めたことなど面白おかしく話されました。

極めつけは、坂本龍馬でしょうか。
龍馬を有名にしたのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」ですが、この中に描かれているのはあくまでも司馬遼太郎の小説の主人公としてのそれです。司馬氏は龍馬ではなく略字の竜馬を使い、小説の中の世界を構築しました。それが龍馬を有名にしていき、虚像が出来ました。加来氏は龍馬が剣術使いとして有能でなかったことや、むしろ当時の最先端の学問を身に着けようと佐久間象山の弟子として、山本覚馬(八重の桜のお兄さん役)と同じ日に入門したことを揚げていました。

NHKの大河ドラマは嘘が多い、というのがよくわかった講演会でした。






2013/07/06(土) 晴れ


[ 足置き ]
足置き


我が家の玄関は、部屋に比べると広いので、新聞の集金の方が来られた時など、玄関の扉を開けるのに靴を履くか、サンダルに足を置いて開けていました。そこで、今回、米ヒバの残り材を60センチほどの長さに切って2枚置いてみました。

靴下を汚さないで扉を開けられるのとともに、板の上に足を置くと、ほのかに米ヒバの香りがします。木材を使うと生活が少しばかり変わります。




2013/07/04(木) 曇り


[ 津和野の街 ]
津和野の街


今回初めて訪れた所のうちの一つは島根県の津和野です。山陰の小京都と呼ばれています。落ち着いた街並みでした。


殿町あたりです。電線がなくて広々としています。



川には鯉が泳いでいます。丸々と太っているのが特徴です。


鷺舞。良く火曜サスペンスなどで「萩・津和野連続殺人事件」などという題名では、この鷺舞と隣にある太鼓谷稲成神社が出てきます。太鼓谷稲成神社には行けませんでした。


津和野といえば、森鴎外。「余ハ石見人森 林太郎トシテ死セント欲ス」はあまりにも有名です。山陰中央新報は私の友人が務めている新聞社です。


古い建物を利用して、その中には役所があります。いいですね。


街中を歩いていると、旅館がありました。建物に風情があります。


最近の名物は「津和野アイスです。

2013/07/03(水) 晴れ時々曇り


[ 我が家の床板あれこれ ]
我が家の床板あれこれ



一般的に床材には、建材メーカーのフロアーが使われます。個人の大工さんだとやや高級感のあるフロアーを使ってくれますが、会社関係のそれは、安価なものを使う傾向が多いようです。さらに木質系のフロアーを使わずに、クッションフロアーやカーペットなども用います。我が家のトイレはクッションフロアーです。

さて、寝室と次の間には、厚み30ミリの杉材を床に使っています。





上の写真が30ミリの床板で下のものが15ミリになります。何となくでも上のほうに深みを感じると思いませんか。


廊下とリビングには、15ミリ厚の同じく杉材です。圧密加工したものを使いましたので、本来の杉材の床板とは少し違うかもしれませんが、それでも本物なのです。両者を比較すると、30ミリのものには、深みが感じられます。伊達に厚くはありません。奥行きを感じることが出来ます。自分自身も15ミリよりも30ミリ厚のものに魅力を感じます。


洗面所にはチークの15ミリ厚の床板が張ってあります。表面が固いので、多少水をこぼしても浸透していきません。


また、クローゼットには、青森ヒバを使っています。青森ヒバは虫を寄せ付けない香りの強さがあるといいます。クローゼットの中に入ると青森ヒバの香りがほんのりして、鼻から吸った香りが脳内に入っていく木がします。クボデラ(有)で買い求めたものです。

我が家の床板はこれですべてです。何せ小さな住まいなのでこれですべてです。



2013/07/02(火) 晴れ時々曇り


[ 屋根瓦あれこれ ]
屋根瓦



中国地方への旅行で、浜田という町が屋根瓦の街であることを知りました。石州瓦です。焼き上げの温度が高いので、凍害に強いとガイドさんが話してくれました。バスの中からでしたが、赤い屋根瓦を中心に高級そうな瓦屋根のお宅が軒を連ねていました。あいにく写真を撮り忘れました。また屋根のかわらや鬼瓦なども撮ったのですが、こちらに戻ってきてから見ると映っていない所が多々ありました。出雲大社の新しくした檜皮葺の屋根だとか、柱の根継ぎの写真だとかが写っていませんでした。また厳島神社でも鳥居の根元の所にお賽銭が挟まっていたのですが、この写真もありませんでした。電源の関係かもしれませんが、ちょっとショックです。

さて、そんな関係から瓦の写真を何枚か撮りました。

まずは津和野の街です。

ご家老の屋敷跡です。綺麗に並べられてありました。


軒先の瓦には、打ち出の小槌も描かれていました。


そして萩の街です。城下町の高杉晋作の旧居です。桟瓦の形状が不揃いです。江戸時代そのままなのかもしれませんが、萩の城下町の桟瓦の質は良くないものだと感じてきました。

ちょっと隙間があいています。他の住まいも大抵そうでした。


倉敷の街の屋根です。

家紋入りの丸瓦です。


同じく倉敷の街です。外壁に焼きスギが使われていた所もありました。触ってみると指が黒くなりました。焼いたままで使ったようです。



2013/07/01(月) 晴れ


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[ 管理者:大野満生 ]


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