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時々更新mn日記

( 2013/06 ← 2013/05 → 2013/04 )


[ 早くも梅雨です。 ]
早くも梅雨です。


今年は梅雨が早かったですね。5月なのにもう梅雨か、といった気分です。

さて、この所午前中の早い時間からゆとりがあるので、図書館へ行って本やDVDを借りに行きます。自転車で行き、中に小一時間ほどいます。平日の午前中は常連さんで一杯です。私のとっては図書館へ通うなど、学生時代以来ですが、見ていると年寄りがまず多いですね。それから浮浪者風のおじさんもいます。男と女では圧倒的に男の方が多いと思います。男は行くところがないのでしょう。

私も時間をつぶすのに安上りの所を探しましたが、図書館もその一つです。テニスも区営のコートを使うと安上りです。帰りにマクドナルドでお茶でも読むか、オリジン弁当などを買って帰れば、昼飯の心配もいりません。

今まで以上に家にいることが増えています。そこで、なるべく出かけるように心がけたいと思います。外の空気を吸おうと思っています。会社の清算も終わりに近づいてきましたので、6月はもう少し活動的に出かけたいと思います。


2013/05/31(金) 晴れ


[ 「家づくり必勝法」 ]
家づくり必勝法


小野信一
生活人新書


目次
まえがき
基礎編 家づくりを始める前に
第1章 こんな家に住みたい
第2章 まず自己分析から始めよう
第3章 これが家づくりの鉄則だ
応用編 家づくりに成功するために
第4章 上手な土地購入法
第5章 失敗しない資金計画の立て方
第6章 家の構造・工法を知ろう
第7章 業者選定のチェックポイント
実践編 さあ、夢を建てよう
第8章 家づくりの賢者から学ぼう

著者は、不動産会社、大手ハウスメーカーを経て独立し、施主本位のコンサルタント会社を設立。「欠陥住宅をつくらない会」事務客も兼務。
と、肩書にあります。

その名の通り、ハスメーカーの良いところ、悪いところ、活用に仕方などには「さすが」というものがあります。又不動産の会社に勤めていただけにその良し悪しも心得ております。そういう目から見て、お施主それぞれの希望を叶えるべく奮闘されています。その奮闘記といってもよいでしょう。

この本の中で私が一番いいと思ったのは、資金計画の立て方の所になります。そこには、1=ライフプランを考える。2=世代にあったライフプランの立て方。3=適正な自己資金と借入金とは、4=建築費用の大きな罠。5=自己資金30%の理由と支払時期。6=住宅ローンの選択を間違えるな、と題した所です。

お金をいつ、どれくらい借りるのか。私も実際これから収入が減って生きていくので、人生のラストの資金計画を建て始めた所なので、参考になります。退職した友人が皆口をそろえて言うのは「金がない」の一言です。この実感のこもった言葉が、今一番心に残っています。資金計画は何時も一番気にしなければならない所です。

話が、それてしまいましたが、今ちょうど、私の子供に当たる年齢の方々が住まいを求め始める年代に差し掛かりました。私には子供はおりませんが、そういう人たちの夢を叶える本としては読んでいた方が良いことが数多く書かれています。





2013/05/29(水) 曇り時々雨


[ 3.11以後を生きる君たちへ ]
3・11以後を生きるきみたちへ


たくきよしみつ
岩波ジュニア新書

目次

はじめに
第1章 あの日、何が起きたのか
第2章 日本は放射能汚染国家になった
第3章 壊されたコミュニティ
第4章 原子力の正体
第5章 放射能よりも怖いもの
第6章 エネルギー問題の嘘と真実
第7章 3・11以後の日本を考える
あとがき


私は1951年生まれです。もう62歳のおじいさんになりました。

生まれる一年前には朝鮮戦争がはじまりました。1949年の中華人民共和国の成立を受けて米ソの対立の最中に生まれたことになります。朝鮮戦争は戦争に負けた日本が経済的に立ち直る一因となりました。軍需産業は「作っては壊す」ことを基本としていますので、儲かります。これで日本も立ち直りました。他国の犠牲の上でした。

1955年の保守合同あたりから、「もはや戦後ではない」を合言葉に高度成長が始まります。父の話では1964年の東京オリンピックまでは「本当に景気が良かった」ようです。そこからは下火です。それでも私がこの業界に入った1974年は、石油危機もあり、木材高騰した後でした。構造不況業種といわれ、どんどんその地位も沈んでいきます。それから十年で一度バブル期がありますが、あまりいい目を見なかったといえると思います。

それでも何とかなっているのは親のおかげです。

前置きが長くなりましたが、私の時代は、「戦争は知らない」「団塊後生まれ」「高度成長も少し」「1968年という時代変動も少し」「バブルは知っている」ということになります。これで亡くなっていれば「幸せな人生だった」といえるのでしょう。ところが、2011年3月11日。午後2時46分からの数分間に起こった地震とその被害を知るにつけ、自分の考え方を変えなければならないと思うようになりました。

この地震の時の話は書いたことがあるかもしれませんが、私は事務所の奥のトイレに入っていました。出ようと思った所にドアが音をたてました。トイレを出たところにある部屋のドアでした。がたがたという音を立てていました。その後揺れが激しくなりました。階下に降りようとして階段の所の手すりにつかまってしばらくじっとしていました。一度揺れが収まってから再び揺れた時には、築50年のこの建物が壊れるのではないかともいました。揺れが収まってから階下に降りました。下では大工さんが刻んでいましたが、すぐに避難して大事はありませんでした。

その後一度自宅に戻り、家内の安全を確認したのち、今日中に引き取らなければならない商品を取りに新東京木材の建材課まで行きました。その日は市日だったので、本来ならば参加する予定でしたが、お客さんが見えていけませんでした。

会社から2トン車で、山手どおりを走りましたが、特別渋滞もなく、池袋市場に就き、材料を積んで戻ってきました。山手通りと新目白通りの交差点の所で横田木材さんの社長さんが信号待ちをしていましたが、私は内側を走っていたので、止まることはありませんでした。後で聞けば、水道橋から歩いてきて、「大野さんの車を見つけて、助かった」と思ったのにそのまま行ってしまったとのことでした。失礼しました。帰りも渋滞もなく戻りました。

横田さんの後から、そういわれてみれば、「歩いている人が多かった」と思いますが、引取りの帰りも渋滞なく戻ってきました。

電話がつながらなかったので、家内以外の人の安全はその時確認できませんでしたが、自宅で倒れたものもなく、下小屋の材木が傾いたのが我が家の被害状況でした。これが私が一番怖いと思った地震の我が家での被害でした。

それがテレビを見るにつけ、これは映画ではないかと思うような映像が流れます。これを気にせずにこれから生きていくのは、大変です。

さて、著者はミュージシャンです。大地震の前に阿武隈山系に移住してきました。そして、その福島第一原発南西の川内村で、3.11を経験しました。地震と原発事故の両方を経験した方です。その中で見た、東電、政府、自治体や住民の動きを書いて若い人たちに考えてもらいたいと話します。何が正しいのか、あるいは悪いのか、すぐに結論を出さずに考える力を付けてもらいたいと著者は言います。自分の頭で考える一助となれば、それが著者の願いでありましょう。

ただし中身は難しいです。





2013/05/27(月) 晴れ


[ 二班の会合と十四日会 ]
二班の会合と十四日会


この所仕事がめっきり減りました。午前十時には大抵終了です。5月23日には全く仕事の電話が入りませんでした。そこで24日には午前中からテニスをしました。1時間半ほど夢中になって体を動かせていると、自然と気分も落ち着いてきます。

仕事で体を動かせていましたが、今はそれが不十分なので、意識的に体を動かさないといけません。散歩なども行っていますが、やはり相手がいて、それにつられて身体を動かすのが私の性にあっています。今のところそれにはテニスが最適です。長いこと続けているので少しずつ面白さがわかっているからです。

さて、今週は2班の会合と14日会の会合の2つがありました。この所参加できる集まり自体が減っているので、喜んで参加させていただきました。構成メンバーがダブっているので、同じ話をしているかもしれませんが、今回の場合、一つは「木材利用ポイント制度」の発足により、材木屋も「合法木材」の取扱店であることがこのポイント制度を利用できる入口になります。本来であるならば、「新東京木材」傘下の組合員であれば、新東京木材から出荷証明書を出していただき、それで事足れり、という方式が望ましいのですが、林野庁のこのポイント制度にしても急に決まったものであり、また全容も明らかなのかそうでないのかもはっきりした所にありません。そんな調子ですので、10500円はかかりますが、この際、合法木材の取り扱い店であることを登録しておきましょう。締め切りは5月末です。今後も二次募集があるかと思いますが、はっきりしていませんので、この際登録申請をした方が良いと思います。

また、14日会でも20数年が経ち、一回り若い人たちが(あくまでも私の年代から見ればですが)中心に運営を行っています。勉強も遊びも大切です。何気ない工場見学があとから役に立ったことはかなりあります。岐阜県のセブン工業に行ったときには、「カーブ階段」の大半はここで作っていることがわかりました。中国木材の呉工場や鹿島工場では、規模の大きさに驚嘆しました。自分の眼で見ておくと仕事が来た時に「あれか」といった感じで自分でイメージが出来ます。そういう意味では14日会が出来て、仕事に役立ちました。一人ではとてもここまで来られませんでした。

さてさて、来週はお通夜が続きます。今月はどこへも行けなかったので、再来週あたり一泊旅行を楽しみたいと勝手に思っています。金はありませんが…



2013/05/25(土) 晴れ


[ テニスと材木屋 ]
テニスと材木屋


大学時代の友人である橋本哲さんに誘われて、同人誌「旅想」に初めて書いたものが「テニスと材木屋」でした。あれから十年が経ちました。テニスは続けています。当時は中野体育館と上高田テニス場だったのですが、今は上高田近くの哲学堂テニス場と隣の杉並区にある室内テニス場に通っています。哲学堂テニス場へは、アシスト付きの自転車で通っています。街並にも変化は見られます。童謡「たきび」のモデルとなった家はまだありますが、私が途中で飲み物を買い求めた「大黒湯」はなくなりました。今は更地です。そして当時一緒だった人たちともテニスはしていません。場所も人も変わってしまいました。

杉並のテニススクールには車で通っています。夜の7時から8時半まで汗を流しています。帰ってきてお風呂に入り、ビールを飲んで眠ると丁度良い時間になります。朝も6時くらいに目が覚めます。このペースを崩したくないので、夜のテニスも続けています。

さて、テニスは続けていますが、私を取り巻く状況も大きく変化しています。まず、仕事を終了しました。定年になりました。「思い出の景色」で書いた場所には材木屋はありません。場所を移動しました。会社をなくして定年にしましたが、まだ残りの材料を販売しています。なんと中途半端な、という気もしますが、今少し続けたいと思います。

2013年の2月半ばに材木屋だったところに解体を始めました。それに伴い自宅の1階に材料を移しました。少しずつ販売してだいぶ片付いてきました。4月末で会社を清算し始めました。順調にいけば7月いっぱいで個人営業だけになります。そこからは「終わるも自由、続けるも自由の世界」になります。

生きていける時間も限りがありますから悔いのないようにしてきたいと思います。

そんな中やっと時間の使い方に慣れてきました。もう電話をいただけるところも限られましたし、扱う商品も当面はあるモノ中心ですので、楽です。6月に入れば平日に休みを取って美術館めぐりなども始めたいともいます。旅行はもちろんですが、あまり日曜日に動かない体制を作りたいと思います。

今の1日は、朝7時過ぎに店を開けるか、8時15分過ぎにあけます。そして少しだけ仕事をして、特になければ10時ごろで終了です。午前中本を読んでいることも増えました。当初は電話がかかってくるのではないかと気にかけていましたが、1日2本くらいなので、のんびりしています。それでも少しだけ身体を動かせて、一度は汗をかくようにしています。本は3種類を同時に読んでいます。店で読むもの、パソコンの前で読むもの、ベッドで読むものなどです。図書館へも週に一回は行くようにしています。借りてくるものはテニス関係、古代史関係、林業ないし建築関係です。あまり熱心には読みませんが、流れを押さえるにはいろいろと手を出して、自分に合ったものを選んでいく方法を取っています。

そのおかげでやっとテニスが面白くなってきました。頭を使う部分が少しわかってきたのです。テニスは頭と足です。テニスにはテニスの理論があります。これがわかりかけて面白くなってきました。その反面体力は落ちています。「今の技量で年が10歳若かったら」と思います。思いますが、変えることはできないので、今のまま少しずつうまくなりたいと思います。脚がついていかないのも頭でカバーするようにしなくてなりません。

私も結局材木屋しか仕事をしませんでした。それしかできなかったのだと思います。そして続けることで材木屋になったのだと思います。周りの人に助けられて材木屋にさせていただきました。この4月でひと段落しましたが、大工さんの一人に、「材木屋さんに恵まれた」と言っていただけたのは正直うれしかったです。体力はほんとになかったので、身体を動かせて体を作りました。忙しかったので考える暇もなく過ぎた40年だったと思います。



2013/05/23(木) 晴れ


[ 材木屋40年 ]
材木屋40年


私の材木屋としての40年を大まかに考えていくことにします。

わが社には番頭さんがいました。よく働く方で根岸さんといいました。戦争で片目を失っていましたが、字を書かせても達筆で、なんでこういう人が私の所に来たのだろうかといつも思っていました。私が4歳ころ(昭和30年ごろ)からから32歳(昭和59年)までいました。サイドカーと呼ばれるバイクに荷台を付けた車で配達していました。近所だとこれが便利です。

私が大学を卒業して、家業を手伝うようになった頃(1973年)には、まだ工務店さんが力を持っていて、近所の仕事がたくさんありました。月に4棟くらいは上棟していました。そのため、仕事の大半は木材の販売です。市場からの引き取り、置き場への立てかけ。下小屋への配達などが主な仕事でした。木場から直接下小屋へ材料を入れてもらうこともしばしばでした。初めの一年はトラックの荷台から材木を下すことと、配達してもらった材料を建てかけるだけでした。これだけで疲れ切ってしまいました。何しろ体重は50キロしかありませんでしたから・・・また、符牒で言われた材料がわからずに往生したことや寸とセンチを間違えるなど間違いを犯しました。修行をせずに店に入ったので使いものになりませんでした。他に行き場もなかったので何とかお得意様に教えていただきながら、覚えました。

そして大工さんが下小屋で刻みを終えると、今度は現場への配達です。建てはじめるとその日に建前用に下地材を運ぶことになります。当時下小屋は二か所ありました。下小屋へ材料を運び、それをまた現場へと運んでいました。

一二週間すると、今度は造作材の加工が始まります。当時は新壁の住まいが多かったので、敷居に鴨居、廻縁など、その住まいに合わせた樹種・サイズをそろえなくてはなりません。雨の日などは予定外の人も下小屋にきましたので、大忙しになります。

月に4棟くらいのパースで立てていましたので、毎週毎週がこんな感じに過ごしていました。休みは日曜日だけでした。土曜日も忙しかったので、日曜日は寝ていたことも多かったです。月曜、火曜と仕事をすると水曜日には午後7時は寝ていました。まだ体力がありませんでした。何とか仕事を覚えて材木を担げるようになったのは、20代の終わりを迎えるころでした。

30代になるとバブルの時期が始まります。このころのわが社の特徴は木造住宅だけでなく、鉄骨や鉄筋の内部造作の仕事が増えました。内部造作の仕事は、その建てる所には、必ず駐車場になるスペースがありましたので、ここに材料を置かせていただきました。下地材に始まり、ベニアやボードなどは大半が直送させていただきました。売り上げはかなりありましたが、儲けは少なかったです。さらに夜のお付き合いも旅行もかなりありました。夜のお付き合いは9時くらいから始まり、12時をまたぐことがしばしばでした。

その反面、朝は6時くらいから仕事をしていましたし、夜中まで見積もりに追われたこともありました。

この疲れが30代後半出でて、病院通いの日々でした。身体は忙しい。売り上げはあるけれど利益が少ないという事態に変化はありませんでした。

このころから新宿市場の青杉会や新東京昭和会などで研修旅行に行くという話があると連れて行っていただきました。

これがのちに十四日会が出来た時に自分も参加してみようという気持ちになる、その初めでした。その当時も私自身、材木屋に行き詰まりを感じていました。木材が売れない、という時期になっていました。又職人の高齢が始まっていました。下小屋料・運賃なども大きな負担になっていました。これを解決する一つの方法として「プレカット加工」の導入なども検討されていました。実際この時期の工場見学といえば「プレカット工場」が付きものでした。しかしその工場自体、まだ初期の段階でした。

中野の地区で窪寺伸浩、亀山正義、太田裕之、伊藤政孝4氏の提唱により十四日会が出来たのは、その頃のことでした。この会は、「遊びの中にも勉強を」、各自の持ち味を生かしながら、自主的な運営で今日まで至っています。この時期には、わが社も木材だけではなく、建材や水回り商品の販売に力を入れていました。実際の問題として、造作材に木材を使うことが少なくなってしまったので、建材を売る必要がありました。バブル以降仕事量はかなり減っていましたが、メインの大工さんにまだ力がありました。その方々のおかげで一つの仕事が決まるとドアや床暖房、水回りといった商品を販売することが出来ました。

さて、40代は十四日会のおかげで乗り切れましたが、50歳の手前から一人で営業することになり(父の引退のため)、仕事のやり方にも変化がおきました。まず、遠い新築の仕事の配送は運送会社にお願いすることになりました。私が二十代の頃にも建前が重なり、運送業者に配送をお願いしていましたが、それがこの時期には、組合や市場の関係者に配送をお願いするようになりました。

この経験から、直送できるものはほとんど直送で済ませることが出来ました。月の売り上げのうち、50万円から100万円は直送品になりました。ただし、このころから、水回り商品の販売は極端に減りました。売れていくものは、木材の下地材とベニアやボードになりました。ケイカル板の直送などが増えたのもこのころからです。まとまったものは直送して、細かいものを自分で配送していました。このスタイルは50代を通じて変わりませんでした。

父が亡くなったのは私が54歳の時です。このあたりから新築の仕事はめっきり減りました。又大工さんも高齢化が進み、亡くなる方も増えました。だんだんと大工さん以外のリフォーム業者や板金店などが顧客になってきました。もともと大工さんからの売り上げが少ない材木屋でしたが、一層減りました。

材木の販売で始まった私の40年ですが、仲間が出来て、協力し合える形が出来たことで今まで続けられたと思います。父が始めた仕事を息子が潰してしまいましたが、父の時代は日本の戦後の復興期でもあり、資材があれば売れた時代でした。昭和39年のオリンピック以後は「売れない」と父は言っていました。実際最後に土地を買ったのは昭和42年になります。それ以後は新たに土地を手当てすることはありませんでした。小さくなりながら、何とか借金もなく過ごせたのはラッキーでした。

この個人史の上に少し付け加えると大雑把に1=1980年代まで。2=2000年まで。3=2013年まで。と考えると、1は大工・工務店の時代とその終了。2は大手ハウスメーカーの台頭とプレカット仕様。法整備、住宅の低価格化の推進。3は住宅の規格化、工場生産化です。その次に木材を再び使う時代が来るかどうかは若い人たちの取り組みにかかっていると思います。特に国産材を活用する時代はそこまで来ていると思います。それは木材が唯一再生産可能な資源であるからです。



2013/05/21(火) 晴れ


[ たまには日帰り温泉へ ]
久しぶりに日帰り温泉へ。


最近は年のせいか、ゆっくり風呂にはいれるようになりました。日帰り温泉に行っても元が取れるようになりました。
所がそうなってみるとなかなか行くことが少なくなっていました。何が原因でしょうか、映画館もシニア料金でみられるようになってから行くことが少なくなっています。
また外食しても以前ほど食べなくなったので、一回の単価は下がる一方です。

昨日4時間テニスをしたら、まずよく眠れました。10時には寝て、夜中に一度起きましたが、すぐまたそのまま眠ってしまい、起きたら6時半でした。通常6時には起きますので、疲れたのがわかります。

日曜日なので、「今日はどこへ行く」と聞かれたので、買い物をしてから、日帰り温泉に行きたいといいました。

ガストで昼飯を食べましたが、そのあと、杉並にある「美しの湯」へ行きました。ここを選んだ理由は、今回に限っては、リクライニングシートがあることでした。横になりながら一人でテレビを見ることが出来ます。ここを確保できれば、風呂から出た後、飽きずにいられます。場合によってはここでゆっくりしてから再び風呂に入るという手もあります。

このあたりを計算して、そこにしました。中は案外すいていました。今まで来た中でもすいている方だと思います。そこで、ジェットバスなどリラックスできる風呂にゆっくり浸かって足、腰、膝に水流を当てて筋肉をほぐしてきました。これならマッサージがいらないと思うくらいでした。

そのせいか、疲れが取れたと思います。たまには日帰り温泉に行ってのんびりしてくるのも良いと感じています。


2013/05/20(月) 曇り


[ 読売新聞の論点から ]
読売新聞の論点から


2013年5月16日付の読売新聞の論点には、有馬孝禮氏の「国産材活用は公共益」と題する評論が載っていました。

それによれば、
昨今始まったばかりの「木材利用ポイント制度」も国産材を積極的に使ってもらおうとする試みです。戦後の復興で一時枯渇状態にあった国内の人工林もその後の造林により、今では本格的な利用が可能な成熟期になっています。
木材の自給率も2002年の18.2%を底に2011年には、26.6%にまで戻りました。
国は2020年に自給率50%を目指し、林業の本格再生につなげたいと考えています。
林業の再生が注目されたのは、国産材の利用が、1=地球温暖化の防止と循環型社会の形成。2=森林載る国土の保全、水源の涵養など森林の持つ多面的機能の維持。3=山林やその他の地域の経済の活性化、などに貢献するという考え方があります。
この考えに基づき国産材の利用を促す法律が成立して、教育施設や地域施設などの公共建築物に地域産材の利用が進められています。
地球上の多くの天然資源が減り続ける中で、我が国の森林における木材資源は増えています。
林業、木材産業、建設関係者、利用者が有機的につながることで、成熟してきた森林資源を活用していきたいというのが有馬氏の論点です。
その際、単なる需要拡大ではなく、公共の福祉や地域全体の利益になるという視点がないと先の4者の連携が絶たれるのではないかと結んでいます。有馬氏は木造・木製品を都市緑化と並ぶもう一つの「都市の森林」と位置付けています。木材は住宅として大切に使った後、解体して木質系材料の原料として再利用され、最終的には燃料になります。

人間に対して害を及ぼさないこの木材・木製品の活用を進めていきましょう。



2013/05/19(日) 晴れ


[ 最近思うこと ]
最近思うこと


新しい名刺を作ろうと思い立ちました。

さて、どこへ頼めばよいか、考えてしまいました。それというのも以前は近くの印刷屋さんに頼んでいましたが、今では近くにありません。街の中の商売がだんだんと無くなりました。結局名刺は「島忠」へ発注しました。

このように少し前と、かなり違う所へ注文するようになっています。最近新聞の広告を見るようになっていますが、リフォームもヤマダ電機など大手の家電量販店などのチラシにはインパクトのあるものが増えました。

外装やマンションの全面リフォームにしても「平米幾ら」といった形がはっきりしてきました。マンションの全面リフォームでも60平米で、300万円まで。平米あたりでも5万円まででのものが多いようです。

リフォーム内容も明示されており、「見積もりは2から3社とりましょう」と比較も勧めています。私も勉強のためにマンションを直すときには一度見積もりを取ってみようかと思います。

時代は変わってきています。



2013/05/18(土) 晴れ


[ 保険証書き換えました。 ]
保険証書き換えました


有限会社大喜を退職しましたので、健康保険をどうするか、今までどおりにするのか国民健康保険にするのか多少の迷いはありましたが、今までどおりにすることにしました。二年間の限定つきですが、木材健康保険にお世話になることにして、その手続きを済ませました。今までは会社で半分負担していただいておりましたが、今回からは全額個人負担です。

個人営業になると個人負担ばかりですので、あたり前ですが、今まで会社に守られていたことが良くわかります。今更そんなことを言っても仕方ありませんが、出ていくものが今まで以上に多いように思えます。ざっと考えても、固定資産税、源泉税、区民税、保険料、健康保険料、国民年金などなど。これに生活費を加えていくと「少し稼がなくちゃ」という気になります。試しに今までと同じ生活ができるか試算してみましたが、これは難しそうです。どこを切り詰めるか、と考えていたら、自動車税が増えました。会社から個人に移動したので、税金やら、車検代など、払うようになります。ガソリンも無駄なく使わないといけません。

最近スーパーのチラシに目が行くようになりました。パンはここで買う。牛乳はここで、野菜ジュースはあそこが安いなど、少しは頭を使えるようになっています。必ずしも大きなお店が安いとは限りません。お店ごとに特色を出しているのと、安売りの日を活用することによって生活費を押さえたい所です。

友人が退職した時の話を少しずつ思い出しています。暇だということとお金がない、と言っていました。

私はまだいい方です。そう思います。



2013/05/17(金) 晴れ


[ だんだんと変化していきます。 ]
だんだんと変化していきます。


この所出歩くということが少なくなっています。それというのも退職したからだと思います。すべての仕事がなくなったわけではありませんが、ルーティンの仕事が無くなり、遊ぶも自由、仕事するのも自由になりました。もちろん前もって電話がかかって来れば、それに対応していますが、急なことには対応できないことも出来ました。まして二トン車を無くしたので、まとまった仕事は出来なくなりました。

ですから遅くても午前十時にはひと段落してしまいます。その後の時間は今のところ本を読んだりしています。散歩と称して歩いたり、アシスト付きの自転車で遠出をしたりしています。遠出といっても哲学堂公園とか新宿駅までとかいうレベルです。距離にして5キロ未満です。それでも自転車をこいで一汗かくと身体がすっきりしてきます。

私の子供の頃には近所でしか遊んでいません。たまの休みに明治神宮外苑まで歩くとか、新宿にあるデパートに連れて行ってもらいました。

それが年に一度と友達と旅行するようになったのは早稲田中学に入学してからです。山梨県の韮崎に始まり、立山。奈良・京都。広島・松江・出雲大社。菅平へのスキー。飛鳥への合宿などなど。

それが高じて大学は京都へ行きました。この4年間はいろいろな経験をしました。友人に勧められてフェイスブックに登録していますが、同志社関係は断らないようにしています。

そこまでが遠いところに行ったことになります。

大学卒業後は、家業を手伝うことになりました。年に数回の旅行を除いては中野区限定バージョンでした。

30代の半ばから始まった小学校のクラス会。そのつながりで60歳まで来ました。当初は昼に集まって翌日の朝まで飲んでいました。50歳ころから一泊二日がプラスされました。それが55歳を過ぎるころから、夕方集まって夜中まで、夕方集まって午後十時解散へと変化してきました。そんなに長い時間飲んでいられなくなっています。このペースだと昼にお茶を飲んで終了という事態も間近です。

この所、中野新橋で食べるお店を限定されてきました。
「とり花」「ユウカナ」「かずん」「鳥貴族」に少し離れていますが、「タベルナパパ」

ランチであれば、これに「みゆき寿司」「カンガ」「丸福」「松屋」「東秀」が加わります。

「モスバーガー」「ドトールコーヒー」なども商店街から無くなりました。

先日の日曜日。新宿に出かけましたが、いつもの通り「スパッソ」でスパゲッティ―をいただこうと行きましたら、店が無くなっていました。後で聞いたら、3月31日で閉店したそうです。量に関係なく680円でスパゲッティ―が食べられるお店だったので、残念です。

少し行かないと「無くなる」ということも頭に置かなくてはなりません。わが社もそうですが・・・



2013/05/16(木) 曇り時々雨


[ 飛鳥(歴史と風土を歩く) ]
飛鳥――歴史と風土を歩く

岩波新書
和田萃著

目次

はじめに――飛鳥川上流を歩く
第1章  飛鳥を開いた人々
第2章  蘇我氏の登場
第3章  飛鳥の春秋――推古朝から蘇我氏の滅亡
第4章  斉明朝の飛鳥――「興事を好みたまう」女帝
第5章  飛鳥浄御原宮の歳月――律令体制国家の成立へ
第6章  故郷“飛鳥”
おわりに――飛鳥をどう受け継ぐか

飛鳥時代を時代順に語りながら、同時に飛鳥地方を歩くという飛鳥に育った方だからできる手法で歴史も学べるし、この地方を歩く際のガイドブックとしても持っていきたいつくりになっています。

私は今から46年前に初めて飛鳥地方を訪れて、橘寺に泊まり、聖林寺の十一面観音をはじめとして、多武峰、談山神社、石舞台古墳に飛鳥寺。二日目は石上神宮から山の辺の道を纏向まで歩きました。

四十四年前には甘樫の丘を中心に歩きました。それから幾度かこの地を訪れています。その周辺を歩いています。

72年の高松塚古墳に始まり、特にここ15年は遺跡の発掘が盛んです。纏向遺跡も見つかり、箸墓古墳の一部も発掘がなされています。

4年前には、纏向から三輪神社。安倍の文殊院から山田寺、飛鳥資料館などを歩きましたが、今年あたり、その続きを歩いてみたいと思っています。まだ高松塚古墳へも行ったことがありませんし、橿原神宮に住んでいる先輩にももう27年あっていません。そのあたりを今年はクリアーできればと思っています。

さて、この本の著者は樫原考古学研究所の所員です。地元で育ち、遺跡の発掘や木簡の読み解きなどに携わっている方です。自分で歩いた印象を交えながら執筆されているので読みやすいともいます。






2013/05/15(水) 晴れ


[ 大震災 日本列島が揺れた ]
大震災 日本列島が揺れた
(高校生・高等専修学校生75人の記録)

NPO法人仕事への架け橋編
まど・みちお画

小峰書店

この本は東日本大震災と向き合った高校生たちの作文です。高校生や高等専修学校生に「職業」や「仕事」について考える機会と発表の場を提供することを目的にスタートした私の仕事作文コンクール。

2011年の震災以降に「東日本大震災若者応援メッセージ」と銘打って募集を呼びかけた第7回コンクールには、全国から4104編もの作文が寄せられました。その応募作品から厳選した75編を収録したもの。

なかでも一番初めに掲げられている岩手県立遠野緑峰高等学校1年生の濱田由治さんの「15回目の誕生日」胸が痛くなります。

そこには、
「好きで、生まれてきた、わけじゃない」
ふと、そんなふうに思った時があった。
「好きで、生き残った、わけじゃない」
誰にも言えない思いを、奥歯でかみつぶした時があった。

で始まります。

2011年3月11日の午後、宮城県名取市の閖上中学校「卒業を祝う会」で、地区公民館にいた。
この日は僕の誕生日で、母と妹は僕のバースデーケーキを買いに会場を離れていた。
14時46分、経験したことのない大地震で会場の表情は一変した。周りのあちこちから「津波が来るかもしれない」という言葉が聞こえる。少しして母が僕を迎えにきた。それが記憶に残る最後の母の姿になった。

以上少し抜き書きしてみました。
本人も津波に流され、自衛隊の捜索で助けられ、低体温症で一週間入院しました。それでも自分の命は消えなかった。母と妹の訃報を聞いて声をあげて泣いたこと。その中で初めて自分で決めたことを書いてこの作文は終わります。

「希望は捨てない」と。






2013/05/14(火) 晴れ


[ 日本の林業を立て直す ]
日本林業を立て直す 速水林業の挑戦



速水亨
日本経済新聞出版社

目次
はじめに
第1章 千年の森を訪ねて
第2章 速水林業9代目に生まれて
第3章 速水林業のやり方
第4章 生物多様性と経済性を両立させる
第5章 ヨーロッパ人の森、日本人の森
第6章 日本林業の行くべき道
第7章 誰が森を壊しているのか
第8章 森と人々の関わりを取り戻す



三重県の速水林業の9代目である速水亨氏の著作です。中身の濃い本です。一つ一つの章建ての中に著者がかかわってきた林業に対する取り組み方や愛情を感じます。林業への全体の視野。採算の取れる仕組みなどなど。

2011年小林業白書によると、2009年の林業は日本の句内総生産の0.08%に過ぎなません。林業従事者も総人口の0.1%で、人口にすれば6万人。又林業所得は2008年で100から500ヘクタールという国内では大きな規模でも平均年収は26万円。1990年代初頭は同等レベルで400から500万円だったので、この二十年間で激減しています。

このような現実の中で1070ヘクタールの山林所有者である速水氏は先頭を走ります。自然保護と木材生産の両立を目指します。

各章の中に小見出しがあります。ランダムにあげますが、「下草狩りをやめて経費節減」「ユーザーがほしい木を育てる」「被災地を元気にする移動式製材機」「違法な木材が適正価格を引き下げる」「奈良時代にも人工林があった」「貧相だった江戸時代の森」「日本の森は今が一番いい状態」「林業は光の管理である」など、現実を直視し、解決策を探していきます。その地域、その土地に適合した木材生産の仕方を追及していきます。

日本人が森に持っている自然観を大事にし、日本林業が蓄えてきた知恵と知識を十分に生かしながら進んでいきます。現在の日本の森林認証制度も第三者認証に変えていかないと国際的には信頼されない、または日本のコピー用紙の3割は違法な木材からつくられていることなど、大変な課題にも大胆に進んでいきます。それだけのことをやっている会社だからこそ、この言葉には重みがあります。

森林は生物ですから、日本の森も一年間育てるだけで、70兆円の価値を生み出している、と言われています。生物多様性の保全機能、地球環境保全機能、土砂災害防止と土壌保全機能、水源涵養機能、快適環境形成機能、保健レクリエーションなどといった機能を合算すると70兆円の貨幣価値に相当するのだといいます。(日本学術会議の答申による)

そういう森であるからこそ、今一度木材を使う仕組みを社会全体の中で作り直さなくてはならないと結んでいます。







2013/05/13(月) 晴れ


[ 近頃の変化 ]
近頃の変化


仕事の内、肉体労働の部分を大きく減らした結果として、まず力が無くなりました。まだ2か月ですが、重たい物を持ち上げるということはなくなりました。その結果、腕の筋力が低下しています。
次に電話を受けたり、かけたりすることが極端に減りました。本当にのんびりするものだと感じています。

さて、昨日は4時間ほどテニスをしたら、夜の9時には寝床について目が覚めたら、7時半でした。よく動いたのでよく眠れました。その代り膝が痛いです。

連休も最終日になりました。ずーっと休んでいるといつが休みかわからなくなります。今は時々仕事なので、その日になって「今日は何があったかな」と再確認しながら対応するようにしています。カレンダーには予定が書かれていますが、午前中のものには忘れずに対応しますが、午後からのものは忘れてしまうものがあります。

昨日も今日も「島忠」へ行きましたが、ホームセンターは混んでいました。生活にかかわるすべてのものが取り扱われていて、便利さは増しているように思います。リフォーム関係も従来工務店や材木店が窓口だったものがホームセンターになりました。この流れを変えることはできないでしょう。たぶんもう少し専門的な部分を付け加えていくことで、よりよいものを提案・提供することが材木店の仕事になるでしょう。

水回り、太陽光発電、床暖房など機能性の高い商品に対する知識も必要ですし、木材特に国産材については、もっと知識を持つ必要があると思います。さらに木材の良さを活かすのは「手仕事」になると思います。機械化されて、大抵のことは機械が行ってくれますが、機械化できない部分、そこが木材の出番であり、必要とされる所だと思います。面倒くさいですが、面倒がらずに愛情をかけていってください。


それにしても近所のバラの木は毎年、限りなく多くの花をつけます。植物の持つ力を活用することも材木屋の仕事になるのでしょう。




2013/05/06(月) 晴れ


[ 背水の陣で生きる ]
背水の陣で生きる(がんを克服した63歳の挑戦者)


大山康晴
光文社

目次
1  年齢(とし)に勝つ
2  病気に勝つ
3  日常に勝つ
4  相手に勝つ
5  自分に勝つ


この本はかなり古い本です。書庫を整理して出てきました。奥付には昭和61年7月発行とありますから、今から30年近く前に書かれた本です。著者は平成5年に亡くなりますから、著者63歳の時に書かれた本になります。

大山康晴さんは将棋の名人です。その方が60歳で癌を患い、一度復活して69歳で亡くなりました。亡くなる一年か二年前に地下鉄の四谷駅で私の目の前に乗ってこられました。驚きましたが、その時にはもう力のない年寄りに感じました。一回だけお顔を見ましたが、その時の印象は名人という感じはしなかったですね。それだけ身体も辛かったのだと思います。

大山名人といえば、ライバルは升田幸三さんですね。この方の本も何冊か読みましたが、大山康晴さんのすぐ上の兄弟子です。従って大山名人の面倒も見た方ですが、自分の方が「強い」という意識が消えなかった方でもあります。実際弱い時を知っていて、その力を借りて大山名人は強くなったのです。升田幸三さんが大山名人の強さを認めて、もっと虚心坦懐に盤上を迎えたならば、将棋界の歴史も変わっていただろうと思います。

この本は見開き2ページという短いスペースの中に「「何でもいいから得意なものを持て」とか、「苦労は利子を生む」とか「勝ちに出るな、相手も負けを引きずり出せ」など将棋の世界だけではなく、勝負事や人生に通じる話が満載です。河口俊彦氏の「大山康晴の晩節」も同時に読んでいます。

勝ち癖を付けた人の話は面白いです。

2013/05/03(金) 晴れ


[ 5月になりました ]
5月になりました。



皆さんは今年のゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか。

私は今年はのんびり過ごすことにしました。できれば渋滞情報などを見ながら「ビールでも」と思っていましたが、(27日にテニスをしましたが、)そのすぐ後に訃報が届き、お葬式に行きました。母親の実家のおばさんが91歳で亡くなりました。毎年夏には墓参りを兼ねて母の実家に顔を出していたのですが、昨年はさぼりました。それもあって、従兄弟や親戚には一年半ぶりに顔を合わせることになりました。従兄弟も60代で、子供世代が中心になり、孫の誕生も増えました。世代交代を感じて帰ってきました。

さて、5月になりました。4月末で有限会社大喜を閉めました。清算にはまだ数か月かかりますが、とりあえず退職しました。それと同時に個人商店「大喜」を作りました。又中身は確定しませんが、今までと少し違ったものを打ち出していきたいと思います。

とりあえず、このHPも会社名を個人に変えることにしました。今月半ばにはできると思います。それ以上の変更はしないで、このサイトを続けます。

今はのんびりしています。のんびりしすぎて腕の力が無くなりました。足も同様です。毎日自然に行っていることがいかに体を維持するのに大事かを思い知らされています。一日一日を有意義に過ごしましょう。

さてさて、このところ毎日朝のテレビを見ています。「あまちゃん」です。テンポのいいドラマなので面白く、次の展開が楽しみです。岩手県の久慈市をモデルにしたドラマなので、久慈にも行ってみたくなりました。

私もまだまだ「あまちゃん(甘ちゃん)」です。あっという間に60歳を過ぎてしまいました。何を行ってきたのか、同世代の友人知人の活躍を見るにつけて自信を無くしていますが、まあ、これからという気持ちで次に進みたいと思います。今までは二世でしたが、これからは初代です。5月は新たな出発の季節になりました。


2013/05/02(木) 晴れ


( 2013/06 ← 2013/05 → 2013/04 )


[ 管理者:大野満生 ]


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