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時々更新mn日記

( 2012/11 ← 2012/10 → 2012/09 )


[ 歌謡曲 ]
歌謡曲――時代を彩った歌たち

高 護
岩波新書

目次

序章  戦前・戦後の歌謡曲

第1章 和製ポップスへの道――1960年代
  
    1 新たなシーンの幕開け
    2 カヴァーからのはじまり
    3 青春という新機軸
    4 ビート革命とアレンジ革命
    5 新しい演歌の夜明け

第2章 歌謡曲黄金時代――1970年代

1 歌謡曲の王道
2 アイドル・ポップスの誕生
3 豊饒なる演歌の世界
4 阿久悠の時代

第3章 変貌進化する歌謡曲――1980年代

1 シティーポップスの確立
2 演歌〜AOR歌謡の潮流
3 アイドルの時代

終章  90年代の萌芽――ダンス・ビート歌謡


著者は1954年生まれの方です。丁度生まれてきて物心ついた頃から20世紀の末までに黄金時代を迎えた歌を「歌謡曲」としてまとめたものです。よくこれだけの曲を集めたな、という印象を持つくらい、網羅されています。私は同年代ですから私の生きてきた時代を振り返るのに最適です。さらに80年代を覗けば、大抵の歌は歌えます。昔の歌はみんなが歌えるという所に基準があったのだと思います。簡単なメロディーにわかりやすい歌詞をつけてみんなで歌う。よくこれだけ色々な歌が生まれたものだと感心してしまいます。そして私のいずれは一片の歌詞を生み出したいと考えています。



2012/10/31(水) 晴れ


[ 今日は十三夜 ]
今日は十三夜



今日は十三夜です。
日本では古くから月を鑑賞する「お月見」があります。十五夜が一番有名です。ひと月前に見られた方も多いかと思います。それに続いて旧暦の9月13日の月も美しいものだと言われてきました。空気が澄んできた季節の夜空一杯にお月さまが昇ります。榎本美佐江さんの「十三夜」でも聞きながら今宵を過ごすことにしましょう。


2012/10/27(土) 晴れ


[ 親には勝てない ]
親には勝てない



若い頃は親のすることにいちいち腹を立てたり、反抗して自分なりのやり方を通してきましたが、それでもこの年まで来ると、それは一つの成長過程だと自分の方からは言えますが、その結果、親を超えるまでに至ったかと云えば、全く届いていません。自分なりに頑張ってきたつもりでも振り返るとまだはるか彼方に親はいます。

我が家では、母親の方が強くて人間的にも立派でした。並はずれた才能の持ち主でした。大抵のことは自分でこなしてしまうという人で、才能がありすぎるのも困ったものです。

それに比べると、父親は苦労人でした。祖父が22歳、祖母が18歳の時の子供でした。年後で妹と弟、さらに二つはなれて弟がいました。祖母が身体が弱かったせいもありますが、学校へあがるころから、八百屋の仕入れや朝御飯の支度などをこなしてから、学校へと通う日々だったと言います。

祖父も八百屋からなんでも屋に変身して十年ちょっとの間にひと財産を築きました。その頃買い求めた土地が残っていたら、私もお坊っちゃまで暮らせたのですが、戦後のどさくさで一つを残して何も無くなりました。それを元手に父はひと財産造るのですが、それには母との最強コンビの力に負うところが多いと思います。

母親は、静岡県富士宮市の生まれで8人兄弟の6番目です。小さい頃には上に可愛がられ、高等小学校を卒業して、和裁を習いました。おりしも戦争のさなかで千葉県の女子挺身隊、日本橋三越入社などを経て、父と知り合うことになります。その頃の話はほとんど聞いていないので詳しいことはわかりませんが、母親の仲間は、小学校の同級生、三越関係。女子挺身隊仲間などでした。東京へと出て来るにあたり、同郷の親戚・縁者を頼って出てきましたので、私があった方々や、よく家に来た人は、そういう関係の人でした。

母親の祖父は、富士山の麓のかなりの大地主だったらしく、毎晩遊び歩いて財産を失くしたと言いますが、それでも今、あれだけ残っているのですから、どれくらい有ったのか想像できません。父が良く腹を立てると「だから、ブルジョアの娘は嫌だ」と言っていました。対抗意識です。

母親は学歴が無かったので、子供には大学に行くように力を注ぎました。私にかける期待も大きかったのですが、結局「こんなのが出来ました」

孫へ注ぐ愛情も大変深いものありました。今思えば、孫は本当に可愛いものだと思います。その可愛いと思う気持ちがよくわかる年になりました。母親が亡くなって早17年。記憶のかなたへ行ってしまいました。何か困ったことがあると、親に相談します。親ならどういう風に対応するのだろうか、いつも考えます。そうして助けてもらいます。

そうなので、今でも親には勝てません。



2012/10/25(木) 曇り


[ 無事終了 ]
無事終了


今年も「材木屋のい木い木ふれあい祭り」が終了してひと段落しました。中心になってリードしていただいた方は、さぞ疲れた事と思います。何も行っていない私でさえ、当日は、午後8時過ぎには寝て、次の日は午前7時まで寝ていました。さらに昼からはスーパー銭湯に行き、フットケアまで行いましたが、疲れは依然取れないままです。年です。

ふれあい祭りは、参加する人の年代の変化や提供する方の意識や行動にも10年前とは違ったものが出ているように思います。その年々の当たりやはずれを経験しながら、少し違った方向に行っていると思います。しかし、基本はそれで良いのだと思います。




さて、その前日は、久しぶりに姪の子供2人と対面。心地よいお酒を飲みました。
次女も下の歯が2本生えてきてむずかゆいしぐさをするようになりました。子供の成長は早いです。



生まれた時には、旦那さんの系統かと思いましたが、時折姪の小さい時の顔をするのでびっくり。親子はやはり似ています。



2012/10/23(火) 曇り時々雨


[ 第11回「い木い木ふれあい祭り」開かれる ]
第11回「い木い木ふれあい祭り」



10月20日、新東京木材池袋市場におきまして、「第11回い木い木ふれあい祭り」が開催されました。


入口です



14日会・中野支部の担当は「木工教室」です



今年は、従来の木工に加えて「サインボード」もだしました。この日は小さなお子さんが多くこのサインボードは大盛況でした。



色とりどりのボードに色を重ねていきます。
金色の売れ行きが良かったみたいです。




子供たちは一生懸命に集中していました。

今年は天候に恵まれ、また当日も近所でイベントが無かったせいか小さなお子さん連れの姿が目立ちました。入場者数も1000人を超えたそうです。

2012/10/21(日) 晴れ


[ 材木屋も危ない ]
材木屋も危ない



私の住んでいる街でも近辺の商店街はシャッター通りといわれた時代をも過ぎたような存在になっています。最近、比較的場所の良い所に中型のスーパーが出来ました。日常品はそこに行けば一か所で間に合うようになりました。自分で買いに行ける人であれば、そこまで足を延ばせば様々な商品を手に入れることが出来ます。今まで買いに来ていただいていた人達も少しずつそちらに行くようになりました。その結果、商店街の売り上げは極端に落ち込んでいます。歯抜けになったうえに、年寄りだけの少数者に商品を提供する場になっています。

「小が大を食う」と云った時代は過ぎて小は大に飲み込まれて、いっそう大きなものは大きくなるという資本主義の構図は完成されつつあります。

同じような状況が材木屋にも言えます。ここの知識やノウハウは別として大筋はプレカットで建てて、下地材もカットして納入する。外壁材も同じですし、内部の造作材も建材メーカー品が好まれて、同じ系列のメーカーで揃えれば、「きれいに」できます。もっといえば土地から仕入れをして建てて販売すれば、もっとわかりやすい建物が誕生します。同じ仕事をしていれば、慣れてきます。仕事も早くなってきます。近くで建売が何件もありますが、非常にスムースに仕事が進んで行きます。携わっている方も若いのだと思います。

それに比べるとわが社の仕事の大半はリフォームになりました。この仕事がつまらないのではありませんが、稼ぎとして、少ないのです。今行っている仕事でもひと月のうち20日は配達に行っていますが、売り上げとしては50万円を上回ることはありません。下地材が中心の仕事では、売り上げは多くはありません。

そこから先を売るには余程工務店に力が無いと出来ません。工務店に力が無いと出来ません。我々の仕事の中心であった工務店に仕事が無くなりました。材木を使う仕事が少なくなりました。自体はどんどん悪くなっています。小さな団体として計画的に残さないと残ることが出来なくなりました。そのくらい厳しい所に来ています。材木屋だけではありませんが、材木屋も危ない所に来ています。10月20日新東京木材の池袋市場に来てください。現状がよくわかると思います。


2012/10/20(土) 晴れ時々曇り


[ いつでも青春 ]
いつでも青春



川内康範作詞のいつでも青春を聞くことが増えました。

なつかしいあなたに こんにちは
すこしさびしいそうな横顔気にかかる
ぼくもつらさは いくつかあったけど
あなたを思って越えてきた
愛してる 愛してる
いつもいつでも青春さ

何年ぶりだろ こんにちは
時間(とき)が流れてこの世は変わり
僕も苦労を重ねてきたけれど
あなたを夢見て越えてきた
愛してる 愛してる
いつもいつでも青春さ



川内康範氏の思想性はともかくとして月光仮面からこの歌まで、あるいは森進一の「おふくろさん」など、記憶に残る数々の名作品を生み出しています。子供のころは先にあげた「月光仮面」「七色仮面」「アラーの使者」などのテレビドラマに夢中になっていました。高校生あたりだと「骨まで愛して」などになると思います。

60歳を過ぎて急に老けましたが、心はいつでも青春です。あるいはどんどん青春です。

来月には40年ぶりに大学時代の初期の友人と会うことになりました。今から楽しみにしています。そこで昔書いたものを取り出してきたり、あるいは最近書いたものをコピーして当日渡そうかと思っています。何せ40年の空白があるので、その間のことも埋めておきたいと思います。そういうこともしない方が良いのか、などと迷いもありますが、用意だけはしておきたいと思っています。




2012/10/19(金) 晴れ時々曇り


[ 新島八重愛と戦いの生涯 ]
新島八重 愛と戦いの生涯



吉海直人
角川書店

目次
はじめに
第1章 八重の生涯
第2章 八重をめぐるエピソード
第3章 懐古談
おわりに


今年のNHKの大河ドラマは「平清盛」でありましたが、来年のそれは新島譲の奥さんである八重さんを主人公にした「八重の桜」です。平清盛の時代考証を行った高橋昌明さんは同志社の文学部を出られた方です。が、来年は校祖新島襄の奥さんが主人公です。同志社卒の私としても少しは八重さんに興味を持ちたいと思い、この本を買いました。

八重さんは幕末の会津戦争の生き残りで、襄と結婚するまでの30年間。襄と結婚してからの14年間。襄の没後赤十字の仕事に携わる42年間。大きく分けて3つに区分できると著者は言います。従来ならば、新島襄の側からの本が多かったのに比べるとここのところの傾向は女性の側から見たものが多くなってきています。近年の女性の活躍、オリンピックなどもそうでしたが、そういう背景を受けて女性からの視点で描かれた本でした。

この本は資料が乏しいので八重の人生を十分に描けているとは言い難いのですが、八重の女丈夫ぶりは良く描けていると思います。NHKのドラマでは綾瀬はるかさんが主演を務めるそうですが、どんなふうな展開になるのか同志社を卒業したものとして興味を持っています。



2012/10/18(木) 雨


[ い木い木ふれあい祭りが開かれます。 ]
今年も新東京木材の池袋市場でふれあい祭りが開催されます。


来る10月20日土曜日、新東京木材池袋市場におきまして、材木屋の「いきいきふれあい祭り」が開催されます。
お天気は曇りのようですが、ぜひいらしてください。






2012/10/17(水) 曇り


[ 幸せを呼ぶ「住まい」づくり ]
幸せを呼ぶ「住まい」づくり


窪寺伸浩著
アートデデイズ社発行
1470円

主要目次

はじめに
第1章 失敗だらけの「住まい」づくり
第2章 「住まい」の環境問題
第3章 「住まいづくり」の極意は「間取り」
第4章 「住まい」の作者は誰
第5章 日本の「住まい」が失ったもの
第6章 木と「住まい」
第7章 お施主様からの手紙
結びにかえて



この本には、何か新しい工法や知識が書かれているわけではありません。住むことを真剣に考えはじめたら必ず読んでおく本という副題にあるように技術的なことよりももっと基本的な哲学を書いてあります。著者の先生である故・富田辰雄氏の主張をなぞりながら住まいは環境である。第3の皮膚であるという見解を引き継いでいます。なかなかこういう考え方をする人は少なくなっていますが、少なくなったからと云ってこれが間違いというわけではありません。

私が面白いと思ったのは、北海道出身の相撲取りが現在いなくなった原因として、その一つとして、北海道の住宅が高断熱高気密になったことをあげていました。私も昔北海道の親戚に「東京は寒い」といわれました。北海道の住宅は外壁だけでも100ミリの断熱材の上に12.5ミリのボードを貼ってその上から下地のベニヤ。防水シートを貼ってサイディングで仕上げていました。内部もボード張りで、クロスの仕上げが多かったように思います。実際行って寝起きしていても暑すぎた感じが残っています。

「高断熱高気密の住宅に住むようになって北海道の人達は新鮮な外気が不足して身体的に弱くなって強い相撲取りがいなかうなったのだ」と富田氏の仮説を紹介しながら、人工的な環境の中では人間自身が弱くなっていくと思います。

住まいが機械的になればなるほど、そうでない住まい造りを目指さないと住まいをその土地と気候と住む人自身に合わせた住まい造りは無くなってしまいます。現在の住まい造りとは対極にあるかもしれませんが、あなたの心のどこかにこの本に書かれた考え方を残していただければ、この本を書いた意図は達成されるのではないかと思います。






2012/10/15(月) 晴れ


[ 受験の頃 ]
受験の頃


大学受験の頃は、昭和43年から44年という学園紛争の盛り上がりと同時期でした。

夏休みを終えると、左隣に座っていた木村君が「夏休みは目いっぱい勉強した」と話しました。この一言で私は焦りました。マイペースで受験勉強をしていましたが、それ以外に何かした覚えはありませんでした。本気を出さないといけないという気にされました。私は成績も360人ほどの生徒に対して120番目といういたって中途半端な所にいました。クラスは国立系を目指すという所を目指していましたが、偏差値などを見るにつけて、現役で合格するというのはかなり難しい所にいました。一応早稲田大学を第一希望にしていましたが、そこへは全く届くことはありませんでした。しかしとりあえず受けてみる気でいました。

夏休みを終えてから翌年の一月半ばまでの記憶は全くありません。興風際も憶えていませんし、お正月も記憶にありません。受験一色だったと思います。

一月半ばには例の東大闘争が時計台へと移りました。東大の入学受験の中止が発表されました。東大を目指していた多くの友人は東大から京大や一橋大、東工大などへと受験校を変えて行きました。彼らはかなりショックだったと思いますが、私はそのあたりを全く目指していませんでしたので、あまり気にはならなかったのですが、本来東大に入るべき人がほかの大学に行くので、その分受験のレベルが上がってしまうのが気がかりでした。実際この年の合格者数は我が高始まって以来の最低を記録したと思います。(我が期はいまだに校友会の会費の納入率が最低とのことです)

私も早稲田大学をいくつか受けて全くかすりませんでした。問題が難しすぎて歯が立ちませんでした。この年東京で同志社の入学試験がありました。早稲田大学の理工学部を使って遠隔地でも受けられるというのを知りました。しかも受験は早くて2月の初めでした。早速受ける準備をして受けに行きました。試験会場は大教室で行われていました。誰となく緊張していましたが、誰かが「この中で受かるのは4人くらいかな」と行っていたのでこれは大変だと思った記憶があります。結局この試験で同志社に入ることになりました。



2012/10/12(金) 晴れ


[ 入笠山 ]
入笠山



高校3年生の夏休みはいよいよ受験を控えて、誰もが勉強に身を入れだした、と感じていました。私も高校主催の夏休み受験合宿に参加を決めていました。早稲田高校の寮があった長野県の入笠山へは他のみんなよりも二日くらい遅れて参加しました。歴研の合宿に参加していたからです。そのため、一人でJRに乗り、富士見の駅に降りました。8月20日ごろだったと思います。

富士見の駅を降りて、ハッとしました。バスが途中まであると聞いていたのですが、駅を降りてみるとありませんでした。仕方なく、歩いて寮まで山を登ることにしました。中腹まで来ると一台の車が通り過ぎました。そして戻ってきてくれました。「どこまで行くの」「早稲田高校の寮まで」「乗って行きなよ」「助かりました」

ジープに乗った男女の後ろに乗せてもらい、寮まで送っていただきました。まだ半分以上の道のりがありました。無事に着いてみんなと合流しました。私でも二泊ないし三泊したと思います。午前中は勉強。午後からは自由時間があって、夜のことが全く覚えていません。

この合宿中にソ連軍によるプラハへの侵攻がありました。下村先生がそのことを勉強中に話されました。私にはまだその意味はわかっていませんでした。

また自由時間に。小林静太郎しか覚えていないのですが、確か5人でハイキングに行きました。その帰り路だったと思いますが、同世代の女の子3人が道に迷っているのを小林君が声をかけて、彼女たちの寮まで送って行くことになりました。無事送り終えた頃に雨に遭いました。ずぶぬれで寮まで戻った時に寮の賄いをしてくれていたお姉さんたちが「台所の方に回りなさい」と声をかけてくれました。彼女たちも多分東京から来ていたのだと思います。お餅入りのお汁粉を作って出してくれました。温まりました。このお汁粉とプラハのことだけが頭の中に残っています。

そして今一つ、合宿を終えて下山することになりました。他のみんなはどうしたのか覚えていないのですが、歩いて下山することにしました。それも富士見ではなく、青柳を目指しました。帰りは上って来た道を戻らずにもう少し北の「青柳駅」まで歩いて行きました。先生もどなたか同行していただきましたが、覚えているのは、片山誠君と村山誠一君だけです。降り切った辺りで雨に降られびしょぬれになったのを覚えています。やはり雨に遭いました。駅で着替えて無事東京まで戻ってきました。夏休みはもう終わりでした。




2012/10/10(水) 晴れ


[ テレビ買いました。 ]
テレビを買いました。


10月7日に新しいテレビが来ました。

実は9月半ばに7年前に買ったテレビが昨年に引き続いて壊れてしまいました。前回直すのに2万3千円。今回もそれ以上かかります。そこで直すか新しく買い求めるか、迷っていましたが、買うことにしました。42型です。字も大きく見やすいものです。7年前に買った時と比べると半値以下です。だいぶ安くなりました。これではいくら作っても儲からないと思いますが、時代のこの傾向はまだ止まりそうにありません。

さて、6日と8日はテニスをしました。少し連続して出来たので楽しかったです。そして疲れました。無事仕事に復帰できるでしょうか。




2012/10/09(火) 曇り


[ 木場公園10月7日 ]
木場公園



10月7日「木場公園」にて「木と暮らしのふれあい展」を見に行きました。



木と暮らしのふれあい展全景。




今年もイベントは沢山ありましたが、この日の午前中はあいにくの雨。参加者はテントの中で行われていました。



積木広場


かんな削り
子供は2m。女性は4m。男性は6mのベイヒバの木を削ってそのカンナくずの長さを競います。ちなみに女性の最高は3900でした。良い成績です。

その後、深川江戸資料館、出世不動尊を経て




浅草に向かいました。
リニューアルした浅草観光会館の8階からはスカイツリーや仲見世・浅草寺が良く見えました






浅草はスカイツリーが出来たせいか、若い人で混雑していました。私が30数年前に映画を見に通った頃の胡散臭さもなく、すっきりした若い街に変化し始めている印象を持ちました。




2012/10/08(月) 晴れ


[ 高校3年生 ]
高校3年生



高校2年生の10月21日には新宿駅で騒乱罪が適用された事件がありました。高校1年生辺りから俗に云う70年安保を控えた運動が目立つようになっていました。早稲田高校の周りは早稲田大学ですから、こちらでデモなどがある時には、学校は早めに授業を切り上げたり、放課後に残らないようにという指導がありました。放課後、同級生と将棋を指していたら、帰るように言われた記憶があります。

高校3年生になると授業は受験用に編成されました。国立の理科系・文化系、私立の理科系・文化系に分かれました。クラスはもとのままでしたが、授業は目的別に行われました。私は国立の理科系というコースに行きました。物理も化学も苦手でしたが、数学は行っておきたいという気持ちでいました。このコースは頭のいい人ばかりだったのでついて行くのは大変でしたが、いい勉強になりました。バランス良く授業を受けたと思います。

3年生になると普通は部活から身を引くのですが、相変わらず出ていました。この年のテーマが「古墳」だったのです。遺跡を掘るのが楽しみという後藤雅毅君が部長になりました。私も古墳に興味がありました。夏休みの合宿は奈良県の飛鳥でした。それにも参加しました。受験を控えていましたが、あまり気にしていませんでした。

橘寺に泊まり、飛鳥寺に始まり、聖林寺の11面観音を拝見しました。その後談山神社を経て、橘寺に戻ってきました。酒舟石や猿石、鬼の石チンなども見ました。翌日は石上神宮の内部で特別拝観させていただきました。肝心の何を見たかはすっかり忘れてしまいましたが、山崎正一郎君のお父さんの伝手でした。石上神宮から山の辺の道を南下しました。途中の環濠集落や景行天皇稜なども見てきました。巻向駅辺りで電車に乗って桜井へ出てその日は暮れました。何処だか忘れましたが、古墳にも上りました。そんなに有名な所ではなかったかと思いますが、上から見下ろすと眼下に学校がありました。まだ規制もされていない所でした。

話は前後しますが、高校2年生の時の修学旅行が奈良・京都・姫路城・岡山の後楽園でした。ならでは東大寺に始まり薬師寺、唐招提寺、法隆寺と比較的北の方を回りました。京都では清水寺から北にのぼって行きました。

この飛鳥行きの時に只野さんという2年先輩の方と石舞台古墳に上りました。石をよじ登って地元の小学生と共に上まで来た時にグラッと揺れました。どこか石が外れたのかと思いましたが、地震でした。この石舞台古墳もまだ柵などもなく自由に出入り出来ました。翌々年には少し離れた所ですが、高松塚古墳が発見されますので、その前の時期はのんびりした時代でした。

この只野さんとは、この後、高2以下の部員と離れて二人で京都に出ました。四条河原町で一緒に食事をしました。祇園か八坂神社へ行った帰りだったと思います。私はここで、只野さんと別れ一人で行動しました。その日、清水焼団地近くのお寺で野宿しました。蚊に刺されながらも何とか朝を迎えました。

私はこの後東京に戻りました。翌日、長野県の富士見にある入笠山にある早稲田高校の寮で、夏休みの受験合宿に参加しました。ソ連軍によるチェコ侵略はその最中におきました。



2012/10/06(土) 晴れ


[ 歴史研究部のことなど ]
歴史研究部のことなど



早稲田高校の一年の終わりに歴史研究部に入れていただきました。歴史は好きだったのですが、部活には縁がありませんでした。それが、高校一年生の時に有志で出たのをきっかけにして、歴史研究部に入部しました。高橋寛さんが部長でした。顧問の先生は鈴木秀枝先生。岡沢先生。小菅先生でした。

高校2年になる前に平野義久君が部長、山崎正一郎君が副部長になりました。その年の秋の興風際に向けて、テーマを決めました。その時のテーマは「幕末」でした。新入生の勧誘に始まり、各サークルの予算を決める会議や夏休みの合宿先。そのあとには11月の初めか10月の末に興風際があり、そこで成果を発表しました。

その一方、東京都内の地理歴史サークルの会合もありました。慶応高校日吉・志木、学習院男子・女子、戸板女子高、共立高校、立教女学院などの学校との交流がありました。各学校持ち回りで各高校へ行きました。勉強と共に親睦も盛んに行われていました。山崎君が中心となって、成田の桜はもう見られないから、(成田空港が出来る予定だったので)見に行こうとか、何処へ行ったかは覚えていませんが、東京地歴部は(確かそんな名前でしたが、)私たちの代で終わりましたが、その終わりまで、かなり活動していたと思います。

その他に田園調布学校からのリクエストで、早稲田高校歴史研究部と交流を深めたいという話がありました。田園調布にある女子高でした。向こうから来ていただいたり、こちらから出向いたりしました。来るにも行くにも学校の許可が必要でした。「今度こういう学校の方が見えますので、よろしく」と鈴木貫孝教頭に許可を求めに行くと、「田園調布学校は共学か」と聞かれ「女子高」と答えると許可していただく書類の上から大きく「女子高」と書かれたのを覚えています。

夏休みには、合宿に行きました。京都でした。宇多野のユースホステルに宿をとり、京都市内の志士たちや新撰組に関係した所を中心に歩きました。島原から壬生。東山の霊山観音や池田屋跡など。夜には、大文字焼きを見ました。8月16日の夜に合わせてスケジュールを組んでいました。今思えば、出町柳の三角州で大文字焼きを見ました。そこから同志社まで歩いて、そこでユーホステルに「夕食に遅れます」という電話をしました。この電話から一年半後に同志社大学に来るとは思ってもみませんでした。

文化祭の季節には各高校の文化祭にも行きました。私たちの文化祭にも来ていただきました。私は話が下手なので文化祭当日もしどろもどろで説明をした記憶しか残っていません。ただし、大野は扮装しろと言われて、「新撰組」の衣装を着ました。笹塚にある「京都衣装」という会社に借りに行きました。写真をを残さなかったので記憶だけですが、下駄も履かされた気がします。

高校2年生の時には歴史研究部だけの活動で終わりました。他の記憶はほとんどありません。平野、真仁田、山崎といつもつるんでいました。お互いの家に行ってはごちそうになってきました。放課後ともなると3階の上の屋上で、サッカーや野球をしていました。4人でしていました。屋上からバットを振っていたら、バットがすっぽ抜けてあわてて階段を下りて探しに行きました。中央にあった階段に落ちていました。偶然窓があいていて階段に落ちていました。窓ガラスも割らずにすみましたので胸をなでおろした記憶があります。サッカーと行ってもボールをけるだけでしたが、放課後の楽しみでした。それが終われば、「一楽でタンメン」が待っていました。新宿で映画を見たり、早稲田ボールでボーリングなど、今考えてもよくそれだけのことが出来たなという気がしていました。未来はとてつもなく広がっていました。

高校3年生になると受験校だったので、当然受験中心の生活になりました。しかし、この4人で何かをすることには変わりはありませんでした。私が同志社に行き、山崎正一郎が20歳で八ヶ岳で滑落死するまでそれは続きました。



2012/10/04(木) 晴れ時々曇り


[ ただ一度の舞台 ]
ただ一度の舞台



中学生になった時の文化祭では「ピノチオ」という「ピノキオ」をもじった劇に出ました。引っ込み思案の私にとって人前というのは不得意です。幼稚園の時に数度、小学校でも一度、そういう経験はありますが、好きでないものはやはり得意ではありません。それでも先生の御指名で、ピノチオの周りにいる人形役で出ました。第一幕の初めに幕が開くと同時に機械的な踊りをする4人のうちの一人でした。授業が終わってから練習をしました。踊りの先生が見えて振り付けを教わりましたが、正確には覚えなかったので、初日が近づくと忘れてしました。それでも4人で何とか、思い出しながら練習を重ねました。そして初日、出だしの音楽がよく聞こえずに、バランスの悪い踊りになってしまいました。終わってから先生に叱られました。翌日は音楽の音も聞こえましたし、幕が開き始めて所から動き始めて、これはうまく行きました。何とか初舞台をこなせました。中学一年生の文化祭での一こまでした。




前列の中央やや右の4人のうちの一人です。左端にいる伊勢君も亡くなってしまいました。



2012/10/03(水) 曇り時々雨


[ 早稲田中学・高校時代のことなど ]
早稲田時代のことなど



早稲田時代と行っても大学ではありません。中学・高校の話です。先日、影山君の「風景」を読んでいたら、突然懐かしくなりました。読んでいくと中学・高校時代の色々なことを思い出してきました。

私は中学の入学と共に卓球部に入りましたが、すぐに辞めました。体力的について行けませんでした。(最近卓球部で部長をした伊藤敬一君も亡くなられたそうです)中学一年から三年まで、学校と家の往復でした。中野新橋から地下鉄に乗り、新宿へ出て、国鉄に乗り換え、高田馬場で降りて、学バスに乗って馬場下町で降りました。当時一五円で往復切符を買い、半券を渡すシステムだったと思います。時々はバスを使わずに歩きました。

中野新橋からは同じ小学校から田巻真君がいたので彼と通いました。隣の中野富士見町駅から乗ってきた森雅晴君とは早稲田時代の初めての友人でした。一年生の終わりに今の西新宿に住んでいた水上光啓君と田巻君の三人で、水上君の親戚の家に泊まりに行きました。山梨県の韮崎でした。甲府で降りて、城跡を見てから汽車に乗り換えて韮崎に行ったのですが、トンネルに入ると煙が車内に入り込んで来たのを覚えています。

韮崎からの帰り道は小渕沢へ出て、小海線に乗り、佐久から高崎経由で上野に付きました。韮崎からは一番安い切符で乗っていました。定期券を持っていましたから、うまくいけばそのまま新宿で降りることが出来ます。ただしそううまくは行かずに途中で改札に会いました。切符を買いました。ただし子供料金ですませたことを覚えています。

水上君と田巻君は今風に言うと鉄道オタクでした。自宅には鉄道の模型があり、日曜ともなると水上君の家に行って模型を走らせては楽しんでいました。

二年生の夏には森君と水上君の三人で森君の親戚の家に泊まりに行きました。富山市です。城址を見て、翌日からは立山に行き、山小屋で一泊しました。室堂までバスで行き、途中称名の滝を車中から眺めました。室堂から少し登った所で一泊したと思いますが、定かではありません。その山小屋でその直前に新潟で地震にあった方と一緒でした。写真が残っています。




中学三年生の終わりには、春先ですが、奈良と京都に行きました。水上君と田巻君の三人です。新幹線で豊橋まで行き、そこで名鉄に乗り換えて、名古屋で降りました。テレビ等へ行き、そこで写真を採っています。名古屋城へは行っていないと思います。名古屋からは近鉄に乗って八木で乗り換え、奈良市内の宿へ行ったと思います。興福寺、春日大社、までは覚えているのですが、後の記憶はありません。奈良から京都へ移動して、駅前にあった「法華倶楽部」に泊まりました。男の方一人と相部屋でした。翌日、多分、金閣寺、竜安寺経由で仁和寺へ行ったと思いますが、仁和寺しか記憶にありません。京都からは夜行で新潟へ向かいました。弥彦での写真が残っています。色々な列車に乗ることを目的とした旅だったと思います。私は付いて行くだけでした。

高校一年の夏には、広島、松江、出雲と旅しました。記憶では夜行寝台で広島に付き、原爆資料館を見て、厳島神社、岩国城をいうコースを経て広島に戻りました。その夜広島から夜行に乗り、松江に行き、松江城にのぼり、小泉八雲旧宅の所で写真を撮っています。それから出雲大社をお参りして、鳥取まで移動です。鳥取で砂丘を見ました。海で遊んでいる写真が残っています。この旅行では宿で泊まった記憶がありません。ひょっとすると寝台列車や夜行列車を使った旅ではないかと思います。(出雲大社と鳥取砂丘へはその時にしか行っていません。行ける時に行かないといけませんね)



高校一年生の秋になると、早稲田高校では「興風際」という文化祭があります。これに高一有志で出たいという人がいました。井上達朗君です。何を行ったか、覚えていないのは情けないのですが、クラスの違った井上君が「大野君、手伝って」と我がクラスに来ました。私は当時、あるいはその一年くらい前から山岡荘八の「徳川家康」(全二六巻)などを読んでいたり、図書館で、歴史大事典を紐解きながら、歴史の本を読んだり、色々な家系の系図などと作っていました。そんな関係でお呼びがかかりました。ですから歴史に関したことだったのだと思います。興風際では、一生懸命になった記憶はあります。とても充実した感じを持ちました。この時、その時指導していただいた和角仁先生は、視覚的に訴えるために色使いについて教えていただきました。そのことは覚えています。和角先生は歌舞伎の専門家でありました。当時すでに「市川染五郎」という著作を持っていました。先生の指導で、学外で、歌舞伎を見に連れて行ったのを覚えています。国姓爺合戦です。結局歌舞伎もそれ一回きりです。

さて、興風際を終え、充実感を持った私は歴史研究部に入れてもらうことにしました。高校一年生の終わりでした。

ここには、平野、真仁田、山崎という同級生がいました。二年先輩には、只野さん。一年先輩には、高橋さん、星野さん、保倉さんなどがいました。一年後輩には、後藤君、飯館君、二年後輩には、守君、星谷君などがいました。

同期の三人を交えた四人で行動することが多くなりました。水上君や森君、田巻君とはあまり一緒に動くことが無くなりました。いよいよ高校二年生になりました。



2012/10/02(火) 晴れ


[ 風景 ]
風景



影山健次著
近代文芸社

主要目次

旭町
競馬場
山中湖
早稲田 1963年から1969年
入笠山
八ヶ岳
丹那トンネル
稚内・夏の祭り
アムール河
北鎌尾根
ノワェール
冬の待合室
野の花

著者影山健次は、「はじめに」でこう書いています。

何をどう書いても結局は自分史を語ることになってしまうかもしれない。自分はさておき、出会ってきた人々を書きたいと思っている。絵葉書の写真は景色である。風景の中には必ず人々が生きている。そんな風景が書ければいいが。


著者と私は中学・高校時代に同期生です。(1963年から69年まで)しかし一度も同じクラスになったことはありません。では全く知らなかったといえばそうは言えません。彼は山岳部の一員として名を馳せていましたから。学校では有名人でした。私は少し風変わりな印象を持っていました。しかし、この本を読むと影山君の「出会った人々を書きたい」という気持ちやその後ろにある、彼の、彼自身の人柄が垣間見えていい奴だった、改めて感じました。彼はすでに故人です。いつ亡くなったのかも知りません。現在遺族がどこに住んでいるのかも知りませんが、本文中に娘さんが三人いる、と書かれているので家庭を持ったことは確実です。

この本の中にはまず、私が小さい頃に経験したことが一杯語られています。同じ時代を生きたので、同じような体験は数多く出てきます。そして早稲田中学・高校。彼にとってもこの時代が一番良かったのだと思います。この本は1996年に出版されていますが、(私達の年齢で云えば45歳でしょうか)本文中に出て来る年代で云えば、一番ラストは1980年です。中心は山のことを書いた高校時代だと思いました。山が本当に好きな人だったのだと読んでいて感じました。

実はこの本を教えてくれたのは、早稲田高校の同期の新藤雅章です。早稲田高校の校友会の会報に紹介してくれました。新藤君、ありがとう。



影山君は、今から20年近く前に、一度手紙をくれました。私のわずかな記憶では、ヒマラヤかネパール旅行の案内ではなかったと思います。やはり山に関係した案内であっとことは確かです。手紙を捨てた記憶はないので、どこかに残っていると思いますが、見える所にはありません。卒業以来一度も会うことなく、お別れしましたが、この本を読んでいると影山君がここに生きているのだ、と確信しました。良い友を持ちました。


2012/10/01(月) 晴れ


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[ 管理者:大野満生 ]


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