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時々更新mn日記

( 2012/05 ← 2012/04 → 2012/03 )


[ 飯舘村は負けない ]
「飯舘村は負けない」


岩波新書
千葉悦子・松野光伸著

目次
第1章 村に放射能が降った
第2章 村はどう対処したか
第3章 村つくりのこれまで
     1協働の村つくりの開幕
     2地区・集落を単位とする村つくり
     3自立した「までい」な村つくり
第4章 いのちと健康を守る
第5章 なりわいを守りたい
第6章 一人ひとりの復興へ


飯舘村は福島県にあります。東側に南相馬市、南東側に浪江町・双葉町があります。昨年3月11日の大地震の時、比較的被害が少なかったので、海岸沿いの被災者を受け入れました。ところが、3月14日と15日の福島原発の相次ぐ事故で村に放射能が降りました。浜通りの避難者を受け入れた人々への全村避難指示、不安と混乱。

豊かな土地を、丹精込めて作り上げた村を捨てるのか。世界中が注視する中で、役場の奮闘、若者の発信、女性たちの頑張りをこの本は描いています。

あとがきには、著者から以下のように書かれています。

一年経った飯舘村では、現在、除染・帰村という今後の方向性をめぐって、意見の激しい対立がある。それは村がおかれた厳しい状況からすると当然である。ただ、原発事故にあったほとんどの自治体の住民は、意見を表明したり、行政とぶつかりあったり出来ていないように見える。そうしたことからすれば、飯舘村における激しい意見のぶつかり合いの中に、村の復興にとっての可能性を見出すこともできよう。

と書かれています。

第3章に詳しく書かれていますが、飯舘村は、これまで独自の村つくりを進めてきました。「ミートバンク」や「若妻の翼」など村民主役の村つくりを進めてきました。その歴史的な経験や蓄積を元にして今戦っています。決して楽な道ではありませんが、意見の違いを乗り越える時に「飯舘村は負けない」だけでなく、われわれにも元気を与えてくれるものだと思います。みなさん読んでください。





2012/04/26(木) 雨


[ ビーフカツ ]
ビーフカツ



いつもは、トンカツなのですが、ビーフのカツが食べてみたくて、お肉屋さんにお願いしてあったのですが、それに適した部位が入ったからと連絡がありました。そこで早速二人前注文して、昨日食べました。昨日の夜にはテニスもあったので、テニスに行く前に半分、終了して帰ってきてから残りの半分を食べました。
暖かいうちのそれは、どちらかと云うと、メンチカツのようで、少し油が勝っているように思えました。
が、後半で食べたそれは、冷めてもおいしいものでした。

私は父親が肉が食べられなかったので、20歳になるまでほとんど肉を食べたことがありませんでした。カレーライスの中身はひき肉か豚肉が少々入っているだけでした。クジラの肉は食べましたが、トンカツとか、生姜焼きなども二十歳を過ぎてから初めて食べました。ステーキは25歳を超えたころが最初だと思いますが、その頃食べたもので「おいしい」と感じたものはほとんどありません。
それが今では、週に三日は肉ですから、人間何が好みになるか、わからないものです。おかげで肉を食べていない頃から比べると体重は15キロくらい太りました。自分の頭の中ではまだ「痩せっぽっち」ですが、鏡に映る自分はやや肥満です。

さて、次は豚に戻そうかと思っています。たまに牛もいいかなと思いますが、普段食べるトンカツは、豚の方がさっぱり感があっておいしいかと思います。


2012/04/25(水) 曇り


[ この所 ]
この所


この所古い書類を整理しています。それは会社のものであったり、自分のものであったりします。段ボールに入れっぱなしで古いものは40年以上になります。新しいものでも3年、5年を経ています。古くなって必要性の薄いものは、捨てることにしました。昨年秋に母の17回忌を行う際に父母の写真の整理を行い、父母の写真集を作りました。同時にそこに収まりきれないものをCDに焼きました。もうそのあたりの物も処分の対象になるでしょう。
また自分自身の写真集も作りました。則ちゃんとのものはすでに5冊ありますが、それとは別に2種類作る予定です。そうすれば小さなスペースで収まって行きます。暮らしはどんどんシンプルにしていきたいと思います。断捨離と云う言葉がありますが、そういう年になりました。特に同世代の方と話をしたり、メールでやり取りしていると捨てる年になったことを実感しています。
さて、新東京木材中野支部の定期総会も終了して、役員留任で、今一年頑張っていただくことになりました。
今日は気持ちが少しブルーなので、鶴田浩二を聞いています。「好きだった」「赤と黒のブルース」「名のない男のブルース」を聞いています。


2012/04/24(火) 晴れ


[ 曇り空の九十九里から銚子へ ]
曇り空の九十九里から銚子へ



4月22日は千葉県の銚子を目指しました。まずは九十九里海岸のうち、蓮沼海岸で海辺まで歩いてみました。海岸では蛤を取っている人が十数人。蟹を釣っている人も二人ほどいました。蟹は拳の半分くらい。蛤はさらにその三分の一くらいでしょうか。蛤としては大きい方だと思います。







ここで戯れた後は、旭市を通って銚子にある「地球の丸く見える丘展望館」へと足を運びました。屋上にある展望台へ登ると、360℃見渡せます。東に犬吠崎の灯台に太平洋。西に屏風岩。北にポートタワーや利根川の河口。そして南側には晴れていれば富士山も見えるとのことでした。台地の上にあるのでぐるりと一望できます。お勧めの所です。


下の方に犬吠崎の灯台が見えます。


ここを後にしてから昼飯を食べて、ヒゲタ醤油の工場見学。さらにお土産にと篠田食料品店の佃煮を買い求め、犬吠埼の灯台へと向かいました。



灯台から先ほどの展望館が台地の上に見えます。



99段登って上まで行ってきました。風が強かったです。

銚子の街も昨年の大震災後は特に活気を失ったといいます。銚子駅前を除いて閑散とした街に思えました。何とか日帰り出来ました。


2012/04/23(月) 雨


[ こあら(なかしん) ]
こあら(なかしん)


中野新橋の貴乃花部屋の並びにある山形料理のお店です。山形にこだわり、山形の料理を中心に置いています。お酒、ワイン、焼酎なども山形のものが多いです。同様に食べ物も山形のものが沢山あります。私の好みからすると、いも煮ですが、肉そばも玉こんにゃくもお魚もおいしい所です。
私ももう少し日本酒が飲めると、もっとここへ来たいと思うのですが、日本酒は一杯飲めばお代わり出来ませんし、また、ワインも飲めないので、楽しみ方としては半減ですが、マスターの講釈も聞けるので、たまには来たいと思っています。料理はボリュームがありますよ。






2012/04/21(土) 晴れ


[ 「PINPAN」 ]
PINPAN



中野新橋駅を降りて、川島商店街のすぐ手前にあるイタリアンレストランです。一人で作っているので、すぐには出てきませんが、時々ここを訪れておいしいものを食したいと思います。
たまたま昨日は、仕事が遅くなってしまったので、外食にしました。選んだのは、ここ「PINPAN」でした。前菜の盛り合わせにピザやスパゲッティーをいただきましたが、ピザはおいしかったですね。この日のピザは「山菜とアンチョビ」でしたが、思わずおいしいと口に出るくらいおいしかったですね。また来たいです。
昼間は別の方が、軽食と飲み物を提供しています。先日は昼間に行きました。値段は安くないですが、この辺りではおいしい所です。




2012/04/20(金) 晴れ


[ サウスポー ]
サウスポー



私はサウスポーです。今でこそ、左利きのまま字を書いたり、左手でお箸を持っている人が多いですが、私が小学校の低学年の時に直されました。筆を持つ手は右手です。字を書くのも右ですし、お箸も右です。
ところが、本来左利きですから、いざと云う時に出てしまう手は左になります。またスポーツも左を使います。今テニスが趣味ですが、左利きの方が有利だと右利きのコーチは言います。ベースボールならわかりますが、テニスでは変わらないと思います。おそらくは右利きの方の方が多いので、左と対戦した場合、攻め方が逆になるので、ついいつもの通り右利きの方に対する攻め方をすると、逆襲を食らうからだと思います。ですから私は右利きの方と対戦しても有利だと思いません。
さて、左利きだと不利なこともあります。まずは道具です。ハサミなどは右用に作られていますので、使いづらいと気があります。そこで左利き用も持っていますが、これも右手で持ってしまって何のための左ようかわからなくなります。
最近、テニスのラケットのグリップテープを左利き用にしました。右手用を使うとテープがはがれやすくなります。昔々、子供の頃にコマ回しを行っていて左でひもを巻くと紐の緩みが早くなって水につけて元に戻したりしましたが、グリップテープを左ように巻いたので、その心配も無くなりました。きっとテニスもうまくなると思います。確かに握るとしっくりきています。腕を磨くには道具は大事です。


2012/04/19(木) 晴れ


[ 製品のレベルは落ちている ]
製品のレベルは落ちている?



ある琴屋さんに納められている製品の大半は中国で作られているとのことです。もちろん、その会社の状況ですが・・・
そのため、製品の入荷の時期が守られなかったり、出来上がってきた製品に難点があるとのことです。そんな時は「さすが中国と思っている」と言います。
日本製品であるならば、そんなに悪くはないと思いますが、我が業界で考えても日本製のもののレベルは、この二十年間で上がっていると思います。とはいうものの全体の8割は輸入ですから、その8割に目を向けなければならないでしょう。
日々売れていくもので考えると、まずベニヤ類です。原木は外国産ですが、国内で製品として作っているものと製品として輸入されるものがありますが、国内で作られているものは、まず値段が高いものになります。大抵ここがネックで、安い方へ流れます。
安いもので良いものをと思う気持ちとは裏腹にそういうものは現実的ではありません。一山ずつ買って、良いものが入ったら配達してほしいと話をしていても、100枚買って10枚くらい不良品が出てしまうともう少し高いものを買い求めようという気になります。実際入荷して見ないと一概に言えませんが、高いものでも品物が良いと気分良く売れるという特典がつきます。実際そういう品物は減っていると思います。それは単価が安くなったからだと思います。
木材でよく売れる商品にタルキがあります。30×40ミリのサイズのものを符丁でそう呼びます。この商品は一番の売れ筋です。したがって、沢山の種類があります。同様にランクもあります。仕入れ単価から考えて10種類くらいに分類されるでしょう。最近よく聞く話ですが、良品は数量が作れないので単価が下がりませんが、少し下の材料は値段が下がりつつあるそうです。さらに値段だけでなく商品そのものも、これはかなり下がったといいます。
このレベルのタルキはまだ買っていませんが、12本入りの梱包をばらしてみて初めて、その善し悪しがわかると言います。だいぶ落ちたといいます。商品としてのレベルは二十年前と比べるとかなり良くなったと、私は長年の経験でそう思いますが、ここ数年の動きを見ていると「良いとばかりは言えない」と思うようになってきました。今は景気変動の波からいえば、かなり底です。生産が間に合わないくらい売れれば値段は上がってきますが、ひとたび逆になれば値段は下がります。今、昨年の7月に見積もった現場にかかり始めましたが、昨年のその頃は、品物がまだなくて、かなり高い見積もりでした。その頃から見れば今の材料の値段は下がっていますが、ただ、その現場の方によると材料は下がっても人を集めるのに大変で、人件費は上向きとのこと。なかなかうまくいかない昨今です。
出来上がった建物は、良い建物になるのでしょうか。施主が気に入った建物になれば一番良いのですが・・・


2012/04/18(水) 晴れ


[ 土曜日は ]
土曜日は


14日の土曜日には、研修で品川まで行きました。品川駅は新幹線が止まるようになってから大きく変貌していました。駅の中には沢山のお店が所せましと入っていますし、海側の旧国鉄商社城跡地には、品川グランドコモンズと称して、7つの高い建物が建てられ、壮観でした。
研修も終わり、雨の降る品川駅を後にしましたが、傘もささずに移動が出来て、大変楽でした。しばらく来ないとどんどん変わってしまいます。この変化についていけなくなった気がしました。
せっかく品川まで来たので、ここで食事と思いましたが、人ごみの中を歩くのも疲れそうなので、新宿まで戻り、小田急百貨店ハルクの裏通りにある「大黒」で食事をして帰ってきました。久しぶりに贅沢をしました。



2012/04/16(月) 曇り


[ 近現代日本史と歴史学 ]
近現代日本史と歴史学


成田龍一著
中公新書

序章  近現代日本史の三つのパラダイム
第1章 明治維新T 開国
第2章 明治維新U 倒幕
第3章 明治維新V 維新政権
第4章 自由民権運動の時代 変わる評価の主体
第5章 大日本帝国論 国家と天皇制の解明
第6章 日清、日露戦争の時代 1984から1910年
第7章 大正デモクラシー期 1910年代から20年代
第8章 アジア・太平洋戦争の時代 1931年から45年
第9章 戦後社会論 同時代史の解明
参考文献
あとがき


近代日本の始まり、ペリー来航ではなく、かつては天保の改革とされていた。高度成長期の公害問題が起こるまで、田中正造は忘れられた存在だった。歴史は、新史料の発発・解釈により常に書き換えられる。特に近現代史は。時々の政治・社会状況の影響を受けてきた。本書は、マルクス主義の影響下にあった社会経済史を始め、民衆史、社会史と云う三つの流れから近現代の歴史がどのように描かれ、修正されて来たかを辿る。

とはじめにに書かれています。
続いて、

戦後はじめられた近現代の歴史学研究は、大まかに言って、第一期の社会経済史、第二期の民衆史、そして第三期の社会史に分けられます。本書では、近現代日本史を9つの大きなテーマに分け、第一期の教科書の記述を歴史の流れの導入として、次に第二期、第三期は、どのように新たな見方・解釈と叙述、すなわち、歴史像を提供したのか紹介し、近現代日本史を再構成してみたいと思います。それぞれのパラダイムの中で歴史学者たちが、どのように自らの見方・解釈・叙述―歴史像を提供したのかを辿って行くことにしましょう。

と結んでいます。

また、あとがきには、

本書の原型は、歴史の教員を目指す学生たちへの講義にあります。歴史の教員となった時に、史学史を踏まえた歴史教育を行ってほしいという思いからの講義でした。そのため本書で扱ったのは、もっぱら歴史教育という観点からの近現代日本史像です。

としています。

この観点から、教科書ではどう書かれていたのか、五〇年前にはどうだったのか、それが今はどう変化しているのか、そのようなことを読みやすい文章で書かれているのは、この本の著者の力でしょう。
久しぶりに、史学史を思い出しました。それとともに若い方々にも読んでいただきたいと思います。特に「アメリカと日本が戦争をした」ことも聞いていないような方々にも読んでもらいたいと思います。中身は濃いですが・・・





2012/04/15(日) 曇り


[ 日本古代史を科学する ]
日本古代史を科学する


中田勉著
PHP新書


目次
「二十一世紀の科学」
人文科学
物理学の終焉
考古学への応用
「魏志倭人伝」
  初期条件
  前提設定
  「周髀算経」と魏晋朝短里
「邪馬台国への道」
  伊都国
  宇宙考古学
  投馬国
「記紀」
  邪馬台国
  数理考古学
  天照大神
「太伯と徐福」
  二つの金印
  弥生の誕生
  臥薪嘗胆
「二つの出雲」
  呉越同舟
  殷周革命
  国譲り
「四王朝説」
  神武王朝
  崇神王朝
  応神王朝
  継体王朝
  万世一系
おわりに


著者は、お医者さんです。その目で「魏志倭人伝」を読みとき、弥生人が、中国のいまでいう上海辺りからお米の文化を伝えたことを教えてくれます。
それはY染色体や「ジャポニカ米」を通して日本人のルーツを探ると中国の東南部からやってきたことがわかります。日本には太伯や徐福伝説がありますが、今から二千数百年前に、これらの人々が国を捨てて海を渡って九州などの地に渡り、「弥生」の文化、お米作りや国を作った人々がいました。狗奴国とか邪馬台国とかいうクニはそれらの人の末裔が作ったものだと書かれています。魏志倭人伝の邪馬台国について書かれた部分で、違和感を覚える「皆黥面文身す」つまり入れ墨をしていたという部分も「姫姓の呉の民と等しい」ことを考え合わせると納得がいきます。その辺りから来た人たちの習慣だったことがわかります。
それでは肝心の邪馬台国はどこにあったのでしょうか。魏志倭人伝を読み解いていくと、中国からの使者は、今の唐津あたりにあった「末盧国」から東南に下り、有明海に出て、そこから「水行10日、陸行1月」を経ていくと、今の宮崎平野、日向灘に近い所にあったという結論を導き出しています。
かなり合理的な導き方だと思います。
さらに、神武東天皇の存在に触れ、歴代の天皇の在位年数から考え合わせると紀元後282年ごろに即位したと考えられるとしています。神武天皇の実年代をこの辺りにすると、その先祖である天照大神は「卑弥呼」に比定出来ます。神武の発祥地、神武の名前の由来、神武東征の意味などもそのあたりから理解することが出来ます。
ごく普通に考えるとこうなる、と云った感じの本です。よく出来ていると思います。






2012/04/14(土) 雨


[ 歴史的な経験 ]
歴史的な経験


今から40年くらい前に書かれた昔の本を読んでいて、「歴史的な経験」と云う言葉に出会いました。明治17年の11月に秩父事件と云うのがありましたが、自由民権運動のラストを飾る一つのエポックになった事件です。埼玉県の秩父市を舞台にしたのでこの名がついています。この事件を巡って書かれた部分で、この事件に参加した人達の意識の高さや行動力が何に由来するのかを井上幸治さんと江口朴郎さんが語っています。その中でその事件から約20年前の「慶応2年の百姓一揆-武州一揆」の経験がこの事件に影響大だと書いてありました。
この本も40年前には読んだと思うのですが、「そんな二十年も前のことが記憶に残っているのだろうか」と云う疑問を当時私は持っていましたが、今の歳になると、二十年前などは「ほんの一昔」です。その時に得た経験は記憶に残るだけでなく、若い人がいれば語り継いで行けると思います。
その本の中には、対抗する相手とぶつかりあった時(斬り合いなどになった時)には、こちらが二人以上になって、二人なら相手の前と後ろに回ること。三人ならば、前と後ろと横に入って、横一列に3人並ばないことなどが伝えられていたと書いてありました。また、必要以上のものを取らないことや婦女子を犯さないことなどの規律も武州一揆の段階で守られていたといいます。
そういうものが歴史的な経験として積み上げられ、次の代に伝えられたとするならば、数十年前に起こったことと現在とは容易に繋がります。
昨年の大地震以来、古い言い伝えが再認識されているように、伝えておかなければならないことが沢山あるように思います。今の私の仕事でいえば、和室作りになるのでしょうか。第一線からは段々と遠くなりますが、私の仕事はまだ残っていそうです。

2012/04/13(金) 曇り


[ 雑感 ]
雑感



この所時間にゆとりが出てきました。自由な時間が増えています。月曜日から金曜日までの午後の時間帯にその自由時間はあります。その時間に手紙を書いたり、読書に宛てたりしていますが、その際、音楽をかけることが多くなりました。これまでも70年代フォークや舟木一夫、石原裕次郎などを聞いていますが、この所へ来て少し変化しています。山川豊の函館本線やアメリカ橋、北原由紀のかしこい女じゃないけれど、太田(テジョン)ブルースなどを幾度となく聞いています。一週間単位で曲が変わってきています。最近聞いているものは、これまでほとんど聞いたことのない歌ばかりです。今まで好きな歌ばかり聞いてきたつもりでしたが、この所聞いているものも良い歌だと思います。

新たなものを聞いているというのは、自分の中に今まで違う気持ちが持ち上がっているのでしょうか。

さて、今朝の6時20分ごろのNHKのニュースでは、福島県産の木材が取り上げられていました。
福島第一原子力発電所の事故により、発電所周辺の森林には、大量の放射能物質が降下しました。この影響により、福島県産の木材は敬遠され、売れなくなっているとのことでした。放射性物質は丸太の皮をはぐことで、90%は除去されます。普通に製材されたものであれば、自然界からうける放射線量を超えることはないことが紹介されていました。
しかしながら、お客さんの理解を得るためには、製材の段階で、放射線量を測る機会を導入し、全量検査することをこの製材所では検討しているとしていました。約2000万円かかるというこの費用は本来どこが負担すべきなのでしょうか。
また、これだけでは、依然として剥がされた「皮」の部分の処理方法は出てきません。もう少し大きな組織をまきこまないと解決への道のりは依然として厳しいものと思われます。

さてさて、仕事がいくつも決まりました。暖かくなった分だけ身体も動きます。今晩は神田川沿いの桜見物を予定しております。



2012/04/12(木) 晴れ


[ 今日も風が強くて ]
今日も風が強くて



 今日も風が強いですね。天気予報では、これから雨も降るようです。雨が降る前に千葉県の野田まで配達を済ませました。もう一度行きますが、今日は雨の前に予定通りに行くことが出来て、一安心です。中野から現場まで約55キロありました。南に行けば鎌倉市まで行ったことになります。
行きは高速を使わずに環七から日光街道をひたすら走りました。友人のいる越谷を過ぎて、春日部を横に見ながら一六号へ出て、そこから野田市に入りました。約2時間です。トイレ休憩も出来たので、のんびりでした。現場に材料を降ろして帰りは高速を使いました。
南へ出て流山インターを目指しました。16号線から一筋入った道を走りましたが、この辺りは最近開けたところらしく、街道沿いには、大型の店舗が並んでいました。何もなかった所はどんどん開けていきます。野田を過ぎると流山です。そこから高速に乗りました。
トラックで高速に乗るのは久しぶりでした。常磐道、外環道、首都高速道と乗り継いできましたが、一回ごとに料金を支払いながら帰ってくるのは疲れました。普段高速を使うときは、ETCで支払を済ませています。ナビやETCは当たり前になってしまいました。
楽をすると、苦労や面倒臭くなってしまうことが多くなります。もう戻れないです。


2012/04/11(水) 曇り時々雨


[ ミニクラス会と花見。 ]
ミニクラス会と花見



この所気温も上がり、桜の花も一気に咲き誇っています。6日の日には、新宿でミ二クラス会。土曜日は哲学堂でテニス。日曜日は哲学堂で春季シングルスの試合を見に行きました。日曜日の哲学堂は、花見客も多く、満開を迎えた空の下で半日を過ごしました。中野通り、新青梅街道も桜は満開。気持ちの良い一日でした。




哲学堂テニス場の横です。


2012/04/09(月) 晴れ


[ 「なぜ儲かる会社には神棚があるのか」 ]
「なぜ儲かる会社には神棚があるのか」


窪寺伸浩著

目次
第1章 なぜ儲かる会社には神棚があるのか
第2章 神棚で会社が変わる、社員が変わる
第3章 会社に神棚をどう取り付けるか
第4章 木でつくられた本物の神棚を
あとがき



「神棚マイスター」でもあり、クボデラ(有)やマルトミホームなどいくつかの企業の代表でもある窪寺伸浩氏がこの度、新著を上梓しました。その名も「なぜ儲かる会社には神棚があるのか」です。

倒産した企業の85%には神棚がなかった。
銀行融資担当者の多くが融資するかどうかを決めるポイントの一つに会社に神棚があるかどうかを挙げている

など、前書きも面白く、一気に読ませます。

窪寺氏は、ここ数年間の神棚マイスターとしての活動を通して、また、経営塾に参加する中で得たことをこの本の中で紹介しながら、話を進めていきます。それによると神棚を祀り、神様が見ていることを意識していく中で会社や社員に変化をもたらすこと。その結果は「ありがとうございます」と云う感謝の心に現れます。そのきっかけになるものとして神棚をとらえています。
また、以上を踏まえたうえで、「木でつくられた神棚、それも歴史のある、樹齢のある本物の木が使われた神棚」を祀ってくださいと話されます。年輪を経た木は自然からの恵みであり、先祖からの贈り物でもあります。今私が木を植えたとしてもその恩恵を受けるのは、私の孫よりも下の世代です。いわば自分のために植えるのではなく、後世の人達によい影響を与えるために木は存在してきました。その繰り返しが日本の文化を作ってきました。今の私もその恩恵を受けています。恩恵を受けてきたことを次の世代に伝えるのも一つの仕事になるでしょう。そんな話でこの本は終わります。
なお、神棚の祭り方や神棚の大きさ、どこに行けば売っているのかなど、その辺りも懇切丁寧に書かれています。買い求めて読んでいただければ幸いです。







2012/04/06(金) 晴れ


[ 和菓子屋を探して ]
和菓子屋を探して



ようやく春めいてきましたね。いつの間にか着ているものを一枚脱いでしまいます。お日様の力は偉大です。あすは花見になりそうです。
今日は昼間自転車で用を足していました。そんな折、ふと和菓子が食べたくなりました。中野新橋にも以前は梅花堂と云う和菓子屋さんがありました。川島商店街には、吉田屋と云う和菓子屋さんがありました。ここの稲荷ずしは私の幼少から数えても一番おいしいものです。関根さんのお揚げを使い、吉田屋のおばあさんが丁寧に作った甘みのあるその味は、もう食べられない分だけ、余計においしいものとして記憶されています。川島商店街には、その他にも兎月堂、長月、千耕堂などもありましたが、今ではそこは全部閉じてしまい、伊勢屋だけが営業しています。
西新宿からわが社の方へ西に向かって和菓子屋さんを探したのですが、見つかりません。青梅街道を西へ。中野坂上から新中野へ入り、鍋屋横丁にある、鳳月堂で買おうと思いましたが、あいにくお休み。少し北へ向かってナベ横「玉屋」で柏餅を買いました。さて、お味は?
わが社ではまだ3時のお茶の休憩があります。




2012/04/05(木) 晴れ


[ 暴風 ]
暴風


昨日の夜の風は強かったですね。おかげで予定していたテニスはお休みにしました。休みを決め込んだ所、思ったよりも雨は少なくて、「行った方がよかったかな」と思いました。が、欠席を決めて家でのんびりしていました。
今朝になってだいぶ風も収まりよい天気です。近くの屋根のトタンが剥がれたようです。雨の吹き込んだ家もあったのでは、と思っています。わが社の下小屋も数本木材が倒れましたが、思ったほどではありませんでした。この時期にこんな大風はあまり記憶にない所ですが、各地の被害を聞くたびに列島全体が呪われているかのようです。
さて、4月3日の読売新聞の夕刊には、「東電、福島の木くず拒否」という見出しが一面を飾っていました。
それによると、

福島第一原発事故の影響でがれき処理が問題になる中、製材で発生する木くずでも、受け入れをめぐり業者が苦境に立たされている。一部で高い濃度の放射性セシウムが検出されたこともあって、行き場を失った木くずは、福島・栃木両県で計約2万5千トンに上る。業者は東電の火力発電所で燃料として使ってほしいと要請したが、東電は拒否。林野庁などは「風評被害をあおりかねない行為」として、近く東電に受け入れを要請する。

と云うものです。

「このままでは製材工場がストップしてしまう」と云うのが福島県内の製材業者の声です。
悩みの種は木を切り出し、製材する過程で剥がす樹皮。通常は、たい肥や家畜の寝床用に1トン1000円前後で取引されるもの。それが原発事故後の昨年8月、林野庁の調査で、一部の樹皮から1キログラム当たり、最大2700ベクレルの放射性セシウムを検出。その後は200から300ベクレル程度に下がり、国の定めるたい肥の基準(400ベクレル)よりは下がったが、引き取ってもらえるのは4分の1程度だとしている。

そこで製材業者が求めたのは、火力発電の燃料としての再利用。石炭に樹皮などを数%混ぜて燃やす「バイオマス発電」。しかし東電側は「セシウムが含まれた焼却灰を埋め立てて処理するには、周辺住民の同意が必要で、現状では困難としている。

林野庁や資源エネルギー庁としては、東電に汚染対策への協力義務を課した「放射性物質環境汚染対処特別措置法の趣旨に反する行為」として今後、東電に受け入れを求める方針という。

地震から1年が経ち、先の見え始めた所と逆に将来が暗くなってしまう所が分かれつつあります。放射性物質が溜まりやすい樹皮や葉っぱの処理が出来ないと福島県産木材はおろか、栃木県産や茨城県産の木材も敬遠されてしまうでしょう。もうそろそろ国の出番にしないと立ち直れない所が増えていくと思います。


2012/04/04(水) 晴れ時々曇り


[ 色々な仕事 ]
色々な仕事


1カ月ほど前に105角を60センチに切って、それに紐をつけて官庁に納めるという仕事の依頼を受けました。その会社も初めはホームセンターで買ってきて作る予定だったのですが、数量が180個になってしまったので、材木屋に頼みに来たということでした。私の所をネットで探して、メールをいただきました。私も自分の手に負えなければ他の人を探してみるので、と云うことで話を聞くことにしました。幸い納期までにはまだ一カ月ありましたし、仕事も単純なので請けてみました。
単価としては、比較的高価な桧よりも米栂、米松、杉が考えられましたが、経済的で日本の木と云うことで、杉材を薦めてみました。
仕事は決まりました。まずサンプルを作ってもらいたいということで、急いで作り納入し、ついで180個の方も依頼を受けました。
収めてみて、色々な問題が生じました。まずカットしたものの小口から割れ始めたことです。これは芯持ち材を使ったことも影響があると思いますが、木の表面にも割れは出てきます。木の種類を変えても出るので、「これは自然のものだから」と納得していただきました。
180個納め終わってホッとしたのもつかの間、そのうち2個が、「長さが足りない」とメールで知らせてきました。もちろん写真がついていましたので、すぐに謝り、急いで作ってもらいました。これなどはありえない間違いですが、長さが一センチ短くても「何とかなるかな」と云う気持ちが作った方に有ったのかもしれません。厚みが薄いとか、長さが短いとかいうのは実際よくあった話ですが、こんな短いものまでそうなるとは私もびっくりです。
さて、2個をお届しながら、担当の方とゆっくり話をして来ました。「表面も割れるけど、中の芯の方も割れが広がっています」とか、「角の面が取れているものと取れていないものがありましたが、どういう風に違うのですか」(作ったメーカーが違いました)とか「木の色が違いすぎないように」(人工乾燥されたもので統一しました)とか、先方も気を使った仕事になりました。ともすれば自然のものだという感じで、一つ一つ違う事を前提に仕事をさせていただいてきましたが、他業種から見るとこれが「いい加減さ」として考えられるかもしれません。
私としても外国材で作った方が気が楽だったかな、とも思いました。しかしながら少しでも自国のものを使いながら循環させていくこと。手間を惜しまず材料を無駄にしないように心掛けてきたからこそ、これまでの日本があったのだし、そこを放棄してしまうと、日本の良さが失われると思っています。面倒臭いのは確かですが、「楽」は、そう簡単には出来ないものだと思っています。

2012/04/03(火) 晴れ


[ 旅行で見る十四日会 ]
旅行で見る十四日会


 十四日会では、毎年旅行を企画実現してきました。私も8割がたは参加していますので、大まかなことを書いておきます。
 

1993年(平成5年)2月 上田製材所・共力木材見学。湯本「吹きの湯」泊。




1994年(平成6年)2月 浜北市(株)マルホン・日東木材産業見学。




1995年(平成7年)2月 伊豆、中駿木材見学



1996年(平成8年)2月 セブン工業見学。下呂温泉泊。




1997年(平成9年)2月 返還前の香港見学。




1998年(平成10年)2月 震災後三年を経た神戸見学。




1999年(平成11年)2月 静岡県(株)ノダ、工場見学。




2000年(平成12年)4月 京都府北山杉見学




2001年(平成13年)3月 新潟県、株トーア、プレカット工場見学。瀬波温泉泊




2002年(平成14年)3月 北海道、札幌見学。




2003年(平成15年)3月 広島県、中国木材見学。




2004年(平成16年)3月 福岡県太宰府見学。




2005年(平成17年)3月 松阪ウッドピア協同組合見学。




2006年(平成18年)3月 小名浜泊




2007年(平成19年) 2月富山県アプトシンコー見学。





2008年 (平成20年)3月茨城県鹿島にある中国木材と越井木材工業を見学。





2009年(平成21年)2月 多摩産の製材工場である中嶋材木店を見学。



2010年(平成22年)3月 静岡県花村木材工業見学。名古屋泊。




2011年(平成23年)3月 熊本城見学。柳川下り。




2012年(平成24年)3月 栃木県那須塩原、二宮製材所見学。福島県いわき市の被災状況を見る。吹きの湯泊。




2012/04/02(月) 晴れ時々曇り


[ 4月1日は ]
4月1日は、



4月1日は、神明氷川神社へ行ってきました。この北側に中野区立神明小学校があります。神明氷川神社の隣にあることから、神明小学校と名付けられたそうです。ここは我が母校です。
さて、3月31日予定の焼き芋と乗馬体験は天候を考慮して4月1日に延期されました。そのため乗馬をしたいという子供たちの数は考えていたよりかは少なかったですが、その分参加した子どもたちは、「どの馬にも乗られる」と云うおまけがありました。伊勢崎にある「ホースパラダイス」という所から馬はやってきました。木曽駒、ポニー、そしてロバです。神社の境内で参加者全員で本日の安全を祈願してから始まりました。
まずは焼き芋作りです。サツマイモを子供たち一人一人に一つずつ手渡して、それを水にぬらした紙でくるんで、最後に銀紙でくるんで、たき火をしている所へ放り込みます。焼き上がりまで約一時間から一時間半。その間、場所を隣の小学校に移して、乗馬体験です。
まずは餌やりからです。手のひらに載せた人参を腰を引かずにあげて馬に慣れていきます。それから馬に乗って校庭の中にあらかじめ設けられたサークルを回ります。この日は日にちが延期されたこともあり、参加者が少なかったので、子供たちはその分色々な馬に乗ることが出来ました。見ていると女の子の方が物おじしないように思いました。
最後の方になって、大喜さんご夫妻もどうぞと云うことになり、乗せていただきました。いざ乗って見ると思ったよりも目線が高くなります。また前に進むたびに身体が左に右に移動しそうでお腹に力を入れて姿勢を正さないとうまく乗れないものだと思いました。良い経験をしました。
宮司さんが最後に乗って、そのまま神社へ。その姿は「暴れん坊将軍」を見るように決まっていました。馬もお祓いをして散会となりました。





















2012/04/01(日) 晴れ時々曇り


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[ 管理者:大野満生 ]


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