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時々更新mn日記

( 2011/07 ← 2011/06 → 2011/05 )


[ 今年も半分終了です。 ]
今年も半分終了です。


早いもので、今年も半分終了です。


わが社の仕事の特徴としては、水回りがほとんどなくなりました。新築の木造住宅も同様です。サッシも無ければ、サイディング工事も無くなりました。フロアーも買っていただける所が限られてきました。そのような中では、売れていくものは下地材ばかりになってきました。多少付随するものはありますが、下地材が基本になります。

下地材が基本になってしまったので、忙しいという所です。毎日毎日、配送に追われています。前もって2トン車に積んでおくこともあります。配送先が2トン車でも大丈夫なのか、軽トラックの方が効率が良いのか、配達の量と相談しながら、決めています。

そんな折、軽トラックが故障してしまいました。走行距離はまだ5万キロに届きませんが、かなり積んで走っているので、傷みは早いようです。
ただし、今回はスロットルボディーを掃除することで治りましたので、良かったです。

半年が終わりますが、この半年は身体を忙しく過ごしました。忙しくした割には、売り上げに反映されていないようです。後半はもう少し楽な所へ行きたいものだと考えています。


2011/06/30(木) 曇り時々雨


[ 思い出の景色 ]
思い出の景色




今から7年ほど前になりますが、同人誌に「思い出の景色」と題して一文を寄せました。私の5歳くらいの時の私の記憶の中の「近所」のことを書きました。三輪車で家の周りをぐるぐると回っていて、どこに何と云う家があったかを書いたものでした。それにまつわる写真が出てきました。

私の幼い時の写真は数多くあったかと思いますが、母が亡くなり、父が死んでみると、遺品などをもらったのですが、写真はもっとあったと思うのですが、手元に残ったものは30枚くらいでしょうか。これを多いと感じるか、少ないと感じるかは別として、いろんなものが散逸しています。私の記憶の中だけのものが、残っています。さらにこれから、その記憶の中からも消えていき、どの写真を見ても何も感じない人ばかりになるのだと考えると、少しさみしい気がします。これが世の常なのでしょう。そういう年齢になりました。

さて、その写真は南東から北西に向けて写されています。下り坂が北になります。私は三輪車を漕いでいます。これが私の愛車です。この写真は夏ですね。道路はまだ舗装されていません。脇にはドブがあったと思います。正面に「よしざわ美容室」が写っています。





奥に二階建の住まいが写っていますね。昔(昭和30年代まで)の木造の住まいは、一部分だけが二階建でした。二階には、ふた部屋作っても、水回りはありませんでした。トイレも洗面も1階に作りました。まだ風呂はなく、銭湯へ通うのが一般的でした。暑い夏などには、窓を開けて寝ていました。寝床には「蚊帳」を吊って虫などが入らないようにして寝ていました。まだ扇風機も無い時代でした。今年の夏はこの時代に戻るのでしょうか。

今日の東京は34度です。昨日の夜は、窓を開けて寝ていましたが、あまり風が入らなかったようです。いよいよクーラーをつけることになるのでしょうか。


2011/06/29(水) 晴れ


[ 工務店の仕事が減っています。 ]
工務店の仕事が減っています。



わが社での木材と建材類の販売の割合が半ずつくらいになりました。

私が仕事に就いた30数年前には木材の売り上げが8割くらいで建材類は20%も占めれば良い方でした。建具やサッシなどの方へ手を出す余裕などありませんでした。まだ良い木材、高級な木材をを使うことが住まいを建てる上での重要なステータスでした。

20数年前のいわゆるバブル期には、木造の新築住宅よりも鉄筋や鉄骨の内部造作の仕事が増えました。この仕事は楽でした。使われるものが限られており、1階に駐車場のスペースがあり、その中に木材やベニヤを納入させていただきました。あまりにも仕事が忙しくて、行ったことのない現場がいくつもあります。朝の5時から働いて、6時にはくたびれていましたが、見積もりは夜中までかかったこともしばしば。お客さんとの付き合いも夜の9時過ぎからでした。(今では、この時間に寝ますので、考えられない時の過ごし方をしていました)

バブル期が終了してから、再び木造住宅を主に仕事が来ましたが、全体の数量が減りました。その中では、プレカットで建てて、サイディング工事に始まり、水回り建具などをいただける仕事で売り上げを確保していました。その頃は木材の売り上げが30%くらいで、新建材も同様。工事や水回りも同じくらいあったと思います。支払のよい工務店さんを中心に販売していましたので、水回りや工事仕事は利益率を抑えたものでしたが、売り上げには貢献してくれました。

ここ10年はそういうものも終わり、仕事量が減ってきました。1年おきくらいに仕事に大きな波が来ています。4年前は夏場に忙しくて死ぬかと思いました。3年前はヒマでした。2年前は仕事が切れずに続きました。昨年はかつてないほどにヒマで、下小屋の片づけなどをしてだいぶ整理しました。


今年は、比較的忙しいのだと思います。昨年暮れから、配達も多く、毎日のようにベニヤと耐火ボード、パーティクルを運んでいました。これに定番の下地用の木材で、売り上げの大半を占めるようになりました。売り上げは全盛期の半分弱ですが、なんとか暮らしています。

仕事を初めて30数年が経ちます。気がつくと、工務店さんの仕事が減りました。大工さんの数も毎年数人ずつ減っています。平均年齢は上がる一方で、80才を超えた人が自然と引退していきます。70代の方は亡くなって行きます。仕事も大工さんを頼まなくてもよい仕事や、内装屋さんで間に合うものが増えています。

下小屋を大工さんが使うことが減っています。それに対応するような材料が造作材でも売れています。すでに加工してあるものを販売したり、材料込みで加工していただくものが増えています。

その結果、杉や桧の造作材を在庫で持っていても、大工さんに販売することが少なくなっています。大工さんの方でもすでに加工した材料を求めるようになっています。数量が1か所ないし2カ所くらいしかない現場が多いので、「加工付き」を望むようになっています。サイズも昔の45×105や120ミリと云ったものが少なくて、その現場の仕上がりに合わせたものになりました。それがまたその傾向に拍車をかけています。

最近、揚げ板と言われた桧の24ミリ厚の板が無くなったと言われて「えっ」と思ったのですが、これだけ使っていなければ、作る方も作らなくなり、辞めていきます。

いつのまにか30数年が経ち、若い頃に自然と覚えた、身体で覚えてことが無くなってきています。これに東日本の大震災が重なっています。仕事も変化するでしょう。その中で私が教わってきたことが何だったのか、もう少し考えてみたいと思います。いずれにしても木材が中心だった時代とは一線を画したものになるでしょう。

私が向かう道は、どこにあるのでしょうか。どこに道をつけていけばいいのでしょうか。考えたい所です。


2011/06/22(水) 晴れ


[ この頃みる夢には ]
この頃みる夢には、



朝方に夢を見ます。
夢はその時々で違います。

仕事をしている夢も多いです。夜中にトイレに起きる夢も見ます。その中で私が行くトイレは昔の家のそれです。私が小学校2年から30年近く過ごした住まいのトイレに入ります。夢の中で寝ていて起きた時など(これも夢の中ですが)その間取りはその家のそれです。今から二十年ほど前に消滅している住まいが夢の中では今でも私を支配しています。

住まいはそれほど大切なものです。第三の皮膚と云う言い方をされた方もいます。身近な環境ですので、あまり年をとってから住まいを変わることは避けた方が良いと思います。これは経験上ですが、それまで過ごした家と間取りが変わることによって、右にあったトイレが左にあることによって混乱が生じると思います。60歳ないし65歳を過ぎてから住まいを作らなければなった時には、留意してください。

さて、私が思い出す家は、こんな感じです。




昭和32年ないし33年の正月の写真だと思います。この写真は西側から撮っていますので、この家の2階からは西に富士山が見えました。東側からは新宿の小田急百貨店、京王百貨店が見えました。まだ2階屋が少ない頃でした。(則子はこの時4階に住んでいました。もっといい景色が楽しめたのだと思います))この家は何回かの増改築を重ねて、壊してしまうのですが、この家の思い出が一番多いのが事実です。

この所、急に時代が変わることを感じています。今まで通りが通用しなくなっています。街を歩いていても活気が感じられません。私が夢の中に出てくる住まいに住んでいた頃は、日本自体が登り坂だったのだと思います。それが一段落しました。私が住んでいるこの町も「戦後の良き時代が終了」して行く感じです。10年くらい前なら、まだ元気でしたが、一気に年をとってしまいました。この町も私も、です。

「古い舟をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」

今日は吉田拓郎を聞いみます。

PS おまけ映像



小学校へあがる前まで住んでいた建物の前で撮っています。後ろ側はお店です。記憶では、お店が6畳くらい。その奥に三畳があってさらに6畳があったような気がします。庭には鶏を飼っていて、猫もいました。風呂はなく、トイレはどこにあったか記憶にありません。井戸があり、カマドも土間にありました。

2011/06/21(火) 曇り時々雨


[ 平凡な生活 ]
平凡な生活



このところの生活は平凡なものです。昼間は仕事をして、夜は寄り合いやテニス。遠出もしないし、狭い交際範囲で過ごしています。週に一度外食して栄養も蓄えています。朝のバナナジュースが効いているせいかお腹の調子も良く、右肩が痛いくらいで済んでいます。

一日、一日の単位で見るととても順調です。仕事もそれなりに動いていてめちゃくちゃ忙しくも無く、ヒマでもない状況です。入金は遅いですが、支払いは何とかなっているし、固定資産税を納め終わったので、気持ちが楽です。

欲を云えば、もう少し劇的な変化が欲しい所です。劇的と言っても特別なことではなくて、あと一日テニスをしたいとか温泉につかりたいとか、仕事にもっと見通しが欲しいとかです。

身体が動くうちに動かしておかないと、すぐに動かなくなります。年をとるのは早いので、色々なことを考えて行動しなくてはなりません。やるべきことを先延ばしにしている感のある、悩める60歳です。

そんなことを忘れさせてくれるものの一つに、ベランダのキューリがあります。売り上げナンバーツーと書いてあったので買ってきた「トルコキキョウ」も何とか芽が出てきました。


取れたてを食べています。


眼鏡をはずして、顔を近づけると、ワンブロックに10個くらい芽が出てきました。トルコキキョウの種は「粉」なので芽が出るか心配でした。


2011/06/20(月) 晴れ


[ びっくりすること ]
びっくりすること



一週間前に配達に行った都下の現場には驚かされました。

二階建ての一階部分の大部分間取りを変えて、耐震工事を施すと云うものでしたが、一階の天井を剥がしてみると、それまでに幾度か改築を行ったことがわかりました。それも一度ではないようです。大工さんと共に材料を降ろし終えると、大工さんが「あそこを見てみろよ」と言われたので、そちらの方へ行きました「その掃き出しの上だよ」

私は大引きの上を渡りながら、近づいて行きましたが、梁がかかっているだけです。「どこでしょうか」と言いながら、もう一歩足を進めた所で、びっくりしました。梁と梁が直角に交差しているのですが、掃き出しの上の梁がカットされていて、間に隙間があります。直角に伸びている梁を受けているはずの梁は切られていました。

同じような所が今一か所ありました。さらに胴差が二階根太から下ろしたタルキで止まっていました。また、天井上の部分にラワン材の6尺の1尺板が張り付けてありました。私が思うに、その裏には梁の小口が三カ所見えるので、「振れ止め」の役割を果たしているのでしょう。

この建物なら、3月の地震の際には、かなり揺れたのでは、と思いました。今回改造するので丈夫な建物に生まれ変わると思いますが、30年も仕事に従事してきて「ここまで大胆な仕事」にお目にかかったことが無かったので、実際、びっくりしました。



2011/06/17(金) 雨


[ 仕事の現状は ]
仕事の現状は



仕事の中心はマンションリフォームや改築です。少しの増築を伴なったものが大部分です。新築の話もありましたが、お施主さんのマインドが冷えて、取りやめになりました。また、屋根の直しなどでも、今回の地震で直接的に被害を受けていないものは、延び延びになっています。さらに売れていくものは、木材はそのほとんどが下地材+数本の柱。ベニヤにボードと云った所に落ち着いています。ここから先が広がらなくなってきました。

今のところ、この部分だけでも生活が可能なので、不満と云ったものはありませんが、この部分は体力勝負だけなので、段々と年をとってきたものとしては、少し苦しい所に差し掛かっています。

以前なら、大工さんが自分自身で材料を運んでいたのですが、工務店さん自身が材料をあまり積めない車に変えてしまい、材木屋が運ぶといったパターンが増えています。

材料的には総じて難しくない仕事が大半です。

また、ここへきてお客さんの層に変化があります。大工さんの仕事に変化はありませんが、社長自身が職人さんでない所の仕事は総じて「量の確保が難しい」所に来ています。自分で仕事が出来て材料の手配をしてお施主さん直の仕事をしている所では、仕事は切れることは少ないし、また切れてもダメージは少ないものです。

その反面、改造の仕事でも、その中には設計士の方がかかわるものが増えています。その中では「追加、変更、やり直し」などが当たり前のように行われております。仕事はあまり難しくないのに、少しずつ「仕事が増えて」結局、なかなか終わらないし、金額も増えるし、集金も出来ないなど、設計士の資格を問われる人の仕事もあります。

また、やっと間に合うようになってきた水回り商品ですが、「ユニットバス残し」でとりかかった仕事も完成しないので集金が出来ない、所も出てきています。これらは震災がもたらしたものですが、こういう状況が続くと墓地母と危ない所も出てくるのでは、と思います。

今、私の所は、新規の方や素人の方への販売は控えています。そこまで手を出すほどの余裕が無いからです。知った方やお得意さんからのご紹介と云う所へはもちろん販売をいたしますが、あまり積極的でない、状態です。



2011/06/15(水) 晴れ


[ あれから三カ月 ]
あれから三カ月



3月11日に東日本を襲った大地震から三カ月が経ちました。死者1万5千人強、行方不明者も8千人を超え、今なお9万人近くの方が避難所生活を強いられています。今回の地震は規模の大きさや範囲が広いために、復旧もままなりません。さらに原発の不気味さが輪をかけています。

さて、仕事の方もひと段落して来ました。まだ屋根の直しはありますが、先細りの様相を呈しています。昨日、十四日会の会合がありました。そこでは、会員各社のお店の状況なども話されました。

また資材の入荷状況なども問屋さんから説明がありました。ラーチ合板を除いて、資材の不足は解消されつつあることを教えていただきました。前もって話しておけば、断熱材なども入荷が可能な状態に成りつつある、と云うことでした。

3ヶ月経って、少し以前の状態が見えてきました。

また、十四日会では研修会を7月2日に開くことを決めました。トステム・INAX・新日軽・サンウエーブ・東洋エクステリアが合体してできた(株)LIXILの水回り商品を研修しようとする意向です。色々な所へ顔を出すことで、自然と商品の知識は増えます。行ってみようと思っています。



2011/06/14(火) 曇り


[ たまにはモーニングで ]
たまにはモーニングで



5月の連休に植えたキューリの苗が弦を伸ばして天井まで届くようになりました。それと同時に実も付いて食べられるようになっています。朝起きて収穫して生で食べます。瑞々しいものをいただいております。





さて、先日の日曜日には、その前日のテニスが効いて早寝をしてしまい、5時前に目を覚ましてしまいました。起きて、コーヒーを飲みながら、今日は「どうする」と云う話になった時に、いつも気になっている「COCOSのモーニングが食べたい」と言いだしました。666円でドリンクバー付きと言っていました。早速ネットで調べてみると、中野店では朝6時から開いているではありませんか。着替えて車を出してそこへ向かいました。

もうすでに10組くらいの人がおりました。私はひと通りのおかずに、スープ。それにパン二個をいただきました。食べていると、男の子がお皿にカレーらしきものを持っているではありませんか。食べ終わってから、再び見るとご飯の横に「早朝カレー」があるではありませんか。(チャーリー浜風に)

もう十分かと思いましたが、カレーもいただきました。お腹がいっぱいになり、一度自宅へ戻り、昼寝をしました。

目が覚めてもまだ十時半です。

「今日はどうする」、と聞かれて、新宿御苑へ行こう、と云うことになりました。幸い天気も曇り空で暑くも寒くもないので、少し歩くには、丁度良いと思いました。入場料お一人200円を支払って中へ入りました。ここへ来るのは6年ぶりでしょうか。ちょっと来ないとすぐに時が流れます。入口にあったパンフレットには、季節の花が示されていて、今の6月の時期ならば、サツキ、バラ、アジサイ、タイサンボク、クチナシ、などが要所要所に植えられています。ここをのんびり一時間半から二時間かけて周ってきました。サツキはほぼ終わりかけ、アジサイはまだ早く花を開いている所が少ない状態でした。クチナシもまだ二週間あとです。逆にバラはもう一週間前に来ればよかったかな、と思わせた状態でした。盛りは「ニワナナカマド」でした。ここへは大勢の方がカメラを向けていました。香りと云うか、匂いのきつい木で、私はあまり好みではありません。


朝ご飯を食べ過ぎたせいか、なかなかお腹がすきませんでした。それでも午後一時半を回る頃には昼飯と云うことで、「新宿中村屋」で「オムライス」を食べました。ちなみにこの日6月12日は、中村屋で初めて「カレーライス」を出した日だそうで、お客さんの多くはカレーを注文していましたが、私たちはなぜか、カレーはパスしました。(朝、食べてしまったからでした)

久しぶりに歩きましたが、毎日これくらい歩かないと体重は減りません。大人になって大人として生きていくのは、なかなか大変です。この日は体重は減るどころか、逆の方向に走ってしまいました。








バラ園の前です。


アジサイです。


アリの巣には羽のついた蟻を見ました。


これが「ニワナナカマド」です。今を盛りでした。


広々としていますね。


ラストは「くちなし」です。まだ二週間先にならないと咲かないようです。




2011/06/13(月) 曇り


[ ここ4日程 ]
ここ4日ほど


ここ4日ほどは珍しく、忙しく動いています。仕事の大半は増改築、もしくはマンションリフォームです。それにかかわる木材は、土台、梁、柱、間柱、筋交、大引き、根太などです。建材は12ミリのラーチ合板ないし、ラワン構造用合板にボードと云ったところでしょうか。床板や窓枠などまで買っていただけなくなっています。

朝6時前に目が覚めてしまい、朝食なども早めに取るので、必然的に「サマータイム」になっています。6時半過ぎから働き始めて、午後1時には「疲れ果てて」います。私の祖父も5時過ぎから働き始めて、お昼で上がって、一杯飲んでいましたので、その生活と変わらなくなりました。私はまだ日のあるうちに飲みたいと云う気持ちになりませんが、60歳と云う年は6時間も働くと、休憩したいと思う年齢です。もう少し休み休み働きたいものです。(贅沢ですが・・・)ここまで書いた所で、知り合いの大工さんが来ました。今は大工仕事と云うよりも、葬儀屋の仕事の手伝いをしています。看板を作ったり、お寺の木魚の台とか、小物を葬儀屋さんから頼まれるらしく、そこで働いています。葬儀屋の作業場でテレビを見ながら、寒ければ石油ストーブをかけながら、厚ければ扇風機を回しながらの作業だそうです。雨に当たることも無く、大工をしていた時から考えると、「楽だ」と言っていましたが、体力は落ちたと言っていました。梯子の上り下りで自然と足腰が鍛えられていました。また外の仕事で汗をかいたりしていたのが、汗をかかなくなって、身体の循環が悪くなったと言っていました。

人間、少しは苦労をしなければなりません。身体を動かさないで楽をしていても体力は維持できないものだと感じています。

2011/06/09(木) 晴れ


[ ゴールゼロ ]
ゴールゼロ



さて、60年前には、今私はすんでいる辺りは一面の麦畑でした。55年前には通りに住まいが建ち、少し中に入った所にも鉄筋の都営住宅が建ちました。


(60年ほど前の中野区弥生町です)


(前の写真から、100メートルくらい離れた所になります。昭和32年から33年に完成しています。)

そこも今は壊されて東側には新宿が見えます。


(都営住宅が壊されて、新宿のビル街が見えます)



壊すまで一年半くらいの時間がありました。
そこでは野良猫が住み着いて増えました。餌をやる「猫伯父さんや猫おばさん」がいるのです。飼い猫と違い、野良猫は育たないと言います。また捕えられて殺処分されるものも沢山いるそうです。そこで、野良猫を捕まえて、去勢する団体が生まれました。

私の近くでは、「NPOゴールゼロ」があります。と言っても、この団体のことを良く知っているわけではありません。弥生町の地域を担当していた人を良く知っているだけの段階です。

そんな折、三週間ほど前に我が家の裏のベランダで、親猫と4匹の子猫がいるではありませんか。生まれて間もない感じです。私は猫が嫌いなので、追い払おうかと思いましたが、則子さんが猫を何匹も飼っている方に連絡して、どうしたらよいかを相談しました。その方は我が家に来てくれて、「今なら子猫の里親を探すことが出来る」「ただし、親猫を捕まえて去勢し、子供もお医者さんに診てもらって、栄養状態や現在病気を持っているかなど、調べてもらう必要があります」「またこれにはお金がかかります」「今なら子猫の里親を探せると思う」とも言ってくれました。

これに、呼応して、猫が野良猫になって生きていけなかったり、つかまって殺処分されたりするよりは、良いかなと思い、行動を始めました。ところが、子猫が、かわいそうだと云う人が現れ、また子猫に定期的に食事を与えている近所の人もいて、猫を捕まえて、子猫の里親を探すという話は無しになりました。この間、則子さんは行きがかり上、面倒見るかという気持ちでしたが、猫好きの方々は、「子猫がもう少し大きくなってから、里親を探す」「親猫は去勢する」という話をしてくれました。

さて、この話、うまく行くといいのですが・・・・
相変わらず、子猫は我が家の裏の家のベランダにいます。

色々なことを考えさせられるこの頃です。

ゴールゼロはこちらから、
NPOゴールゼロ

ここの、ブログには、以下のようなことが書いてありました。
「いよいよ子猫の季節です。
母親にくっついて外へ出ていくようなら、大体2カ月前後です。
子猫の早期不妊は2カ月くらいから出来ます。
早期不妊については知識と経験のある獣医さんに相談してください。
子育ての終わった母猫にも
御苦労さま、って手術してあげてください。


2011/06/08(水) 曇り時々雨


[ 夜間痛2 ]
夜間痛2


この頃親は自分の鏡だとつくづく思います。

祖父は、「おれは死なない」と若い頃に思っていたそうですが、70過ぎに足の指に水虫が出来た時、なぜか私に、「おじいちゃんも水虫が出来た。もう駄目だ」と言ったことがあります。良く意味がわかりませんが・・・

それから数年が経って、夏にスイカを二つ川島商店街で買ってきて、家に帰る手前で、転んで、救急車で運ばれました。額を打って入院でした。スイカは大丈夫でしたが、額は割れました。入院先では、暴れまくったので、ベッドにくくりつけられていました。頭を割ったことよりも肝臓障害の方が大きかったのですが、その時にも見舞いに行くと、「おれはもう駄目だ」と話してくれました。初孫と云うともあり、父に言えなかったことを伝えたのかもしれません。実際にそれから半年後に亡くなりました。自身の体力の低下や体調の変化を理解していたのだと思います。

父は、若い頃に結核を患った関係で、病気にはとても慎重で、健康に関することは何でもしていました。私が嫌だったのは、お灸です。父の背中には「吸い付き」を使った跡が沢山残されていました。実際に私が小学校の頃には、背中にその「吸い付き」をやらされました。何でも膿が出て来ると、疲れがとれるらしいのですが、その膿をみるのが嫌でした。でも逆らえずに行っていました。また背中に乗ったり、土踏まずを押したりしていました。この辺りは大体小学校まででしょうか。

父は祖父が、若い頃に働いて、酒を飲み始めたのが、32歳だった関係で、お酒は33歳から始めました。さらに云うと、祖父が75歳まで働いたので、75歳までは事務所にいました。

お酒は夜の9時過ぎに店を閉めてから飲み始めました。たいてい肴はマグロの刺身か、焼き鳥でした。その頃には母は全くお酒を飲みませんので、日本酒のアツ燗ばかりだったと思います。

その父も晩年は高血圧に始まり、脳こうそくや胆石、心臓病に、失明、肺炎など病気のオンパレードでした。自分もその道を確実に歩んでいると思います。思い当たることも出てきました。

もちろんそうならないように予防もしています。無趣味だった父を反面教師として仕事以外に「遊ぶ」ことも憶えています。

それにしても夜中の夜間痛は痛い。痛くて起きるので「夜間痛」らしいのですが・・・


2011/06/04(土) 晴れ


[ 早くも6月です。 ]
早くも6月です。




今年は時間が過ぎるのがより早く感じられます。2月末に熊本や柳川に行ったことがかなり昔に感じられます。これも東日本を襲った大地震の影響かと思います。あれ以来、仕事のやり方も変わってきています。必要と思われるものは買いますし、お客さんから頼まれた品物は早めに手当てをするようになりました。
二ヶ月半が経ち、被災された地域でも原発の所を除くと、復興の二文字が見え始めていると思います。何もかも失った方が数多くいらっしゃいますので、これを克服するには、数年から十数年はかかるでしょうから、若い人が希望の星になります。先だってもNHKのテレビを見ていましたら、笑福亭鶴瓶の「家族に乾杯」に出会いました。今回被災した石巻にさだまさしと行った番組でした。この中で鶴nの落語を聞きながら、一番前で子供が笑っていました。この小さな子供の屈託のない笑顔をみていると子供は希望をつなぐ宝だと感じました。

自分も次のまたその次の世代のことを考えながら仕事をする年になりました。


2011/06/01(水) 曇り時々雨


( 2011/07 ← 2011/06 → 2011/05 )


[ 管理者:大野満生 ]


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