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時々更新mn日記

( 2011/02 ← 2011/01 → 2010/12 )


[ 二月になります。 ]
2月になります。



早いもので2月になります。
一月は思っていたよりも忙しかったです。昨年からの仕事の材料を運んでいました。身体を動かして、働きました。来月はそこまで行かないと思います。なぜなら新しい仕事の量が減ると思うからです。

この所忙しくしている所とそうでない所の差が激しくなっています。まず大工さんの仕事が減りました。これからもそこは減るのでしょう。その結果、木材も建材も仕事が決まってからでしか仕入れることが出来なくなると思います。

次にリフォーム業者ないし建設会社の仕事が増えると、工期に間に合わせることと、その工期に見合うように材料を配達しなければならなくなりました。材料は下地材になりますが、その分は常に在庫していないと急な配達に対処できなくなってきました。ベニヤの在庫の種類がますます増えそうです。現在でもラワンベニヤやランバー合板などは数は少なくても大まかな種類は全部在庫していますが、これらに加えて、ラーチ合板の厚ものや長尺サイズなども持っていないと仕事が進まないかもしれません。

あとは支払いの関係でしょうね。ボードや下地材だけを買っていただけるお客様や材木だけを買っていただける方は売り上げも少ないので安心感がありますが、何もかも買っていただける方に逆に不安感があります。大工さんが顧客の時には、それくらい売っても回収できる人に売っていた気がしますが、今は回収できるか出来ないかはわかりませんね。昨年も一人仕事を断りましたが、その傾向は今年も出ると思います。自分一人で動けるだけでも良いと思っていますが、従来の売れて行くシステムが崩れてしまった感じがします。再構築出来ないと次の方へのバトンタッチが出来ません。


それにしても以下の方のような立派な仕事をしている人もいます。
吉田材木店さんや肥田さんです。それどれのURLを記しておきます。


吉田材木店

(有)ヒダ


このように、まだ木材を使った建築に取り組んでいる方は数多くいます。ただ材料を供給する側が成り立たなくなってきています。これは個別の企業では解決しきれない課題になっていると思います。より大きな所の力が必要です。外国に援助している場合ではないと思います。そんな気がしています。



2011/01/31(月) 曇り


[ 家族葬 ]
家族葬




去る1月21日午後9時58分、則子の母である松本玉恵さんが亡くなりました。95歳でした。昨年暮れから老衰から肺炎と心不全を起こして江古田病院へ入院していましたが、21日に帰らぬ人となりました。子供や孫・ひ孫9人に囲まれて息を引き取りました。大往生でした。映画の一シーンのようなラストでした。これで親の世代はいなくなりました。時代は変わっていきます。

通夜告別式も、家族葬を選択しました。葬式代も本人が負担するという子供孝行な親でした。





2009年9月に清里に行った時写したものです。


2011/01/30(日) 晴れ


[ 寒いです。 ]
寒いです。



久しぶりに断熱材が入ってきました。これで2月分は大体大丈夫の予定です。3月以降の仕事の話が少ないので、この先の発注は少しだけしかしてありません。このところ、急に決まる仕事はありますが、前もって話があって決まっていくものが少なくなっています。行き当たりばったりになってきています。それでも昨年の今頃と比べると、まだいい方です。

さて、このところ一段と寒くなってきましたね。朝起きた時に、あるいは起きる少し前に今日は寒いか寒くないかがわかります。さらに天気が良いかどうかで体感温度が違います。私の職場では朝の7時半を過ぎる頃からお日様が当り出します。9時くらいまでは日が当りますので、当る所にいると大変楽です。この時期の太陽の力は何物にも代えがたいものです。近所の地主の奥さんも道路際まで出てきて日向ぼっこをしています。太陽の力が及ぶ所に住むことが出来、また毎朝天気であれば、その恩恵を受けることが出来るのには、感謝しなくてはいけませんね。

太陽も公平には当りません。忙しい所とそうでない所の差が一段と開いているようです。

このところ一段と冷え込んできました。気候も景気も、です。インフルエンザにも気をつけましょう。



2011/01/25(火) 晴れ


[ ヤマトを見る ]
「ヤマト」を見る



先日片づけをしていたら、昔のレコードが出てきました。LPやドーナツ盤など4、50枚ほどありました。山口百恵や南沙織、中島みゆきや友川かずき、井上陽水に吉田拓郎、西島三重子などがありました。赤木圭一郎のLPも出てきて感激ものでした。また、ささきいさおの「宇宙戦艦ヤマト」も出てきました。たぶん買ったのでしょう。三十年以上前の話です。本人も忘れてしまっています。そんなこともあり、キムタクの実写版も見てきました。

この映画は木拓ファンには、たまらないでしょうね。魅力は満載です。深く考えないで見ることが一番です。そうすれば面白い映画になっていると思います。今回も夫婦割引で見ましたが、もうじき、一人、一人でチケットを買った方が安くなります。そういう年になります。


2011/01/24(月) 晴れ時々曇り


[ 女の園 ]
女の園



高峰秀子さんが今月初めに亡くなりましたね。高峰さんと云えば、「喜びも悲しみの幾年月」「二十四の瞳」「名も無く貧しく美しく」などの名作や「カルメン故郷に帰る」などがあります。どれも印象に残こる映画でした。そんな数多くの映画に出られた高峰さんですが、「女の園」と云うのをご存じでしょうか。坂東妻三郎の長男である田村高広のデビュー映画で京都にある女子大を舞台の一つとした映画です。姫路城の天守閣からハンカチを振るシーンとラストのみんなで合唱するシーンが印象的でした。この歌を好きな同級生が学生時代にいました。コンパと云うと必ず歌わされました。こんな歌詞でした。


古き都に咲きし 花の命は
妓王の夢ならずや 常磐ならずや
さらば吹けよ 嶺吹く風よ
吹きて悲しみの 歴史ぞ変えん

友よ香ゆかしき 乙女ならずや
我もまた真(まこと)持つ 乙女ならずや
さらば恋せよ 自由の園
希望と喜びの 花ぞ開かん

我ら誰がために 学にあらず
この小さき手の中に 平和の花摘むを
さらば行かん 青い空の下を
一筋かけてゆく 誇りぞ強し

この歌をラストに女子大生が団体で腕を振りながら歌うシーンは印象的でした。今風に言うと反封建闘争ということになるのでしょうか。「学園に自由を」といった感じの映画だったと思います。もっとも映画自体はもう少しひねって作ってありました。

歌とともに友の顔が浮かびます。


2011/01/21(金) 晴れ


[ 朧月夜 ]
朧月夜



大学時代からの恩師である島一郎先生が存命ならば74歳の誕生日を迎えたことになります。大学時代は年の離れた先生と云うイメージが強くありましたが、こちらが50歳を超える頃から、年齢を超えたつながりが出来ました。大学時代は学園紛争とその余波の最中にあり、授業と云うものはあまり経験がありませんが、大学の大半が封鎖されていた時でも、「島ゼミ」の授業はありました。その主題である「中国経済論」や「1920年代の中国における民族資本の展開」などと云うテーマの話よりも「天皇制」についての議論などが頭に残っています。当時の島ゼミは同学年生の吹き溜まりでありました。どこか行きたいゼミに落ちたり、行き場がないので拾っていただいたといった連中の集まりでしたので、右から左の考え方を持つ塊でした。天皇制などと云う話をすると擁護するものから反対するものまで様々でした。エチオピアの方が長く続いているといったものから戦後の象徴ならばいいのではないか、と云うものもありました。私は多分、「万世一系と云うけれど、武列天皇で途切れている」とか「江戸時代の天皇は唐風、中国風であった」とかいうことは言ったように思います。

その頃の島先生は、教職員組合の代表とか、経済学部長などを歴任していましたが、まだ年齢的にもひと廻りくらい上なものですから、良く飲みにつれて行っていただきました。私は当時飲めなかったので、付き合いは良くないのですが、それでも良くコンパを行い、そこでは歌を歌いました。「友よ」「希望」「若者たち」「戦争は知らない」「同志社小唄」「琵琶湖周航の歌」に春歌などでしょうか。

それから30年の時を隔てて、嵐山の「花筏」で飲み、語りあった時には、島先生は「朧月夜」が今の心境だと言われて歌い出しました。「菜の花畑に入日薄れ・・・」

肺がんを患った後の、何とか生還した時のひと段落した気分にぴったりしたのでしょうか。非常に気に行っていました。朧月夜にはそんな思い出があります。

2011/01/20(木) 晴れ


[ 歌を聞きながら思うこと ]
歌を聞きながら思うこと


小沢昭一さんの「ハーモニカブルース」を聞いていて、その昔、永六輔、野坂昭如とともに中年御三家の一人として活躍していた時代を思い出しました。
「ハーモニカブルース」は第二次世界大戦直後の日本の敗戦を受けて、何もかも失った小沢が、その心境をハーモニカに託した歌です。

ハーモニカが欲しかったんだよ
どうしてか どうしても、欲しかったんだ
ハーモニカが欲しかったんだ
もう機関銃は欲しくなかったんだ
戦争は負けたんだ
誰も俺を待っていなかったんだ

ハーモニカが欲しかったんだよ
どうしてかどうしても、欲しかったんだ

と続いてラストに

何にもなかったあの年の夏

ときます。

この時代を私は経験していませんが、語り継いでいかなければならないことは沢山あるように思います。日本の歴史もそうですが、材木屋と云う商売もそうだと思います。最近木材を使わない簡単な仕事ばかりしていると、つくづくそう思うようになっています。我々も売りますが、建材メーカーの品物はどんどん安くなり、また作りも簡単になってきています。窓枠の品物で厚みが20ミリのものなど、10年を過ぎると色も変わり、見た目も汚くなります。ドアの枠材なども25ミリくらいの厚さで出来ているものは曲がってきますし、ドア本体も冷暖房などの影響で反ってきます。もちろん、昔の木材を使ったものでも状況は同じです。違いがあるとすれば、定期的に手入れが出来る、と云うことになると思います。手直しをしながら住み続けたので日本の家屋は結果的に長持ちになったのだと思います。そして環境にやさしい素材を用いることで、腐れば自然に帰るという循環を達成していたのだと思います。

2011/01/19(水) 晴れ


[ 今年は寒い ]
今年は寒い


今年は寒いです。昨年同月の電気代が一万円だったのに比べると一万三千円になってしまいました。昨日の朝は特別でした。家の中でも暖房をつけていても一度温度をあげるのに大変苦労しました。夜には新年会がありましたので、二人で参加して、「木曽路」でしゃぶしゃぶをいただきました。寒い日には温かなものをいただくのが元気の素です。

今年も仕事を開始してから10日が経ちましたが、耐火ボード運びに終始している感じです。相変わらず断熱材はなかなか入荷してきませんが、仕事も新規のものが少ないので、何とか間に合っている状態です。このような状態では3月以降に出た仕事では、間に合わなくなるかもしれません。話だけでも早めに来ると発注しておけるのですが・・・

今年もエコポイント制度は引き続いて行われますし、太陽光発電導入補助や長期優良住宅普及促進事業なども同様です。ただこれらの施策から離れた所にいる自分に気が付きます。我々の役割はだんだんっと小さくもなり、また内装に重点を移していくのでしょうか。

2011/01/18(火) 晴れ


[ 生活防衛が ]
生活防衛が




牛丼の大手三社が期間限定で牛丼の単価を下げています。年に数回ないし、6回ほど行うこの行為もイベント化してきました。これが始まると私の所の昼飯は一度は牛丼になります。中野新橋には松屋しかありませんので、ここでテイクアウトします。並盛が240円なのにこれにトン汁をつけると、トン汁が180円なので、少しもったいない気がして味噌汁は自宅で作ることにします。

さて中野新橋も食べ物屋さんが少しずつ変わってきています。よく通った「タベルナパパ」も2丁目から1丁目に移転しました。お店の大きさも半分になりました。食べるものも仕入れの量も減ってきました。量が減ると品切れが増え、それがまた不の連鎖を引き起こします。小さくすることで生き残りをかけましたが、経営的にはもっと苦しくなるようです。

半年前に開業したお弁当屋さんも12月末で店を閉めました。基本のお弁当が500円。ライスはジャーから温かいものを詰めてもらえるのでそれなりにファンがついていたのですが、閉めてしまいました。ランチのお弁当で500円は高くなってしまったのでしょう。

駅前のラーメン屋さんも二十数年の歴史に幕を閉じました。競争相手が増え、従業員も年を取ってしまったのが原因でしょうか。二十年前まではおいしい所だったのですが・・・時代とともに変化し行くのは普通です。

私も一日に一度は材木を担ぎながら自分の体調を調べています。自分が60歳になるなんて、いまだに信じられませんが、若いお嫁さんや孫みたいな愛ちゃんを見ていると「そういうものか」と思い始めています。

テレビを見ていてもまだまだデフレの時代です。
生活防衛が必要です。



2011/01/16(日) 曇り


[ 別府・湯布院 ]
竹瓦温泉・由布院.


1月4日から6日まで、別府・湯布院・博多と廻ってきました。


大分空港に着きました。


別府駅近くの竹瓦温泉を目指します。


竹瓦温泉前です。


男風呂の中はこんな感じです。温まりますよ。


地獄めぐりの開始は「本坊主」からです。熱泥が噴き出していました。この土手が盛り上がるのに70年ほどかかっているそうです。県の天然記念物に指定されているものには、屋根がかかっています。


「海地獄」です。池の色はコバルトブルーです。


「血の池地獄」の色は思ったほどではありませんでした。


「竜巻地獄」です。ここは間欠泉でした。


鉄輪の蒸し湯です。


市民のための入浴施設がたくさんありました。「大師湯」と書かれてありました。

「渋の湯」です。



金隣湖です。お湯がわき出している辺りには鯉が群れをなしていました。




金隣湖そばの「下ん湯」です。


由布院散策コースのメインストリートです。



湯布院昭和館の壁には「霧笛が俺を呼んでいる」の看板がありました。ここの赤木圭一郎は、高倉健と鶴田浩二を足して二で割ったような顔でした。



2011/01/15(土) 晴れ


[ 一月は在庫の整理 ]
一月は在庫の整理




一月も半ばになりました。12月から引き続いて仕事はありますが、新規のものは始まりません。暮れから見積もりも出てきましたが、これらは決まっても3月以降だと思います。引き続いている仕事もほとんどが耐火ボード運びで、腕も足も痛くなってきました。仕事なのでぜいたくは言えませんが、厳しい所です。

さて、一月はお得意様ももっている在庫品を使ってなるべく仕入れを少なくしています。私の所は12月に沢山仕入れをしたので、新たな仕入れは少ないのが現実です。ベニヤとボード以外はあまり買っていません。もう少し値段の高い物を売りたいこの頃です。


2011/01/14(金) 晴れ


[ 大発見や ]
大発見や



今から40年ほど前、笑福亭仁鶴さんは、「大発見や!」と云う歌を歌いました。その前に発売した「わたしゃビルのお掃除おばさん、モップ担いで今日も行く」と云う方が売れましたが、私は当時京都にいてラジオから流れて来る歌やおしゃべりに耳を傾けていました。桂三枝よりも仁鶴さんの方が面白かったです。

さて、昨年の夏は猛暑でした。毎日夜に体重を測っていましたが、心なしか少しずつ減っていきました。毎朝のんでいるニガウリ入りのジュースが効いたのか、体調を崩さずに夏を終えました。10月の連休までは仕事がヒマで、片づけを始めていましたが、10日を過ぎる頃から俄然忙しくなりました。今までヒマでテニスにいそしんでいましたが、忙しくなってくると、何も出来ません。夜本を読んでから眠るといったことも無く、昼はおにぎり、夜もおにぎりと云った感じで仕事をこなしていました。急に仕事をしたために腰を痛めてしまい整骨院に通い、自分でストレッチしたり、気をつけながら過ごしていました。忙しいので疲れもたまるし、腰がひと段落するまでテニスもお休みしました。ストレスもたまり、また体調も良くない時期が来てしまいました。仕事も人に頼めるものはそうして、自分で動く所をセーブしてこなしてきました。

12月の12日には甥の結婚式もあるので、それまでは倒れるわけにはいかないという気持ちで酒をやめ、体調管理に気をつけていました。毎日体重計に乗っていましたが、66キロあった体重が、63キロになり、61キロになり、12月に入ると60キロを割ってしまいました。確かにこの所食欲も無くなり、今まで食べていた量を食べることが出来なくなっていました。酒をやめたからかな、とも思っていましたが、確かにお腹あたりの肉も減ってきていました。今まで入らなかったスーツもそのいくつかが入るようになりました。

もう年になったので食欲も落ちて、体重も減り始め、いよいよ老人の身体になる準備をしているのだと考えていました。テニスをして帰ってきてから体重を測ると59キロ台になり、昨年暮れには58キロを切るようになってきました。ここまで落ちて来るとさすがに心配になり、あらぬことを考え始めました。確かに疲れやすいし、土曜日の朝は起きられない。午前中の仕事を終えると一休みして、体調を整えていました。土曜日の午後に4時間テニスをすると日曜日の朝が起きられません。朝ご飯を終えるとまた眠ってしまいます。睡眠時間は増えるばかりです。

9日の日も朝起きてご飯を済ませると、昼まで眠ってしまいました。何とか起きて中野支部の新年会へと足を進めました。今夜の宿である箱根おかだのお風呂は大きいので有名です。風呂から出てきて体重を測ると63.44キロと出ました。何かの間違いではないかともう一度乗りましたが、結果は同じです。

家に帰ってから体重計に乗ると、57.4キロと出ます。今一つある体重計を取り出してためしに乗って見ると63.5キロと出ました。

「?」

今使っていた体重計は微妙に壊れていたのです。これが今一番の大発見です。



2011/01/13(木) 晴れ


[ 安全な時代の終了か ]
安全な時代の終了か



仕事がシステム化されてきて、大工の出番が少なくなってきています。小さな仕事でも仕事に入る前の打ち合わせにかかる時間が長くなってきています。直す所が「お風呂」と云った場合なら大体の予算からはじき出して、あるいはお施主さんがショールームに見に行って決めてもらえば、仕事の流れとしてはスムースです。もう少し色々な所を直すとすると、大工さんだけでは、打ち合わせに要する時間が取れなくて、設計士の方の出番になります。品物を決めて見積もりを出すまでに要する時間が、とてつもなく長くなっています。

その反面仕事に入ってしまえば、流れ作業が必要です。一日工期が遅れると経費がかかります。大工さんが元請けの場合、大工さんを中心にして下請けさんがツリー状に広がりますが、今は元請けに近い所に設計士の方がいて、その下に大工がいる構造になってきました。材木屋はその下に付くことになるので、そういう仕事をすると、売れて行くものが決まってくるか、あまり値の張るものは売れないか、それとも特殊なものが売れるかのいずれかになります。これからは設計士の方との繋がりや付き合いが大事になると思います。

そうは言っても現実の現場では、さまざまです。今日行った現場では、発注してくれた社長さんはいなくなっており、現場監督もどこかに消えてしまいました。仕方なく材料を一人で卸してきましたが、現場は行きどまりの道の一番奥になります。道の奥になる分、車で来る職人さんは車を止めておけます。一日中いる大工さんをはじめ、電気屋さんや水道屋さん、サイディング屋さんなどが現場にいます。社長さんが発注してくれた時には、「来れば車はどかすから」と言っていましたが、その本人がいなくなってしまったので、やむなく手前で止めて降ろしてきました。片道35歩。60往復して材料を降ろしましたが、知っている職人さんは誰もいなくて、現場の中でも会話の全くない、静かな現場でした。

工務店の社長さんが下職会をあるいは協力会を作って、仕事を分け合っていた時代と比べると、かなり状況が変わりました。今一つの現場では、耐火ボード張りも専門屋に任せて、大工さんの仕事は、建て方、屋根や外部・床のベニヤ張り。それに枠をつけて最後に仕上げの床を張るくらいになりました。そのほとんどが下地材を張るだけになりましたので、材木屋の仕事もこういう部分が増えているのも頷けます。

仕事に名前の無くなった時代になりました。これはおれがやった仕事だと言えない時代になりました。ますます無名の人が活躍します。この時代の後には、もっと人間的な、温かみのある住まいづくりが待っているのでしょうか。私は、親の自宅を見ていると、「あの大工の腕は確かだった」と感心しているのですが・・・




2011/01/12(水) 晴れ


[ 中野支部新年会2011年 ]
中野支部新年会


去る1月9日10日の両日、箱根「ホテルおかだ」におきまして、新東京木材中野支部の新年会が開かれました。2年ぶりの箱根に14名の方が参加され、楽しいひと時を過ごすことが出来ました。新築住宅の8割が建て売りと云った情勢の中で、われわれ材木屋はかなり端に追いやられていますが、それでも材木屋でなければできないこともまだまだあります。少なくともその一つは、木材を使うということになるでしょう。売れて行くものの大半が新建材になりましたので、売っていくものは多様化していきますが、原点を忘れずに、またこの一年を過ごしていきたいと思います。



支部員24名のうち、14名が参加。これも現執行部の太田支部長、窪寺副支部長、亀山会計の骨折りのたまものです。







目覚めると外は雪景色。箱根の新年会には10回くらいは参加していると思いますが、雪は初めてでした。幸先が良いかも・・・



2011/01/11(火) 晴れ時々曇り


[ 稚加栄と呼子 ]
稚加栄と呼子



博多の「稚加栄」に連れ行くという約束をしてから早7年。やっと約束を果たす日がやってきました。1月5日の夕方博多に着いて、念のため「稚加栄」には予約を入れておきました。博多から地下鉄に乗って赤坂で降り、歩いて向かいました。ここは7年前に「十四日会」の旅行で来た所です。その時には本館の2階に通されて宴会料理をいただきました。今思えば何をいただいたか憶えていません。ただ烏賊が美味しかったことだけが記憶の中にあります。今回もイカを中心にして仲居のおねーさんのお勧めなどを聞きながら、アラやカサゴの煮付けやイワシの唐揚げなどをいただき、ウニやイクラのご飯で〆てきました。


翌日、西へ向かい唐津城を見学。九州のお城は海と密接な関係のある所に建てられています。ここも唐津湾と松浦川が交わる小高い山の上に築かれています。お城の駐車場から舞鶴公園まで歩いて、傾斜エレベーターで本丸に上がります。ここから天守閣へは階段を上がります。天守閣から穏やかな唐津湾が見渡せます。城の東側には虹の松原、正面の島である「高島」には宝を当てる神社があるとかで、そちらに向かって宝くじが当たるようにお祈りしてきました。博多からここまで焼く一時間でしたが、雨や雪、またお日様も顔をのぞかせるといっためまぐるしい気候でした。全体的に寒い印象が残っています。

さて、お城にいたお嬢さんにお聞きして、呼子まで足を延ばすことにしました。ここから約40分と言われましたが、呼子大橋を渡らずに、したがって加部島に渡らずに手前の見晴らしの良い所で昼食を取りました。今日も「イカの活造り」です。


稚加栄と呼子を比べると、稚加栄の方がイカが軟らかかったと思いますが、これもイカの身の厚さの関係でしょう。イカが軟らかくて、ゲソ揚げも硬くなくておいしく頂きました。呼子では、マンボウの刺身もいただきました。珍味でした。


「稚加栄」の看板が見えてきました。





唐津城です。別名舞鶴城と言います。綺麗なお城です。


イカはまだ生きていました。


2011/01/08(土) 晴れ時々曇り


[ 初詣 ]
初詣



明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


今日7日より店をあけ、8日は営業いたします。

さて、年が変わると共に近くの藤神稲荷及び氷川神社へお参りし、本年もまた健やかに過ごせるようにお参りしてきました。今年はさらに湯布院の「宇奈岐日女神社」と大宰府の天満宮へと足をのばしました。



「宇奈岐日女神社」です。湯布院の南の方にあります。



大宰府も二人で訪れることが出来ました。



2011/01/07(金) 曇り


( 2011/02 ← 2011/01 → 2010/12 )


[ 管理者:大野満生 ]


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