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時々更新mn日記

( 2010/12 ← 2010/11 → 2010/10 )


[ 昭和記念公園散歩 ]
昭和記念公園散歩


紅葉のシーズンになりました。どこかで紅葉狩りを楽しもうと考えていましたが、立川にある「昭和記念公園」へ行ってみることにしました。立川へはあまり行くことがなく、道も不案内ですが、ナビもあるのでこういう時は便利です。中央高速を国立府中で降りて、立川に向かいました。途中則子さんが通った女子大も見学して無事公園の駐車場に車を止めました。

降りて早速公園内を散歩しました。昔立川基地があった場所だけに大変広い公園で園内のマップには、主な拠点間を歩いた場合の時間が書かれていました。

私たちは、西立川口から入り、水どりの池、いちょう橋、スポーツエリア、子供の森、森の家、日本庭園など、主に西側を三時間ほど歩いてきました。かなりいい運動になりました。


水どりの池です。湖畔のレストランもあれば、ボートもあります。


「いちょう橋」を渡った所です。葉っぱが落ちて路はじゅうたんを敷き詰めたようになっていました。


小学生以下が対象の「雲の海」「ふわふわドームがありました。


ふわふわドームで遊ぶ子供たちです。楽しそうですね。


日本庭園内も紅葉がきれいでした。



2010/11/24(水) 晴れ


[ 「還暦を祝う会」 ]
還暦を祝う会



中野区立神明小学校を昭和38年3月に卒業した仲間の集まりである「6年3組」の「還暦を祝う会」が中野の「味わい屋」で開かれました。13名の参加でした。
この集まりは小学校を卒業してからすぐに一度。二十歳の時に一度。そして本格的になったのは36歳の時でした。武澤、小島、松石の各氏が発起人となり、各家庭を回り、近況や現住所を探り、また名簿を作り、記念すべき第一回を開いてくれました。夏休みの小学校の校門の前で集まり、一次会、二次会、三次会と時間を忘れて飲み明かしました。
その時から4年に一度開くようになりました。第2回は仕事上の都合で欠席しましたが、第三回の「大黒屋」そして第4回の中野新橋の「つくしん坊」から参加しています。それから24年が建ちました。60歳を迎えて男連中は退職するものが増えました。置かれている環境が変わってしまうと思いますが、この先も健康に留意して一回でも多くこの集まりで元気をもらいたいと思います。
私の50代はこの集まりなしには語れません。斉藤佑樹ではありませんが、いい仲間に恵まれたと思います。みんなに感謝しながらまた次の集まりをより楽しいものにしていきたいと思っています。
ともあれ6時間ほどで解散となりました。私も「赤の時代」に入ります。













「カラオケの達人」では、加山雄三、井上陽水、アリスにビリーバンバンなど60年代から70年代いっぱいのものが多くうたわれました。その頃の歌は人名で歌えるという長所があります。



2010/11/22(月) 曇り時々雨


[ 仕事はひと段落 ]
仕事はひと段落



断熱材不足の中、現在行われている仕事はひと段落しました。今月一杯なり、来月半ばで終わります。その後の仕事は見通しがあるようなないような状態に入りました。断熱材はかなりの数量の注文を受けていますが、実際にはいつ入ってくるのか分からないので、仕事にかかれない所も出ています。木造住宅の新築物件は「ウレタンを吹いたり、サニーライトの壁用を用いたり」「ロール状のもので対応したり、」しているとのことです。そのあおりで無くなってしまったスタイロホームも代替品としてカネライトなどが出てきたようなので、少しはこの騒ぎも落ち着くのではないかと思います。

その反面、今回の問題は需要が供給を上回った結果だとしても、これにより一年間を通して安定的に需要がある所へは安定供給するようになり、そういう所へしか材料は流れなくなるのではないかと思っています。大きな所がより大きくなるチャンスでしかないように思えます。近くの商店街でも大規模なスーパーの出店が二つほど企画されており、それが決まれば、商店街の中はより打撃を受け、中規模のスーパーも生き残りをかけることになりそうです。小さな所はますます追いやられます。



2010/11/18(木) 晴れ


[ 懐かしいと言ってくださる人 ]
懐かしいと言ってくださる人



材料の入荷待ちをしていたら、声をかけてきた方がいらっしゃいました。その方は、現在事務所として使っている三喜荘の部屋に住んでいたと話されました。お母さんにはお世話になったと話してくれました。新築の時から入って5、6年いたと話してくれました。私が左目を悪くしたことなどを知っておられましたので、「間違いない」と思いました。
「久しぶりに来たので大変懐かしい」「この辺りも変わってしまいましたね」「駅から歩いてきてもなかなかわからなかった」「材木が建てかかっていたので声をかけてみました」「お父さんに似ています」などと言われました。

この三喜荘の建物が建ってから、もう45年が建ちます。1階が鉄筋で、2階が木造住宅です。1階に木材が置いてあり、2階は賃貸住宅です。外壁を塗り変えたのが2回。屋根を直したのが一回あるくらいで、稼ぎも少ないけど、直しも少なく、効率の良い方だと思います。

材木屋の商売と同じで地味に稼いでいたアパートでした。もう少し稼いで欲しいと思っています。


2010/11/16(火) 晴れ


[ ザボンと天鳳 ]
ザボン&天鳳



朝方夢を見ました。掛けていた布団を剥がされて、取り戻そうと必死で布団を掴んで離さなかった夢でした。起きると両方の二の腕が痛くなっていました。則子さんに話をすると、「私もだよ」「昨日のテニスだよ」と言われてしまいました。「そういえば、昨日はかなり動いたからな」と納得でした。

この所遠出をしないので、朝はのんびりしています。今日は昼ご飯を食べに出かけることにしましたが、少し散歩を兼ねて歩いてお腹をすかせたところで食べようと思っています。我が家から、歩き始めて、当面の目的地は中野坂上です。神田川沿いの遊歩道を東へと向かいました。山手通りに出ると北へ向かいました。この辺りは毎日車では走りますが、歩くとなると、あまりありません。山手通りも拡幅工事がかなり進んで全容が見えてきました。道路が広がると反対側に渡ることが少なくなります。成願寺を過ぎての左側の建物は、昔京王のスーパーで、その後洋服の青山になり、今は100円ショップです。この100円ショップへはたまに来ます。場所が広いのでかなりのものが揃っています。

そこを過ぎると反対側に「なかむら」が見えてきました。以前来たことがあります。信号で反対側に渡りました。「なかむら」は休みでした。ハーモニータワーの裏側から青梅街道に出て西へとぐるりとまわりました。ハーモニータワーの中には「とんかついなば和幸」があり、その隣にはルーマニアレストランがあります。ここを素通りしてマクドナルドに入りました。セットものを食べてお腹を満たそうと思ったのですが、安いセットは10時半までとわかり、辞めました。青梅街道を西へと歩き始めました。

歩いていると、「うまいごはん家」とか「玄」とかが目に入りましたが、やはりラーメンにしようかと思い、郵便局近くの「天鳳」に入りました。初めて入りました。食券を買って私は味噌ラーメンを食べましたが、全体的には味は濃いですね。でもおいしかったです。入ってくる人も多く、また注文するものも、つけ麺やネギらーめん、チャーシュー麺など多岐にわたっていて偏りが少ないと思いました。

お腹を膨らませた所で、青梅街道から中野新橋商店街へと足を進めました。今中野新橋では、橋の老朽化に伴い、橋の架け替え工事をしています。来年の3月末までの予定です。準備に二年半かけて、本体工事は半年間です。片側通行なのでその交通整理のオジサンがいつも8人ほどはいます。人件費だけでも大変だなと思ってしまいます。

さてさて、中野新橋でも「ザボン」が店舗を移動してリニューアルオープンしました。13日にランチをいただきましたが、まだ開店して三日目。そんなに多くの人は入っていませんが、ランチは種類も多く設定してありました。生姜焼きとハラミの定食をいただきましたが、量もあり、コーヒーサービスもあるので、お得感もあると思います。





2010/11/14(日) 晴れ


[ 昔の思い出2 ]
昔の思い出2



会長職も一年を過ぎる頃から疲れ始め、二年で交代させていただくことにしました。拡大役員会を開き、次の会長さんにKさんを推薦し、請けていただけたと思ったのですが、その後、前言をひっくり返されましたので、再び拡大役員会を開いて、私の指名で決めさせていただきました。別のKさんになっていただきました。

一年を過ぎたころから、父も入院し、母も病気になり、この辺りは大変な時期でした。にもかかわらず、新東京木材からは当時の木村理事長さんの要請で、「パソコンソフト開発委員」に任命されました。お断りをしたら、その時の専務さんから「過去に断った人はいない」、と言われ、顔を出すことにしました。その中で、綿貫委員長を始め、池上の勝又さん、練馬の松村さん、豊島の横田さん、品川の大渕さんと交流することになります。この委員会ではナイスのコンピュータ部門の方やカシオの方などから、パソコンを教わりました。

この委員会では勉強させていただいたのですが、なかなか思うように結果が出せなくて、事務方の強力なバックアップで組合に「CADシステム」を導入することが出来ました。その後この委員会は「パソコン通信」や「ホームページ作成」へと続きます。その時にパソコンを教えていただいたのが、南郊の近藤常務さんの弟さんです。この委員会では、組合員の方へはなかなかメリットを打ち出せずに来てしまいましたが、個人的には、「パソコン通信」の中から自分の作品を出すことになりました。「ここを跳べ」になります。

太田さんや亀山さんにこの委員会の委員になっていただけていたら、もう少し違った形になっていたと思います。

その少し前になりますが、45歳の時に、現理事長の長浦さんの肝いりで、「新東京モック」が誕生し、初代会長に横田さん、副会長に太田さんが就任しました。将来組合を背負って立つ二人を中心に多くの若い幹事さんが誕生しました。大勝さんやその後モックの会長職を務めることになる内田、大渕、岡部さんに窪寺さんが初めの幹事さんです。45歳で定年だったので、初めは参加しない予定でしたが、半年でもいいからいて、と言われて参加しましたが、結果今日まで会費を支払っています。

その後横田さんが「昭和会」の会長になり、太田さんが副会長になりましたので、この二人が楽になるまでは「昭和会」に籍を置くことにしました。最近では則子さんも準会員になってしまいましたので、初めのころに考えていたのとは、どんどん違っていきます。

「モック」が出来た頃には、丸宇の内山さんや練馬相互の佐藤さんが中心となって「東京木材ネットワーク」が出来ました。新宿市場の中にも「CAN」が出来て、私はそちらの方にも参加していました。東京の材木屋として何をなすべきか、が問われました。今の年で云うと40代から50代半ばまでの方が中心でした。

同じ頃に茨城県でも「つくば緑友会」が出来ました。初代代表の益子さんとは、メールで知り合いました。一番初めは木材新聞に「材木屋が書いた本」として紹介されていましたので、電話で注文をして、こちらも「ここを跳べ」を送りました。それから折に触れてメールだけの知り合いでしたが、「新東京モック」とのつながりや「東京木材ネットワーク」との会合で顔を会わせるようになりました。

また、丸宇市場の関係で、窪寺、内山、益子の個人的なつながりもあって、丸宇の関係者はすごい人が多いです。ちなみに、11月16日に「新東京モック」でお招きする加藤政実さんも丸宇の関係者で、益子さんの後輩です。

この辺りまでが2000年の後くらいまでになります。私も50歳を超えてしまいました。

この辺りの時に、中野支部から月報委員にならないかというお電話が支部長さんからありました。まだ順番ではない、と支部長さんの所に行きました。が、結果、「文章を書いたりすることがあるから」と言われて引き受けました。月報委員になってから行うことは、顔合わせが一番ですね。どの支部にどういう人がいて、どんな商売をしてるのか、がわかります。中野の場合、十四日会が続きましたので、そこに参加していれば、色々な情報も入ってきますし、仕入れも楽です。それと同じく、月報委員になれば情報も早くて、世の中の流れの概要を掴むことが出来ます。組合としては、後継者の養成でしょうが、その意味はかなり薄れているという印象を持っています。あまり新東京木材にこだわらないで、人の話も聞ける場所くらいに思って参加するのが良いと思います。

月報委員を4年勤めた後に、役員会の席上で、役員に推挙されました。全く何も聞かされていなかったので、お断りをしましたが、なんだかなし崩し的に、請けることになりました。あとである人が「役員に推薦されたら、支部を辞める」といったことも聞かされました。もちろんその方はまだ辞めていませんが・・・

そこで引き受けるにあたって、二年間限定であることと、その次からは「班の持ち回り」にすることを条件にしました。結果的には4年間してしまいましたが、「仕事は順番に」ということと、「あまり長い年月は受けない」のは大事だと思います。支部長時代は色々な方に無理を言ってお願いすることばかりでしたので、なるべく支部活動にも参加させていただきますが、あまり一人の人に負担がかかるやり方は、好きではありません。中心になる方は大変ですので、そのことは思いやってくれるとありがたいです。

60歳を無事に健康で迎えたいと思っています。




2010/11/12(金) 晴れ


[ 昔の思い出 ]
昔の思い出


来年で60歳になります。早いものです。この仕事についてから、35年以上たつことになりますが、市場へ仕入れに行くようになるのは、30歳前後からです。それまでは先代の社長が仕入れに行っていましたが、たまには行くようにと通常市の時には、行かされるようになっていました。その時の木材の仕入れ先としては、新東京木材、東京新宿木材市場、東京木材相互市場、木場センターや木場の木材問屋さんでした。新築の仕事があると、構造材は木場から持ってきていただきました。下地材や造作材は市場からの仕入れがほとんどでした。真壁用の桧の柱などは、現物を見に行き、買いましたので、池袋市場や府中センターからのものが大半でした。

仕入れ先にも特徴があり、木場の方は、支払いのサイトが長くてもよいので、まとめ買いが多かったと思います。相互市場は特殊なものを持っていた記憶があります。また相互市場はあちこちにあったので、新宿市場の鶴ヶ島に前もって材料を用意しておいていただき、それを積んで、東松山の現場まで行き、その帰りに吹上市場に寄って、材料を積んでその近くの現場に降ろして来るなどということは行いました。

新東京木材は小口で分けてくれるという良さを持っていました。木材は種類が多いので、全部をまとめて買うということはできません。その点新東京木材は「必要なものを必要なだけ」買うことが出来ました。その点では今でもありがたい所だと思っています。その反面、値段に関しては、なかなか難しい問題がありました。同じ中野の支部にいても大量に買う方は値段が極端に安くて、自分たちのレベルでは、仕入れの単価が2割も違ってしまいます。そこで新宿市場を利用すると、その差が一割以下になります。そうなると自然とそちらの方に足が向きます。この頃のわが社の木材の仕入れは、新東京、新宿市場、木場をそれぞれ三分の一を基本としていました。

新宿市場に若手会の「青杉会(せいざんかい)」があり、それに入れてもらうようにしました。職に着いてから十年が過ぎようとしていましたが、同業者の知り合いも少ないままで、自分自身「これからどうしていこうか」「何をしたらよいのか」わからなかったので、研修旅行などに参加して、世の中の流れを知る必要を感じていたからです。もう年齢的にこの業界でしか食えない所に来ていました。

しばらくして、新東京木材の中に「昭和会」があり、「プレカット工場の見学会」の案内がありました。その頃から「プレカット」の仕事も出始めていましたが、自分自身プレカット工場を見たことも無く、どんな所だか興味がありました。同じ班の石橋さんに相談すると、「参加するのは構わないけど、昭和会へ入ってくれと言われると思うよ」「それでもいいか」と言ってくださいました。今考えても暖かい言葉だったと思います。参加させていただきました。その時に知り合ったのが、豊島の横田さんとダイカツさんでした。中野からは石橋、田中、大野の参加でした。

それから間もなく、中野に若手会を作るという「呼びかけ」が来ました。練馬の「二十人会」にならって同業者の集まりを作ろうということになりました。4人の呼びかけ人の方とはほぼ初対面でした。それから数回の集まりを経て、正式に発足しましたが、その際、ご出席を賜りました春木支部長様からは「親睦も大事だけれど、単なる飲み会で終わらないでほしい」と激励を受けました。

発会当初、中野支部より2万円の寄付をいただきましたが、それ以降直接支部からお金をいただくことはなく、自由に活動させていただきました。入会条件も中野支部に限らずに、中野市場に来ている人ならどなたでも、といった感じで来ました。

私は、初代会長になりましたが、一つには年齢的なものであり、もう一つは、新東京木材にも中野市場にも縁遠かったのが原因でしょう。すぐに潰れる会だと思われていたからです。会員全員の力でここまで来ました。初期のころ、会長、副会長、会計の3人で「どうしよう、どうしよう」といいながら、「この次は人を呼ぼう」とか「バーベキューにしよう」とか各自のアイディアを出しあったのを思い出します。

十四日会が出来てから、色々な所へ参加させていただきました。練馬20人会、豊島新三日会、亀山さんのプレカット工場、窪寺さんの「ホーミースタディー教室」、横田木材見学、新東京関係では、「年代別フリートーキング」などが初めの1年目の出来事です。とにかく何でもでました。また一人で出席せずに、必ず井上さんなり、太田さんや伊藤さんと一緒に行ったので少しは人と人のつながりが膨らんだと思います。また旅行に行けたのも良かったと思います。


2010/11/11(木) 晴れ


[ 「歌う国民} ]
「歌う国民」


中公新書
渡辺裕

はじめに
第1章 「国民音楽」を求めて
第2章 「唱歌」の文化
第3章 「唱歌」を踊る
第4章 卒業式の歌をめぐる攻防
第5章 校歌をめぐるコンテクストの変容
第6章 県歌をめぐるドラマ
第7章 「労働者の歌」の戦前と戦後
おわりに



「人はなぜ歌うのか」という本もありましたが、私も歌を歌うことは好きです。「歌う国民」とは魅力的な題名です。

明治になって、明治政府は「国民国家を形成」する上で歌の重要性を感じていたことでしょう。歌による国家統一です。江戸時代のからの藩を廃し、県を創立し、その中で国民を作っていきます。その流れで出てきたものが「国民音楽」です。上からの国家統一です。それは大正時代ないし昭和初期には「唱歌」となって、あるいは「民謡」なども国側の要請でピックアップされていきます。昭和初期の段階です。

それとは反対の動きが、「労働者の歌」になるのでしょう。戦前の労働者の歌は大変勇ましく、

「たて飢えたる者よ 今ぞ 日は近し」

などロシア革命に影響を受けたものが多くあると思います。その「労働者の歌」の戦前と戦後を目次に入れたのがこの本の新しさでしょうか。歌には人を魅了する力があります。上から作られた歌でも人の心を打ちます。それでも自分たちの歌を求めて多くの歌が作られています。この本に載せられている唱歌や校歌、ならびに社歌にしても労働者の歌にしても一人で歌うものではなくて、多くの人が一緒に歌う歌です。だからこそ、人の心に訴える力も大きく、また世の中を変える一助となるのでしょう。

最後に「歌わされたのか、歌い破ったのか」という問いかけが行われていますが、それには新鮮さを感じます。上から歌わされたものでも、歌う側は何かしら自分たちなりのものを入れて歌ったりするものです。替え唄などもその一つでしょう。その話はまたにしましょう。

それにしても自分たちのものを掴むというのは長い時間をかけてなし得るものです。そういう歌を数多く知りたいし、作りたいものです。しいてはそれが国民の財産となるのだと思います。この本がもう一つの近代史と呼ばれるには、もう少し「何か」が欲しい気がしています。その何かを示すのは自分の仕事です。






2010/11/09(火) 晴れ


[ 十年、二十年に一度 ]
十年、二十年に一度




断熱材の不足がいわれて一カ月が経ちました。手当の早い方は別として、この基礎的な資材の不足に悩まされて右往左往しているのが現状です。まとまった現場については、予定を立ててそれにしたがって納入していただけるのでしょうが、我々が相手としている小さな現場はそういうわけにもいかず、ますます自分の力が落ちていることを感じています。もう来年の2月の仕事分として断熱材を発注している材木屋さんがいると聞きました。もうそのくらい先を見て仕事をしないといけませんね。まあ、その分だけ12月や1月の仕事は少ないと思っていた方が良いのでしょう。当分この騒ぎは続きます。今は少しずつでも断熱材の手当てをして納入し、現場を納めなければなりません。そうしないと引き渡せないからです。引き渡しが出来ないということはお金がもらえないということになり、私どもの生活に直に響きます。今年は相当気をつけないと悪い結果しか出てきません。

思えば40年近く前に、木材の価格が高騰して二倍になり、家が半分しか建たなかったときから、十年に一度のペースで、このような資材が不足する事態が起こっています。計画が立てられない仕事は小さくなるばかりです。



2010/11/08(月) 晴れ


[ 確かに面倒かも ]
確かに面倒かも



杉材で窓枠材を頼まれました。昔なら大工さんが木を見て「木取り」をして自ら加工していましたが、加工する量が少なくなり、材工で頼まれることが増えました。今では、加工してもらう方が当たり前で、大工さん自ら加工する人も少なくなりました。

そのため、造作材の板ものは売れなくなりました。わが社でも売り切り終了の予定です。

一応材工で頼む時には、用途を書くようにしていますが、お客さんから来たFAXをそのまま流すことも増えてきました。こちらが間違えないようにと云うこともありますが、出来るだけ加工していただく人にわかるようにするには、その方が良いと思うからです。

そうしてきた材のひとつが




これです。
3丁白くて、1丁赤いものが入っていました。これで四方の枠にしていくと、何となくバランスが悪いと思ってしまいました。今冷静に考えると、縦枠が白で、上枠を白にして、下枠を赤くしても良いのかなと思いますが、四方とも同じ色で回った方がきれいかと思い、作り直しました。

国産材は色もそうですが、木には上下があります。窓枠などの場合木表を見せて、さらに木が生えていた通りに枠をつけることを考えると、縦の枠材は三方無節以上のものが要求されます。しかも削る前は節が見えなかったのに小さくしたために節が出てしまうこともあります。加工する前には、使い方を頭に入れ、裏に節が無いか、あるいは節が出ないような材で加工に出さなければなりません。

材を集めて、見極めて、加工して、配送して、と云う過程を経てわが社に来ます。それでも良い木ばかり出そろうことも無くなってくると、確かに国産材を使うことは面倒かもしれません。その面倒な作業を何気なく当たり前にこなしていた時代は、凄かったのかもしれません。


2010/11/05(金) 晴れ


[ らいおんラーメン ]
らいおんラーメン



愛車FITがもうすぐ5万キロになるのにあと10キロに迫りました。そこで、丁度の数字の時には、則ちゃんが運転していてもらいたいのでミニドライブに出かけることにしました。一応目指す所は府中辺りに設定して、車を走らせました。中野通りから甲州街道へ入り、中央高速の下を通り東八道路に抜ける途中で丁度区切りの良い数字が出ました。「国学院前」と云うバス停の所でした。
これまでも1万キロ2万キロと区切りのよい数字の時には運転してもらっています。

さて、一安心してから、府中へと目指しました。まずは大国魂神社へ。秋の酉の市や桜の季節に来たことがあります。何よりも則ちゃんはここに十数年間住んでいましたので、第二第三の故郷でもあります。お参りに行くと、今日は子供連れでにぎわっています。
七五三を祝う家族で、溢れかえっていました。3歳児はかわいく、7歳はかなり大人です。5歳の男の子はしっかりした顔つきになっています。親の思いを感じ取り、またじいさんばあさんのうれしそうな顔を見ながらここを後にしました。

続いて伊勢丹にある「青木屋」へ。ここは団子が有名で、以前はお茶のサービスもあり、椅子に腰かけてのんびりお茶に団子を楽しんだものですが、もうそうしたのんびりしたサービスは無くなっていました。

またこの日はケヤキ並木で「武蔵府中歴史まつり」が開かれていました。1300年前の恰好をしたパレードが、10時半から行われていました。これを見ていると、お腹もすいてきたので、一路「らいおん」へ。一応小金井の「江川亭」も考えましたが、府中駅前の「らいおん」にしました。十年ほど前に来たときは、まだ木造の小さなラーメン店でしたが、再開発によりビルの一階に店を構えるようになっていました。11時ちょうどに行くと6人ほど並んでいました。オーソドックスな「らいおんラーメン」をいただきました。850円と高めです。麺はストレート麺。やや太め。スープは私には少し辛めでした。ラーメンも久しぶりでした。

さてさて、今晩はテニスに行こうと考えていたので、三鷹にある「Jマート」で買い物&偵察をしてから帰路につきました。グラスウール系のものはありませんでしたが、スタイロホームはまだありました。グラスウールないしロックウール系の断熱材を倉庫から盗まれた所があります。鍵のかけ忘れをしないように十分に注意を払いましょう。


大国魂神社です。良い天気でした。


昔に帰って一枚。気分は七五三です?。


副市長を先頭に行進ですが、かなり地味でした。


府中伊勢丹前です。中央に団子ののぼりが。左側が「青木屋」です。


2010/11/04(木) 晴れ


[ 再会 ]
再会



昔の友人と再会しました。
同志社時代の友人である淑子さんと37、8年ぶりくらいに再会しました。お変わりなく、昔よりももっと元気でいらしたので、安心しました。また、時を越えて、お話しできる喜びを感じました。

昔話をするよりも、今置かれている自分たちの状況やこれからのことが大きな話題となってきました。これからの日本のこともかなり心配する年になりました。段々と年を重ねるに従って不安は募るものです。不安を打ち消すためにもう少し仕事をしなければならないと考えている次第です。

ともあれ、良いお酒を飲みました。おいしいお酒でした。





2010/11/01(月) 曇り時々雨


( 2010/12 ← 2010/11 → 2010/10 )


[ 管理者:大野満生 ]


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