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時々更新mn日記

( 2010/08 ← 2010/07 → 2010/06 )


[ 高校同期会の写真 ]
高校同期会の写真


先日行われた高校同期会の集合写真が届きました。先生が若々しいのに生徒だった方がかなりくたびれています。






2010/07/28(水) 晴れ


[ 一文 ]
一文




7月24日(土)、浅草寺をお参りした後、酒膳「一文」へ向かいました。浅草寺の北側、「5656会館」を過ぎて、見番の所を右に入った所にあります、昔の居酒屋です。店内では一文100円の木札が通貨です。50文は5000円、100文は一万円になります。さすがに100文は頼みませんでしたが、メインのネギ間鍋を中心にお造り、焼き物、おしのぎのどれをとっても初めて口にするものばかり。おいしくて粋な感じのするお店でした。十四日会のショールーム見学の後の出来事でした。

余談ですが、この近くに「梅むら」という豆カンのお店があります。日曜日が休日なのでまだ入ったことが無く、土曜日ならば開店しているかと訪ねたのですが、あいにく午後4時で閉店。またしても食べることが出来ませんでした。









2010/07/27(火) 晴れ


[ ノダのショールーム見学 ]
(株)ノダの東京ショールーム


去る7月24日の午後から十四日会では、東京浅草にある(株)ノダのショールーム見学を行いました。

ショールーム内では、まずノダの近藤弘リーダーによるプロジェクターを使った商品説明が約一時間半。ノダの商品の特徴や売りたい商品・売れ筋などを教えていただきました。例えば床板であれば、クリアシルキーであるとか、フロアーセブン、ネクシオウォークヒットなどです。また商品カタログの見方や留意点なども丁寧に説明を受け、大変参考になりました。

近藤リーダーは、よどみなくお話をされるので思わず引き込まれます。商品説明にしてもこの商品はパナソニックであれば、どれに当たるとか、フロアーセブンの納めの部材は大建工業の6ミリ用の部材で間に合うなど、かなり明快なお話でした。楽しく学んだので時間の過ぎるのを忘れた見学会でした。

(株)ノダはふた昔前までならラワン合板のメーカーとして材木屋になじみがあり、一昔前までなら、安価なフロアーや建具、それにMDF、ラスカットなどの販売が主なものでしたが、今では樹脂シート抜きにしては語れない会社になったのだと思いました。

最後になりましたが、今回の企画は新東京木材建材課の佐藤さんがたてたものです。良い企画だったと思います。







7ミリと3.5ミリのリフォーム用のフロアー


2010/07/26(月) 晴れ


[ 島先生一周忌 ]
島一郎先生一周忌


7月25日は昨年亡くなられた島一郎先生の一周忌にあたります。
早いもので一年経ってしまいました。先生は恐ろしくマメな方で、住所のわかる教え子千人にもれなく年賀状を書きました。12月の初めになると名簿から表書きをパソコンで行い、裏面には必ず一言書き添えられていました。出来そうで出来ないことです。私も卒業以来島先生とはつながりが浅くなっておりましたが、30代の終わりごろから先生とのつながりが復活し、それから毎年年賀状をいただきました。
どれもこれも前向きな言葉が書かれていました。悩んだ時、躓いた時に読み返しています。


改めてご冥福をお祈りしています。



卒業時に出せなかったゼミ論の代わりとして、著書を送った際の先生からの返書。




2010/07/25(日) 晴れ


[ 最近の状況は ]
最近の状況は



俗に「梅雨明け十日」と言いますが、関東でも梅雨が明けて、一気に暑くなりました。今日も猛暑日です。

さて、景気の後退から脱却できている所はいいかもしれませんが、まだ底にいる方々にとっては厳しい日々が続いていると思います。

そんな中リフォーム詐欺や取り込み詐欺の業者が増えてきたそうです。気をつけましょう。

今年は4月以降の売り上げがかなり落ち込んでいます。それが月日を追うごとに進んでいる状況です。お盆明けまでは売り先がほとんどなく、したがって売り上げも期待できなくなりました。わが社は8月末で決算ですが、今年は厳しいと思います。

この売り上げが落ちた4月5月には、今までにないくらいの見積もりを行いました。見積もりをしなければ仕事が取れなくなったということでしょうか。見積もりをした結果、ほとんどの仕事が決まりませんでした。15坪ほどの木造住宅でも見積もりをした業者の方は1千万円以下では出来ないとのことでしたが、予算は600万円で、その金額で別の方が、近いうちに仕事にかかるそうです。

今日も銀行の方とお話ししたのですが、景気が上向きになっているとことはほんの一握りでその方が忙しいだけ、底上げにはなるけれど、潤うのはほんの一部であり、大部分が底を這っていると言っていました。融資も昨年なら1千万円台で出た会社も保証協会から出た金額はその10分の1だそうです。借りておいた方が良かったのか、それとも借りていれば返せなくなっているのか、なのでしょう。

夜逃げも近所で起こりました。

家賃の滞納もこれからまた起こるのでしょうか。

10年に一度くらいのペースで、こういうことが起こってきました。

最近、悪い人が増えているように思います。気をつけていないと足元をすくわれます。



2010/07/20(火) 晴れ


[ 昔の町には活気があった。 ]
昔の町には活気があった。



私はいま59歳。昭和26年生まれです。

私が生まれた中野新橋の家の近くは、私が1、2歳のころまでは一面の麦畑でしたが、昭和30年を境として、表通りを中心に家が建ち始めました。中野新橋は第二次世界大戦後に新橋に対抗して中野に芸者町を作った関係で今の地下鉄中野新橋駅の少し北側にある神田川沿いは芸者さんがたくさんいる町として栄えました。さらに北に行けば、青梅街道がメインストリートでそこには都電やトロリーバスが走っていました。そこを東へ10分ほど行けば新宿駅まで通じていました。

私の住まいから200メートル南側に行けば、川島商店街が昭和の初め頃から賑わいを見せていました。

私が生まれてから物心つく頃には、商店が増えてきました。昭和30年代になります。住まいの前には市場があり、八百屋、魚屋、肉屋が入っていました。2階は映画館でした。私が小学生の頃(昭和33年)には建物だけが残り、印刷屋さんかクリーニング屋さんなどが入っていました。2階への入り口で軟球を階段の角にぶつけて「野球?」をしていました。わずか5メーター四方を使っての遊びでした。

さて、住まいのあった所を北に行けば、そこには床屋さん、豆腐屋さん、クリーニング屋さん、お寿司屋さん、靴屋さん、ラーメン屋さん、メガネ屋さん、少し置いて焼き鳥屋、床屋、布団屋、パン屋と続きます。その反対側を歩けば、八百屋、肉屋、乾物屋、履物屋、氷屋、本屋、中華料理屋、米屋、パーマ屋となります。この向かいに私の住まいがありました。

住まいの斜め前にはお菓子屋さん、その横には洋服の仕立て屋さん、その隣が運送屋さんと続きます。さらに南に行けば、製材所があり、小鳥屋、印刷屋、おでん屋、さらに豆腐屋、米屋とありました。

住まいを南に行けば、自転車屋さん、駐車場や地主さんの住まいを越えると貸し本屋さんがありました。やがてその駐車場にはラーメン店。喫茶店、カレー屋さん、バイク屋になり、その反対側にも、関西風うどん店やてんぷらなどを出す大衆食堂が出来ました。昭和35年あたりから出来始めて、昭和が終わる頃まであったと思います。

川島通商店街も夕方自転車でその道を通ろうものなら、大人に怒鳴られたものでした。混雑しているからです。魚屋でも八百屋でも数件ずつあり、ここへ来れば大抵のものは間に合いました。今では考えられなくらいの盛況でした。

材木屋も同じでしょうが、今では考えられないくらい景気が良かった時でした。今でもここにあげたお店のうち、4分の1くらいは残っていますが、昔日の面影はありません。大きな所に吸収されて行ったものはこの町から無くなってしまいました。
そうですね。この頃この町に無かったものは銀行や信用金庫だったかもしれません。青梅街道まで出ないと無かった時代。それが中野新橋に地下鉄が開通すると、駅前に「太陽銀行」が出来ました。昭和37年ころでしょうか。それから信用金庫や信用組合がいくつかできましたが、平成に入って銀行が撤退して、今では信用組合と信用金庫が一軒ずつあるだけになりました。もとのようになりました。

世の中進歩しているようで、住んでいる人の利便性から考えると、かなり後退していると思います。大規模化が進行しています。あるいは全国規模のお店が増えていますが、そのお店まで買いに行かないと用事が足りなくなりました。小経営は無くなっていく運命にあるのかもしれませんが、町全体としても今の方がはるかに衰退しています。

こう考えてくると、良い時に生まれたのだと思います。活気がありました。



2010/07/16(金) 晴れ


[ 売り先が減った ]
売り先が減った




自分の仕事を「木材販売、新建材販売、サイディング材工、水回り施工、プレカット材工」などと紹介しています。
その中でも、木材と新建材の販売が主なものになります。

主な売り先は大工・工務店としてきましたが、その両方とも現在では低調です。一番安心感のある売り先ですが、売り上げに貢献できるだけの仕事量を確保できないでいます。特にこの二カ月は全くと云って良いほど低調です。

大工や工務店さんが木造の新築住宅を受注してくる時代は終わったようです。作り手が直に住まいを作ることは一番安全安心な方法ですが、現在の住宅作りでは、住まいを建てるまでの事務処理が沢山あるので、大工は二番手に落ちています。

変わってその場所を占めているのは設計士の方になります。昨年一年間に関与したプレカットの仕事の大半は設計士を兼ねた工務店さんや設計士の方からのものです。その意味では設計士の方とのつながりは今一番大切にしなければならない所です。

また昨年までは鉄骨の内部造作の仕事がありましたが、今年はほとんどありません。まだマンションリフォームはありますが、全体を壊してリフォームする仕事は減っています。一部分の補修程度のものが増えています。またマンションリフォームでも、工期の短縮やリフォーム金額の上限を抑えられてしまうものが増えています。元々の請負単価自体が下がっていることも関係しているのでしょうが、マンションリフォームも元請けとして請けてきたものは別としても、二次下請けや三次下請けでいただいた仕事では、たいてい足を出してしまい、「自分の手間が無かった」「みんなで分けたら、一日8000円にしかならなかった」「材料屋には払わない」などと云う風になっています。堅実に仕事をこなしてきた所にもこの傾向は深まっています。

ここへきて従来の顧客であった方々も、生活苦、仕事減少、単価切り下げ、破産などが始まっています。気をつけましょう。売り先は減っています。売り先を間違えないようにしましょう。



2010/07/15(木) 晴れ


[ 昔の仕事は ]
昔の仕事は丁寧だった





 私の会社では、木材をはじめ、新建材、サイディング、建具、床暖房、水廻り商品、プレカットなど「今の住まい」を形作る商品を取り扱っております。その中でも「木材」はわが社の特化した商品ですので、これを販売している立場からいくつか述べてみたいと思います。

木材が住まいの中心をなしていた時代には、木材は見たり触ったりする事が出来ました。汚れれば磨き、腐り始めれば取り替えるといったことが簡単に出来、木は友達でした。現在では木材の使用量は減り、また使われ方も変わりました。見える所に使われることが少なくなってきたのです。木が見える所に使われていると下記のような特性が発揮されます。木の目は見ては美しい、木は触ると温かいあるいはひやっとしない、部屋の中の湿気を調節してくれる、足の裏にもやさしい、いい香りがするなどです。

住まいを新築された方で数年の後、自分が建てた住まいに何か物足りなさを感じたことはないでしょうか。建売住宅を買ったり、2×4で建てた住まいに住まわれている方が、「和室が欲しい」「壁や床に本物の木を張りたい」という話を耳にします。これはその住まいを建てたときには、経済力やデザイン性、を優先した結果だと思います。

住まいを手に入れるときは、「タイミング」がありますので、これに対してとやかくは言いません。ただ、「木が欲しくなる」というときは来ます。ガーデニングで満足感を味わうのも良いのですが、普段使う居室に木を使うことをおすすめいたします。

木は存在そのものが大事なのです。身近にいることが大事なのです。ちょうど親のように。柱には60年から80年成長してきた木を使うと考えています。それだけの年月を経て育った木は建築用資材となってからも60年以上も耐久性があります。このような木材を使うということは、曾御祖父さん・曾お祖母さんの時代に植えられた木を使うということです。それだけ長い年月をかけて育った木ですから見える所に使って、大工さんに手加工してもらい、触れるようにしておきましょう。床や壁にも本物の木を使ってその温かみを肌で感じて下さい。

木も生きているときには、二酸化炭素をいっぱい吸って大きくなり、切られてから建築用木材として使われ、二酸化炭素を固定します。いわば死んでからも人間に恩恵を与えています。

木を身近な環境の一つと考え、見て、触って、香りを楽しんで五感を育て、頭の中をさわやかにして生活を楽しんでいただきたいと考えております。私の仕事はそのためのお手伝いです。


さて、余談ですが、「つくば緑友会」のHPを見ていましたら、「つれづれ帖」の中に杉のほそい丸太を使って階段の手すりに用いる、と云う話が載っていました。実は私が育った住まいは、今はもうありませんが、階段の手すりは桧の細い丸太で出来ていました。二階まで7尺5寸で上がる急な階段でしたが、そこには丸太が使ってありました。そこでの記事はそんなことを思い出させてくれました。昔はものを大事に使っていたことがわかります。



2010/07/11(日) 晴れ


[ キッチンパネル ]
キッチンパネル




一昔前ならば、キッチンの壁には好みのタイルを張ったものですが、最近では「キッチンパネル」と呼ばれるボードを用いることが増えています。ショールームなどでキッチンを選んで、それに見合うキッチンパネルを選びますが、少し前までなら、そのキッチンのメーカー品を用いましたが、最近ではアイカ工業のそれを用いることが増えています。大工さんでもリフォーム業者でも簡単に張ることが出来ます。

それでも現場によっては、「どうしてこんな変な割り付けにしたのだろう」と思うことがあります。パネルの継ぎ目が目につく真正面にきていて何かにつけて「気になる」ことがあります。これなどはパネルを効率よく使おうとして全体のバランスを欠いたためだと思われます。

キッチンパネルのサイズは通常935×1855ないし、935×2455ミリです。この数字をもとに継ぎ目を考えながら割り付けされるとよいでしょう。効率を第一にすると見た目が悪くなります。そのようなことを頭に入れて施工してくれる人なら他の工事でもよい仕事をされるのでは、と思います。

施工キットはキッチンパネル一枚につき、専用のり一本、仮留めテープ1巻が通常です。三枚使えばそれぞれ3本、3巻になりますが、大工さんだと仮留めテープがもう一本余計に使うことが多いです。その反対にリフォーム業者だと糊もテープも少なめに使います。


正面の壁には、キッチンパネルが張ってあります。



2010/07/10(土) 晴れ


[ 木工事は少なく ]
木工事は少なく


お客さんと話していて、「木工事が少ない」と話されていました。外部の塗装工事や防水工事はあるけれども、木工事が絡むものが少ないといわれます。ベランダの防水工事などでは、20万円くらいから始まりますが、大工さんが絡む仕事は、仕事が大工さんだけで終わらず、電気屋、水道屋、クロス屋などいろんな職種の人の力を借りるので、始まりの工事金額が高い所から始まります。
最近の賃貸マンションなどでも水回りを含めた全体を直すことが少なくなりました。15坪くらいあると、最低でも300万円くらいかかってしまいます。賃貸料は下がる傾向にありますので、マンションのオーナーさんも出来るだけ小規模に直します。クロスの一部だけを直したり、床にクッションフロアーを張り替えるだけなど、それなりに工夫しています。

その結果、木工事はますます減る傾向にあります。

さて、それでも三多摩に行けば、建売は絶好調だといいます。わが社よりももっと中の都心部へ行けばマンションリフォームも忙しいとのことです。環状6号線の外から環状8号線の中までがヒマなようです。

仕事が順調です、と云う所と全くヒマですという所に分かれてしまいました。


2010/07/09(金) 曇り時々雨


[ 若い時は ]
若い時は



若い時はお金が無くても生きていけるが、
年を取ったらお金が無くても生きていかなければならない。

なかなか大変な時代になりました。

それでも私などはまだいい方なのでしょう。70歳までは働くという友人が増えました。問題は働き口ですが、若い人よりももっと少ないようです。

さて、ベランダのキュウリとニガウリは順調に育っています。キュウリは15本ほどは出来たでしょうか。ニガウリも5本ほど出来て、そのうちの一本はゴーヤチャンプルにしました。新鮮野菜のパワーで体力をつけています。何でも収穫はうれしいものです。









8月末の決算に備えて、在庫を減らしていこうと思っています。




2010/07/08(木) 晴れ


[ 仕事は ]
仕事は


この4月から見積もりは沢山しましたが、決まった仕事はごくわずかでした。決まった仕事も、直す場所が少なくなっていたり、納める材料が限られたものになっていました。

こういうものもありました。
わが社の方が高かったから「やめた」と言われていたのですが、もう一社の方は運賃別途で、それを足して比べると「変わらなかった」と言われました。

相見積もりの相手の単価がおおよそわかっている仕事もありました。「それより少し安く書けば取れるかな」と大工に言われてそれなりのものを作りました。そこはさらに運賃としていくらか計上しているとのことでしたから、それなら「取れるかな」と安心していたら、駄目でした。先方は間に入った人のお礼も計算に入れて見積書を作っていたのです。

こうしてみるとあまり知らない人の仕事は出来ないですね。元々は人間関係が出来てから始まる仕事でしたが、それが崩れています。

今年の前半、目黒でリフォームをされた方がいました。追加したり変更もかなりありましたが、無事集金が出来たと工務店さんが言っていました。こちらも一安心です。ある程度年配の方ですが、それくらいの年齢の方の仕事は安心感があります。そういう人が少なくなっています。「良い人を見つけて、その人のために一生懸命仕事をする」その出会いが一番大切な所です。その時のために良材を探したり、在庫したりといわば、修業を重ねているのです。



2010/07/07(水) 曇り時々雨


[ 風呂なし物件 ]
風呂なし物件



不動産屋さんと話をしていて、「風呂なし物件なら、すぐに決まります」と言われました。特に2万円台なら即決ですとのこと。大きな企業ではリーマンショックから立ち直りが新聞紙上で取り上げられていますが、下層の方に行けば、まだそれどころではなく、景気の上昇などまだ先の話です。それどころか、ここの所で我慢を重ねている分だけ、精神的には厳しくなるのではと思います。

発狂した歯医者さんの話も聞きました。お客さんが少なくなり、治療を引き延ばして稼ごうと思ったのが、患者さんにばれて、なお一層患者さんが減った結果だそうです。


さて、私を取り巻く情勢も厳しいものがあります。父が亡くなって4年半。父の代のお客さんも70代の半ば。亡くなられた方や引退した方ばかりで、現役で仕事をしている方もこの4月で事実上の引退です。さらに廃業を決めた所もあります。

また、支払いが遅れている所も増えました。4か月目に入ってやっとはじめの一カ月分をいただけた所もあります。これなどまだいい方です。売り先が崩れています。売ってはいけない所が増えています。そんな関係もあり売り上げは落ちています。

そうなってくると材木屋同士の連帯と、材木屋と問屋、あるいは組合との協力が今まで以上に必要になります。吸収や合併も今まで以上に進むでしょう。思い切って小さくなるのも一つの手でしょう。

最近の住宅は、木造の新築であれば、床板は24ミリか、28ミリのラーチ合板にフローリングを張ります。ラーチ合板の寿命が床の寿命になります。マンションリフォームでも20ミリないし25ミリのパーティクルボードの上に直接フロアーを張ります。あるいは張る仕事が増えました。どちらも水に弱い資材なので施工中ないし、完成後も湿気や水漏れには留意が必要です。ベニヤ板を使った住宅は良く管理されなければ、弱いものです。

今、昭和40年に新築されたお宅の耐震リフォームで材料を納めていますが、まだこの頃はベニヤや新建材を使っていなかったのですね。それなりに古いですが、土台も桧材で思ったより傷んでいませんでした。ただ開放的な作りなので柱を足したり、筋交いを入れていますが、床も壁の外部の杉板ちゃんと残っています。一度リフォームしているようですが、全体をいじるのは初めてのようです。50年近く良く持っていると思います。

現在作っている住宅でこの水準を超えるものがどれだけあるのか、疑問です。それは自分の今までの仕事に関しての反省もあるでしょうが、「簡単に作れるものは長くは持たない。簡単に壊れる」と云うことでしょう。十年保証はありますが、もう少し長持ちする住宅を作るためには、木を使うことでしょう。それも少し厚めのものや、サイズの大きなものを使うことでしょう。決して難しいことではありません。現実の仕事はそこから離れたものが増えていますが、木を使った住宅の良さは、「人の生活を邪魔しない」ことだと思います。

まして、設備のものはキッチンにしても10年経てば、取り換えの時期が来ますし、給湯器なども7、8年がめどです。床暖房も15年経てばやりかえるようです。新しいものに取り換えられれば、より便利になりますが、そうすると十年ごとにリフォームしなければなりません。そのつもりでアパート経営を考えると「風呂なし物件」が一番効率が良いかもしれません。




2010/07/06(火) 曇り


[ 早稲田高校同期会 ]
早稲田高校同期会


早稲田高校71期の同期会が、さる7月3日に開かれました。出席者は先生が7名。校友会会長が1名。同期の連中は46名でした。我々71期生は350人くらいいたと思いますが、今回の参加者は少なめでした。8か月前に開いた時には70名を超える方の参加があったそうですが、私は欠席しましたので、よくわかりません。今回の出席者の半分は同じクラスになったことのない方でしたが、われわれ同期では知らないものはいないという当時目立っていた方々も参加されたので、盛り上がりがありました。

それにもまして今回のメインは先生方でした。我々が60に手が届くくらいなので、先生もさぞやお年かと思えば、案外若く、84歳を筆頭に71歳が一番下でした。私たちと一回りないし二たまわりくらいの違いなので、先生方も当時は若かったことがわかります。

その中でも数学の古川先生は高校1年の時に担任していただきました。現在84歳になられたそうです。当時からきれいに禿げており、お年を聞くのをためらっていましたが、私が教わった時は40歳を超えたくらいだとわかります。若かったことがわかります。

社会の岡沢先生は71期の同期会へは初めての出席とのことでした。岡沢先生は当時歴史研究部の顧問として、一緒に夏合宿へ行きました。たぶん京都の宇多野のユースホステルの時と飛鳥の橘寺での合宿がご一緒だと思います。橘寺の時には暑い最中、飛鳥の地を歩きました。橘寺を拠点として、川原寺跡や飛鳥寺で飛鳥大仏を見て古墳めぐり。翌日は石上神社から山の辺の道を景行天皇陵まで。さらに聖林寺から談山神社、石舞台古墳などを回ってきたと思います。それ以来、橘寺へは行っていませんので、記憶に残っています。(昨年40年ぶりに山の辺の道の後半部分を歩きました。)

岡沢先生は5年まえに退職され、現在では清瀬で俳句の会を催されているそうです。西の松山に対抗して東の清瀬にしたいと話されていました。

さて、今回の真打ちはやはり和角仁先生でしょう。私は中学三年生の時に担任していただきました。早めに早稲田高校を退職されて大学や予備校の講師をされました。古典の先生です。先生は「市川染五郎」という著書を持つくらいに「歌舞伎」に造詣が深く、国立劇場で「国姓爺合戦」を課外学習で見せていただきました。歌舞伎を見たのもそれ一度きりです。

こうしてみると高校生の時には文化のレベルが高かったのだと思います。

さて、今回は仲が良かった連中はほとんど来ていませんでしたが、初めて言葉を交わした人ともつながりが出来たし、こうして出てくる人はそれなりに元気なのでまた参加したいです。

次回は2年後だそうです。それまで頑張って生きていましょう。幹事の皆さんお疲れ様でした。



ズラリ並んだ先生方


挨拶する岡沢先生


歌舞伎にちなんで「こいつは春から 縁起がいいわえ」と三人吉三の1節で〆ていただきました。


2010/07/05(月) 晴れ


( 2010/08 ← 2010/07 → 2010/06 )


[ 管理者:大野満生 ]


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