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時々更新mn日記

( 2010/05 ← 2010/04 → 2010/03 )


[ 繋がりが切れた ]
繋がりが切れた



若い工務店さんの仕事のやり方は、自分とはかなり違います。それは特に木材の取り扱いにおいて顕著です。

まず木材は加工されていて、すぐに使えるものと思っています。またどんなサイズでもすぐに間にあるものだと考えています。

また日本の材料にこだわりません。節のあるなしについても深いこだわりはないように思います。生地で仕上げることが少なくて塗装されることを前提として使っているからだと思います。

こうなると杉や桧材を使う理由はなくなります。加工されていない「荒木」と呼ばれる状態のものを自分が使うサイズに自分で削って仕上げます。手鉋で仕上げることは今では少なくなりました。超仕上げで仕上げるのが普通になりました。

それも行われなくなりつつあります。こうなると一番使いやすいものはツーバイフォー材になるのでしょうか。幅の広いものもあり、ワンバイフォーのような手頃に使えるものもあります。

私なども乾燥材を要求しましたし、精度の高い木材もお願いしてきました。その結果機械に対応できる木材は供給されました。その行きつく先は集成材であることも理解出来ていました。ここまできた以上、また来たからこそ、これをもう一度ひっくり返すことが必要になりました。

何でもすぐに間に合わない。時間をかけないといい仕事は出来ない、そういう方向に行くようになるのだと思います。それは、大量に消費するという方向とは違うように思います。また大量に生産できません。

ますます材木では食えないという結論が出てきます。ここはひとつ林業から製材所くらいまでは国の保護をお願いしないと衰退ですまずに立ち枯れてしまいます。

材木屋は、本業であってそこから利益が出て給料が支払えればよいですが、だんだんとそうではなくなってくると、他の所で収入をあげて生活するようになります。私の所でも、昭和33年から、アパート経営を始め、昭和39年には三つ目のアパートを作り、現在でもそこの所は残って1階で材木屋をやり、2階の部屋をいくつか貸しています。それで生活が出来るわけではありませんが、固定資産税くらいは賄えます。都内の材木屋さんは、早くからこのように出来たので、自分は大学も出してもらえたし、何とかここまで材木屋として過ごせました。

「さおだけ屋はなぜ潰れないか」ではありませんが、さおだけを売るだけではなく、その裏側に裏付けとして「生活に余裕とゆとり」が必要なのでしょう。

私としては、手仕事の美しさを次の時代に繋げていきたいですね。


2010/04/30(金) 晴れ


[ 材木屋の生き方 ]
材木屋の生き方


春に三日の晴れなし

4月も終わりだというのに暖房をつけています。まだ寒い雨が降っています。自宅の庇の防水工事がこの雨のせいで遅れています。

さて、十四日会の総会も無事に終了しました。
役員も順番で勤めていますので、特定の個人に仕事が集中しないようにして行きたいと思います。が、ここ数年、あるいはもっと前からかもしれませんが、会の活動の中で組合との関連の行事に参加することによって、それにとられる時間がかなり増えています。少し十四日会の役割を軽くしていただく方が良いと思います。中野の材木屋さんも材木屋として生きていく方はまだ多いのですが、何せ基本がひとりになってしまった所が増えているので、「そこまで出来ない」という風になっています。それは商売が厳しくなった反映でもあります。

今日も雨の中、売れたものはボードに、コンパネ。30×40に36×45。それに天井点検口くらいでしょうか。ケイカル板もありました。そういうものだけで商売が成り立つならよいのですが、なかなか小さな物を積み重ねただけでは、ボリュームが出ません。数年前に当時中野支部にいらした大重木材さんが、材木屋の数を減らすことによって、材木屋を残す方がよいのではないかと、話されました。それも一つの方向だと思います。かなり現実味を帯びてきました。

そういう方向があるとことを理解しながら、もう少し仲間同士の繋がりを強めていく必要があると思います。

おそらくこれからは新築の木造住宅を手掛けられる所は、従来の顧客である工務店さんを含めてほんの一握りになると思います。材木屋が材木屋に仕事をお願いすることも個性的な新築住宅ではあるでしょう。マンションなどでも荷揚げする人を紹介したいり、現場への配達にも仲間同士で協力することも出てくるでしょう。あるいはその場面で組合の力を借りるようになるかもしれません。昔、新東京昭和会で「あすなろ便」なるものがありましたが、それの進化形が必要とされるでしょう。どれも商売を上向きにするものとはなりえませんが、全体のパイが小さくなれば、なったなりのやり方が求められると思います。

材木屋は材木を売るだけでは食えなくなりました。しかし材木を売ることをやめてしまうと、かなり崖っぷちにある現在の日本が沈んでいくのを早めるように思います。



2010/04/28(水) 雨


[ 東京ドームへ行く ]
東京ドームへ行く


何年ぶりになるでしょうか。
東京ドームへ野球の観戦です。券をいただきましたので練習風景から見せてもらいました。といってもそこには11時から11時40分までしか居られません。外へ出て、後楽園遊園地を散歩していると漫画から出てきた姿の若い子が大勢。コスチューム姿で、銘々ポーズをとりながら仲間同士で写真を撮っています。中には「撮影許可」なる札をつけた人がその子たちに「撮らせてください」と言ってはシャッターを押しています。ほとんどが10代後半の女の子だと思いますが、そんな子たちがたくさんいて、「どこの国に来たのだろう」と真面目に思いました。しばらく来ないうちに日本も変わってしまいました。浦島太郎の心境がわかるような気になりました。

さて、野球は読売側の外野席(前から三列目)でしたので、攻撃の時には応援をしてきました。小笠原のホームランが右手後方に、由伸のそれは左後方に落ちて行きました。両チームにホームランが出るとマクドナルドの割引券が使える仕組みになっていましたが、広島側には出なかったのでそれはなりませんでしたが、何万という人間を集めるイベントのすごさを感じてきました。普段の仕事が地味な分だけ、人間がたくさんいるというのは商売という観点から考えると面白くてしかたなくなるでしょう。

この日の朝には、近くの川島商店街で朝市300回記念のイベントがありましたが、500円で600円分の買い物が出来る券(当日限り)やスタンプラリーで三か所まで買い物をした方に300パックの卵プレゼントがありましたが、
この日に集まった人の数は、おそらくそのくらいだったと思います。川島商店街としてはまずまずだったと思いますが、都会へ出ると、普段の生活と一味もふた味も違う世界があることを知らされます。

世の中は広いです。たまには普段行かない所に出向かないと行けませんね。良い経験でした。









2010/04/26(月) 晴れ


[ お父の遺言 ]
お父(おとう)の遺言


明治が大正となって二年が過ぎた。その間に父が死んで私も19歳になった。
去年の夏、おとうが死ぬ時、私に残された最後の言葉はこうだった。
「兄ィ、(その時分から私は坊と呼ばれずに、兄と呼ばれたーーー)世ン中というものは、精いっぱい金持ちになるか、そんなかったら、精いっぺえキカン気のものになるかせにァ、いつも他人の下馬になって頭ァあがらんがやぞ。お父(とう)はからだ悪うて、思うようにァ行かんだがな」


小説「綿」の一説にある、言葉ですが、こういうセリフが胸にすき刺さるようになりました。

実力のある、あるいは実力をつけるために努力を重ねた方は別かもしれませんが、ある程度の年齢になってきて、人並みで生きてきたつもりが、周りの人から落ちこぼれたと感じたり、後輩に追い越されて、もう追い付かない所まで差が開いたことを感じるようになると、後は暴れるしか残された手が無くなってきます。恐れさすことで自分の体面を保とうとします。

まあ、そんなことをしなくてもよい仲間になっていればよいのですが・・・

その仲間を壊すものとして、戦争があります。
人と人とが敵対関係になる形態は民族や階級、宗教の違いなどからも起こりますが、一番悲惨なのは仲間である集団や個人の対立です。昨日の朝のテレビでは、第二次世界大戦末期の沖縄戦における「ガマの悲劇」といわれる洞窟での出来ごとを、高校生が修学旅行の一環として尋ねて、洞窟の中に実際に入り、その時どういうことが起こったのかをガイドさんから聞きながら追体験するという番組でした。私恥ずかしながら「ガマの悲劇」について知りませんでした。初めてみて大変ショックを受けました。

大きな状況として、沖縄戦は米軍と日本軍の陸地での戦争があって、一般人はガマという洞窟へ逃げる。その中に日本兵が逃げ込んでくる。外は米軍に囲まれる。見つかれば殺される。米軍は投降しなさいという。中にいるものは真っ暗な中で子供が泣けば首を絞める。逃げれば見方からも砲撃される。沖縄の人はこういう経験をしているのですね。

以下、先ほどのHPの一部からのコピーです。
沖縄本島南部には、ガマと呼ばれる大小様々な自然洞窟があった。沖縄戦の最中は、軍隊および住民の避難壕として使用されていた。轟の壕は、糸満市糸敷にある自然洞窟で、直径30mほどの円筒形の垂直のドリーネ、中段の洞窟、さらにその下の方には地下水が流れる洞窟が続いていた。
当時、轟の壕には数百人の住民が避難しており、その後、数十人の日本兵が敗走してきた。壕の中では、アメリカ軍に見つかるからと、空腹で泣き叫ぶ赤ん坊が日本兵に絞め殺され、投降しようとする住民や沖縄の方言を話す住民はスパイとして斬り殺され、米軍の激しい掃討作戦の中、避難壕から住民が追い出され、壕内で餓死する子供もいたと言われている。
一方、アメリカ軍は、投降勧告に従わない場合、住民、軍の区別なく容赦なく爆弾、手榴弾を壕に投げ込んだ。また、6月18日、真栄里で日本軍の砲撃により米軍のバックナー司令官が戦死すると、アメリカ軍は報復戦として、民間人や投降者も殺害したと言われている。

こんな風に書かれていました。

この中で、赤ん坊が日本兵に絞殺されたとあります。おそらくそれだけではなく、普段もっと親しく人から、子供を黙らせなさい、と言われたこともあるでしょう。隣同士で助け合ってきたからそういう風に言われたなら、どうでしょうか。そこから生き残ったとしても、再び口を聞くこともないでしょうし、その時に起こったことを話すことも伝えることもあり得ないでしょう。


戦争は人のころを壊すものです。人間が人間らしくなれない行為です。正義の戦争もあるかもしれませんが、そんなことを起こして続けていくよりも、起こさないですむ方法を考えた方が賢いと思います。

普天間問題もどうなるのでしょうか。

テレビ番組では高校生が沖縄へ行く前と説明を受けた後、経験した後で変わっていく姿が映し出されていました。若いうちには色々なものを経験して行くのがよいですね。経験を伝えてバトンタッチを行う年代になりました。もう少し頑張らなければという気持ちになってきました。




2010/04/25(日) 晴れ


[ どこに何があるのか調べよう ]
どこに何があるのか調べよう




もう十年以上前になると思いますが、品川の(株)双葉の当時の社長さんが「材木屋は街の便利屋に」という話をされたことがあります。材木屋に限らず、どの商売でも近くに人に可愛いがられなければ成り立ちません。あそこに行けば必要な品物があるとか、すぐに間に合わせてくれるとか、あるいは安いとかがあります。人のために一生懸命になれることが仕事の基本です。

私は今、東京都中野区弥生町に住んでいます。普段の生活に必要なものは川島商店街にあるお店や中野新橋にある「サンデーマート」というスーパーで間に合わせています。
川島商店街も私が子供のころからみるとすっかり寂れてしまいました。それでも、大石製麺店、岸パン屋、肉の松本、魚建など、おいしい店も残っています。
中野新橋では、買い物をする所は少なく、ほとんど外食や飲むときに使う所が増えました。「とり花」「皇華飯店」「みゆきすし」「丸福」「やるき茶屋」「香港屋」「タクティー」「一兆」「タベルナパパ」「鳥貴族」「牛角」などです。とんかつの「一福」や「かつ味」も好きです。鍋屋横丁の「鳳月堂」やパンの安い「ミルクロール」などもお気に入りです。
月に一回、商店街の人たちと飲み会がありますが、「はま」のお寿司や「公富」のお惣菜などおいしく頂いております。

さて、近くにある市場など木材を売っていただける所や建材を仕入れられる所のどこに行けば何があるのか、材木店で加工を行ってくれる所は何処か、あるいは材木屋同士で協力できることは何か。情報を発信して整理して活用するようになれば、あるいは共有できるようになることで、少しは前が見えてくるのではないかと思っています。全体は小さくなります。それにつれて数は減ります。仕入れ先も売り先も小さくなります。残れるか残れないかではなく、残すことを念頭に置いて「どこの市場に何があるのか」「建材には何があるのか」調べようと思っています。


さてさて近くの川島商店街では、4月25日日曜日の午前8時より朝市300回記念大感謝セールを行います。あすの朝は行ってみようと思います。









2010/04/24(土) 晴れ


[ 一巡 ]
一巡

忙しいか、忙しくないかと聞かれれば、忙しいと答えます。
が、もうかっていますか、と聞かれればいいえと答えます。

売れていくものの販売単価が下がりました。あまり高いものは売れなくなりました。金額の張らない商品をたくさん売って月商を確保しています。基本的に売れるものは下地材と、ボードやベニア類です。ホームセンターや近所の卸問屋と競合する商品が主な売れ筋になりました。
その結果、同じ商品は単価の競争になります。あるいは少し高くても品物がよい、という差別化された場合に売ることが出来ます。
同じ商品は他社と同じ値段で売らなければなりません。同じ商品は少しでも安く仕入れなければならなくなりました。同じサイズの木材は少しでも安いものやロスの出ないものを探すようになりました。
今までの仕入れ先をもう一遍見なおしてみることと、売値の設定も同じく見直しが迫られています。
その結果、もう一回仕事を始めたころに戻ることになります。

さて、家業に勤めるようになってから30年。中野市場を中心とした会が出来てからでも二十年近くになります。
木材を売り、建材を売り、プレカットを推進していくことで、小さな木材業者も一棟丸ごと請け負う形が出来ました。
そこまで行かなくても、プレカットに始まり、水回りやサイディング材工、床暖房にドアと木材以外でも工務店さんに買っていただきました。
いま工務店さんの力が落ち、材木屋さんも水道屋、ブリキ屋、ガス屋から仕事をいただくようになると、それに関連した仕事は無くなり、建材メーカーの商品もサッシ屋をはじめとして競合する所が増えてしまいました。

それがここへ来て、日本経済の低迷から、一気に売り上げが落ち、回復するのか、あるいはこれが普通になって、もっと小さくなることを前提にして、その下げ基調のもとで仕事を進めていくのか、おそらく後者なのでしょう。
全体のパイは小さくなりながら、それなりに低成長をしていくのだと思います。

さてさて、二十年、三十年とあっという間に過ぎてしまいました。私も30年前、20年前は若かったのですが、老人の仲間になってしまいました。が、もう少し仕事も続けたいと思います。立つ位置は少し変えたい所ですが・・・


2010/04/22(木) 雨


[ ある昔話 ]
ある昔話



もう二十年近く前になりますが、ある組合の専務さんとお話しする機会がありました。用事が終わって雑談を始めました。材木屋の友達が自分の店を改装した際に入口などを喫茶店風にしたことなどを話しました。話は30分くらいになり、自分でも長話をしてしまったと思いましたが、まだ父も元気で店にいましたし、携帯電話も持っていない時代でしたから、家に帰ってくるまでは自分の時間でした。

話が終わってここを後にしました。

そして、一週間後、その時にした話が木材新聞に載りました。あの専務のペンネームはこれか、とその時わかりました。


2010/04/21(水) 曇り


[ 貫を乾かす ]
貫を乾かす


材木は工業生産物のようですが、農作物になります。立っている木を伐採して、建築用材を作りだします。最近では人工乾燥されたものも増えましたが、基本は天然乾燥です。木本来の持つ美しさや色艶などを見ることが出来ます。じっくり時間をかけて乾かしたものを使うことが出来れば最高です。

次善の策としては、人工乾燥かと思います。特に柱材などは、後で狂って(曲がって)きますので、人工乾燥されたものの方が安心です。最近では、杉の板割材なども人工乾燥材が増えました。その上でプレーナー掛けしてあるので、使いやすくなっています。もちろんそういう材料になってしまったために別の問題が生じていますが・・・

それでも、すべての材料を生産地で乾燥させることは難しいことです。手間や暇がかかります。特に価格が安いものでは、そのようなことはできません。そこで、羽柄材と呼ばれる下地材などはまだまだ「生」のものが多いです。杉や桧材になりますが、材木屋で乾かす、ということになります。

杉材のうちでも、厚みのあまりないものを乾かして使うようにしています。たとえば、24ミリ×90ミリ。14ミリ×90ミリ。9ミリ×90ミリ。などの材料は結束をしたままでは、腐りやすいので、結束をほどいて、バラにして乾かすようにしています。特に梅雨時などはこれをしないために腐らせてしまうことが何回もありました。「今年は雨が多いな」などと、思っているとそこには木材を腐らす菌が繁殖しているのです。

これを防ぐために貫を乾かせています。



2010/04/20(火) 曇り


[ 牛丼の梯子 ]
牛丼の梯子



中野支部定期総会も無事に終わりました。役員は留任ですが、総会の参加者が減ってきています。支部員の高齢化も進んでいます。そんな中でもまとまりを追求したいと思います。それには、お互いを助け合うためには、もう少し踏み込んだ話もしないといけないと思います。私も59歳になり、定年が見えてきました。先輩である坂本さんの後ろ姿を追いかけてきましたがその坂本さんが倒れた年が61歳。あと少しで追い付きそうな所まで来ています。

さて、中野支部は実質一人で商売を行っている所が多く、そのためにたとえば、プレカットの仕事が決まれば、その工場に下地材まで配達をお願いするようになりました。ただ、工場から配達してもらうと、配達料に加えて、その材料自体が高い場合が多くなりました。工場の方でも利益を確保することに力を入れているので、単価が下がりません。そこで組合に出番を作ってはどうだろうか、という話が出ました。もちろん配達料などをいただくことは前提ですが、組合の職員を使って現場への配達を日常化すれば、職員さんが遊んでいる状態を低くすることも出来るし、組合員さんとのつながりも密になると思います。

もちろん材木屋の件数をもう少し減らして、残った所には番頭さんがいる状態を作り出すことが先決かもしれませんが、それまでの間でも試してもいいのではと思います。

わが社でも、今年に入って売り上げの低下や販売価格の低下傾向などが始まりました。ホームセンターや近くの材木店ともあまり違いの出ない価格で販売を心がけないと行けなくなりました。主要商品の販売価格の見直しを迫られています。

また、お客さんに対しても、売れる所と売れなくなった所を分けていかないと行けなくなっています。はっきり自己破産した所などはわかりやすいのですが、自分のやり方になじんでいただける方だけを大切にしていく方向になりそうです。私も年をとったので、かなり我儘になっています。

さて、さて、支部総会の懇親会では、竹内木材の亀山さんから、今年の注目点は太陽光発電だと教えていただきました。昨年は、長期優良住宅と瑕疵担保法という話をされたと思いますので、毎年折に触れて、その時々の大切なことを教えていただいております。大変為になります。


良く飲んで、沢山話をしてきたので家に戻るとすっかり疲れてしまいました。ひと寝入りすると朝の6時。メールチェックして、返事をいくつか書きました。バナナを食べて水を飲んでと、いつもながらの行動を済ませると、もうひと寝入りすることにしました。

起きてびっくり。11時45分でした。良く眠りました。12時間眠ったことになります。さすがにこれくらい眠ると疲れもとれた気になり、すっきりしました。二人で出掛けて、昼も牛丼。夜も牛丼。吉野屋と松屋をはしごして「龍馬伝」までこぎつけました。



2010/04/19(月) 晴れ


[ 今日は寒い ]
今日は寒い



今週に入って寒い日が三日目になりました。寒い月曜日、暑くなった火曜日。そこそこの水曜日。そして寒い木曜、金曜。金曜のきょうが一番寒いように思います。ホカロンを二つほど体に貼って仕事をしていますが、今日、外で仕事をしている人は気の毒なくらい寒い日です。体調がおかしくなっています。

こんな日はゆっくり湯船に浸かって身体を温めたいです。最近、ゆっくり風呂に入れるようになりました。大人になってきたのでしょうか。それとも他に行うことが無くなって風呂でぼんやりするのが楽しくなってきたのでしょうか。

今晩もうどんか鍋にしたいですね。身体が温まります。最近辛いものも食べられるようになってきました。年とともに食べ物の好みも変わってくるのでしょうか。先も見えてきました。今のうちにやらねばならないことが山積みです。人の会うチャンスも限られてきたので会いたい人にはあっておきたいところです。また、いらなくなったものや必要性の薄いものの処分を始めておきたいです。ものを処分してすっきりした生活を目指したい所です。まだものがたまっていく生活をしております。

人生には色々なものが必要です。沢山の金。友人。住まい。車。欲しいと思った時にある人は幸せです。

そうなりたいこの頃です。


2010/04/16(金) 曇り時々雨


[ 素材販売へ戻っている ]
素材販売へ戻っている




昔、中野に十四日会が出来た時に、自分なりに考えたことがあります。

まず、全体としては、材木屋仲間として、むやみな競争はしないで長期にわたって協力し合う仲間作りです。

これはほぼ達成できたのではないかと思います。良い仲間に恵まれました。

次に、中野で材木屋として生き残っていける条件は
1=安定収入が別にある。
2=同業者・異業種との共同化。
3=住宅産業への参加。
を考えていました。

これもそこそこではないかと思います。

そのあとに、モデルケースとしての小売業として
1=100坪以上の土地。(材木置き場、作業場、事務所、駐車スペースなど)
2=3人以上の働き手
3=それを保証するために月商1200万円以上の確保
を提示してみました。

これは全く駄目でした。

わが社を例にしても働き手は一人になってしまいましたし、売り上げもそれに応じて下がりました。材木屋に使用している土地も50坪くらいでしょうか。坪1万円の売り上げを確保できなかったら利益は出ないと思っていましたので、そこを切ったのでこれからは黒字を続けることが出来るかが分岐点です。黒字にするためには、「安く買って高く売る」つまり利益率の高い商品の販売を心がけるか、通常のものでも高く買ってくれるお客さんを見つけるかです。

十四日会はもう20年近く前になりますから、その時はまだプレカットの工場も数が増えていく時代でありました。加工も少しずつ精度が上がりました。それに伴い、木材も乾燥材が支給できるようになり、木材の寸法も精度がアップしました。プレカットが推進されることによって大工・職人の高齢化にも対応できました。材木屋の作業場で、大工さんが刻むことも少なくなり、ごみ処理や近所への騒音問題も解決しました。

プレカット工場を使いながら住まいを作ることによって、建材や住宅機器を販売する機会に恵まれました。現場へ直接運ぶ、いわゆる直送を多用して売り上げに貢献できました。

その儲かる所には、必ずライバルが出現します。プレカット工場が力を持てば、そこから工務店さんにダイレクトで売られてしまいます。あるいはサッシメーカーからみの所が仕事を持って行ってしまいます。

建材や住宅機器は安売りされてしまい、それに対応できるところしか、売れなくなりました。

ホームセンターの出現やその大規模化は、売れ筋商品の価格を引き下げる効果がありました。

こうなってくると、私の仲間でも特徴のある所は、いくつかの方向性を出しています。プレカット工場を持っている所は住まいと土地を「トータル販売」へ。住宅産業への進出は「材木屋の建てる家」へ。ネット販売を中心にしている所は、たとえば神棚であったり、版画の材料をネット販売するといった方向性を出しています。

そういう仲間を持っていることは心強い限りです。

私はその中で素材販売へ戻っています。素材販売に戻っています。だから後はコラボです。




2010/04/15(木) 晴れ


[ 新東京木材の記念市 ]
新東京の記念市



去る4月13日は、新東京木材商業協同組合池袋市場において、記念市が開かれました。入場数は50名くらい。今年に入ってからの景気の低迷を反映して、盛り上がりに欠けています。それ以上に木材業界も新たな段階に入ったように思えてきました。

今までのような売り方では売れない。
どの段階にしても販売単価の低迷で、より生産者に近いほうから数が少なくなっていく。
中間業者も利幅が少ない。

全体的に売り上げが落ち、販売単価も下がり、生産コストを下げて売り上げを伸ばそうとしてうまくいった所は何とか残れるかもしれませんが、たいていの所はそこまで行かないのではと思います。

この業界を見ても今年で製材業、木材問屋、仲買の数はがくんと減ると思います。昨日、おとついにはわが社の下小屋で階段材の刻みが行われていましたが、大工さんは二人とも70代です。まだ腕は確かですが、先はあまりないです。それは私自身のことでもあります。業界にかかわって約二十年が経ちましたが、成果と呼べるものはどれほどあったのか、とにかく食べてこられたのは良かったかなと思っています。その上で何か貢献できていればよいのですが・・・

30代の後半に考えていたことは、自分はどんなふうに仕事をしたいのか、どんな仕事をしたいのか、ということを考えた場合、
一つは良いものを作り出すこと。あるいは売ること。次にそのことで人に喜ばれる。それが結果的に商売として成り立たせる、といったことでした。

自分に出来ることは自分がよいと思う材料を揃えることでした。土台は赤味の強いもの。柱は杉やヒノキは尾鷲材を基本とすること。真壁の柱は吉野材でまとめる時には、お客さんを連れて市場に見に行き、番付を振ってもらう。過不足なく仕入れをして、柱の単価は、一本あたりの利益は一割までとする。こうすることで、吉野ヒノキの柱の材料は3方無節や4方無節を使っていただくことができました。
その反面、並材などは普通に値段をとっていましたので、あまり単価のない仕事はお断りを受けることがかなりありました。まだこの傾向はわが社にはあります。

木材産業は、その原材料である木材の生産にかかる時間が50年、60年という長い年月を経ないと建築用材にならないという特性を持っています。今伐採している木材は天然資源であったり、過去の人の努力のたまものです。今ここで潰えてしまうと、次の世代の方には残せないことになります。技術の伝承はなおさらです。大きくなったり小さくなったりするのは時の常ですが、循環させることを忘れてしまうと次が出てきません。山が荒れれば海も荒れます。土砂災害も増えます。林業を国に保護していただかないとおいしい水も飲めなくなりそうです。



2010/04/14(水) 晴れ


[ 良く売れるもの ]
良く売れるもの


比較的出る材料は決まっています。ですからそこだけ中心にした販売を行っている所もあります。うまい所に目をつけています。

たとえば、タルキと呼ばれる30ミリ×40ミリの材料があります。「通称インニイッサン」と呼ばれています。メートル法が施行される前の「寸」の時代に一寸弐分×一寸参分あったことからこの呼称が生まれています。今はほとんど30ミリ×40ミリに統一されていますが、東京でも私がこの仕事に入った頃には、色々な種類のものがありました。35ミリ×40ミリ、32ミリ×38ミリ、36ミリ×40ミリなどです。関西などでは今でも41ミリ角でしょうか。この所勉強不足でわかりませんが、地域差もありました。それが特色でもありました。それが統一化されつつあります。

さて、さる二月に住宅資材の展示会に行った際、このタルキが展示されていました。30ミリ×40ミリのものが5種類展示されていました。
そこの表示には、メーカーが二種類あり、一つは上小節・無節のもの、あとは右からSA、AAA、AA、Aとなっていました。4つのものは同じ製材所で製材されたものです。一応、SAが一番上のランクだと書いてありましたが、展示されているものを見るとAが一番良くて、その次がAAAに見えます。試しに説明されている人に聞くと、「たまたまだけど、これを見るとそうなるでしょう」と話してくれました。ひとつの梱包が35束ないし42束なので、それを見ていただけると、SAが一番になると話されました。それでも「一番良いのは、もう一つのものですね」「(株)江守さんの扱っていた商品に似ていますね」というと、「そのとおりです」と言われました。おまけに「私も江守の社員でした」と話してくれました。

さてさて、36ミリ×45ミリとか、27ミリ×105ミリとか、よく出る材料には、一つの製材所だけでもいつくかのランクがあります。そのランクによって買う値段も違います。同じメーカー同じ梱包テープでも、ランクに差があることをご承知ください。どのレベルの材料を置くかはその材木屋の売れ筋とかかわってきます。だんだんと一番上の材料を置くなくなってきています。


 

2010/04/13(火) 晴れ


[ またワンタン麺 ]
またワンタン麺



疲れたたまったので、たまには指圧でもと思い、大塚にある「リフレッシュ指圧センター」へ行きました。

まだ、新米の先生でしたが、一時間のコースで一時間半みっちり指圧をしていただきました。ここの特徴は、一時間のコースなら、その時間分は指圧をしてくれること。途中温めながら休ませてもらってもその時間は指圧の時間に含まれないこと。指圧を終わってからでも少し温めながら休ませてくれることなどです。そのことによって、リラックス出来て、身体が楽になった気になります。実際楽になります。一時間のコースで二時間近くいたこともあります。これがここのウリであり、リピーターが多い理由になります。

今回は則ちゃんと同じ時間帯で受けることが出来なかったので、私が先に行っていただき、彼女が受けている時に大塚の駅前を散策してきました。

大塚は坂の多い町でした。またサロンにバーやホテルも数多く存在しています。この日は風が強く花散らしの風の中、桜坂で桜吹雪も経験してきました。今から50年近く前には、ここ大塚にあった「四谷大塚進学教室」に中学受験のための予備テストを受けに来ていました。青井君と田巻君がいつも一緒でした。


さて、則ちゃんも終わって夕飯時になりましたので、「広州市場」でワンタン麺をいただきました。ここのワンタン麺は大塚に来るたびに来ているように思います。オーダーが入ってから作るという手作りのワンタンは従来よりも大きくなりました。これも不況のおかげでしょうか。スープも鳥ガラと新鮮野菜をじっくり煮込んだもので、おいしくいただけます。これがここの二大特徴です。

わが社にはどんな特徴があるのでしょうか。





2010/04/12(月) 曇り時々雨


[ 住まい作りの楽しさ ]
住まい作りの楽しさ


住まいを作る際に一番大切だと思うことは、今の私の年齢で言うなら、家族のまとまりです。家族の考えをまとめることであり、住む人の意見を大事にすることだと思います。住む人の意見にまとまりがないと出来上がったものに満足感が薄くなりがちです。

次に予算でしょうか。すべて現金で支払える人は少ないので、ローンを組みます。30代で住まいを建てて、定年まで働いてやっと返せる、という人も多いと思います。

逆にこの二つが決まってくると、建てられる住まいのボリュームが決まり、何を選んで何を捨てるか、あるいはあきらめるか、大枠が定まるので先に進みやすくなります。

我が家の場合は、家族が二人しかいませんし、マンションリフォームでしたので、建てる大きさは決まっておりました。それでも、計画を立てて実行するまでに半年かかりました。その間、住宅展示場やショールームへの足しげく通いました。また設計事務所さんの勧める家具屋さんやキッチン工房などへも見学させていただきました。

設計事務所さんの勧めるキッチンは素晴らしいものであり、ステンレスの天板の厚みは3ミリ。発注から3ヵ月後の納期。お値段もそれなりでした。一般に流し台の中のステンレスの厚みも1ミリくらいは欲しいといいます。これは目安です。TOTOとの製品が約0.8ミリ。マイセットが0.7ミリだと聞いたことがあります。我が家のものはTOTOの0.8ミリになります。今のところ不自由はありません。

キッチンなどの水回りを選ぶのに時間を一番かけることになりました。I型で2550ミリという一般的な大きさだったのですが、背面に置く戸棚をどのようなものにするのか、それを決めるのに時間がかかりました。今なら家具センターなどでも既製品で良いものをありますが、7年前に探した時には見つかりませんでした。NAS、タカラ、サンウェーブ、TOTOなどのショールームに通い、クリナップに好みのものが見つかりましたが、高さが入らなかったのでそれをあきらめました。結局TOTO製品でまとめることになりました。上部収納と下部収納の二段に分かれているもので中間の高さを少し詰めて使いました。これなども通って決めたので、思い出が深く残っています。

実際にかかわることで住まい作りは満足感の深いものになります。

もうひとつ、我が家の壁の一部を掲げておきます。



何の変哲もない杉の板張りですが、これも実はどれをどのような順番で張るのか、大工さんと相談しながら決めて、その通りに張っていただきました。この板の大きさは長さ3メーターで幅が約105ミリですが、実際に並べてみてどれを一番しようか、色の薄いものから深いものにするのか、考えて張りました。どれを最後にするかなどは実際には変わらないものでしょうが、6年半が過ぎて、壁を自分で触った時に、その時の大工さんとのやり取りが浮かんできます。

このように割り付けをして材料の幅を確認しながら使うことにしましたが、実際には私が用意した材料では、3ミリほど隙間が出来てしまいます。一枚分足りなかったのです。そこで違う所へ使った材料の残りを加工して張っていただきました。

色々な思いを詰め込んで住まいは出来上がっていきます。愛着のある住まいを大事に使おうかと思います。


2010/04/11(日) 曇り


[ 変革と創造 ]
変革と創造

水上印刷(株)の社長の言葉に、「変革と創造」があります。

彼にこんな言葉があります。

世の中の流れの中でデラシネのように自分が変わっていく「変化」ではなく、とにかく自分の意思で変えていく「変革」を目指す。(校友会会報NO.125.P10)

「デラシネ」などという言葉を聞くと、つい五木寛之を思い出してしまいますが、ある一時期、五木寛之もたくさん読みました。若いころです。40代の入るころからほとんど読まなくなりました。それはさておき、世の中はいつも動いていますが、その中で自分の足元を見つめなおし、自分の意思を持ってしたいことを成し遂げていく。そうしないと身につきません。「ノートライ、ノーサクセス」という言葉も水上君は好きですが、チャレンジしなければ、成功も失敗もなく、何もしない人は間違いも起さないのかもしれませんが、成果もまたないのです。間違えたら別の方法で行ってみる。その繰り返し以外に勝ち残る道はないのだと、水上君は語ります。

変革の立場に立って作りだすこと。変革と創造なのでしょう。


さて、話は変わって。
「つくば緑友会」の益子さんからメールをいただきました。先月下旬に下舘市場の「木材製品市場見学会」を催した際、参加された方からのご意見を基に「どう思うか」と質問されたものです。メールですから、色々な人に送ったものと思われますが、以下、全文を引用させていただきます。

40代の木材市場の方からのものです。

こちら

私は大学で建築学科を出たものの、木材をほとんど知らずにいました。卒業後に木材市場会社に就職しましたが、大学時代の友人に「木材市場」を説明してもピンときてもらえませんでした。その当時からすでに「市売方式」の衰退が叫ばれていた時期ではありましたが、あの記念市の独特の活気には興奮を覚えたものです。
そして「こんな市場があるのなら、ぜひ一般の消費者に知らしめたい」と考えるようになりました。同じヒノキでも木曽、吉野、四国、北関東などなど、一同に比較できることは顧客満足度を得られるのではないのだろうかと。ある時、木材市場を一般消費者へ開放しようと、上司であった部長に訴えたことがあります。もちろん却下されました。
その後、仕事を知れば知るほど木材市場の閉鎖性に納得させられました。どうしたら消費者と買方を納得させることができるのか…、買方が動かなければ市場が動かない、市場から動いたら買方に疑われる…。
私は「立ち会いに消費者を入れる」ことについて賛成です。往時とは事情が違いますので、具体的にどうしたら良いのかはわかりません。ただ、人間は納得したものにおカネを払うものだと思います。顧客に感動を、買方にプライドを与えるストーリーが大切ではないかと、今でもそう思います。

引用はここまでです。

皆さんはこの問題をどのように感じますか。

どういう風に話すのが一番よいのかわかりませんが、私は先日「ナイス」の展示会へ行きました。その中では、床柱や産地別のヒノキの柱や杉の羽目板材などが展示してありました。また、多摩産材で建てた住まいなどもあり、そこにはやはり多摩産材の床材や壁材が使われていました。そのような展示会で木材を展示することが増えていると思います。一般の方も木材に接する機会が少なくなっておりますが、木材を見ると、それを使おうと気持ちがなびくのだと思います。そういう意味では、展示会だけでなく、木材市場も一般の方が自由に出入りできることは必要かもしれません。

ただ、それよりも特定の日に現在行っている行動。すなわち、浦安市場であれば、工務店・設計事務所同行日。都内の木材市場であれば、年に一度行っている「市場開放日」。

そういう運動が続けられるのであれば、その延長線上に位置づけるのがよいと思います。ですから「つくば緑友会」のように、毎月特定の方を中心とした勉強会があり、その枠を広げた「森林見学会」があり、さらにその先に市場などで建築資材を見て、また実際に住まいを建てるようになれば、材木屋で刻んでいる所や加工している所も見せながら、住まい作りを進めていくのが良いのではと思います。

私も、ほとんど過去形でしか話せませんが、プレカットで建てるといえば、プレカット工場へお客さんや設計事務所の方を連れて行って見学してもらいました。またわが社で刻んでいる所を見に来たお施主さんもいます。大工さんや設計事務所の方と真壁用の柱を見に行って番付を振ってきたこともあります。最近は「お任せ」されることが多く、また仕事の数も少ないので、一緒に見に行くこともなくなりましたが、これくらいの努力はしました。

ですから、お施主さんや工務店さんが望めば、見ることが出来るというのがよいと思います。「ナイス」などの展示会を見て、その先を要求されるのでしたら、見に行ける、市場にも見に行けるというので良いと思います。

私も2年に一度くらいは、製材工場などの工場見学をさせてもらっていますが、行くことで頭に残るし、見たという経験が仕事上の役に立ちます。一般の方も数多く見れば見るほど目は肥えるし、木材の良さを理解する助けになるでしょう。

ようは、森林から、立っている木から、建築用材になり、さまざまな産地の製品を用いて、それがプレカットの工場や材木屋の下小屋で柱となり梁となって見える材料として加工され、実際に建てられて、完成に及べば、お施主さんの感動は一段高い所に達すると思うのですが・・・

それにしても、ゆとりがないと何もできません。



2010/04/10(土) 晴れ


[ 販売価格は下がる傾向に ]
販売単価は下がる傾向に



4月に入って牛丼の吉野家が期間限定ではありますが、並丼をはじめとする牛丼の値下げを始めました。競争相手の「松屋」や「すき家」との価格競争に連動した動きです。我々の業界でも最近の傾向として販売単価が下がっていく傾向にあります。大量に出来るものにこの傾向が強くなっています。逆に少なくなっているものは希少価値を買われて上がる傾向にあります。

さて、そうは言っても普段使いのものは、下がるものが増えました。そうなってくると木材でも建材でも仕入れ単価を下げる努力をしなくてはなりません。今までは特Aクラスを置いていたものをその下のクラスで、材料としては同等品、同クラスという、難しい商品を探すことになりました。良く出る木材にしても、ベニヤ類なども、なるべく現物を見て「良し悪し」を見てから、入荷を決めるようにしています。あるいは「良いものが入った」と聞けば、仕入れるようにもしています。

それでも失敗してよいものが入らず、希望しているレベルに達しないこともあります。あるいはこちらの努力とは関係なく、お客さんから高いと怒られることがあります。

私たちの業界もプレカット工場が構造材の価格決定権を持った時代が続いております。さらにここへ来て、ホームセンターの普及で、今まで専門店でしか買えなかったものがホームセンターなどで一般の方までかなり買えるようになりました。その上、価格は安い方へ引っ張っています。私自身もホームセンターを利用しています。金物、照明器具などです。ホームセンターへ行くと、木材や建材類もかなり安く販売されています。種類も豊富になってきています。価格で太刀打ちできないものも出てきています。

ですから一方で、価格で対抗できる体制を目指しています。
しかし
それは安く売るということでしかありませんので、限界があります。そうすると、高くして売る、といえば語弊がありますが、木材に関して言えば、産地を限定するとか、より良質な材料を提供する所を目指したいと思います。

私は肉は「肉の松本」という専門店で買いますが、その理由は肉自体に味があり、おいしいと感じているからです。豚でも牛でもです。魚は川島商店街の「魚建」か、西落合の「前島鮮魚店」が主な所ですが、これも同じような理由からです。肉屋も魚屋も少なくなりましたが、良いものを提供している所は残れます。

その上で、多分木材や建材の販売だけでない所へ向かわないと、先はないのだろうと思います。それがこの十年間だったと今思います。

販売単価が下がるということは、より生産者に近い所はもっと大変になるのだろうと思います。中間業者もよりカットされるでしょう。突出したサービスを提供できるお店でないと勝ち残りになりませんね。



2010/04/09(金) 晴れ


[ 違和感 ]
違和感


最近の仕事をしていると、自分が年をとったという気がしてなりません。

たとえば、材料がプレーナー掛けがしてあると、それを使う職人さんは、それをそのまま仕上げに使ったりします。以前ですと、手ガンナで仕上げるとか、超仕上げの機械で仕上げてから使うとかが一般的だったのですが、もちろんそういう風にする方もおりますが、たとえばペンキ仕上げであったりすると構わず塗装して終了です。

最近の材料は、一つはKD材、つまり人工乾燥されたものが多くなりました。またプレーナー掛けをしてあり、歩が決まっている。つまり厚みや幅が決まっているものが増えました。これらは木材業者として、私などもそういう材料を使いたい、と願っていた方ですし、実際それを使うことによって、施工しやすくなりました。

それに加えて、職人さんの手間は伸び悩み、また低下しています。その中で仕事をこなしていくということになれば、なるべく手間をかけない、あるいは掛けていられない、という風になっています。

さらに、若い職人さんは、塗装を前提にして仕事をしています。塗装される材料や塗装によっては、余りすべすべしていない方が塗装の食い付きがよく、仕上がりとしてはきれいになります。ところが、私は、あまり塗装するのが好きではありません。なるべく塗装しないでおいて、よくよく汚れたら、コーティングしようかと思うくらいなので、今の塗装を前提にして、仕上げをしないで材料を使うことには違和感を覚えます。なんかしっくりこないのです。たぶん年をとってきたせいでしょう。だんだんと自分の時代が終わっていくのを感じていきます。

手カンナで仕上げをした木材は、美しいと思うのですが・・・

2010/04/08(木) 晴れ


[ 桜を見に行く ]
桜を見に行く


春眠暁を覚えず

朝起きるのがつらい季節になりました。何となく眠っていたいのですが、仕事もあり、定刻で起きるようにしています。が、最近少し遅れるようになっています。

さて、今年も桜を見に行こうと思い立ちましたが、何となく腰が重くて、パッパッとした動きになりません。先月末ごろには、配達先や千川通りで満開近い桜を見ました。また3日の日には車で哲学堂まで行った際に、新青梅街道や中野通りを通り、桜の下を通りました。その日は夕方からあいにくの雨。風で舞う花びらを尻目に、明日は桜見物と決めていました。その日、近所の栄町公園と中野区立神明小学校まで歩き、桜の花を見てきました。その後、バスで新宿まで出て、新宿御苑を散策する予定でしたが、なんとなく疲れていたので、京王百貨店の北海道まつりへ行き、海鮮丼を食べて帰ってきました。なかなか北海道まではいけないので、函館朝市の味を堪能して家に戻ってきました。

したがって、今の所桜を見に行ったのはそれくらいです。





2010/04/07(水) 晴れ


[ テレビで見たサービス ]
テレビで見たサービス



昨日のテレビで町田市の電気店のことがおりあげられておりました。町田市は東京都ですが、少し外れた所にあります。それでも小田急線とJRが交差するその都市は、ここ三十年くらいで大きく発展しています。今回紹介されていた電気店は、この街にも大規模な電気店が軒を並べるようになって、売り上げが頭打ちになり、価格では対抗できない所を、きめ細やかなサービスで売り上げを保持し、また消費者から喜ばれている所です。

そこの社長が頭打ちになってまず目を付けた所が高齢者。家電などを売るだけでなく、その使い方やアフターメンテナンスなどを13人いる営業マンを使って定期的に行えるようにしました。月に一回なりあるいは週に一度訪問してBVDの予約をしたり、切れた電球を交換したりしながら、そのお宅で必要なことや困っていることがあれば、それを解決してくれます。雨戸を閉める、というものも紹介されていました。お茶を呼ばれて雑談をすることも大事なことです。その中から商談も生まれます。もちろん、訪問する方も顧客のこれまでに購入したリストを持っており、洗濯機を十年前に購入したとか、そのお宅に入るサイズはどれくらいであるのか、などの情報も掴んでいるのです。それを適宜に使うことによってその顧客に対する個別的なサービスを提供しています。ですから、個別に買うたとえばテレビの値段は高くとも、それ以降の付き合いや繋がり、サービスといったものまで含めての価格と考えると、決して高くないという結論になります。

目の付けどころやそれを実行に移せるボリュームを持っている会社ですが、大きな所に対抗して勝ち残るには、他と同じことを行っていても意味がありません。学ぶところの多い番組でした。



2010/04/06(火) 晴れ


[ 校友会だより ]
校友会だより



年に数回送られてくる早稲田高校の校友会報に目をやると、昔の友が出世して、紙面を飾っていました。卒業してから40年。一番最近会ったときでも、今から十数年は経っていると思います。

その記事は、「印刷業界の明日の繁栄を確信して」と題したもので、新宿区にある水上印刷株式会社の代表である水上光啓氏を取材したものでした。昨年12月に日刊工業新聞社が主催する「第27回優秀経営者顕彰」の最優秀に選ばれたと書かれております。受賞理由は「企画から印刷までの一貫した生産体制を構築し、印刷のワンストップサービスを実践するとともに、世界ナンバーワンの印刷技術を確立するなど堅固な事業基盤を築く」ということとさらに「デジタル化が急速に進む印刷業界において常に変革を説き、」さらに「徹底した社員教育を実践」などがあげられております。

この中にある「ワンストップサービス」とは、印刷物を仕上げるには、企画、デザイン、原稿作成、製版、印刷、製本加工、梱包、発送などいくつもの工程が必要である。顧客はそのためにかなりのエネルギーを消費しなければならないわけだが、これをすべて彼の会社で丸々引き受けて顧客サービスとする、というものだ。と書かれてあります。我々の業界で言うと設計事務所を持ったプレカット工場といった所になるのでしょうか。

彼は、大学を卒業した後、大阪の印刷会社に修行に行き、25歳で家に戻ってからは営業としてスタートし37歳で家業の印刷工場を引き継いで日野や多摩に工場を開くことが出来、今日の基礎を作り上げてきました。彼は前向きな人ですが、どちらかというと一番手よりも二番手が好きで、本人も目立たぬように生きてきたと思うのですが、時代の要請でトップになってしまいました。

中学生時代は良く彼の家に遊びに行きました。隣に工場が隣接してあり、職人さんが働く所を実際に見て育ったのが、今日の彼を作り上げたのだと思います。そこには卓球台があり、休憩時間には、職工の方と遊んでもらいました。こちらは世の中のことを何も知らない中学生でした。


会社を詳しく知りたい方は、こちらのホームページをどうぞ。

こちら


彼とは、中学一年生の時から、韮崎、立山、京都・奈良、広島・松江など、春休みと夏休みを利用して旅行に誘ってもらいました。彼は鉄道マニアで新幹線ばかりではなく、鈍行や私鉄を乗り継いで旅行しました。




中学一年生から二年生になる時に初めて三人で行った韮崎までの旅。
左が水上君。中央は田巻君。右は大野です。



立山登山。中央が森君。左は大野。わたしはすでに疲れている。中学二年の夏でした。



中学三年生になる春。奈良から京都へ行きました。写真は金閣寺にて。



中学三年生の時の修学旅行か?
左から、大野、田巻、水上。



夜行で広島に行き、原爆資料館。安芸の宮島。錦帯橋を見て、再び夜行で松江へ。松江城と小泉八雲旧宅を見学後、出雲大社へ。その後、鳥取砂丘を経て、帰路に着いた。写真は松江城にて。高校一年生だったと思います。



2010/04/05(月) 雨


( 2010/05 ← 2010/04 → 2010/03 )


[ 管理者:大野満生 ]


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