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時々更新mn日記

( 2010/04 ← 2010/03 → 2010/02 )


[ ナイスの展示会 ]
ナイスの展示会


去る3月27日、28日の両日、東京ビッグサイトで「ナイス」の展示会が開催され、28日行ってきました。

入口をくぐって一枚写真を撮った所で、盟友の窪寺さんと出くわし、多摩産材を取り扱っている(有)中嶋材木店の社長である中嶋博幸さんを紹介していただきました。
中嶋さんは、「東京の家づくり協議会」の登録店であり、この会場でも東京の木を使った住宅を展示してありました。





さて、今回の展示会では、6年を経た自分たちの住まいが今どのあたりにあるのかを見たいと思っていました。

国産材の床板、珪藻土の壁、ペアガラスのサッシ、IHのキッチンなどは現在でも遜色のないことが確認できました。ただ、TOTOのコーナーでは、ユニットバスはかなり新しくなっていました。魔法瓶構造、ソフトカラリ床、掃除のしやすい排水口などは我が家の機能にはありませんが、まあいいか、と思って帰ってきました。

ここの展示会は、一般の方も多いので、展示の仕方が工夫されており、また実際の仕事をする工務店を紹介する所もかなり場所をとっていました。人に関する情報はこういう所へ来なければ、みつからないのでしょうか。




2010/03/29(月) 曇り時々雨


[ 住まい作りは決断と実行 ]
住まい作りは決断と実行


幻の設計図があります。我が家を作る際にいくつか書いていただいたものの一つです。このほかにもいくつか設計士の方に書いていただきましたが、これも提案されたものの一つです。住まい作りの最初は欲も深く「こうあってほしい」という気も強いので、色々なことを設計士の方に注文を出してしまいます。その結果、「全部注文通りだけれど、しっくりこない」ものが出来上がってしまいました。まだ設計図の段階ですので何の問題もないのですが、自分もそうですが、えてして素人の考えは総花的なものです。

これを実際に住みやすい住まいを作るためには、まず「もう一度自分たちの住まいに関する要望を点検する」ことから始めましょう。

次に何をあきらめて、あるいは二次的なものとし、一番大事にしたいものは何か、これだけを大事にする、という所を掴むことです。我が家の場合、寝室は8畳。キッチンは明るい所へ。またキッチンからテレビが見える、などでした。

ややふりだしに戻った感がありましたが、設計図を作りなおしていただいて、見積もりに入りました。設計士の方の推薦する業者の見積もりは良く出来ていましたが、だいぶ予算をオーバーしてしまいました。そこで、一次的なものだけを取り出して、瑣末な所はカットして見積もりしなおしましたが、それでも予算を超えてしまったので、自分たちが中心となって、住まい作りを行うことにしました。そこで、篠原工務店様に発注することになりました。


このように住まい作りは、打ち合わせをして、決めて、決めたものを実行に移して次の段階へ進む、ということになります。もうこの段階で、設計事務所の方の役割は少し減りました。設計事務所さんから紹介された業者さんへはお断りをすることになりました。この断るという作業は「いやな」ものですが、それをしないと前に進めません。あまり深く考えずに前に進んでいくことです。住まい作りではこのようなことが、施主が決めなければならないことが千や二千はあります。大小合わせてですが・・・



2010/03/28(日) 曇り


[ ホームセンターへ行く ]
ホームセンターへ行く


先日ホームセンターへ火災報知器を買いに行きました。その際、木材や建材のコーナーも少しばかり見てきました。大変参考になりました。

まず、ベニヤなどは置いてあるものをうまく限っていて、F☆のものや1類の材料を置いていて値段を安く設定していることです。

次に、建設業者や木材業者が見捨てた材料を多数扱っていることです。前のことと通じますが、TP2のベニヤなどを多数置いています。

さらにフロアーなども価格の設定が安くなっています。恥ずかしい話ですが、この売られている値段では、名の通ったメーカー品はわが社で買えません。はるか昔になりますが、「良いものを作っていた所から直に仕入れられたフロアーがありました。これは安く買えて高く売れました。

次に少し高級品のフロアーなどは、おそらく直に仕入れが出来るようになったのでしょう。工務店向けに売られていたものも数量が掃けなくなって、もっと安全なホームセンターへ卸すようになったのだと思います。この辺りはまだ何とか買える値段ですが、その値段で売るのは難しいのです。

工場で生産できるものは、大量に出来てしまうので、ある程度売れるようになってくると、仕入れも増え、販売も出来るので、値段は下がります。棚板、手すり材などもずっと安くなっています。

ある程度の材料が安く手に入ることで直に買いに行ける方からは、好評なのだと思います。このやり方はどんどん増えて、ホームセンターで売られているものと同じものを取り扱っている小売店はますます小さくなるでしょう。

材木屋さんも、合併しながら出ないと生き残りが難しくなってきました。掛け売りをやめるようでしょうか。


2010/03/26(金) 晴れ


[ アンテナショップ ]
アンテナショップ


川島商店街に新しく福島県喜多方市のアンテナショップが開店しました。その名は「あいづや」
野菜や果物、おコメなどが中心のお店です。まだ週に二日ないし三日の出店ですが、新しい風を興してくれるといいなと思っています。
川島商店街に行かれましたら、覗いてみてください。





2010/03/25(木) 曇り時々雨


[ テニスはセオリーと確率 ]
テニスはセオリーと確率



また桜の季節がやってきました。三寒四温の陽気です。
仕事は急ぎの細かな仕事が中心です。細かいと実は忙しいのです。色々な材料を少量ずつ集めなければなりません。数がまとまっていても数が少なくても実際の仕事量にあまり変化はありません。

さて、昨日はよく眠れました。その前が夜中に起きてしまって朝方まで寝むれずに過ごしましたので、あまり動けないかなと思いましたが、杞憂でした。夜には楽しくテニスをしました。

最近はあまり奇をてらうことなく、まともに打てるようになりました。コーチにボールを返す時も基本はラケットの位置に返すようにしています。ボレー対ストロークでこれを行うとかなり続くようになりました。ただあまり続くと体力が消耗してしまい、後の練習が出来なくなってしまいますので適当に失敗しています(と、日記には書いておこうと思います)。

まあ、集中すると続くのですが、ほんとに疲れて出来上がってしまうことがあります。そのするとあとは何もできなくなります。体力がありません。でもこういう風に繰り返すことで少しずつですが、テニスがわかってきたように思えます。
自分があそこに打つと、ここに返ってきて、それを普通に返すと次の球はこの辺りになるので、一歩前に出ているとか、右に一歩守りの位置を変えなくてはならない、など頭で理解できるようになってきました。

これを頭に描きながら動いていると、その通りに来ることが実際多いのです。ただ、そこまでわかっていても返せないことが多いのです。また、それ以外の所へ返してくる方は、本当にうまい方なので、参考にならないということも理解できるようになってきました。

昨日などは、うまく右によって打とうとしたら、ど真ん中で受けてしまい、急所にあたり、痛い思いをしました。ワンバウンドだったので助かりましたが、痛い思いをしながらテニスも覚えています。仕事と同じです。


2010/03/24(水) 曇り時々雨


[ クロスよりも ]
クロスよりも



住まい作りのコツは、自分の好みに作り上げることである。人それぞれ価値観が違うので一概に何がよくて何が悪いかは言えないことになります。それでもどちらが長い目で見てよいか、あるいは優位性があるかは、長年この仕事に就いているので少しはわかります。

だいぶ前に話ですが、友人の家に招かれて行った住まいの壁のクロスが無残にも垂れていて興醒めしたことがあります。ちょっとカッコ悪いものです。

そこへ行くと塗り壁は汚れれば拭くなり、塗り変えるなりして始末に負えます。と自分は考えます。

クロスよりも優位性はあると思います。
自宅の壁と天井です。
壁は珪藻土、天井は杉の板張りです。





2010/03/23(火) 曇り


[ 寿命 ]
寿命


59歳になりました。

今まで以上に年齢を感じています。寿命も感じています。思えばこの年齢では、父は、寝込んでいましたし、祖父も気楽な仕事をしているように思えました。今までの延長線上で私も仕事をこなしていますが、同時に今までと同じでは出来なくなっています。

さて、自分の住まいも6年が経ち、悪い所も出てきました。まず、クロスの継ぎ目がわかるようになってきました。床板の接着剤も一部はがれたのでしょうか、床鳴りも起こります。ドア枠材として使用した松下電工(現パナソニック)の枠材も微妙に曲がっている所が出てきました。

その一方で無垢の木材を使った壁材は色が変化してきて年を重ねたことがわかります。もちろん、傷のつきやすい所は傷が付いています。へこんだり、引っ掻いたりしています。保護するために塗料を塗ればきれいに見えるでしょう。が、あまり塗りたくありません。

まだ6年だと水回りは大丈夫です。10年を過ぎたころから、キッチン、バス、洗面化粧台の器具が壊れるかもしれません。給湯機も10年が目安でしょうか。電化されたものは壊れ始めると雪崩をうったようにたたみかけてきます。用心しましょう。

我が家では、この6年間でテレビ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機が新しくなりました。新しい生活に慣れると、それまでのことを忘れてしまいます。それまで使っていたもののことも忘れてしまいます。そうこうしているうちに年をとってしまいました。

物には寿命があります。人間にも寿命があります。大事に使えば一生モノです。自分の体は一生モノですから大事に使いたいですね。




2010/03/22(月) 曇り


[ 並みでいい ]
並みでいい


十四日会の研修旅行の際、昼飯に立ち寄ったうなぎ屋さんは「八木秀」といいますが、大変おいしい所でした。住所を見ていただければわかると思いますが、「吉田産のうなぎ」です。うな重と白焼がついていた2600円のものでしたが、食べきれませんでした。うな重はご飯の盛りをもう少し少なくしてほしいし、白焼は半分あれば十分になりました。4年前なら食べられましたが、もうあんまり欲はかけなくなりました。欲が無くなったわけではありません。欲は人一倍ありますが、自分の現実は、あまり多くのものを受け入れるだけのキャパシティーは無くなりました。

年に一、二度食べる懐石料理やコース料理にしても目で見ると、「少し足りないかな」と思うのですが、実際に食べてみると「もう充分です」こうしてこの所かなり大人になってきました。

何でもおいしいものを、ちょこっとずつ、いただく。量は並みでよくなりました。






2010/03/18(木) 晴れ


[ 不足する集成材 ]
不足する集成柱


今年に入ってからの建築業界は大きな波に飲み込まれているようで、景況は相変わらずパットしないし、今までと同じことが出来なくなっています。

人を抱える工務店や自分で施工できない工務店などは仕事量の減少と請負金額の減少で、仕事をしても見返りが少なくなっています。仕事の波が大きすぎて平均した仕事量が確保できずに、忙しければ人を頼んで工期に間に合わせなければならないし、暇であれば自分の手間も出ないといった繰り返しで、体力のある工務店は別として、あるいはそこまでもが体力を落とさざるを得ない所に来ています。3月の末になると行き詰る所が出てきそうです。

さて、仕事の波が大きいことは、仕入れに影響しています。一月に売れなかったために、集成材の管柱やそのためのラミナの手当てをしてこなかったこ所では、今度は集成材の柱の品不足。ラミナ不足によるその価格上昇と製品価格の値上がりという方へ進んでいます。

問屋も、工務店も材木屋も市場もあっという間に変わってしまいそうなこの頃の傾向です。



2010/03/17(水) 曇り


[ 先輩と会う ]
先輩と会う


名古屋では、先輩と会うことができました。卒業以来会うことができなかった先輩と会うことができました。ちゃんと数えたら、37年ぶりでした。その貴田さんは2年先輩です。大阪にいたY先輩が夜どこかに飲みに行くとなると、私まで誘っていただき、飲み疲れては貴田さんの下宿で眠るといったことがよくありました。3畳の下宿でしたが、そこに男5人で寝た記憶があります。それも1回や2回ではありません。いま考えるとよく眠れたなあ、と思いますが、若かったからでしょうか。私の下宿と同じで風が抜けていくような所でした。

その下宿はその当時でも少し傾いていたと思うのですが、今から15年ほど前に行った時にはありました。が、5年前に行った時には、もうありませんでした。

その当時に知り合った人とは、ほとんど賀状の交換くらいしか行っていませんが、だんだんと定年も見えてきてこの30年、40年の自分の歴史を背負いながら、今のことを話してみたくなっております。大げさにいえば、人生の総決算ですが、飲んで管を巻いているだけかもしれません。話が弾んで酒量が増えました。







名古屋駅前にあるトヨタのビルの中にある居酒屋にて。味噌おでんもいただきました。


2010/03/16(火) 雨


[ 研修旅行 ]
研修旅行


3月13日と14日を利用して、以前細田木材工業株式会社にいた花村さんの実家である花村木材工業株式会社へ研修旅行に行ってきました。十四日会恒例の旅行でしたが、今回は経費節約の意味もあり、会員の車を利用してのそれになりました。

ここ、花村木材ではタモやアガチスなどの丸太からの製材だけでなく、家具材や建材メーカーの下枠つくりなど、時代に即応した仕事をこなしていました。

この日もアユース材の幅木作りが行われていました。それは近くの会社からの依頼品でしたが、東京の建材メーカーと市場が中に入っている仕事でした。

この辺りでも木材の製材工場は年々少なくなってきているとのことでした。また注文されたものはすぐに出来るけれど配送便を作るのが大変と話されていました。





花村木材工業を後にしてから、その近くにある、蓬莱橋を見学し、吉田産のうなぎのお店である「八木秀」にて昼食。その後豊川稲荷へ向かい、宿泊先である名古屋に向かいました。

翌日、名古屋城を見学したのち、帰路に着き、夕方無事に中野まで戻ってきました。皆さん大変お疲れ様でした。


(蓬莱橋)


(豊川稲荷、長野の善光寺と同じ屋根の形だそうです)


(名古屋城です。エレベーターで上がって、階段で下りながらお城の歴史が学べるようになっています。お城が第二次世界大戦で焼けなければ、もっと素晴らしい文化財が残っていたはずです。焼ける前のお城の写真を見ていると、惜しい気がしました。)



2010/03/15(月) 晴れ時々曇り


[ 小さな組織は個人が支えている ]
小さな組織は個人が支えている。


私は今テニスのスクールに二つほど通っています。則ちゃん曰く、「教わるのが好きだから」ということですが、飽きずに通っていけるのは、値段とか場所もありますが、コーチが尊敬できるとか、一緒に習う人が良いなど、楽しい雰囲気がないと続きません。その場所まで通わせる「個人の力」があって初めて達成できるものです。

さて、先日も新木場まで引き取りに行きました。その問屋さんとはもう30年来のつながりです。バブル期には、沢山買わせていただきましたが、だんだんと尻つぼみになり、いまでは年に二回くらいになってしまいました。それでも材料を気持ちよく出していただいています。そこの番頭さんは吉野材を引っ張ってくる力があって、杉の造作材やヒノキの柱などかなり持っています。この人の信用で何十万円、何百万円という材料が委託で引っ張ってくることができます。良い材料をたくさん持っています。といっても私の所では使うことが少なくなっています。残念なことですが・・・

数人で行っている問屋さんでも、信用のある人がいれば、商売を広げることができます。そういう人のつながりがまた仕事を呼んでくるものだと思います。あなたの周りに今、信頼のおける人が何人いますか。小さな組織でもそういう人が一人いれば、その人を大事にしていただきたいと思います。


2010/03/11(木) 曇り


[ このところの見積もり ]
このところの見積もり



このところの見積もりや仕事は、完全にリフォームです。今から二十年くらい前に建てた住まいの改造のものが多くなっています。
水周りを直すものを除くと、床を直す仕事がメインになりました。それも今までは、全部壊して、新しくやり替えたものが多かったのですが、このところのものは、壊すことを最小限にして、その上からフロアーを上張りして終了だったり、解体のときの出たものを再利用したりするようになりました。
おのずから見積もりの金額は下がります。

また上限が決まっているものも増えています。そういう現場に限っていざ仕事が決まって取りかかると、予想していないところまで直すことになります。最近はその追加分がいただけない所も増えています。お施主さんと実際に仕事をする人との間にまだ人がいたり、お施主さんと仕事をする人がコミュニケーションが取れていなかったりします。

さすがに町場では、壊した段階で悪い所が出れば、お客さんに話をして「ここも直します」といった話し合いを持つと思いますが・・・

さて、二十年くらい前の住まいの直しを見積もると、まず水回りがほとんど交換です。次に給湯機や外壁なども直す時期になっています。
部屋の内部に使われていた床板やプリント合板やツキ板のベニヤなども大抵同じものが無くなっていて、工務店さんに「たぶん、そのプリントはありません」とか「その色は廃番です」とか話しながら見積もりをしています。二十年もたつと、部分部分の修復はほとんどができません。

仕事のやり方や使われていた部材は、二十年経ってほんとに変わってしまったと思います。


今、こんな本も読んでいます。


2010/03/10(水) 晴れ時々曇り


[ 記念日 ]
記念日


3月6日には、新東京木材昭和会の「支部対抗ボーリング大会」に参加してきました。今回中野支部は初めて2チームを作り、8位と10位に入りました。ハンデのある人は出てこなくなっていますので、そのことを考えるとかなり健闘したのでは、と思います。私は足を引っ張りましたが、それでも思ったよりも良い成績で満足しております。

その疲れもあって、翌日には、マッサージを久しぶりに受けたら、今度は揉み返しにあっています。

さて、7日には、記念日ということで、おいしいものをいただきました。
今日からは、お粥ダイエットを始めないと厳しいお腹周りです。




3月8日からは、住宅版エコポイントの受付開始です。景気回復に一役買ってくれるとよいのですが・・・
サッシ屋さんは勢いつくかも。

2010/03/08(月) 曇り


[ 数字で読む日本書紀 ]
数字で読む「日本書紀」

たがみさなえ著
日本文学館発行


1 引き延ばされた「日本書紀」
2 引き延ばし作戦T 資料の合成
3 引き延ばし作戦U 繰り返し
4 引き延ばし作戦V 大王在位の延長
5 引き延ばし作戦W 大王グループの合成
6 引き延ばし作戦X イリ系とタラシ系・ワケ系の合成
7 引き延ばし作戦Y 卑弥呼の代役
8 引き延ばし作戦Z 己巳年と百済王女のマジック
9 応神紀〜雄略元年を実年代に戻す
10 神武〜雄略の実年代を推定する
あとがきにかえて


「日本書紀」は雄略紀から執筆されたことは森博達氏の研究からわかっています。中国人の続守言が中心となって書かれたとされています。たがみさんはこの雄略紀でさえ、4人の人がかかわった文章の合作だと言われます。「日本書紀」はその時までにあった資料を合成し、一つの出来事を何回かに分けて分散させたり、繰り返したりしながら、神武元年を紀元前600年までさかのぼらせていますが、実年代を探ったのが本書です。

実年代よりも長くしたために、外国、主に中国や朝鮮半島の国々の歴史書との矛盾点が出てしまいました。このため、たとえば卑弥呼は日本書紀では出てきませんが、神功皇后として、それらしく出されています。仲哀天皇、神功皇后を3世紀の人として描いています。

これらを考慮に入れながら、神武〜雄略の実年代を推定したのがこの本の結論になります。それによれば、雄略元年が西暦457年。雄略崩御の己巳年は西暦489年。ここから遡らせていくと、神武元年は西暦241年になります。卑弥呼が亡くなって、倭国が大乱になった後、当時の倭国をまとめたのが、神武天皇だったのでしょう。「日本書紀」を書いた人たちは、この辺りの事実を知っていたのでしょうが、何故時代を引き延ばしをしなければならなかったのでしょうか。この辺りが次の課題になります。九州にあった倭国が大和の地へ入り婿となって入り、大倭を形成し、それが西暦703年に中国に朝貢した時に、初めて「日本国」を名乗っています。その日本という組の正当性を内外に示すために「日本書紀」は作られたのだろうと、たがみさんは最後に言っています。


参考
旧唐書倭国日本伝より引用

日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或は曰う。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は云う。日本は舊小国、倭国の地を併せたりと。





たがみさんの本を読んでいると、日本書紀を考え出した人は、過去の日本や倭国の歴史に精通していて、古事記のもとになった本や、天皇紀・国紀なども持っていたであろうし、そういうものを駆使しながら、独自の世界を作り上げたのだろうと思います。其の人は、最終的には藤原不比等を中心とした人たちでしょうが、その構想は種を明かせば割と簡単なものだったと思い知らされます。面白い本でした。



2010/03/07(日) 雨


[ 日本書紀の謎を解く ]
日本書紀の謎を解く(述作者は誰か)


森 博達著
中公新書

第1章 書記研究論
第2章 書記音韻論
第3章 書記文章論
第4章 書記編修論
結論  探検を終えて



「古事記」が林なら「日本書紀」は森だ。
両著は現存する日本最古の典籍である。「古事記」三巻は和銅5年(712年)の撰上され、「日本書紀」30巻はその8年後、養老4年(720年)に撰上された。
書記は欽定の正史であり、撰上直後から広く受容された。(P4)
(中略)
「日本書紀」の記事は、神代に始まり持統天皇の譲位に終わる。日本で最初の正史である。持統から文武への譲位は、697年8月1日であった。「書紀」なしには7世紀以前の日本の歴史は語れない。日本古代史の研究にとって卓越した文献である。しかし「日本書紀」には史実のみが書かれているわけではない。冒頭の「神代紀」の神話をそのまま事実と信じる者はいない。「書紀」によって古代の社会や人間を研究するためには、まず史実と創作とを峻別しなければならない。もちろん、創作にもそれ自身の価値がある。(P7から8)


著者の言葉をたくさん引用してしか書くことができませんが、著者は音韻学の専門家です。日本書紀の記述に用いられた漢字の音韻や語法を分析した結果、渡来中国人が著わしたα群と、日本人が書き継いだβ群の混在が浮き彫りになり、各巻の性格や成立順序が明らかとなってきました。

そして実際の述作者と特定します。

書紀30巻は表記の性格によって、β群(巻1から13、22・23・28・29)とα群(巻14から21・24から27)と巻30に裁然と分かれた。
β群は、歌謡と訓注の仮名が倭音によって表記されている。原音で読むと全く日本語の音韻を区別できない。文章も倭習に満ちていた。漢語・漢文の誤用や奇用は枚挙にいとまがない。基本的に倭化漢文で綴られているのだ。
α群は、中国原音(唐代北方言)によって仮名が表記されている。また文章は基本的に正格漢文で綴られていた。β群に比べて倭習ははるかに少ない。しかもα群の漢語・漢文の誤用には正当な理由があった。α群の誤用は、原則として引用文と後人による潤色・加筆部分に限られている。そしてα群の奇用は原史料の反映である。α群は本来、原史料を尊重しつつ、中国語で述作されたのだ。
巻30は仮名表記が少なく、原音か倭音か、その性格を判別できない。文章は倭習が少なく、α群に近い。ただし、五区や文体には、α・βにはない独自性もある。(P225)

持統朝に続守言と薩弘恪が日本書紀α群の撰述を始めた。続守言は巻14から執筆し、巻21の修了間際に倒れた。薩弘恪は巻24から27を述作した。文武朝になって山田史御方がβ群の述作を始めた。元明朝の和銅7年から紀朝臣清人が巻30を撰述した。同時に三宅臣藤麻呂は両軍にわたって漢籍による潤色を加え、さらに若干の記事を加筆した。さらに若干の記事を加筆した。こうして、元正朝の養老4年(720年)に「日本書紀」が完成し撰上された。
唐人の続守言と薩弘恪は正音により正格漢文でα群を述作した。つまり中国人が中国語で述作したのだ。倭人(日本人)の御方は倭音により和化漢文でβ群を述作した。若くて優秀な清人は、倭習の少ない漢文で巻30を述作したが、藤麻呂の潤色・加筆には倭習が目立った。(P228)

掛け値なしですごい研究だと思います。

そしてこれらから、古代最大の画期は、巻14の雄略朝であり、その次が大化の改新であった。続守言が巻14「雄略紀」からの述作を担当し、薩弘恪がまき24「皇極紀」から担当した。(p27)







2010/03/06(土) 雨


[ 天武天皇の年齢研究 ]
天武天皇の年齢研究

神谷政行著
叢文社発行

目次
序章 本書の目的
第1章 天武天皇の年齢推移の概要
第2章 天武天皇の若さを示す事実
第3章 両天皇の年齢推移の原因
第4章 天武天皇の周囲の年齢――確定的といえる人達
第5章 天武天皇の周囲の年齢――確定できない人達
第6章 天武天皇周囲の年齢――皇子たちの若々しい年齢序列
第7章 具体的な天武天皇の年齢
第8章 もう1羽のふくろう伝説
第9章 年齢変更で変わる天武天皇の世界
第10章 天武天皇の出自――父親は誰か
第11章 年齢を狂わせていた根本原因
終章 天武天皇崩御の謎
付録 天武天皇に関する年表


本書は神谷政行氏がウェッブサイト上に公開しているブログをまとめた本ですが、今までにない発想で単純化して話が進んでいきます。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamita1/


天武天皇は古代史を飾る天皇の一人です。万葉集にも出てきますし、「日本書紀」は天武天皇が企画したものだとされています。ところが、その「日本書紀」には、天武天皇の年齢が記述されておりません。いつ生まれ、何歳で亡くなられたのか書かれておりません。他の天皇の年齢は書かれているのですが、書かれているために100歳を超えてしまう方も数多く出ています。この書物を企画したはずの天武天皇は、出自や年齢がよくわからないのです。

天武天皇は舒明天皇と皇極天皇の子供とされ、また、天智天皇の弟だとされていますが、これも時代が下がって書かれた書物などから逆算すると弟の天武天皇の方が、天智天皇よりも年上になってしまいます。
このことから、天武天皇の年齢を記載できなかった、と考える方が数多くいます。
また天武天皇の出自を朝鮮半島から来た人と考える人や九州に王朝があり、そこの王だったと考える人など、天武天皇は古代史のなぞを解明するためのキーマンです。

神谷さんはこれらを考慮しながらも、「日本書紀」の記述を正しいものとして、これを前提に話を進めます。天武天皇を取り囲む妻や女性の出産年齢を初出産を20歳前後とみて、およそ2年に1人を生む計算で論を進めていきます。天武天皇の周りにいる年齢を確定できる人たちから論証を始めて、一つの結論にたどり着きます。天武天皇は、天智天皇の18歳年下の弟で、皇極天皇の子ではあるが、舒明天皇の子ではない。舒明天皇が亡くなってから生まれた子供であると・・・それが一つの理由となって年齢を記載しなかった。

この本では、天武天皇の年齢をかなり若くしました。そうすることによって額田王との恋愛話や天智天皇の子供を妻としても年齢的におかしいことはなくなります。母である皇極天皇の高齢出産や持統天皇との年の差カップルが解消されます。

その一方で、天武天皇は舒明天皇没後に生まれたことになるので、その父親は誰なのか、ということになります。また天武天皇の末子である新田部皇子も天武天皇の子供である可能性が低くなります。前者では高向玄理、後者では新田部皇子の母、五百重娘の異母兄・藤原不比等を比定しています。要するに「源氏物語」ですね。

この本では、天武天皇の年齢研究をすることで天武天皇の実像を描きだしました。かなり良いポイントをつかんでいると思います。また天智天皇についてもおそらく父親は、舒明天皇ではないとの視点を出しているので、今後の論究が楽しみです。



天武天皇の年齢を若く確定させることで、天武天皇の持つ矛盾点をうまく解決していると思います。




2010/03/05(金) 晴れ


[ なぜ「日本書紀」は古代史を偽装したのか ]
なぜ「日本書紀」は古代史を偽装したのか


関裕二著
実業之日本社発行

目次
序章 「日本書紀」は偽書なのか
第1章 正史「日本書紀」にあるこれだけの謎
第2章 「日本書紀」は誰のために書かれたのか
第3章 「日本書紀」はヤマト建国も改竄した
第4章 不比等が企てた「日本書紀」のカラクリ
おわりに


「古事記」「日本書紀」「万葉集」と日本の古代史をひも解くカギはいくつか残こされていますが、その一つである「日本書紀」にもたくさんの謎が秘められています。

関裕二氏は歴史作家ですが、古代史関係の著作を数多く書いております。その中でも本書はまとまっていると思います。関氏は「古事記」「日本書紀」はもちろん、そのあとの聖武天皇辺りまでを視野に入れて、一つの歴史構想を立てて論を展開していきます。それは大まかに言って、古代史を天智天皇系と天武天皇系に分けて、その対立を軸として歴史を見ていくというものです。

蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子、のちの天智天皇は朝鮮半島への戦争で負けて(白村江の戦い)都を滋賀に構えます(大津京)。天智天皇の没後、その弟と記される天武天皇は、天智天皇の跡継ぎである大友皇子を破って新しい王朝を築きます。世にいう壬申の乱です。

その天武天皇は新しい王朝の証として「古事記」の編纂や「日本書紀」の企画を命じます。その時までに伝わっていた数多くの伝承を各豪族から提出させて、歴史書を作り上げます。

「古事記」と「日本書紀」では対象となった時代や古代史の描き方に違いがありますが、この本では「日本書紀」を取り上げて、それが天武天皇が企画したものとは、違うものが出来上がった、それはなぜなのか、というのが本書の主張です。

天武天皇は、蘇我氏系の王族と言われ、用明天皇の孫と記されています。そのため、聖徳太子の兄弟の子供ないし、高向玄理、あるいは蘇我入鹿が父親だという説もあります。いずれにしても蘇我氏に近い豪族の応援を貰いながら、壬申の乱を勝ち抜いて新王朝を築きました。

さて、天武天皇の妃は天智天皇の娘になります。それだけではなく、天智天皇の娘を5人も娶らせた理由は何なのか、同じ母親から生まれた4つ違いの実の弟であるならば、姪を娶ることは、かなり異常であると思います。それらが重なって天智天皇と天武天皇は別の王権だと考えられています。関氏も天武天皇崩御の後、皇太子が天皇の座に就かずに、4年の時間をおいて、天武天皇の皇后である鵜野皇女が持統天皇として即位し、その持統天皇のもとで天智朝の復活を試みた、それを支持し、協力者として推し進めた人が藤原不比等であり、藤原氏のために作られた、あるいは作り変えられたものが「日本書紀」だとしています。

不比等が企てた千年の眠りから呪縛を解くヒントがこの本には刻まれています。関裕二氏の一連の本は読んでいて面白いし、大筋で合っているのではないかと思っています。この対極の考えを持っている方が、(天智系と天武系の対立は基本的にないとする)遠山美都男さんになります。こちらもどこかで紹介しないといけませんね。



2010/03/04(木) 曇り


[ わが街にも ]
わが街にも


3月の声を聞き、わが街の商店街である中野新橋商店街にも、今までシャッターが閉まっていた所にもお店ができ始めています。駅前も少し活気づくでしょう。

昨日は1日中忙しく動いていました。ラストは夜のテニススクールで汗をかき、風呂にゆっくり入って、お決まりを終えると気持ちよく眠りにつきました。今朝の目覚めも良くて、身体がすっきりしています。

いつもこうだとうれしいのですが、起きる前の夢の中で仕事をしていたり、この前などは2トントラックに木材を2トン近く積んでいて、しかもそれが坂道を後ずさりする夢で、夢の中でローで前進させようと必死でした。そんな日は起きた後すっきりできずに1日中疲れているのですが、今日は違いました。

それなので、たくさん仕事ができるかな、と思いきや、やはりいつも以上はできません。期待した分だけやり残したことが多くなってしまいました。

さて、店舗の改造の仕事で材料を納めているのですが、仕事に計画性が少なくて右往左往しています。

さてさて、先のジューテックの展示会では、吉野石膏がソーラトンキューブを扱うことを知りました。昨年ーニットウボーが生産を中止してから、マンションの廊下の天井などのリフォームでは、2ケースくらいないだろうか、などという注文がいくつかありましたが、大建工業で納期45日とか、ニットウボーは止めてしまったので、多分持っている所はないだろう、などという話をしましたが、この2月から吉野石膏経由で、売ることができるそうです。新木場にある吉野石膏の倉庫にも在庫を置くということなので、何かと便利になります。その時の営業マンに「吉野石膏でソーラトンを扱うということは、ボードと一緒に直送ができるということですか」と問いかけたら、「そいうことです」と笑顔で答えてくれました。

これでますます吉野石膏載シェアが増すでしょう。チヨダ石膏はどうするのでしょうか。




2010/03/03(水) 晴れ


[ うまくいったり いかなかったり ]
うまくいったり いかなかったり


材料の手配にしても、何を在庫品としていくかもおそらくはそんなに難しいものではないのだろうと思います。が、タイミングの悪い時が増えてきています。まだまだ在庫があると油断していて、新しいものを手配しないでおいたら、その品物の値段が上がってしましました。その上、問屋さんの在庫品を見に行ったら、「在庫に向かない商品」だと感じてしまい、手配を辞めたら、その商品の売れ行きが良くなってしましました。結局高いものを買うはめに陥っています。

その反対に、うまくいくときもあります。
この間なぞは、ある建設会社から受けていた注文品を、急ぎの違うお客さんに回して、喜ばれました。同じものを受注したのです。もちろん初めのお客さんには連絡して「まだ使いませんか」とお聞きしてからですが、

最悪なのは、注文をしておいたものが予定通りに入らないので、別の所に発注したり、遠いところまで引き取りに行った途端に、注文品が入荷してきた時です。一つは売れますが、いま一つは在庫として残ります。急がれると色々な失敗があります。

最近では、建材メーカー品はなるべくお客さんに品番を書いていただき、それで発注するようにしています。お客さんから言われたものを聞きなおしたり、品番を控えておいて翌日に発注したりすると、間違いが起こります。たとえば発注時に、そのページをコピーして、大きく丸をして注文したりします。これくらいしていないと、間違いは起こります。
この間などは、大きく丸をしてその品番を書いたつもりでしたが、別の所に大きく丸をして違う商品が来てしまいました。笑うに笑えない私自身の話です。注意を払っているつもりですが、間違えてしまうことがあります。

まず間違えないように注意を払いましょう。その上でうまくいったり、いかなかったり、は多少はしょうがないのかと思うようになりました。年ですからね。

人生も振り返ることが増えています。振り帰るのは前を見るためです。前に進むのにあまり間違えないためです。この年になって大きく間違えると、他の方に迷惑がかかります。そんなことを思う最近です。

2010/03/02(火) 曇り時々雨


[ (株)ジューテックの展示会 ]
(株)ジューテックの展示会


2月27日には、池袋のサンシャイン会館にて、(株)ジューテックの展示会が開かれ、行ってきました。建材問屋も統合されて、大きな所は、ジャパン建材、ナイスにジューテックとなりました。2月半ばにはジャパン建材の展示会が東京ビックサイトで開かれたのですが、所用で行けなかったので、ジューテックの方は是非とも行きたいと思っていました。

午前中に仕事を終えて、見に行きました。




今回感じたことは、展示会としては規模が小さくなってきたことです。これはジューテックだけかもしれませんが・・・

商品の展示も限られてきました。おそらく売れていくものも限定されてきた結果だと思います。

また、住宅版エコポイント制度に関しては、パンフレットが増えているのが、今回の特徴です。サッシメーカーと断熱材のメーカーは特にその傾向が強かったですね。


パナソニック電工のパンフレット




TOTO、大建工業、YKKAPのパンフレット



2010/03/01(月) 晴れ時々曇り


( 2010/04 ← 2010/03 → 2010/02 )


[ 管理者:大野満生 ]


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