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時々更新mn日記

( 2010/02 ← 2010/01 → 2009/12 )


[ パソコンが壊れて ]
パソコンが壊れて


パソコンが壊れて早いもので二週間になろうとしています。朝、事務所に行ってパソコンのスイッチを入れてから一日が始まっていたのに、それがなくなると、なんとなく時間をもてあますようになっています。パソコンとの付き合いも二十年になるので、習慣になっているのでしょう。お客さんから見積もりをいただいても手書きで作っています。また、商品の検索などでも使っていましたので不便を感じています。パソコンは必需品になってしまいました。

さて、ここ2週間では新年会あり、テニスもしています。やっと仕事も始まりました。仕事はポツポツしかありませんが、とにかく始まりました。考えてみれば昨年は従来のお客さんの仕事があり、マンションリフォームや戸建てのリフォームもありましたが、今年はまず従来のお客さんの仕事が期待できなくなってきました。大工さんは高齢化し、ほぼ引退寸前です。変わってリフォーム業を営む方からの仕事が中心になると思いますが、安定的に、コンスタントに材料を供給する感じがなくなっています。前もって見積もりすることも少なくなってきました。仕事が始まればいきなり注文が来て、すぐに配達、そんな感じになってきました。使っていただけるものも下地材を中心としたものだけですから、その部分では対応できるのですが、同じ日に同じ商品だけが出るといった現象が起きてしまいます。今までよりも在庫を置かないと間に合わなくなります。仕事が行き当たりばったりになってきました。

また、今年に入ってから始まる予定だった仕事のキャンセルもいくつかありました。そんなにまとまったものではありませんでしたが、仕事が決まってきません。

そんなわけで時間があるので、アパートの一部屋を直しています。昨年から一部屋あくと、直して、そこに人が入ると、違うところが空き、そこの悪いところを修理すると別のところが空いてしまうというようになっています。昨年夏からずーっと自分のところのアパートマンションリフォームが続いています。現在直しているところは、事務所のある築45年のアパートです。壁は真壁なので則ちゃんが「島忠中野本店」で材料を買い求め、水性ペンキをきれいに塗りました。手摺のペンキも彼女が塗ってくれました。大工さんにも二日ほど来ていただき、押し入れの壊れた中段等を直していただき、後は畳を入れ替えて照明器具やカーテンレールを付ければ、大体です。

もうすぐ、新しいパソコンが来ますのでそうしたらまた日記を書きます。人のパソコンから書いているとどうも調子が出ません。


2010/01/28(木) 晴れ


[ 普通に打ち返す ]
普通に打ち返す


テニスを始めて8年目に入っています。途中幾度か行っていないので正味は半分くらいでしょうが、体力づくりを基本にスクールに毎週通っています。週に2回から3回ほどコンスタントに行けるとうまくなれると思っています。ここの所2回は確保していますので、昨年の秋から比べて、うまくなっていると思います。自分で言うのも可笑しいですが、普通に打てるようになって来ました。

試合となるとつい奇をてらってしまいますが、このあたりも少し普通になって来ました。普通に打とういう意識になって来ました。少し力が抜けて来たのかもしれません。この調子で進めたいと思います。

PS
パソコンが壊れてしまいました。
新しいものが来次第、また日記を再開します。


2010/01/15(金) 晴れ


[ 様変わりする商況 ]
様変わりする商況


年明けの商況が良くない。というか悪いとおもいます。

年明けからの仕事や昨年末からの仕事もいくつかありましたが、話があったきりで仕事が始まりません。予定では、在庫がはけているはずの12ミリのラーチ合板も手つかずのまま出番を待っています。赤松の垂木もそうです。そんなわけで、今できることから始めています。いつも一月末か二月初めにまとめている確定申告の資料づくりもあらかた終了しました。下小屋もきれいなままなので片づける必要も今の所ないようです。

まあ、何年振りかでヒマをいただいたので、有効に使いたいと思っています。この分なら平日の旅行もできそうです。また事務所で一つのことを集中して行うこともしていますが、その反面時間割を作って45分ないし一時間を一つの単位として時を使っています。まるで小学生に戻ったみたいです。

さて、私がこの業界に入った昭和50年代は日本列島改造や高度成長期の後で、オイルクライシスを経験した頃で、この業界もかなり沈み始めていました。それでも月に4棟ほどの新築住宅があり、木材販売だけで暮らしが成り立っていました。良い番頭さんもいましたし、忙しい時には学生アルバイトを使い、配送は近くの運送会社に頼んでいました。

それが月に一棟あるかないか位になってくると、今度はその一棟の中で売れるものを売っていく時代がありました。建材や建具材を売り始めることになりました。

その時代の流れの途中で「バブル期」になりました。工務店さんは木造住宅よりも鉄骨や鉄筋の内部造作に力を入れ、これが結構まとまった金額になったので、下手な木造住宅を手掛けるよりも効率のよいものになりました。鉄骨や鉄筋の建物には、駐車場用のスペースがあり、そこに材料を置いておけたのです。木場や市場から現場へ直送することが多くなりました。この時は楽でした。それでも朝早くから仕事をして飲みに行くのも午後9時過ぎないと身体があきませんでした。この結果私は身体を壊すのですが、その頃まだ三十代の半ばでしたから元気もあったのでしょうか。

この時代の後からは、もう木造住宅には戻れませんでした。下小屋で墨つけをして、刻んで、それを上棟に間に合うように配達して、建て終われば、今度は造作材を加工に来て、下小屋がゴミの山になりました。このあたりをどう解決していくのか、そんな問題点を語り始めた頃が、中野では、十四日会が発足するころと重なると思います。

そんな中で一般的になり始めたのが工場で生産していくシステムです。構造材のプレカットが私の所でも用いるようになりました。初めのころは大壁作りのアパートだったと思いますが、建て坪の多いものはプレカットでお願いした記憶があります。お得意さんを工場見学に連れて行き、入念に打ち合わせをしましたので、多少の間違いはありましたが、大きな失敗はしなくて済みました。プレカットで建てるようになってくると、外部のサイディングの材工やドア、床暖房の工事もお願いされるようになりました。水回りは得意でなかったので数は多くありませんが、これもいただきました。この後、木工事まで請け負う形になった方は、今でもこの方向を続けていると思いますが、材木屋さん自身で売れるものは多くなりました。

ところが、私なども自分から仕掛けていくことが出来ないので、せっかく売れていくものを手に入れたのに、手放すようになりました。水回りは単価の違いや専門性不足から、少なくなっていきました。床暖房はガス屋さんの攻勢が強くなり、建具や建材メーカーの品物も単価の競争が一番になりました。

そうこうしているうちに従来のお得意さんは年を重ね、元請けとしての仕事は数が減ってしまいました。工務店さんの中でもハウスメーカーの下請けやリフォーム業を持ち味とする方々が仕事を持ってくるようになりました。この間住宅の低コスト化の進行や諸法律の整備などで一層大工では家が建てられない状況が出来てしまいました。

そうなってしまうと、売り上げは半減化して、その大半は木材、しかも下地材という風に変化しました。プレカットで建てて、建材メーカーのドア材や窓枠材を取り付けるという風に、建物自体がどんどんプレハブ化してしまいました。今でもこの流れの中にいます。俗にいう、羽柄のプレカットまで進行してくると仕事は順序良く行うことがメインで後戻りできないものになりました。

大工は下職となり、「いま目の前にある材料で作るだけ」という立場になってしまいました。元請けはデザイナーか木造建築を行ったことのない工務店さんだったりします。大工が下請けになればなるほど、材木屋の立場もそれに似たものとなりました。下地材とほんの少しの造作用の木材。このあたりに落ち着いてしまったのが、ここ数年の状況です。

ここを打ち破って、22階まで階段で建材メーカーの巾木や周り縁を上げる体力といつ支払いが行われるのかじっと待つ気力があれば、売り上げ自体は伸びるでしょう。が、もっと人間らしい仕事としての建築業を生み出さないと安心して次の世代へバトンタッチ出来そうにありません。

手になる労働はもっと尊いものだと教えられてきたのでこの価値を高める方向がほしいです。

最近デジカメが壊れてしまい、修理に出しましたが、一万円はかかるだろうとの話でした。さらにそれ以下なのか、それ以上なになるのかの結論が出るまでに二週間くらいかかるとのことでした。一旦カメラを預けて、デジカメ売り場を覗いてみると、比較的新しいものが29800円で出ていました。それが今日と明日なら、5000円ほど値引きして、さらに20%のポイントが付くとのことです。こうなってしまうと、修理をやめ、新規に買い求めることにしました。壊れたものと同じメーカーの品物だったので、メディアや電池はそのまま使うことが出来、一万円は余計に出しましたが、新しいものを購入することが出来ました。その際店員さんが言っていました。「大量生産品は出来てしまうので、いくらでも安くなりますが、修理は一つ一つ手作業なので、安くはなりません」「バランスが悪いですが・・・」云々

ともあれ第二次世界大戦後の「ポット出の材木屋」が時代の流れに乗り、二代目にバトンタッチして10年が過ぎました。初代から数えて60年近くこの業界にいます。その後半の30年間は二代目の私がかかわった所です。木材販売から住宅資材販売へ、さらに材工のものへと手を広げて、また木材だけに戻りつつあるのが現状かと思います。ここを突き出た方は面白い残り方をしていると思いますし、そういう方がこれからのこの業界を引っ張っていくものだと思っています。あるいはもっと違った所から始まるのかもしれません。いずれにしても実際に仕事をする人が育たないと材木屋の数は減り続けるのだと思います。

今から25年ほど前の段階で。材木屋の数は三分の一ほどあれば用が足りると考えていました。それがいまではもっと厳しい数になるのだと思いますが、無くなるわけではありません。これからはひとりひとりの特徴を一層生かす形で残っていくのだと思います。



2010/01/14(木) 晴れ


[ 責任感 ]
責任感


私も含めてこの業界のいけない所は売り先に関して注意を払ってこなかったことです。大工さんと契約書を交わして取引することは極めてまれなことです。わが社でも新規の方との取引は先ず行いませんが、お得意さんから紹介を受けた所や一年半くらい現金で買っていただいた所などに関しては掛け売りを行っています。時に応じて取引する会社の謄本のコピーをいただいたりしていますが、保証金などをお預かりすることはまずありません。本来の取引相手が大工さんだったこともあり、大工さんはまとまった仕事が決まれば、前渡し金を置いていき、それで材料を出して下さいという方が数多くいらしたので、たとえ一間のアパート暮らしでも信頼感はありました。また、徒弟制度の中から育った方が一人前になってわが社から買うといったことも普通にありましたので、人となりも分かっているし、親元も間違いないし、仕事もわかるので、安心して売ることが出来ました。

そうは言っても、わが社でも5年一度は支払いをされないお客さんが出てきました。またここへきて「今後は取引しない方が良いかな」というお客さんが出てきました。

さて、支払う側の責任感も少し希薄になった感がありますが、材料を提供する側も「材料がありません」という一言で片づけられる時もあります。これこそ5年一度くらいですが、これまでも耐火ボードが無くなったり、ラーチ合板が市場から消えたり、90ミリ×45ミリが品薄になったりしてきました。ラーチ合板が無くなった時には、大手の建材問屋さんでは相手にしてくれなくて、新東京木材の建材課に助けていただきました。耐火ボードが無くなった時、今から15年ほど前には材木屋仲間から借りたりしてしのいできました。

欲しい材料が見つからない時には、信頼できる問屋さんや責任感のある人に頼ると解決が早いです。実際に何とかしてくれる人がいます。そうして助けていただくと、その次からもそこにはまず初めに仕事を持って行くようになります。東京木材市場や東京新宿市場、新東京木材などの問屋さんには、そういった「ノリ」で材料を手当てしてくれる方々がいます。ありがたいことです。逆に言うと、組合や市場の職員さんでは、そういった意識が希薄なように思えます。直接山元から材料を手当てする立場にないことやお客さんとの個人的なつながりが薄くなった結果でしょうか。

我々の業界は古い体質なのですが、それゆえに人と人のつながりの中で培われた信用を基礎に動いていきます。人と人のつながりが「材料を提供する」仕事の出発点です。お得意さんから見れば、私自身が頼りがいがあるのか、私から見て、問屋さんや職員さんが、あるいは営業マンで頼れる人がいるのか、そこがこの商売の中で大きな位置を占めると思います。精進しましょう。



2010/01/13(水) 晴れ


[ 中野支部新年会 ]
中野支部新年会


中野支部では恒例となっている支部新年会を10日に開きました。例年箱根に於いて泊まりがけで行っていましたが、多くの方のご参加がいただけるようにと、今年は中野サンプラザを利用して開かれました。その結果、13名の参加がありました。おいしい料理に舌づつみを打ちながら、明るい雰囲気の中お開きとなりました。「来年は箱根で行おう」という声も上がり、今年一年の健闘を誓い合った支部新年会でした。








2010/01/12(火) 雨


[ 重層構造が解消できない ]
重層構造が解消できない



日本の建築業業者の構造が重層構造になりすぎて、これを解消しないと建築業自体が盛り上がることはないでしょう。新築住宅はもちろん、改造の仕事でも、あるいはマンションリフォームでも、元請けがいて、下請けがいて、孫請けがいてその下あたりに実際に仕事をする人たちがいて、さらにその下に大工さんやクロス屋さんなどがいます。元請けの見積もりは金額としては妥当かもしれませんが、間に入る人が多くなりすぎています。その結果、実行予算は限りなく減らされます。出来ない予算で仕事に当たれば、赤字を出します。それでつぶれていく会社も数多くいます。一度支払いが出来ないと次の仕事の前払い金で前の分を支払い、新たに入った仕事の分をためていきます。こうして負の連鎖が始まります。

売り出しのマンションで「こんなひどい仕事するのか?」というものもありますが、たいていは工期が無くて手間が安い仕事をした所だと思います。こんなマンションを買うお客さんはたまったものではないでしょう。木造の新築住宅で手間請けした大工さんが最後に精算したら、日当が8000円にしかならなかった、という話も耳にしています。またそれ以上に引っかかった、というのも耳にするようになりました。請けた方はこれ以上払えないといい、仕事をした方が日当が安ければ仕事をしないといいます。ユーザーと施工者の距離が近ければ、手ごろな値段で良質な住まいを得ることが出来ると思います。

思えばこの数十年間、間にひとが入る構造ばかりが増えて、言葉を換えて言えば、ブローカーばかりが増えたように思います。ここを変えていかないと住宅産業の再建は出来ないのだと思います。その意味では、実際に仕事をする人が全面に出るようにするために材木屋が請け負う方向というのも一つの解決策でしょう。


2010/01/08(金) 晴れ


[ 仕事開始です ]
年賀状


仕事始めです。
今年も多くの年賀状をいただきました。ありがとうございました。今年の特徴は「退職しました」と「孫が生まれた(生まれます)」が多かったことです。そういう年齢になりました。
退職した翌年には、地方税など税金がたくさん来ます。そのため、「二年間は嘱託として働く」という方もいます。良く人生を考えている方です。たいていはそこまで気がつかずに辞めてしまい、「しまった」ということになります。自分のことになると失敗はつきものです。

さて、まだまだ働くという人もいます。
退職直前で子会社の社長になり、65歳まで働ける人もいます。この年になると代表取締役を務めている友人も数多くなりましたが、「出来ればもっと楽な仕事で働きたい」といっていやいや務めている人もいれば、大きな部屋に事務員の女の子と二人っきりで毎日を送っている社長もいます。社長といっても自分と変わりません。
休みの日はお寺まいりに励んでいる人もいれば、讃岐うどん店500店食べつくした人もいます。温泉オタクで「ハシゴ湯」を楽しんでいる人もいます。10代から20代に知り合った友人たちはそれなりに個性的です。

小学校の6年3組の新年会も決まりました。この仲間とは今年も遊びたいと思います。遊ぶためには仕事もしないといけません。仕事をすることが今年第一の目標になります。それに続いての目標は体重を落とすことです。正月の怠惰な生活で「仕事痩せ」した身体がすっかり戻ってしまいました。

さて、仕事始めに「お飾り」をとって普段通りの態勢になりました。先の見えない年ですが、精いっぱいで行きたいと思っています。


2010/01/07(木) 曇り


[ 7日より営業開始です。 ]
7日より営業開始です。


お正月は清里でゆっくり過ごしました。

3日の日にはシャトレーゼで初滑り。二年ぶりのスキーでしたが、何とか転ばずに12本ほど滑れました。翌日はお約束の筋肉痛。左側が特に痛くなりました。正しく体重をかけていない証拠です。
ペンションとのセット料金でシャトレーゼの1日リフト券が、なんと1500円。50代の割引きで、60代に入ると1000円だそうです。
この安さのおかげで翌日の昼飯は小渕沢の井筒屋のウナギになりました。


この写真の後、デジタルカメラが壊れてしまいました。寒かったからでしょうか。



お正月なので子供連れの方が大勢いました。



ウナギ屋さんは小渕沢の駅近くにあります。


さて、これに先立ち、12月30日にはアメ横へ。31日には穴八幡へ行きました。アメ横は人、人、人の波で酔ってしまいました。


左側の一方通行でした。



冬至の日に「一陽来復」をうけていたのですが、最近では行けるときになってしまいました。穴八幡の階段も新しく整備されていましたが、どうせ直すならもう少し手すりを多くしてほしかったです。

ともあれ7日より営業です。
本年もよろしくお願い致します。


2010/01/06(水) 晴れ


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[ 管理者:大野満生 ]


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