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「ここを跳べ」が二冊売れたそうです。
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「ここを跳べ」が二冊売れたそうです。
十年前に出した処女作である「ここを跳べ」の引き合いが2冊ほどあったと舷燈社の柏田さんから連絡が入りました。私の手元に2冊ほどあるのでそれを渡そうかと思いましたが、確か組合に幾冊か確保していただいているはずだと思い出し、そのことを告げました。やはり20冊ほど確保していただいていたようです。
それは今から十年前に遡りますが、当時の組合の職員である高橋さんが、何かの折に「組合で預かっておきます」といわれたのを、思い出したからです。高橋さんは大変熱心な職員さんでこの方のお蔭でいろいろ教えていただきました。
高橋さんとの出会いは、中野十四日会が出来た時に組合の機関紙である「月報」(現 WOODS)に載せたいからと我が社に来られたのが初めでした。取材を受けたことのない私は戸惑いましたが、30分ほど話をし、高橋さんはメモして帰られました。十四日会を作ったことは、中野支部にはその総会でお話させていただきましたが、組合へは黙っていました。それが会員の一人が業界紙に書き、その流れで組合から引き合いがあったのでした。
1992年7月のことだと思います。8月号の月報に載ったのだと思います。9月の頭には、「年代別フリートーキング」の40代の部に借り出され、又練馬や豊島の若手会にも顔を出しました。(ほとんど飲み会だけですが・・・)その関係で組合のコンピューターソフト開発委員会の委員にさせられました。もっともこの委員会の委員に推薦された時はお断りしたのですが、当時の木村理事長から「人間のよい人ばかりを選んであるから来なさいと」言われ、受けました。
この委員会の事務方が高橋さんで、実にこまめに動き、また良く働いて下さりました。自身もよく勉強されていて、パソコンに関する知識もたいしたものでした。すでに50歳を過ぎていましたが、熱心な方でした。この委員会はその後、組合のCADシステム導入やパソコン通信,HPの開設、というところまで進んでいきました。がほとんど高橋さんのお力でした。
私の「ここを跳べ」はパソコン通信を組合が試験的に行っていた時にそのネット上に載せたものでした。これがなければ私が著作を持つということなどありえなかったので、その点感謝に耐えません。またその委員会で出会った方々との交わりが、「ここを跳べ」の中に随所に出て来ます。中野十四日会、新東京モック、とともにこの委員会、とりわけ高橋さんの存在が大きいのです。
高橋さんは組合を定年退職されて、数年で病気のためこの世を去っています。そのことを私が知ったので亡くなって一年近くなってからの事でした。 組合を去る前に「停年近くになって、若い人とこんなに楽しい仕事が出来て、嬉しい」と言われたのが印象的でした。今は私は55歳ですが、高橋さんと私が出あった時の高橋さん年もそれくらいだったと思います。月日の経つのは早いものです。
2007/03/19(月)
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