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時々更新mn日記

( 2007/04 ← 2007/03 → 2007/02 )


[ 56歳 ]
56歳


誕生日が来て56歳になりました。特別な感想はないのですが、年を取ってきたという実感だけはあります。それは先ず体力の低下に表れています。無理は効かない身体になったと思います。これからはのんびり生きていくか、残された時間を有効に使っていくのか、その二つを同時に行っていく必要がありそうです。言葉を変えれば、人生を楽しむということになるかと思います。

このところ、両親や祖父母が今の私の年の時にどんな生活を送っていたかを考えています。祖父は私の年より早く脳梗塞で倒れています。父もそうでした。母や祖母は孫の面倒を見ていました。自分の時間が持てる年になりましたが、回りの環境も変わり始め、何よりも自分も身体が変化してきました。「四十を越えたら一日を十日と思え」という言葉がありますが、今年は自分たちの時間を大切に過ごしたいと思います。

もうじき、姪に子供が生まれます。次の世代が確実に生まれて来ます。それは楽しみです。

2007/03/28(水) 晴れ


[ 清春湯 ]
清春湯



「清春湯」は近所の銭湯で、小さな頃はよくそこへ通いました。小学校の低学年までは我が家に風呂がなく銭湯通いでした。先日そこのご主人が材料を分けて欲しい、と来られた折り、「お父さん元気?」と声をかけられのですが、すでに亡くなっている事を話すと、「お父さんは時流に乗ったからね」といわれました。材木屋という商売の事ですが、全くそのとおりだと思っています。
父が中野の地に店を開いたのは、1949年の夏、敗戦から4年後でした。まだ現在の地は一面の麦畑で昭和30年を前後してこのあたりも道路沿いに小さな店舗が並び始めました。八百屋、肉屋、パン屋、床屋、美容室、豆腐屋、クリーニング屋、喫茶店、下駄屋、本屋、そば屋、寿司屋、乾物屋、お菓子屋、文具屋、電気屋、米屋に、飲み屋などダブルでありました。半径200メートル以内に、です。小さな映画館もありました。そこは昭和33年ごろまでだと思いますが・・・飲食店も増えてきました。ラーメン屋さんなら「珍来」「新京」「龍公亭」「宝来」「五十番」、カレー屋さんや天麩羅屋さんから月に一度出前を取って貰うのが楽しみでした。小学校時代の思い出になります。

父は昭和20年代は仕事がなかったといっていました。昭和30年代の約十年間で基礎が出来、昭和45年を過ぎると下降線を辿っています。私はこの仕事について昭和50年代は仕事的には下降線の時代です。それから30年間この傾向は益々顕著です。昭和30年代はこの近所に店が出来始め、住まいも木造の二階建てが増えてきました。30年代後半にはひとつ表通りを入った所にアパートも出来始めました。大工さんが請けて作るものばかりで、木材代金が総工費の3割ある時代でした。材木屋にとっての黄金時代でした。それが段々、人件費の割合が増え、水周りにお金をかけるようになって、木材が見える所に使われなくなりました。総工費の1割くらいは木材にお金をかけてもよいと思っています。バブル期を挟んで、行政からもコストダウンが提唱され、実際約3割のコストダウンしたと思います。その関係もあって規格化された住まいばかりになりました。10年保証制度などは十年しか持たない住まいづくりを応援しているものとも読み取れます。最も給湯器、ユニットバスの器具、キッチン回りなどは10年経つと交換が必要なものが多くなります。そこまで達しなくても、デザインや機能性に物足りなくなります。

さて、清春湯は今でも営業を行っている銭湯です。祖父とも行きましたし、父とも通いました。又近所の子供仲間とも行った思い出の場所のひとつです。小さいですが、露天風呂もあります。

2007/03/20(火) 晴れ


[ 「ここを跳べ」が二冊売れたそうです。 ]
「ここを跳べ」が二冊売れたそうです。


十年前に出した処女作である「ここを跳べ」の引き合いが2冊ほどあったと舷燈社の柏田さんから連絡が入りました。私の手元に2冊ほどあるのでそれを渡そうかと思いましたが、確か組合に幾冊か確保していただいているはずだと思い出し、そのことを告げました。やはり20冊ほど確保していただいていたようです。

それは今から十年前に遡りますが、当時の組合の職員である高橋さんが、何かの折に「組合で預かっておきます」といわれたのを、思い出したからです。高橋さんは大変熱心な職員さんでこの方のお蔭でいろいろ教えていただきました。

高橋さんとの出会いは、中野十四日会が出来た時に組合の機関紙である「月報」(現 WOODS)に載せたいからと我が社に来られたのが初めでした。取材を受けたことのない私は戸惑いましたが、30分ほど話をし、高橋さんはメモして帰られました。十四日会を作ったことは、中野支部にはその総会でお話させていただきましたが、組合へは黙っていました。それが会員の一人が業界紙に書き、その流れで組合から引き合いがあったのでした。

1992年7月のことだと思います。8月号の月報に載ったのだと思います。9月の頭には、「年代別フリートーキング」の40代の部に借り出され、又練馬や豊島の若手会にも顔を出しました。(ほとんど飲み会だけですが・・・)その関係で組合のコンピューターソフト開発委員会の委員にさせられました。もっともこの委員会の委員に推薦された時はお断りしたのですが、当時の木村理事長から「人間のよい人ばかりを選んであるから来なさいと」言われ、受けました。

この委員会の事務方が高橋さんで、実にこまめに動き、また良く働いて下さりました。自身もよく勉強されていて、パソコンに関する知識もたいしたものでした。すでに50歳を過ぎていましたが、熱心な方でした。この委員会はその後、組合のCADシステム導入やパソコン通信,HPの開設、というところまで進んでいきました。がほとんど高橋さんのお力でした。

私の「ここを跳べ」はパソコン通信を組合が試験的に行っていた時にそのネット上に載せたものでした。これがなければ私が著作を持つということなどありえなかったので、その点感謝に耐えません。またその委員会で出会った方々との交わりが、「ここを跳べ」の中に随所に出て来ます。中野十四日会、新東京モック、とともにこの委員会、とりわけ高橋さんの存在が大きいのです。

高橋さんは組合を定年退職されて、数年で病気のためこの世を去っています。そのことを私が知ったので亡くなって一年近くなってからの事でした。
組合を去る前に「停年近くになって、若い人とこんなに楽しい仕事が出来て、嬉しい」と言われたのが印象的でした。今は私は55歳ですが、高橋さんと私が出あった時の高橋さん年もそれくらいだったと思います。月日の経つのは早いものです。

2007/03/19(月) 晴れ


[ 終の棲家 ]
終の棲家


私たちの終の棲家を作ってから早いもので三年が経ちました。延べ坪20坪の所ですから何でも詰め込むわけには行きません。が、基本的なところはクリアーできました。
8畳以上の寝室、ウォークインクロゼット、キッチンからテレビが見えること、14*16のユニットバス。内法で幅900ミリあるトイレ。3畳間ほどの庭。本物の床板。珪藻土の壁のある居間など。
今でも飽きがこないし、ペアガラスにしたことで寒さもあまり感じずに生活しています。壁に貼った杉の板材も色づいてきました。雨の日には玄関にある手作りのイスから青森ヒバが香りを出して出迎えてくれます。
チョコッとした工夫で住みごこちのよい住まいが生まれます。

庭のチューリップが咲き始めました。まだ3月半ばです。



2007/03/17(土) 曇り


[ woodwork ]
WOODWORK



御徒町にある材木屋が新しい家具屋を作りました。名前は「WOODWORK」。材木屋ならではの確かな素材にチャーミングデザインと実用性を追及した工夫をプラスし、ここにしかない家具を作っています。木のぬくもりと難しさを生かした家具の多くには無垢を使います。きっとあなたが驚くのはその感触。是非さわりに来てください。見上げるような背の高い木の扉がお店の目印です。

東京都台東区台東4−18−7
TEL 03−3833−2797


先日、「WOODWORK」さんから上記の案内状をいただいていました。3月3日にオープンしたばかりです。
HPはこちらから。


2007/03/16(金) 曇り


[ 材工で ]
材工で


今月号の「WOODS」には渋谷の光和木材の社長のインタビューが載っています。その中にポイントとなる話がありました。
「これからの材木屋は見積もり施工しないと駄目になるよ」と顧客の方から教えていただいてそれを実践しているという話です。
光和の社長さんは、一級建築士を兼ねている方ですので、このようなことが出来るのですが、見習わなければいけないと思った次第です。

新東京モックでは、自ら新築の請負をする方や一級建築士、二級建築士、宅建業者などの資格を持ち、それを商売に生かしている方も数多くいます。それと同じように言われた木材を売るだけでなく、一歩も二歩も踏み込んだ形で仕事を作っていくことが大事だと思います。

2007/03/15(木) 晴れ


[ 木材を売ること ]
木材を売ること


材木屋の地位の向上のために日夜取り組んでいる団体の一つに「新東京モック」があります。毎月一回定期的な会議を行って意見を出し合っているようです。

さて、材木屋が木材販売だけで成り立っていた時代は土台に始まり、柱や梁などそれぞれの大工さんのこだわりや材木屋及び施主の好みを反映して売っているものが違いました。フロアーは15ミリ厚のものしか売らないとか、ベイヒバの土台を中心に売っているとか、売るほうに特色がありました。もちろん売っている人も特色があります。「売りたくない人には売らない」など、私もその傾向を引き摺っています。
私の会社の特色は、柱は尾鷲材を中心に売っていたことと真壁の桧の柱材はお客さんと見に行って部屋ごとに番付を打って買ってきました。その分だけ利益を載せない販売方法でした。柱材の選択を私に任されてしまうことも多々ありました。私も若い頃は桧材が好きで柱は同じメーカーで揃えたり、節よりも目の詰まり方にこだわったりしました。

最も最近ではもうそういう世界はありません。構造にどんな木材が使われているのか、お施主さんが我が社なり、工場まで見に行く事は先ずなくなりました。多分もう三年くらいないと思います。あまり気にしなくなったということなのでしょうか。昨年新築したものはやはり値上がりの最中だったので予算が削られて行きましたが、柱だけは桧材を使っていただきました。お蔭で仕事はスムースに進みました。多少の失敗もあったのですが、勘弁していただきました。構造材も最近では見えなくなってしまうものが多いのですが、それでも強度だけでなく見た目の美しさであるとか、木の持つ香りであるとか、自然のものを総合的に受け入れてもらう事で感じてもらえると次につながるかと思います。

木材も完成すれば隠れてしまうものばかりになりましたが、隠れてしまうものにも気を使うのはやはり材木屋を長くやって来たからでしょうか。

2007/03/14(水) 晴れ


[ BATH工事から ]
BATH工事から

ユニットバス工事からリフォーム業に参入して、木材まで扱う事になった会社のことを先日の日刊木材新聞で紹介していましたが、売上げ金額から追って行けばお風呂やキッチン工事は金額が張るものですので、当然といえるでしょう。何でも一番金額がかかるものから入ることが大切です。木材業界も住まいが木造で建てられていた時代には、大工さんの請負金額の3割くらいが木材代金で、木材にいくらお金をかけるかがいい住まいかそうでないか、その基準になっていたと思います。総桧造りといえば豪華な住まいの代名詞になっていたのと同じです。現在になると、いくらのシステムキッチンを入れたとか、お風呂の機能性やトイレなど水周りにいくらお金をかけたのかが、豪快な住まいの判断基準になっているようです。その結果、予算からどうしても欲しいものを引いていき、残った中でその他の予算組みをしていきます。先日見積した住まいも、柱は集成材、フローリングは一番ポピュラーなものでした。55.2坪の立派な図面ですが、使用されるものは、首を傾げたくなるようなバランスの悪さです。もちろんここ半年で資材の値上がりは激しく、住まいを建てたいと思う方も何処を優先するか、何を捨てていくのか思案のしどころとなっている事も忘れませんが・・・
確かに工業化された商品はよく考えられていて利便性は高いと思います。自分の住まいを考えてもお風呂ではくつろげるし、キッチンも使い勝手が良いものになっています。それにプラスαして、木材が床や壁に使われているので余計に落ち着けるのだとは思いますが。

2007/03/12(月) 晴れ


[ 売れなくなったもの ]
売れなくなったもの

ここの所根太材が売れなくなったことを紹介しましたが、特定の木材しか売れず、木材の売上に占める割合が低下しています。
このため新たに木材を在庫しようという気にならなくなっています。もちろん売れ筋の物は仕入れていますが、在庫がなくなり次第仕入れなくなったものが増えています。例えば杉板。5分板や6分板、ヒノキの柱、ヒノキのフローリング。ヒノキの板。以前加工屋さんに出していたものは大工さんが自分で加工していただけるもの以外は新たに仕入れません。先週の土曜日にヒノキの集成柱の注文をいただきましたが、倉庫を整理していたら、真壁用の集成柱が出てきました。「十条集成材」のラベルがはってありました。今月の初めに高岡市へ見に行った所です。今で大壁用の柱ばかりで真壁用のそれは一年半前に製造を止めたとそのとき言われました。それが出てきました。年代物の柱です。もちろん使えないわけではありません。

ともあれ、木材は蔑ろにされています。


2007/03/11(日) 晴れ


[ 体力低下 ]
体力低下

55歳になると体力が低下するものだと実感しています。
力がなくなってきました。重いものを持つ力が減ってきました。毎日少しづつでも身体を使いつづけないと見る見るうちに落ちでおきます。
次に脚力の低下です。4階まで階段で材料を運ぶ仕事を週に1回の割合で行いましたが、4階まではきつくなっています。
逆に溜まるものは疲れです。週末になると朝起きられないほどに眠たい日があります。睡眠時間は十分摂らないといけなくなりました。
よく父が朝起きてトイレに行った後ですぐにもう一度行きたいと言い出すことがありましたが、自分もそうなりました。朝起きてトイレに行き、顔を洗っていると又行きたくなります。
なんでも経験しておかなければわからないことばかりです。若いときのようには働けなくなると思いますが、年令に合わせた仕事の仕方を考える年になったと思います。


2007/03/10(土) 晴れ


[ 根太材が売れない ]
根太が売れない。


このところの仕事は店舗やマンションリフォームが主なものです。改造の仕事もありますが、この間36*45の根太材が全く売れません。新築の見積も「ネダレス工法」のものばかりです。
マンションリフォームでは万協のフリーフロアーやフクビのそれになりました。エレベーターで上げるにしても階段を担ぎ上げるにしてもベニヤサイズのものは持ち運びに便利です。長い根太材が売れなくなりました。
又新たな見積も24ミリや28ミリの合板を使用したネダレスのものが好まれるようです。
また、90ミリ角や105ミリ角を大引に使いますが、束は鋼製のものかプラスチックのものに変わりました。その結果直材だけが好まれます。短く使うところがなくなり、曲がったものは使えるところが限られてきました。

木材も工業化されたものしか売れない時代です。



2007/03/09(金) 晴れ


[ 再見積 ]
再見積


このところの値段の変化で、一度見積ったものを再見積するケースが増えています。又見積るたびに値段の上がってくるものも多く、その都度単価を聞かないと私のほうもはっきりとした値段を出す事が出来なくなっています。
FAXで単価を問い合わせてくる人や直接会社に来て聞いていく方、もちろん電話もあります。4月頃になると思うけど値段は上がっているのか、とか、昨年秋に見積ったけどそれからどれくらい上がっているだろうかなどです。
私の会社の単価表を配った所もその値段ではもう出来なくなっている旨を伝えてあるので、電話での問い合わせが多くなりました。こちらも即答できない時も出ています。やはり聞いてからでない、こちらも不安です。値段は安定してもらう事が一番ですね。


2007/03/08(木) 晴れ


[ 十四日会旅行北陸篇 ]
十四日会旅行北陸篇



さる3月3日、4日の研修アンド親睦旅行です。
3月3日は、富山県高岡市にある製材工場を見てきました。


今日は(株)アプトシンコーヘ来ました。ここは赤松の下地材を製材している所です。

丸太を盤に製材しています。

30*40や20*40を製材し、選別をしています。

こちらが製品です。

3月4日は観光です。
石川県の那谷寺、福井県の東尋坊、そして石川県の兼六園です。


西国札所1番の那谷寺です。

祠に石仏をお祭りしています。

福井県の東尋坊へ来ました。

金沢へ行き、「兼六園」の見学です。

雪吊り

梅の花が満開でした。通常は3月の末だそうです。

霞が池です。

2007/03/05(月) 曇り時々雨


[ 風邪をひいてしまいました。 ]
風邪をひいてしまいました


この一週間風邪をひいてしまい、休んでいました。幸い、ここのところ仕事が忙しくなくのんびり出来ましたので体調も徐々に戻ってきています。

3月に入りましたが、予定していた仕事は決まらず、又今週は忙しくもないので今週末に予定している十四日会の研修旅行にも参加できそうです。

その研修旅行ではロシア赤松の製材工場を見学する予定ですが、どれくらい稼動しているのでしょうか。

材料は不足がちで又値上がりもしていますが、実需と結びついているものなのか不安感は隠せません。木材市場へ行っても良材は減り、又入荷しない傾向になってきています。その下のものが大量に入荷してだぶ付いて来ているように思います。良材は高値で取引されますが、その下のものはたたかれているようです。

2007/03/01(木) 晴れ


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[ 管理者:大野満生 ]


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