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時々更新mn日記

( 2005/04 ← 2005/03 → 2005/02 )


[ 城ヶ島 ]
城ヶ島



3月27日日曜日、天気が良いので出かけることに。行き先はいくつか候補があったのですが、あまり遠く出ない所がいいと思ったので城ヶ島を目指すことにしました。
中野から第三京浜、横浜新道、横浜横須賀道路、三浦縦断道路を使って先ずは三崎港へ。丁度昼になってしまったので、食事をとることになりました。ここへ来れば、やはり生ものを食べたいですね。そこで「魚音」という寿司屋に入り、握りと焼き魚に、鮪のユッケを食べてみました。みんな美味しかったですよ。同系列の「魚音本店」でキンキとサンマの干物を買い、次は城ヶ島です。

ここは小学校の遠足で訪れた以来です。灯台まで歩き、海を見ていたら、「太平洋の水が飲みたい」という馬鹿がひとりいて岩場を海岸線まで下りていきました。遠足の時はこの岩場でお弁当を広げて食べました。今回は二人して貝殻を集めて遊びました。彼女は目ざといので色のあでやかなものや変わった形のものを見つけ出します。ひとしきり遊んだ後、次に油壷マリンパークを目指しました。途中三浦大根や春キャベツを仕入れてきました。


40数年前の小学校の遠足。城ヶ島で昼飯。中央は青井君。

マリンパークに着いたのが午後3時半。水族館を見るには残り時間が少なくなってしまったので、近くの海水浴場へ。急な下り坂を降りるとプライベートビーチ風の小さな海水浴場があります。家族連れや釣りをしている人がまだいました。そこでしばらく遊んでから東京へ戻ってきました。大楠温泉に立ち寄りたかったのですが、時間が押してパスすることにしました。その代わり、杉並の高井戸にある「美しの湯」で日頃の疲れを取り、元気になって帰宅しました。




2005/03/30(水) 晴れ


[ 久しぶりに刻みが ]
久しぶりに刻みが


昨日から久しぶりに刻みが入りました。近所の仕事です。
大工さんにいわせると「これ(刻みが)が2週間もあれば、お互い楽なのだけれど」
ということです。
桁や母屋が10本、柱が12本。梁が3丁と云った所が構造材の全てです。南側にあった物干場を撤去して、一部屋作る仕事です。
下小屋に大工さんが刻んでいると活気が出ていいですね。工場生産は早く、安く、沢山を基本にしますが、下小屋での刻みは目の前で調理してくれる「家庭の音」がします。そういえば、下小屋で刻んでいる時に「施主を連れて来て進行具合を見せる」大工さんがいました。些細なことですが、安心感を与えるには良い事だと思います。私も「プレカット」で刻みを頼まれた時にはなるべく工務店なり、大工さんを工場まで連れて行くようにしています。



2005/03/29(火) 晴れ


[ 「いこいの湯」多摩境店 ]
いこいの湯


疲れたから日帰り温泉でも行きたいという私の願いを聞き入れてもらい、3月20日に「いこいの湯」多摩境店に行って来ました。ここは則子の友人に教えていただいた所です。豊島園の「庭の湯」か、高井戸にある「美しの湯」あたりに行かない?と彼女は言っていたのですが、私はいま少し遠出をしたくてここに決めました。

さてそれに先立ち先ずは府中にある「郷土の森」へ。ここはいまから5年半前に二人で訪れたことがあります。そのときは初秋。今回は梅まつりを見に来ました。
白加賀、おもいのまま、鹿児島紅、唐梅、紅千鳥、豊後、藤牡丹枝垂など梅の木の1本1本に名札がつけられており、一重や八重の梅の花に梅の香りが付け加わって目でも鼻でも楽しむことが出来ました。今年はすこし遅いのでしょうか、豊後などは満開でした。

3時を回る頃に「いこいの湯」を目指しました。ナビをセットして町田市を目指します。「町田市小山ゲ丘1−11−15」とナビをセットしても該当する住所が見当たりません、になってしまいます。ナビに入っている地図が古いのです。それでも多摩境駅周辺まで行き、電話をして場所を見つけ出しました。ナビ上では「道無き道を進んでいきます」

「いこいの湯」は源泉かけ流し。9種類のお風呂に二つのサウナ。あかすり、エステに、髪切り処まであります。私は寝湯に薬湯、露天のぬる湯に浸かって身体を温めた所で、お目当てのマッサージをしていただきました。すこし強い感じでしたが、疲れた身体を元に戻して帰途につきました。

お風呂は広々としているし、数も沢山あります。脱衣所と休憩所がすこし狭いのが難点ですが、一日何度も入る方なら十分楽しめます。




2005/03/23(水) 晴れ時々曇り


[ 月報委員会3月 ]
月報委員会3月


月報委員会に出るのも後数回になりました。今年は改選期にあたり、卒業予定です。ここ4年ほど出ましたが、あまり進歩がなかったのではないかと思っています。それでも比較的若い人が発言する機会が増え、委員会の進め方も変わり始めていると思います。

先月は木材や建材の価格に変化がかなりありましたが、今月はほぼ変わらないということで「価格の評定」はスムースに審議が行なわれました。

食事を挟んで第二部では、自由発言の形を取り、いまどんなことが必要なのか、発言を求められました。Uさんからはホームページの必要性が話されました。例えば会社案内的にホームページを持っていることにより、エンドユーザーとのつながりを持つことで材木屋をアピールしなくてはならないのではないか、といったものです。

私もこのホームページを開いてから多くの方々から、連絡を受けたり、一般の方から注文を頂いたりしています。2月には約5万円の売上げ、3月に入っても4万円強の売上げがあります。維持費が一万五百円ですから、足りませんがすこしは役に立っている感じです。2月の売上げの方はすぐ近くに(弥生町4丁目)住んでいた方でしたが、「こんな所に材木屋が、あったの?」言われました。そこは二十年程前まで、小学校の同級生が住んでいた場所でした。この地に父が材木屋を開いてから、十年以上経ちますが、認知度は低いのです。以前は職人さんが買いに来てそのつながりで、人との接点ができましたが、いまは職人さんを通してという部分がかなり減りました。

話がそれましたが、ホームページを会社案内的に開くこと。いろんな所からリンクできるようにすること。そこから始めて、材木屋を、その存在を知らせていきましょう。ちなみに、いま新東京木材商業協同組合のホームページからは「材木屋」「中野区の材木店」「組合」などのキーワードで私達を検索できると思います。一般の方も今すんでいる所の近くの「区」から材木屋を情報として取り出すことができると思います。



2005/03/19(土) 晴れ


[ 見積状況 ]
見積状況


見積が決まらない。
施主や大工さんから云われたことをできるだけ忠実に見積ると高くなってしまし、見積が決まりません。かといって仕事だけとって、後から追加するというのはやりたくないし、・・・

先日大工がマンションリフォームを見積った所、800万円になりました。予算は500万円だそうで、その差額の大きすぎるので当然の事ながら仕事はしないことにしました。以前は歩み寄れる金額に納まることが多かったのですが、昨年秋頃から差額は広がっています。どうすればその金額になれるのか、それはひとつの研究課題ですが、決まっても支払に苦労しそうだし、かといって仕事がなければ収入もないので、これを請負う大工さんは大変だと思っています。





2005/03/16(水) 晴れ


[ 材木屋の仕事 ]
材木屋の仕事


岩波新書の「日本の美林」という本を読んでいたらこんなことが書かれていました。第二次世界大戦後の戦後復興に続いて経済成長の始まったころのことです。

「戦後復興に続いて経済成長も始まった。工業・鉱業、土木、建築・住宅産業の発展にともなって、木材も急速に需要を伸ばしていく。・・・そこで必要とされたものは雑木林を構成していた広葉樹ではない。需要の多くは足場丸太、角材、板材など、真っ直ぐで均一な品質が揃う針葉樹だった。
針葉樹は不足し、高値を呼んだ1952年から1961年まで、十年間、一般物価はほとんど変化しない。しかし、木材だけは約二倍に高騰した。政府は、国内での木材増産に取り組む一方で、外材の本格的な輸入にも踏み切った。」(6ページ)

ここを読むと「ああ、そうだったんだ」と
思い当たることがあるのです。私の父は、1949年に材木屋を始め、最初の十年間で今の財産を築いているからです。(1964年の東京オリンピック以降はもう下火でした。最後に土地に投資したのは、1967年です。それから減ることはあっても増えることはありませんでした。私がこの商売に入ったのは、1976年。すでに石油危機を経験しています。)

父は時代に乗ったのだと思いました。それと同時に、この十年が異常だったのではないかと思うようになりました。

いま日本には成熟した森があります。杉や桧を中心とした森です。これを先ず使っていかないことには、もうひとつ次の時代が見えてきません。先日見学した松阪の「ウッドピア21」も現状から出発して未来を見据えています。規模はまだ小さいですが、その地域に根ざしたものを目指しています。このような考え方を広めていくのが当面の材木屋の課題だと感じています。そこでは、工業化された商品が一般的となる必要が出てくるでしょう。

今月の新東京木材の月報「WOOS」には新里木材の新里年伸氏の意見が載せられています。杉や桧の乾燥材を市場内に常備品として揃え、お客様である我々組合員に提供してくれています。心強い限りです。



2005/03/15(火) 晴れ


[ この所の仕事 ]
このところの仕事


3月に入ってから仕事が甘くなりました。例年なら動き始める所が逆に止まってしまいました。

そんな中でも屋根の葺き替え仕事がいくつかあります。屋根はお天気次第ですので、大勢で「わーっと」仕上げてしまうことが多いものです。屋根に使う材料は屋根垂木、野地板、破風板、広小舞などです。20坪くらいの屋根なら、二、三日で大工仕事は終了です。後は板金屋さんにバトンタッチです。

以前は野地板材は杉板を用いることがほとんどでしたが、十五年程前から「ベニヤ」になりました。ベニヤの方が貼る手間が簡単であり、その分安く仕上がります。

ところが、「ベニヤはいやだ」というお客さんに久しぶりに出会いました。重量鉄骨の二階建ての屋上はそれまで鳩小屋だったものを壊して屋上全体に切り妻屋根をかけたいと云う仕事の中でです。「外材もなるべく使いたくない」ということなので杉材を中心に使うことにしました。屋上に基礎を打ち、桁材も柱も母屋も杉材。屋根垂木は米栂でしたが、野地板は杉の13ミリ厚のものを用いました。

この仕事で一番大変だったのは荷揚げでした。屋上まで滑車を使って行ないました。桁も柱も90ミリ角にしてもらったので、すこしは楽でしたが、90ミリ角=40本。屋根垂木=50本。野地板=20坪分、などなど。私は屋上で引き上げる役でしたから、腕は痛くなりました。もっともこれを5回に分けたのですから、一回の量としては、驚くほどではないかもしれません。世田谷の上北沢の屋上からは新宿の高層ビルは見えませんでしたが、近所にある松沢病院の敷地が広大であることは理解できました。この仕事も雪や雨に悩まされましたが、もうすぐ目鼻がつきます。いまのところ20日間くらいかかっています。



2005/03/14(月) 晴れ


[ 親松竹次郎氏逝く ]
親松竹次郎氏逝く



元親松製材所の代表である親松竹次郎氏が、去る3月7日朝7時30分に眠るように逝かれた。92歳でした。

親松さんといえば、父親が商売を始めた時から、面倒を見ていただいた間柄で、木材のイロハから教えていただいた。爾来55年。10年前に私の母親が亡くなるまでは家族ぐるみの付き合いで正月の二日といえば、親松さんの家でご馳走になっていました。時代も変わり、母も亡くなってしまうと親戚付き合いが途絶えてしまいました。

親松さんは穏やかな方で、俳優で云えば笠智衆に似た感じです。この人に接し、話を聞いていると心が洗われます。肩の力が抜けて自分を素直にさせてくれます。私の結婚を誰よりも喜んでくれた方の一人でした。

また、ひとつの時代が終わっていきます。


2005/03/09(水) 晴れ


[ 衰退する商店街 ]
衰退する商店街


昨年の秋頃から一層経済状況が悪くなってきました。これを象徴するかのように近くの商店街でも閉店するお店が増え、「商店街」を云う呼び方がふさわしくないと思われるほどの歯抜け状態です。辛抱に辛抱を重ね、我慢しながら生き抜いてきた方々がどうにもならないと感じ取った結果だと思います。それほど小さなお店にとって先行き不安は募っています。

2005/03/08(火) 晴れ


[ 伊勢の旅 ]
伊勢の旅


3月5日から6日にかけて中野十四日会では「伊勢の旅」を企画し、親睦旅行を行なってきました。
先ずは、研修先である「ウッドピア松阪協同組合」です。松阪市木の郷町に午前11時半に着き、早速専務理事の望月三佐男氏から三重県の林業の現状、ウッドピアを作った経緯、協同組合の中味についてプロジェクターを使って説明を受けました。

三重県は県の65%が森林で、そのうち民有林が93%。人工林率も62%に及びます。樹種はほとんどが杉と桧。年間の生産量は桧で166千立米、杉で164千立米とのことです。ところで木材の価格は昭和50年を100とすると37.6%。国産材と外材の比率も昭和45年を境にして逆転し、今では国産材の占める割合は20%に届きません。
三重県では、成熟した森、木材需要の変化、外材主導の木材(KD化の進展)などから県内の市場を少しずつ纏めてゆき、ニーズの応える必要が出てきました。松阪市内でもいくつもあった市場を移転する必要に迫られ、一か所にまとめることになったのが「ウッドピア」の背景です。そのために41haの場所を確保し、町名も「木の郷町」と変え、「丸太から住まいつくりまで」一貫生産する体制を目指しています。その中心は杉や桧といった国産材がメインです。

その中味は
原木・製品の市売りを行なうウッドピア市売り協同組合。製品の検査や格付けを行なうウッドピア流通検査協同組合。製材品を作るグリーンウッドタクミ協同組合。内装材を生産するJスマイル内装材協同組合。プレカットの賃加工をする三重県木造住宅協同組合。中・小断面構造用集成材および、集成造作材の生産するウッドピア松阪グルーラム(協)。
ここまでは見学してきました。他には住宅販売を行うウッドピアハウス。木材の需要拡大を目的とした木の情報館スマッキ―があるとのことでした。

このような国産材の安定的な供給体制は全国初ということです。一か所に集めて木材コンビナートとして始動させた所が立派な所だと思います。

私の感想を正直に言えば、すこし物足りない気持ちがあります。考え方も立派だし、実行していることはそれ以上に大変なことですが、個別に見るとまだまだだと言う気持ちが多くなります。それは現在国産材がおかれている状況が非常に厳しいからだと思います。さらに云えば、十四日会で今まで研修してきた所のレベルが高かったのだとも思います。プレカットでしたら(株)トーア。原木からの製材やその製品の検査、乾燥では中国木材(株)。大断面集成でしたらセブン工業や日東木材工業。内装材でしたらマルホン。等々。

それでも多くの原木を見ることが出来たり、製品市場の中ではヒノキの香りが充満していたり、材木屋として原点に返るには良い場所を見学できたと思っています。説明をしてくださった望月さん。説明にあたられた工藤さん。ありがとうございました。


製品市場前にて

3時になり、ウッドピアを後にし、二見が浦を経て、今晩の宿である賢島の「宝生苑」へ向かいました。


宿からの景色


内宮

翌日、伊勢神宮(内宮)にお参り、おかげ横丁で買い物、さらに松阪の「牛銀本店」にてすき焼きをいただき、名古屋を経て全員無事に帰って来ました。早め早めの行動で何とか全工程を終えることが出来ました。これも会員各位の結束力の賜物だと思っています。





2005/03/07(月) 晴れ


[ 旅立ちの春 ]
旅立ちの春


巣立ちの春か、旅立ちの春か知らないけれど、甥も姪も大人になってしまった。いつのまにかである。時の流れの速さは子供の成長で感じることができる。私には二人の甥と姪が一人いる。姪は一足速く勤めを始めたが、甥二人が今年の春から社会人になることなった。そこで伯父さんとしてはたいしたことは出来ないけれど印鑑を作ることにした。実印に使えるものを、である。それぞれの個性に合わせて三種類を作ってみた。
ささやかなプレゼントである。


2005/03/04(金) 雪


[ 3月になって ]
3月になって

3月になって「旅想」の第16号が届きました。
以下は、16号の旅想に載せた飛騨に行ってきた話です。


飛騨へ


2005年の正月旅行として下呂温泉を選びました。下呂温泉の湯にふたりして浸ろうというのです。のんびりしてこようというのが第一の目的でした。私の自宅から中央高速を使うと約300キロ。東名経由で行くと350キロあります。近い方を選びました。二人して出かけるときは世間も休日の時ばかりですので、いつも渋滞しています。ところがこの日1月3日はそれもなく、東京を9時過ぎに出て、談合坂、諏訪湖、駒ケ岳とこまめに休憩を入れても午後3時前に下呂に着きました。宿に入るには少し早いということもあり、下呂温泉合掌村に足を踏み入れることにしました。ここで旧大戸家住宅を見学し、足湯に浸かって来ました。



宿に着きましたが、まだ早いので温泉街を散歩することにしました。数日前に降った雪がまだ解けずに残っていましたが、温泉神社に始まりビーナスの足湯、鷺の足湯まで行き、酒屋を探しながら、ひとつ上の道筋を歩きながらの帰り道に「雅の足湯」「足湯の里 ゆあみ屋」に出会い、すぐ隣がはじめの温泉神社でした。結局足湯には浸かりませんでしたが、どれくらい熱いのかを手で確かめてきました。「ゆあみ屋」さんではアイスクリームを食べながら浸かるという人が4、5人いて気軽に入れる足湯がこの地でブームでした。

今晩泊る「さくらや」は民営の国民宿舎で建物も古く、エレベーターもない所でしたが、お湯は優れものでしばらく入っているとお肌がすべすべになってきます。女将さんの話によると岐阜県で温泉が出るのは「平湯と下呂」だけだそうで後は冷泉なので沸かさないと入れないとのことでした。食事もこの宿にインターネットで申し込むと「飛騨牛が付く」との話でそれも楽しみのひとつでした。夕食は肉から食べ始め、おなか一杯にして休みました。

翌日、ゆっくり目覚め、ひと風呂浴びて出発です。今日は高山を目指します。カーナビの指示にあるときは従い、あるときは逆らって進んでいきます。国道41号線を北上していると「旅想」で読んだ「臥龍桜」を思い出し、標識に従って見に行くことにしました。飛騨一ノ宮駅前にそれはありました。雪が降ったあとの花の咲いていない桜の木ですが、枝振りがはっきり表れていて「龍が寝そべった形」に納得してきました。もっと広々とした所にあるのかな、などと想像していましたが、写真だけではわからないものです。


(左奥が臥龍桜)

さていよいよ、高山到着です。高山陣屋のすぐ近くの駐車場に車を入れ、そこのおじさんに「飛騨牛食べるなら、どこがいい?」と聞いて見ましたら、「洋食だけどキッチン飛騨なら美味しいよ」と教えられ、昼飯はそこを第一候補に上げて、先ずは散策。宮川を渡って古い街並みを歩きました。みぞれ交じりの雨が降ったり止んだりする中、上三乃町をメインに一巡りしてきました。造り酒屋や味噌屋の店先で写真をとり、気にいった店に入っては何か良いものはないかと漁ってきました。午後1時を楽に回ってしまったのでおなかを膨らますことにしました。


遅い昼飯はやはり「キッチン飛騨」にしました。120グラムの飛騨牛の「ミニランチ」をカウンター席でいただきました。玉葱を炒める、その上に肉を乗せ蒸す、別のフライパンに肉を移し、以前のフライパンにバターを敷き、肉を移し変え塩、ワインで味付けして最後にニンニクを塗って蒸して出来上がり。そうすると表面が焦げず中までしっかり火の通った「ミディアムレア」のステーキの完成です。美味しく食してきました。


(高山陣屋前にて)

食後の散歩は高山陣屋です。ここで飛騨の歴史を勉強してきました。時計は既に3時過ぎになっていましたが、私にはどうしても行ってみたいところがありました。飛騨古川市です。去る11月の「旅想」の集まりで中島・井上さん姉妹が「いい所だった」と言っていたのが頭に残っていたからです。車で古川に向かい、駅前の観光案内所で古い街並みがどのあたりにあるのかを聞くと、駅から余り離れていない所にそれはありました。早速そちらに向かいました。飛騨まつり会館から古い街並みの方に歩いてゆくと二軒の造り酒屋がありました。またNHKドラマ「さくら」の舞台となった「和蝋燭屋」さんもあり、外から眺めてきました。あまり時間もないので帰ろうと思ったのですが、則ちゃんが写真を撮っている人がいるから、そちらの方に回ってみたらと言ったので向かうことにしました。そこには小川が流れており、瀬戸川と名前が書いてありました。小川は白壁土蔵を片側に持ち、川に平行して道が続いています。そこにあった碑にはこんな文句が書かれていました。
「町川泳ぐ 鯉に藤咲く 飛騨古川」
普段は鯉が泳いでいるとのことでしたが、寒い時期は別の場所で保管されているとのこと。静かな佇まいは大人が散策するのに丁度良い感じです。箱根で聞いた話のとおりでした。最後に「起し太鼓の蔵」で「ドーン」と景気付けをしてこの街を後にしました。

翌5日には妻籠宿、馬籠宿へ足を運び、中津川インターから高速に乗り無事帰宅しました。




2005/03/02(水) 晴れ


( 2005/04 ← 2005/03 → 2005/02 )


[ 管理者:大野満生 ]


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