[ホームへ] [他の月を見る]


時々更新mn日記

( 2005/02 ← 2005/01 → 2004/12 )


[ パソコンが直りました ]
パソコンが直りました。


昨年の末頃からインターネットやメールが時々使えなくなり、さらに1月の11日にノートンのインターネットセキュリティーを入れた頃から、外付けのドライブも使えなくなりました。原因を調べてもらうと、前者はルーターが古くなり、故障している事。後者はインターネットセキュリティーと相性の悪いソフトが原因とのこと。それぞれ対応してもらい、やっと直りました。今日から正常に動くと思います。

昨日、30日には、私は中新整骨院で治療を受け、夜の9時には就寝。夜中に目を覚ましましたが、今朝は定刻の6時半まで寝ていました。お陰で一日元気で過ごしています。思えばこの二ヶ月間、休みらしい休みも取らずに、仕事に遊びに精を出しすぎました。疲れがたまっていることはわかっていながら。なかなか落ち着いて休息を取ることが出来ませんでした。久しぶりに良く眠って回復基調になりました。昨日までの台詞が「疲れた、眠い、バテた」だとすると今日は「すこし動けるかな」というくらいの回復ぶりです。

もう一月も終了です。目の前に起こったことだけに対処しているだけで一日がくれてゆきます。



2005/01/31(月) 晴れ


[ 五十年を顧みて(大野治輔小伝) ]
五十年を顧みて」(大野治輔小伝)



出版元 二葉株式会社
昭和二十八年発行

目次
第一章 少年時代

故郷吾野村
上京

第二章 共同印刷時代

精美堂の給仕となる
第一計画「十代で学問を」
社長付き給仕となる
第二計画「自己完成と経営学」
第三計画「独立資金の蓄積」
営業係のエキスパート

第三章 二葉経営二十年
第四章 健康法
第五章 家庭
第六章 将来への抱負



本書は二葉株式会社社長大野治輔氏の口述を筆記敷衍したものです。著書は大野氏の親友である増尾信之氏です。出版されたのは昭和28年。今から52年前の話です。

私はこの本をいつか読んでみたいと考えていました。大野治輔氏は出版界においてひとつの時代を築いた方で、私にとっては大叔父にあたります。父は材木屋になりましたが、その弟達三人は同じ業界に身をおきました。私も恩恵を受けていますが、そのひとつが大相撲です。国技館の桝席で初代若乃花の引退相撲を見せていただいたのもこの大叔父さんのお陰でした。

治輔氏は1903年4月に埼玉県飯能の吾野という寒村に生まれました。三年前も、二十年前も、五十年前も何もない所でしたから、百年前はもっと何もない所だったと思います。父は波蔵、母はも登。兄弟は11人で、上から重文、省三、治輔と続きます。

治輔氏は幼い頃から学問で身をたてて教師になる、そのために師範学校に入りたいと希望しますが、その願いは形を変えてゆきます。すこし長い引用ですが、7ページに下記のようにかかれています。

「高等小学校に入学した年の正月に、大野は川ひとつ隔てた本家へ遊びに行って、当時東京の精美堂印刷所の会計課長を勤めていた、現在の共同印刷の専務取締役武藤安五郎が年賀に来ているのにあった。
大野は師範学校への入学がかなえられないならば、せめて東京へ出て苦学してでも上級の学校へ入学したいと思っていたので、早速武藤の勤めている印刷所への就職を依頼した。
その希望がかなえられて、東京から精美堂印刷所への入社を許すという通知がきたのは、もう大野が高等小学校二年に進んだ年のくれに近い頃であった。」
(注=本家波蔵の兄、大野清次郎宅。武藤安五郎=波蔵の母親は武藤サクといって青梅の成木の出です。武藤安五郎さんはサクさんの親戚としか、今の所わからないのですが、年賀に来るくらいですから、サクさんの兄弟の子供ではないかと考えています。この方が治輔氏を引き上げてくれたことになります。)

長男重文が徴兵検査に、次男省三が麹町の米屋に奉公に出た年に、治輔氏は上京します。14歳の冬のことです。
「当時、共同印刷はまだ、精美堂印刷所と博文館印刷所の二つに分かれていた。大野はその、精美堂印刷所の給仕として住み込んだのである。社長は当時の貴族院議員で。博文館社長大橋新太郎の義弟にあたる大橋光吉であった。」

この大橋家で住み込みの書生をしながら、治輔氏は三つの計画を立てます。
第一計画「十代で学問を身に付ける」
第二計画「二十代のうちに自己完成をし、事業経営の方法を実地についてまなぶこと」
第三計画「二十代のうちに独立資金の蓄積」

治輔氏は23歳のときに宇之津千代子さんと結婚。26歳の時に共同印刷の営業に回されます。
「昭和4年、26歳の時彼はその営業係りとなった。しかし、新しく係りとなったものは、その得意を自分で開拓しなければならぬ制度であった。しかも、当時の東京印刷工業組合の協定で継続的に刊行している定期刊行物の得意は。互いにその権益を侵さないという規約があった。そこで大野は出版物以外の分野に新得意を開拓せざるをえなかった。
彼は商業印刷物に着手した。その頃、映画がレコード会社とタイアップして、その主題歌をレコードに吹き込むことが流行し始めていた。彼はその映画会社、レコード会社の宣伝印刷物の大量受注に成功し次いで、フォード自動車、東京電気、亀甲万、ヒゲタなどの会社からも続々と注文を取り、たちまちのうちに共同印刷における営業係りのエキスパートになってしまった。
ここで大野は、30代で独立できるという確信を得た。・・・昭和7年小石川林町の小学校の前に、文房具店で居抜きのまま譲るという家があった。・・・彼は早速ここを借り入れることとし。十数年に及ぶ大橋家や共同印刷の生活に別れを告げてそこに移転した。
その文具店に居を移してからも、大野は寮にいた時代と同様に、その日に注文を取ってきたものは、妻の千代子を相手に12時になっても、1時になっても、割付を終わって、翌日は一番に工場へ出勤して印刷に回した。『その日の仕事は、その日のうちにしてしまう』という大橋光吉の生活信条を身に付けていたのである。」

「昭和9年、31歳の時に大野は独立した。当時日本全国には約一万五千軒ほどの印刷工場があった。大野はそれらの最も低い所から発足し、五十代までには日本で第4位の印刷工場になろうと固く心に誓った。」
共同印刷、凸版、大日本印刷の三社は当時の印刷業界では群を抜いており、自分一代ではとても到達することはおぼつかない。そこで第4位の印刷工場になることを目標したのである。」

以後治輔氏自身の努力に重ねて先輩や友人からの援助や「運の良さ」に恵まれて50歳を迎える頃には最盛期をむかえたのであります。

戦争中に住まいが焼けなかったこと。印刷工場の大半も残っていたこと、運がよいと思います。戦後焼け出された私の祖父や父、叔父達は小石川の家の真向かいにある「八百梅」さんの2階に疎開していたそうです。父が二葉書店を手伝っていたのもその頃の話です。八百梅さんは大野梅三郎といって飯能の方だそうです。地縁血縁が人の生き死にに大きく影響するのだと思います。この本を読んでいてもそういう感じがしています。縁を大切にしましょう。


最後に篠田食料品をご紹介しましょう。
ここは大野治輔、千代子夫妻が新婚旅行で銚子にいった際、買い求めたのは始まりで、私も以前このお店の鰹の佃煮や秋刀魚の佃煮を送って貰いました。良心的な作り方をしている所だと思っています。






2005/01/24(月) 晴れ


[ かなりの一週間 ]
かなりの一週間



同志社大学の西村卓先生のホームページを見ていたら、日記をHPに掲載することが出来ないくらい忙しくなって、○月△日どこに行ったか、何をしたのか、羅列してありました。それに習って、ここ10日余りを記すと

1月10日、デパートに買い物。夜杉並テニススポットでテニス。
1月12日、夜テニス。
1月13日、父入院。淳一成人お祝い。二人で初めて飲んだ。
1月14日、白川建設株式会社ならびに白栄会新年会。
1月15日、宇治に島先生を訪ねる。
1月16日、松阪から、伊勢内宮を回って帰宅。
1月17日、無尽新年会。
1月18日、義母来宅。
1月19日、八王子へ配達。
1月21日、八王子へ配達。夜テニス。

遊んでばかりですが、かなりハードな日々でした。
今日は朝から、誰もお客さんが来ません。請求書を書き始めたら一人見えました。今月は休みばかりでしたので、売上げは期待できません。材料の仕入れもそれほどないので苦しくはないと思いますが・・・
確定申告の用意もし始めました。パソコンの調子も良くありません。

またたく間に時間が過ぎてゆきます。一日が短いです。のんびりしているのは妻といる時だけです。



2005/01/22(土) 晴れ


[ 島先生宅を訪問 ]
島先生宅を訪問


1月15日、宇治にある島先生宅を島ゼミ第五期の卒業生が新年の挨拶に伺いました。今回は上園、星野、猪股、西、黒田、大野の6人でした。

先生は一昨年から大病をし、病気を療養しながら島ゼミを続けていましたが、今年の3月をもって退官することを決められました。島ゼミ35期生が卒業するのと同時に、ご自身も「卒業」されるとのことでした。

島ゼミといえば、第一期生に小島衣料の小島さんがいます。先生が主催する「寒梅会」の会長を務められています。第2期生から5期生までがいわゆる「大学紛争」と云われる時期と重なっており、先生自身も多くの思い出がおありでした。私どもの回生は入学した年の6月に学校が封鎖され、授業がなくなりました。4回生と1回生は優先的に授業を受けられるように配慮されましたが、9月からは全く授業がなくなりました。私はサークルに入り、サークル活動をはじめたので多くの友人とめぐり合いました。2回生の後期からゼミが始まり、島ゼミへ入りました。3回生の時にも学校は封鎖され、授業も少なく、ゼミへの参加も積極的でなかったように思います。みんなの記憶をたどっても授業の記憶はほとんどなく、「どこへ飲みにいったか」が中心でした。
私は当時体調を壊していたので「静」、「樽」、千中の縄のれん。などしか記憶にありません。祇園「一力」の裏の「やまかぜ」など知らずに過ごしました。ちょっと残念。
「飲み代、払った記憶あるか」
黒田君の一言
「せんせい 払ったんやろか」

当時私の仕送りは月3万円。下宿先に部屋代+夕飯付きで16500円。残りが生活費。1回の飲み代に支払ったとしても1000円くらい。でも支払った記憶がない。島先生が払っていたのかな。

とのあれ、島ゼミ5期卒業生は全部で28人。その中でとりあえずの住所がわかっているものは14名。「山田洋次」という人もいるそうですが、全く記憶にありません。

昨年参加したメンバーによると昨年の夏には1時間半ほどの訪問でしたが、今回はそのときよりも体調が良く、二時間半ほどお話をしてきました。私は先生の元気な姿をみることが出来たので安心しました。京都駅で新年会を行い、解散しました。


先生宅にて。星野氏撮影。


今出川校舎の向かいにある喫茶店「わびすけ」
1970年当時の面影をそのまま伝えています。
写真は星野氏提供。



2005/01/17(月) 晴れ


[ 2005KEIICHIRO青春の軌跡 ]
2005KEIICHIRO青春の軌跡


1958から1961
「KEICHIRO AKAGI MOVIE STORY」
と副題にある。赤木圭一郎のデビューからその死に至る3年余りを彼が生きた時代とともに振り返る作品です。

構成は
赤木圭一郎が日活の第4期ニューフェースとして入社以来、仕出しと呼ばれるチョイ役でスクリーンデビューした数々の作品を年代順に紹介する。
そのときの時代背景や映画界、特に日活の状況を描き出す。
映画監督や脚本家、ライバルや友人、共演者のインタビューを多用する。

このことによって赤木の全貌に迫った意欲作です。赤木が活躍した時代は短いですが、スクリーンの中の赤木と普段の赤木の両方を知ることが出来て気持ち良く見ることが出来る作品です。一昨年6月に調布の日活撮影所での「赤木圭一郎を偲ぶ会」主催の集まりで赤木の親友だった杉山俊夫さんのお話も載っていてよく出来ていると感じています。昨年暮れに購入し、既に三回ほど見ました。





2005/01/13(木) 晴れ


[ 明けましておめでとうございます ]
明けましておめでとうございます


新年明けましておめでとうございます。今年はカレンダーの関係で仕事始めが7日になりました。が、またすぐあとに連休もあり、11日からが本格的に仕事始めになりそうです。

さて、今年の年賀状には「厳しい世の中」であるとか「厳しい時代ですが、頑張りましょう」などといった言葉を書いてきた方が多いのが目立ちました。実際に厳しい世の中になっているのだと思います。30年近く働いてきて、その結果良い世の中を作り出せなかったと思うと、何か情けなくなってしまいそうです。

私の仕事は住宅資材を売ることですが、その中でも今年はやはり木材を売ることに力をそぎたいと思います。この人に対して害がなく、そればかりか有益な物質である木材を、です。

昨年来の自然界の反乱、あるいは自然の人間に対する警告に対して、人間が自然の一部であるというあたりまえのことを知るとともに、人間が自然と協調して生きていくための手がかりを木材を通して考えてゆきたいと思います。

本年もよろしくお願い致します。

2005/01/08(土) 晴れ


( 2005/02 ← 2005/01 → 2004/12 )


[ 管理者:大野満生 ]


- CGI-Island -

Thanks to CGI-StaTion & 手作りCandy