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時々更新mn日記

( 2004/03 ← 2004/02 → 2004/01 )


[ 改造も細かく一部に ]
改造も細かく一部に


2月も終わりが近づいている。時節柄アパートの人の入れ替えが多い。そのせいか、このところアパート改造の仕事ばかり。それもほんとに細かくなっている。アパートの直しでも見積の段階では床・壁・天井にお風呂にトイレと部屋全体を見積るけれど、いざ改装する段になるとその一部で済ませることが多くなった。出来るだけお金を掛けないで賃貸に持っていくようだ。
例えば、天井の水漏れの所だけテックスやボードを張り替えたりする。穴をあけた所に天井点検口をつけ、9.5ミリのボードを張り、その周りと少し違うクロスを張って仕上げとした。一昨日は和室の6帖を1部屋だけ洋間に変更した。当初他の2部屋も見積ったが、そちらは後回しになった。
台所の床をめくったら、クッションフロアーが4層に張り足してあった現場もあった。壊せばゴミになり、捨てると5万円とか、2万円とかがかかる。壊す手間を省き、捨て代をカットするには「上から張る」のが手っ取り早い。
最近のリフォーム工事や新築物件でも下張り用のベニヤを先に張っておき、仕上げ材を上張りするのが多くなった。12ミリ厚の床板でも良いし、6ミリか7ミリくらいのリフォーム用のフロアー材も仕上げ材として用いられるようになった。
ただ、こんなことばかりしていて良いのだろうかという気にはなる。仕事は素人仕事。材料もお金も掛けない。これでは住環境は良くならない。でもそれに流されている。







2004/02/28(土) 晴れ


[ 展示会 ]
展示会

(株)ジューテックの展示会が2月21日、22日の両日、池袋はサンシャインビルの中にある文化会館の4階で開かれていた。22日、時間にゆとりがあったので行ってみた。
入口を入ると、クリナップ、ナスステンレス、ヤマハ、サンウエーブ、タカラ、INAX、松下電工、東陶機器など水周り商品が並ぶ。私たちは昨年末からショールーム通いをしたので、見慣れたものが多かったが、こういう水周りの商品が売上げの主力であると感じてきた。
昨年一年間の売上げをみても売り上げの上位に来るのはプレカット加工、サイディング材工、マックスルーフ(屋根材)材工、床暖房工事、ユニットバス工事、システムキッチンなどであり、利益率は低くても売上げにはなるし、それにつれて材木を納める事ができるので、そのようなものを取り扱っていかないといけないと思っています。

今回、見てきて面白かったのは(株)サメジマコーポレーションで発売している自分で塗れる珪藻土薄塗り材「リターナブルパウダーライト」でした。自宅の壁の一部に珪藻土を用いましたので、珪藻土のよさは実感している所なので、ご興味のある方はこちらまで。

http://www.samejima.co.jp





2004/02/24(火) 晴れ


[ 月報委員会15 ]
月報委員会15


今月の月報委員会は2月18日に開かれました。二月も半ばだというのに仕事が始まらないという方が多く、価格の評定もベニヤ類にやや変化が出たくらいで、大きな変動はありません。一番新鮮だったのは、下町にある東京材木商組合の価格評定委員会の資料をいただいた事です。
当組合でも価格表があり、その変化を、その動きを月報委員会では審議する事が多いのですが、「材商」さんにも同様のそれがあり、その表を初めて見ました。評定する品目や内容は少し違いますが、標準小売価格が出ています。
新東京のそれとつき合わせてみると、面白いと私は思うのですが…

又本日、「材商」のHPを見ていましたら、新木場の「流通市」のことが載っていました。興味のある方はご覧下さい。

流通はどんどん代わっていくという感じがします。


http://www.jutakuichi.com/ryutsuichi.com/
新木場流通市の特選街です。





2004/02/20(金) 晴れ


[ 2月19日は ]
祖父省三(しょうぞう)のこと

私の苗字は言うまでもなく「大野」です。これは父方の姓であり、祖父の出身地は現在の埼玉県飯能市中藤になります。祖父の名は省三といい、1901年生まれです。小学校を卒業すると米屋に丁稚奉公に出され、二十歳のとき(大正11年)に中野区城山町に八百屋「八百省」を出しました。米屋は元手がいるということで手っ取り早い八百屋になったと聞いています。22歳で父が生まれ、それから十年で「八百省」を大きな店にしました。ところが第二次大戦下の戦時統制で廃業に追い込まれ、また戦争で焼け出されたため、家も家作もほぼなくし、二つ残った土地のうちの一つに父が材木屋を開業しました。昭和24年のことです。そのとき祖父は48歳。今の私より4つ若いのです。その後の祖父は、材木屋である父の手伝いをしたり、丸通(今の日通)で電話帳などをリヤカーに乗せて配っていました。

私は50歳の時の孫ですから、祖父が55歳を過ぎるころからの記憶はたくさんあります。77歳でこの世を去るまでの内エピソードを二つあげておきましょう。
ひとつは堀コタツに座った祖父の姿です。6帖間の真中に炭で起こした堀コタツがあり、テレビが真正面に見える定位置にいつもいました。大相撲が好きで、テレビを買ったのも早かったと思います。(私も祖父の家で見たのがテレビの始めです。)食い入るようにテレビを見る祖父の左にはサントリーレッド、右には一升瓶が置かれ、相撲が終われば一眠りして夜中にビールを2本というのが定番だったようです。つまみは関根商店の豆腐に大石製麺店のうどん。(これが美味いんだ。)

今ひとつは76歳の時の夏。暑い盛の夕方、スイカを二つ買って両手にぶら下げ川島通り商店街から帰ってくる途中に祖父は転びました。スイカを守っておでこがパックリ。救急車で運ばれ入院となりました。そのときのスイカは、祖父の目から見て美味しそうなものだったに違いありません。八百屋の目になっていたのだと思います。祖父はその入院後からめっきり衰え、翌年の2月19日になくなりました。命日が同じ人に野呂栄太郎という人がいますがこれは余談。
その祖父も若い頃は一生懸命に働いて32歳まではお酒を飲まなかったといいます。父もそのこと意識して33歳まで飲まなかったといいますが、私は10代からたしなんでいます。
そんな祖父の名誉回復のために名言集を載せます。「労働は神聖なり」「お天道様と共に起きて働くものが一番偉い」言葉の言い回しは違っても良く聞かされました。また、「女の子一人は早く無くしたが、男4人が大きくなって大野を名乗ってくれているのが嬉しい」といっていました。

さて、私も大野を名乗っているとルーツを知りたくなったり、「大野」と書いてあるだけで親近感が沸きます。先ずは大野で有名な人は大野伴睦でしょうか。彼は岐阜の人でしたが、私の身近にも有名な人がいました。祖父省三のすぐ下の弟の治輔です。治輔さんは製本業界ではかなり有名な人です。書店から始まって印刷業や製本業で大成功を収めた人です。父も戦後すぐの時期に手伝いに行っていたことがあると聞いていますが、叔父さん3人がお世話になっています。が、私は直接的にお会いしたのは少なくて残念なのですが、この大叔父さんのことはいつか調べて書いてみたいと思っています。

また、大学に通っている時には井上幸治さんの「秩父事件」を読み、「天長様に敵対するから加勢しろ」と言った大野苗吉は親戚かしらと調べたことがありましたが、秩父市の北東10キロにある風布村の苗吉と南東10キロの中沢では、直接的なつながりは見当たりませんでした。山深いのです。
祖父省三の父は波蔵といいますが、その両親は井上文蔵、武藤サクといい両養子です。今度は井上さんの方もあたってみると面白いかもしれません。

ともあれ、今日は祖父の命日。26年間なんて「あっという間」ですね。



2004/02/19(木) 晴れ


[ 2班の会合 ]
2班の会合


2月12日には中野支部2班の会合が中野駅の南口にある三河屋で開かれました。この集りも昨年1月の忘年会以来です。7人全員が時間どおりに集って開始。
忘年会の事に始まり、仕事の話。まず閑な事。これには全員参っています。収入のメインが不動産業に移りつつあること。大工・工務店も付き合いがドライになってきて、必要な時にだけ「材木屋」を利用しようとしていること。例えば、昨年暮の耐火ボード不足など基礎資材が不足した時に1600枚予約されたところは、「這いわかりました。用意しましょう」といった形で品物を確保しておいたのに、今年になって資材不足が解消し始めると、「半分はよそで取るから、半分はキャンセル」といったことが横行している、といった話でした。「そんな人は相手にしないんだ」
と声を荒げる人もいましたが、私も気持ちは同様です。

しかしながら安いほうへ、便利な方へ、人が流れるのは必然です。売上げ確保に仁義なき戦いを繰り広げているのも確かです。その果てに「世界は一つ」が待っているのでしょうか。今叫ばれている「食の危機」と同様に安いや便利ばかり追及しているとしっぺ返しを食らう時が来ると思います。私も心して何を扱うべきなのかを考える時期に差し掛かっています。国産材の売上げを伸ばしてみたいですのですが・・・



2004/02/14(土) 晴れ


[ 色々な事があります ]
色々な事があります



2月6日の事。1本の電話が入りました。電気検針員の女の方からでした。「若宮のアパートの方は引越されましたか」「今月の電気の使用量が今までの半分くらいなので・・・」と。
そこの部屋には70才を過ぎたおばあさんが一人で暮らしていました。おそらく30年くらい住んでいると思います。歳をとり働く所も無くなって、生活保護を受けるようになっていました。他に行くところもないのでおいてほしいと頼まれ、二年に一度の更新時には「二年経ったら退室します」という誓約書を書いてもらい、その一方で中野区の生活援護課の方と連絡を取り合い、病気になった時などの対処の仕方を相談していました。それが約二年前の事です。

昨年秋に「来年の3月で更新期間がきますが、どうされますか」と不動産屋さんから連絡がありました。そこでアパートを訪ね、話し合いをしてきました。「身体も元気だし、ここにおいて欲しい」といわれ、私も後二年くらいはいいかな、と判断したので携帯の番号を書いた名刺を置いてきて、その折、区役所の方はきますかと聞いた所、前の方は親切にしてくれたけど、担当が代わったとのこと。早速区役所に連絡をとり担当者と電話で話をしました。それが昨年の10月の末だったと思います。

2月6日に連絡をもらい、早速不動産屋さんの担当の方に連絡して、同行して部屋の中を見たいと告げました。「それは明日とか、明後日ですか」と言われたので、早いほうが良いと言いましたら、では「7日の11時に現地で」
翌朝になって、私の様子がおかしいので「私も行こうか」と則ちゃんが言ってくれたので助かりました。段々悪い想像しか出来なくなってきていたのです。現地に着くと不動産屋さんが待っていました。挨拶を終えると早速階段を上がり、名前を呼びました。返事がないので鍵を開けてみました。部屋は片付いており、布団が二つ折りになっていました。いないのでホッとした時、不動産屋さんから「トイレは?」と声をかけられました。そちらも開けてみると誰もいません。「どこかに行っているのかな」と私が言うと、「このトイレかなり使っていませんね」と不動産屋さんが言う。則ちゃんが新聞の日付を見つけると1月の半ば。

そこで隣りの部屋の方に聞いてみると「体調を壊して入院されているようですよ」と。「近所の方が食事を持ってきてくれたりしていました」とのこと。今度はその世話をしてくれた人の所に寄って見ました。不動産屋さんがアパートの方のことをお聞きしたいのですが、声をかけると女将さんは先ずは意外な答えをしました。「亡くなられたのですよ。1月の終わりだったかしら」「去年の暮から体調を壊して階段を上がる事が辛くなったので、家の主人が食事を届けていたのですよ」「1月の14日に救急車でK病院へ、その後T病院へ。再びKに戻ってそこで亡くなられたとのこと」「地元の民生委員の方が付き添っていただいた事」を聞かせてもらいました。そこで今度は民生委員の方を訪ねる事にしたのですが、生憎留守。区役所も休みだったのでその日はここまでで終了しました。

翌日日曜日になって再び民生委員の方に電話を入れましたが、留守でしたのでどのような事情で電話をしたのかをFAXしておきました。夜になって電話があり、その方が知っている事を聞かせていただきました。地域の中にいる民生委員の方が説得して救急車を呼んでいただいた事に始まり、転院した事。1月28日に亡くなったとの電話を受けたことを教えていただき、区役所の方が後の事はしてくれるだろうと言って電話が終わりました。

月曜日の朝、区役所に連絡をとりましたが、担当の方は既に仕事で外出していました。そこで戻ってきたら連絡をいただきたいと言いおいたのですが、連絡がありません。二度ほど連絡をとった時にまだ戻っていないといわれたので上司の方に電話口に出ていただくことにしました。詳しくは担当でないとわからないのですが、といいながらも転院の時には救急車に添乗したことを話してくれました。
翌日区役所に電話をして担当の方をお願いしたいと申しましたら、面談中とのこと。今日一日は区役所内にいる、と言っていたので昼頃になって電話をするとどうやら時間が取れそうとのこと。そこで「これから行く」と告げて区役所を目指しました。

担当者は背の高い方でした。住人の方の病名や御骨の行き先、部屋の鍵は、荷物はどうするのかなどを話し合いました。病気は助かる見込みの少ないもので手術も拒否したとのこと。部屋の鍵は区役所の方が持っていました。御骨は親族の方が引き取りましたが、仏壇を含めた荷物に関しては引き取りを拒否した事を教えてもらいました。親族の方の住まいはと聞いた所、「それは教えられない」との事。葬儀はどこでされたのか聞いた所、そちらは教えていただきました。
大家さんには「一段楽したら連絡しようと思っていた」と付加えられたのですが、少し遅すぎる。

さて、葬儀を執り行った所に電話をすると2月2日に荼毘に付されて、御骨は親族の方が引きとったとのこと。追求はここまでとなりました。
荷物は今月の末までに区役所の方が整理すると言ってくれました。亡くなられた方は保護を受けていたくらいですからお金は持ち合わせていません。身近な親戚もなく、電話もなく、陸の孤島で暮らしていました。亡くなられた方には気の毒ですが、地域の方々のお蔭で人知れず亡くなるという最悪の事態は防げました。改めて横の繋がり、地域の大切さを感じています。

歳をとり、ひとり暮らしになる人はこれから増えるでしょう。あなたがそうなったらどうしますか。




2004/02/13(金) 晴れ


[ 昔の名前で出ています ]
昔の名前で出ています


わたしは昭和44年に高校を卒業しました。昨日その時の友人と久しぶりに再会したのです。

一人は気象庁に勤める井手さん。今一人は銀行マンの森くん。森くんとは彼が杉並区和田に住み、私が中野新橋に住んでいた関係で、地下鉄の最寄駅が隣り。待ち合わせをして通った中です。彼の田舎である富山県に一緒に行き、立山にも登りました。中学二年の夏だったと思います。

さて、井手さんとは高校卒業以来。森くんとも手紙のやり取りはありましたが、今度が三回目。18年程前に一度と10年程前に一度。今回、新宿の居酒屋で待ち合わせをして「わかるかな」などと思っていましたが、そういう心配は全くありませんでした。人間基本的なところは変わらないものだと感じました。

私たちが通った学校は早稲田中学・高校といって中学から入った私たちは6年間、のんびりと過ごしました。井手さんと森くんは図書委員会で一緒。私は歴史研究部だったのでつながりは少し違いますが、今年の年賀状に森くんがメールアドレスを書いてくれたので「一度飲みましょう」と送った所、すぐに返事が来て今日に至りました。森くんの人脈から井手さんをチョイスしてもらい、三人で飲むことになりました。森くんと書き、「井手さん」と書くと変に思われるかもしれませんが、中学の時からどこか老成した感がある井手さんには当時からさん付け。だから井手くんとは呼びにくいものです。

話は近況から家族の事。そして同級生の事へと発展しました。出世頭はダントツで「久多良木 健」だろうけど、みんなそこそこで目立たないように生きていて、社会の真中にいて世の中を支える方にいる。今この歳になって早稲田中学に通っていた恩恵を受ける事が多くなったと話し合いました。縦のつながりもありがたいと校友会の幹事をしている井手さんが言っていました。

その井手さんが「オオノ マンセイ」居たねと居酒屋に入るなり握手を求めていた時に忘れかけていた昔の名前が甦りました。「満生」を音読みして「マンセイ」と呼ばれていた時期があったのです。髪の毛の量と色はかなり変化していても、気持ちは15歳です。次回4月3日の再会を誓って新宿を後にしたのです。





2004/02/10(火) 晴れ


[ 今回の住まいの特徴 ]
今回の住まいの特徴


計画の段階
今回の住まいは老後を視野に入れた50代の夫婦がどんな住まいに住みたいかを考えて作り始めました。先ず、数十年ここに住むつもりで計画を始めています。そのためできるだけ段差をつけず、フラットに作ること。第二に不要と思った設備はつけない事。具体的には床暖房はしない。第三に自然素材を多用したい。第四にそれとはやや矛盾するが、普段自分が販売しているメーカーの製品がどれくらいの水準にあるのかを確かめたかった。例えば建具材は松下電工の一番安いシリーズである「WX」というレベルのものを用いたが、これがどれくらいの年月に耐えられるものなのか身をもって体験したかった。

間取り
65平米の大きさの建物に70平米の建物は入らない。65平米にふさわしい大きさは自ずからある。お風呂、トイレ、洗面所にキッチン。それに寝室とリビング。マンションリフォームは何をあるいはどこを優先順位として作るのかを決めていかないと計画倒れになる可能性が大きい。私たちの場合、寝室とトイレが離れていない事。キッチンからリビングが見えることが第一だった。

工事の実際。
今回は篠原工務店様に解体から施工までお願いした。「常用手間」というかかった日数で手間賃を払うというやり方である。これの良い点は無駄な経費が掛からない事である。これが出来たのは篠原工務店の社長自身が大工だからである。だから、大工さんが施工しながら、「ここはこうした方がいいのでは」とか提案してくれるし、私たちも初めの図面から見るとかなり変更している。後から変更した所は建具のドアの巾を大きくしたり、壁の中に埋め込みの収納を増やしたことである。逆にクローゼットはシンプルに棚板だけに抑えた。大工さんの提案もあってデットスペースを最小限に出来たと思っている。このように施主が毎日現場に通い、進行状況を見ながら工事をする人と話し合って作り上げられたのが私たちにとって満足感のある住まいに仕上がった理由だと思う。
大工さんは職方に信頼されている人だと仕事がスムースに進む。「何時までに仕上げてください」とか「明日来てください」と大工さんが号令を掛ければ、そのとおりに動くし、人を手配するのは上手です。

完成して思うこと。
住まいつくりは一生に一度あるかないかの大仕事です。自分たちで自宅を作ってみてそれを一番感じています。気を抜かないで仕事に気持ちをこめる事が大事だと思います。大きな音を出して怒られたこともあります。電源を切ってしまい一時停電も経験しました。幸い、前の家から電源を借りる事も出来、無事停電も乗り切れました。胃の痛くなるような思いを経験したので、これからに活かすことができると思います。

住んでみて
住み心地は良いです。
杉の香りがかすかに漂っていて、温かみもあるし、足の裏は適度に刺激を受け、壁を手で触るとすべすべ感が気持ちよいです。

いま少しこうすれば
反省点もあります。もう少し考えればよかったと思うのはコンセントの位置です。「スイッチはいま少し下げ、コンセントはいま少し上げれば良かった」と思っています。自分を基準にしてもコンセントは床から50から60センチくらいの所のほうが年を取ってから着脱が楽なのでは、と思います。本では読んでいたのですが、実際になると忘れてしまう事がかなりあります。
仕事は流れ作業なので、それを滞らせると高いものになります。施主の方がイエスノーをはっきりさせ、どんどん決めていかないと住まいは完成しません。見えなくなってしまうところは「後から直す事が大仕事になる」ので隠れてしまうところに気を使ってください。

5年経ったら
今回の住まいが5年経ったら、そんな風に変化しているのか、楽しみです。壁に釘を打ちつけても良い家。塗装を最小限に抑えた家。後からベンチを付け加えたり、少しずつ自分達好みになっていきます。先ずは初めの一年間を経験したいと思っています。



2004/02/05(木) 晴れ


[ 住み心地は快適 ]
住み心地は快適



引越しから一週間がたち、片付けもほぼ終了しています。
私たちにとっても私にとっても初めての住まいです。50代半ばにして初めて住まいを持ちました。感激はひとしおです。
部屋に入ると杉の香りが仄かにして空気が柔らかく「森の中に住んでいるようです」。
「都市の中にもう一つの森林を」という有馬孝禮先生の提言を肌で感じています。もともと「シンプルに作りたい」「余計な設備もいらない」と始めた住まいつくりでしたが、杉の床材は暖かく。目でも温かみが感じられ、これなら床暖房は要らないと思います。寒がりの私があまり寒さを感じない住まいになりました。

今回、いろいろな人々に力によってすばらしい住まいが作られましたが、私なりに気に入った所をいくつか挙げておきたいと思います。

先ずはやはり「木」でしょう。寝室に使った杉板材は厚みが30ミリあり、表面の木目を見ていても木の持つ深みが感じられます。又、コンクリートの梁をタモの集成材で覆った所も木が見えて落ち着いた感じに仕上がっています。

次はリビングの壁です。珪藻土(富士川建材製)は表面が平で左官屋さんの腕が試されました。栗田工業(有)の武田さんによれば「押さえが利かない」と言っていましたが、仕上がりは見事です。

続いては電化された商品群です。人感センサー付きの玄関照明やトイレット。自動お湯はりのお風呂に、IH調理器。便利になったと思いますし、それを今は享受しています。電化された生活を送るようになると昔の生活には戻れないでしょう。

ともあれ、先端のものと昔からのものがマッチして落ち着ける住まいになりました。









2004/02/02(月) 雨


( 2004/03 ← 2004/02 → 2004/01 )


[ 管理者:大野満生 ]


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