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時々更新mn日記

( 2003/07 ← 2003/06 → 2003/05 )


[ 転機 ]
転機




52歳になった。52歳という年は私にとって大きな転機になると思う。
それはひとつには身体の転機であり、二つには仕事の転機であり、三つ目には心の転機である。

体力の低下は甚だしい。頭の中で想像していたより遥かにがくんと体力が落ちる。始終身体を動かしていないと現状を維持できない。今まで持てた材木が重いと感じられるようになった。荷物を持ちながらの階段の上りがきついと感じられるようになった。そこで一日30分くらい材木を移動させながら一汗かく事にしている。
生きることは常に動くことからしか生まれないと感じている。50歳からテニスを始めていて良かったと思う。まだ、週に1回から2回しか出来ないが、体力の低下防止にはかなり役に立っていると思う。

ふたつには仕事の転機である。材木屋となってから四半世紀が経つ。その中でもここ数年の景況は経験したことがない。物が売れない、木材が売れないのである。ここ十年を取ってみてもそのことを見越して、不動産業をメインに置きながら木材業を営む形態をとってきた。木材が売れなければ、より住宅に近づき、新建材や住宅機器あるいは工事物件をこなしながら、工務店業やリフォーム業に踏み込んで木材を売ることに励んできた。それは社会的使命感からである。木材が自然の生成物であり、人間はその恩恵を受けてここまで来た。日本であるならば、「木の文化」という形で受け継がれている。それを途絶えさせてはならない。森の中に入って美味しい空気を吸うように、住まいに自然のものを使えば自宅にいながら森林浴を味わえる。今これを書いている場所は築40年の賃貸アパートの一室である。節だらけの柱が見え、塗り壁でこれといった特色のない木造住宅であるが、光は入ってくるし、窓を開ければ自然の風が爽やかだ。(自動車の音も一緒だけど)この部屋が落ち着けるのは「木が建って見える」ということだと思う。最近賃貸で貸していたマンションが空いてしまい、ここを利用して自宅をつくろうかと考えている。

最後に心の転機である。一番目と二番目に大きく関わっているが、50代の前半は、自分のこともしたいし、できる年になった代わりに、親のことや子供のことも面倒を見なくてはならない。仕事も雑用が多く、それを断れないので増える傾向にある。そのように毎日を送っていると一日一日が瞬く間に過ぎ、自分は何をするために生まれてきたのか、何をこの時代に残していけばよいのか、何が残せるのか、思い悩むことが増えた。一人の人のために生きていくのが基本だが、その人を幸せにするためにもまた健康で仕事をしなくてはならないのである。だけど結婚してよかったと思っている。心の悩みが二人なら解決できるからである。





2003/06/30(月) 晴れ


[ 米寿 ]
米寿


6月21日、土曜日は梅雨の晴れ間でたいへん良い天気でした。この日、南柏にある「日本閣」で松本玉恵さんの米寿を祝う会が催されました。
則子の母親である松本玉恵さんは大正4年6月25日、町田藤三郎さんとなおさんの8番目の子供として埼玉県比企郡川田谷に生まれました。兄弟姉妹の名前は、上から「兼好、くれ、まつ、道雄、美佐、美好、安子、玉恵」です。

お母さんは末っ子で、他の兄弟姉妹のすでに他界しております。しかも88歳まで生きた人もお母さんが初めてとの事です。そのこともあり、玉恵さんの連れ合いである松本武治さんの兄弟や親戚に加え、町田さんの関係者も数多く集っていただき、総勢で29名という豪華さでした。町田さんの参加者はお母さんにとっては甥や姪、またその子供達ですので小さい頃に良く遊びに行ったとか、職を世話にてもらったとか、お世話になったことや交流の深さが披露されました。女縁は助け合いの精神が強いと感じてきました。

挨拶に立った玉恵さんは「こうして元気でいられるのも松戸で同居している兄と凉子さんお蔭であり、万歳したい気持だと」語り、実際に万歳をしてくれました。二年半前に軽い脳梗塞で倒れ、そのときにお見舞いに来ていただいた方々はベッドに横たわる玉恵さんしか見ていませんでしたが、折角だから「少し歩いてみようか」という則子の薦めもあって来客者のテーブルを歩き、皆さんから「歩けるんだ!」と感嘆の声。元気な姿を披露し祝賀会は無事お開きとなりました。
お義母さんはまだまだ元気です。



参加者全員で記念撮影


お母さんと一緒





2003/06/26(木) 晴れ


[ 月報委員会10 ]
月報委員会10


6月18日、月報委員会に参加してきました。5月に役員が改選され、新たに委員に任命された方も多く参加してくれました。新東京モックや情報化の委員会で一緒に勉強していた仲間が委員になり、自分も二期目に入りました。
さて、今月の委員会は7月1日に施行される改正建築基準法のことをまともに受けた会議でした。特に建材の場合、価格の評定に取り上げる品目自体に変化がおきています。どの商品を載せるのか、新しく出来たF☆☆☆☆の商品はまだ未入荷のものも多く、値段もはっきりしたものが出ていない状態です。ましてこれまで流通していたものを数多く抱えるメーカーや問屋はこれらを売り切ってから新しいものに対応しようとしています。このような状態の中での会議となりましたが、F☆☆、F☆☆☆、F☆☆☆☆が混在する現状と7月以降のある程度将来をも見通した場合、価格評定に取り上げる品目を何にするのかは大事だと思います。出来ればそれらを一覧表にして月報委員なり、組合員なりが判断する材料を公開していくことは、組合自身が活性化していくためには大切なことのように思います。
情報を公開して数多くの頭で考える習慣を作ることで、今の閉塞状態を突破する風穴を見つけ出すことが出来ると思います。

さて、今日は暑かったですね。梅雨の合間の晴れ間で、思っていたよりも忙しく安くて重たいものをいやと言うほど運んできました。汗はびっしょり。でも則ちゃんの入れてくれた麦茶のお蔭で咽は癒され、心は穏やかでした。

話は変わりますが、このホームページへのアクセス数が1万を超えました。見ていただいた皆さんに感謝いたします。これからも自分の周りの情報を中心に発信していきたいと思っています。






2003/06/19(木) 晴れ


[ 身体つくり ]
身体つくり


6月13日、スポーツ指圧の「ユア」に行ったら、だいぶ腰は張っていますねといわれた。指圧を受けながら、先週は静岡へ、その前は山形へ。その前がつくばへ、などと話をしていたら、立石寺で階段を上ったのがこの痛みの元になっているのかと思い始めた。奥の院まで1000段ほど上り下りし、バスや新幹線で移動。戻ってきてからタルキを35束ほどかついでから、痛みが始まったことを思い出した。
いつも材木を担いでいる時には、こんなことはなかったが、たまにしか動かなくなったからだろう。コンスタントに身体を動かすことが身体に良いものであるのかをここへ来て感じている。思えばテニスを始めたのも脚力や腕の力が落ちてきたのをカバーしたいという気があった。これはかなり成功したと思う。テニスを始めて良かったと思っている。

普段から材木を担いでいると知らず知らずの内に体力が出来、一汗流すと気持も落ち着いてくる。毎日というのが大切なのだろう。これからも続けたい。

さて、昨日は新東京木材商業協同組合が池袋市場を使って市場開放するお祭りである「い木い木ふれあい祭り」の第一回目の実行委員会があった。昨年に引き続き今年も行うことが決まった。10月18日の土曜日の予定である。微力だが、若人に混じって進んでゆきたい。少しだが自分を前に押し出してみようと思う。



2003/06/18(水) 晴れ


[ さよなら「新三日会」 ]
さよなら「新三日会」



東京も梅雨に入りました。じめじめした感触は嫌いですね。毎年何となく疲れが出やすい時期です。

さて、今日13日から始まる予定だった仕事が延期になりました。大工さんが腰痛になったためです。この大工さんは仕事が上手く重宝がられていました。ここの会社が急に忙しくなり、だいぶ無理をして仕事をこなしていたのですが、ダウンしてしまいました。

一般的にですが、ここの所少しずつ仕事が出てきて、大工さんを探しています。我が社に来てくれている大工さんもだいぶ年配になり、お呼びがかかる人は限られてきました。若い大工さんは何処でも使ってくれるのですが・・・

ところで先週の金曜日、6月6日に新東京木材豊島支部の「新三日会」の「さよならお食事会」に行って来ました。19年前に当時の若手が作った集まりで176回の会合を持って終了となりました。当日は、ご夫妻で見えた方も多く、付き合いの親密さを窺い知ることが出来ました。
当時の若手も社長となり、組合の役員となって活躍をし始め、当初の若手の親睦という目的を達成したので今回の解散となったということです。残念な気もしますが、同じ人達で組織を運営していくのは難しいですね。その点練馬支部の「二十人会」は45才定年制をしき、知恵あるを感じます。

私どもの「十四日会」はどうでしょうか。だんだんと若い人に力点が移ってきて、又新しい人が入ってくることによって会が活性化し、会員が楽しく過ごせればいいなと思っています。この不況を乗り切るためには、仲間は大切です。







2003/06/13(金) 曇り時々雨


[ 母の田舎へ ]
母の田舎へ



母の田舎へ父をつれ、則子と三人で出かけてきました。母の田舎は静岡県の富士宮市にあります。富士山が大きく見える所であり、気候は温暖で暮らしやすい所です。
母は8年前に他界していますので、父がこの地を訪れたのは、10年より前になるかと思います。5年程前に父が入院していた時には、母の兄弟が何度か入院先にお見舞いに来ていただきました。その頃の父といえば、脚が弱り、一人で起きてトイレに行くことがかなり難しく、お見舞いに来ていただいた時にはもう歩けないのではないかと思われていました。それから4年経ち、杖なしでも歩いている姿を見せることが出来、「おう、元気になったなあ」と言われるようになりました。

母は7人兄弟の5番目。上から通称、「シタテヤ」「白糸」「上野」「大中里」「中野」「北山」「小平」と呼び合っています。私の所は「中野」。中野区に住んでいるのでそう呼ばれています。「上野」が長兄で直接の本家。先ずは「北山」に寄り、3年前に亡くなった伯父さんのお墓参り。その後、叔母さんを乗せて「上野」の家で昼食をご馳走になり、(特に生の桜海老が絶品)昔話に花を咲かせ、続いて「シタテヤ」でお線香を上げた後、今年三月に脳梗塞で倒れた「白糸」の伯母さんのお見舞いに。この伯母さんは私の母より、ひと回り上の86才。リハビリ病院へ転院しており、思ったより元気で安心しました。則子の母も86才で倒れましたが、今は元気ですので、リハビリをきちっとすれば一人で歩けるようになります。

伯母さんの顔を見て、安心した後、「北山」の家へ。そこでのんびり夕飯をご馳走になってから中央道を戻ってきました。父を連れて久しぶりの遠出でしたが、父も思ったより楽だったらしくて、又、今度は自分の田舎へ行きたいと行っていました。




伊東家の玄関前で。



2003/06/08(日) 晴れ


[ 山寺へ、米沢へ ]
山寺へ、米沢へ。




白栄会の旅行で、山形県に行ってきました。6月1日、2日のことです。昨年の長崎に引き続いて今回も参加させていただきました。

6月1日朝、山形新幹線で山形駅まで行き、チャーターしたバスで「立石寺」へ。
ここは松尾芭蕉の句
「しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲」
で有名な所です。

台風4号の余波もあって、あいにくの小雨の中、傘を差しながら、山門から歩き始めました。ここは山全体がお寺だそうで、私どもが行ったのは山寺から奥の院までのごく一部です。それでもそこに行き着くまでに階段が1015段との事。とりあえず足腰の鍛錬をしてみました。石段を登り始めると途中から身体が熱くなり、上気していくのがわかりました。肌寒いくらいの陽気でしたが、汗びっしょり。私は下へ降りるとバスの中でシャツを着替え、身体を冷やさないようにしました。気持ちの良い汗をかくことが出来、多分これがご利益なのだと感じてきました。

続いて山寺の参道で昼食をとり終えると、かみの山に向かい、「さくらんぼ狩り」を楽しみました。まだハウスものでしたが、脚立に登って上の方の甘そうなものをかなり頬張ばりました。品種はほとんどが「佐藤錦」。入場料1200円は安いものです。

バスに乗り込んでしばらくすると大雨になり、外にいるときでなくて良かったね、一同胸をなでおろし、バスは宿へと向かう。今夜の宿は上の山温泉の「古窯(こよう)」。大きなホテルで従業員は若いお姉さんばかり。焼き物の絵付けをする所もありましたが、今ひとつインパクトに欠けるかな、などと一人前の口を聞いてみます。不足はないけれど、「これは」というものが感じられませんでした。

さて、翌日は米沢へ移動して先ずは「東光酒蔵」へ。このとき仕事の電話が入ってしまい、それにとらわれて、見学もそこそこに、段取りをしていました。幸い、則ちゃんが留守番をしてくれていましたので、大過なく過ごせましたが。

続いては「上杉神社」へ。ここでは「おしょうしな」ガイドがついて案内してくれた。「おしょうしな」は山形の言葉で「ありがとう」という意味との事。このガイドさん70歳は過ぎているおじいさんでしたが、よくしゃべる、歩くのが早い。今はボランティアでガイドをしていますが、以前は教師で、今でも上杉家ゆかりの団体などへ講演に行くという方。たいへんな物知りでした。上杉神社は米沢城の跡に建てられた所であり、藩祖上杉謙信が祭られています。また、米沢城は伊達政宗が生まれた所であることも教えていただきました。そしてこのガイドさんが一番力を入れていたのが、中興の祖といわれる上杉鷹山。鷹山については皆さんがインターネットで調べてください。ここでは、「伝国の辞」と呼ばれる藩主としての戒めの言葉と有名な句を掲げて〆とします。良い旅でした。そういえば、内村鑑三著の「代表的日本人」にも上杉鷹山のことが書かれてあります。

「伝国の辞」
1=国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
2=人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
3=国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

鷹山が前藩主重定の子治広に家督を譲った時に送った言葉。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となったとのこと。

有名な句。
「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成さぬは人の 成さぬなりけり」



松尾芭蕉の句の前で。


上杉鷹山の銅像の前で説明をする「おしょうしな」ガイドさん。

2003/06/06(金) 晴れ


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[ 管理者:大野満生 ]


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