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時々更新mn日記

( 2001/08 ← 2001/07 → 2001/06 )


[ 谷澤多榮さんと松本佳美さんの結婚式 ]
谷澤多榮さんと松本佳美さんの結婚式


結婚式というと自分の時を思い出しますが、7月28日には、若いカップルである多榮さんと佳美さんが横浜のセントジェームス迎賓館で結婚式をあげました。佳美さんは則子の姪にあたり、則子譲りの可愛い人です。私にとっては松本家の公式のイベントに初めて二人して招かれました。レースのウエディングドレスが
とても美しく映えて清楚なすばらしい花嫁姿で、ピンクの御色直しのドレスも可愛くお人形さんのようでした。





二次会、三次会と参加しておまけに夜は横浜で一泊。


次の日は、みなとみらい21にある「コスモワールド」で大観覧車に乗って横浜を120メートル上から見てきました。揺れも少なく私でも乗れました。





2001/07/29(日) 晴れ


[ 父親誕生日 ]
父親誕生日


7月25日は父大野喜平の78回目の誕生日である。その日の朝、屋上の芙蓉の赤い花が咲いた。
さて、それに先立ち、去る22日には、外食したいという希望を入れて、新宿の「ねぼけ」に行ってきた。ここに来るのはおそらく5年ぶり。窓際の席を用意していただき、外の景色を見ながら会食。
かつおのたたき。天然鮎。ごりの天ぷらに、棒寿司に酒少々。ゆっくり、美味しく食べて帰ってきました。
何が美味しかったと私が聞くと、鮎と答えたのですが、則子が聞くと「鰹のたたき」との事。鮎は最近食べたからとのこと。
とりあえずこんな感じで。




2001/07/25(水) 晴れ


[ トランペットの花三つ ]
トランペットの花三つ


屋上にあるトランペットの花が三つほぼ同時に咲きました。鉢に三本並んで植えていて、19日の夕方テニスに行く前に見に行ったら、もう少しで咲きそうだったので、家に帰るとすぐに屋上に行ったら、三つとも咲いていました。この花は一日でしぼんでしまうし、風にも弱いので、咲いている時間が短いのです。そのため、今回はチャンスとばかりに写真を一枚。


また翌朝になって全開の所をパチリ。でも20日の夜には萎れていました。しかしまた続きが咲きます。楽しめます。



2001/07/21(土) 晴れ


[ 手摺り工事 ]
手摺り工事


7月20日は、則ちゃんのお母さんの住む松戸の家の手摺り工事をしてきました。父の家もそうですが、高齢者が住む住宅には、自分の足で活動するために手摺りなど、つかまる所が必要です。お母さんも足の動きがまだ十分でないので、手摺りがあれば、自宅で自分の身の回りの事が出来るので、今回の工事となりました。
張替さん親子に御願いをして、一日で9ケ所ほど付けていただきました。これからしばらく手摺り工事も増えることと思いますので、その節はご相談ください。

設置以前


設置後


特別参加の直くんです。



2001/07/20(金) 晴れ


[ 月報委員会2 ]
月報委員会2


先月に引き続き、今月も18日には、新東京木材商業協同組合の月報委員会に参加してきました。この委員会は理事会の下にあり、支部間同士の交流や「WOODS」という機関誌の中に入っている「木材・建材の単価表」を作成することが主な仕事です。木材や建材の中には、相場で動くものがかなりあり、値段は時価が基本です。このところ仕事が少ないので、相場としては弱めです。
この組合は、山の手地域の木材市場であり、ここがなくなると私のところの商売にも影響が大きくあります。それも手伝って、市場や組合を盛り上げていこうと思っています。(たいしたことは出来ませんが)
先月のときには、初参加ということもあって、勝手がわかりませんでしたが、毎年同じ課題に出会って、進展の無いままに過ぎていく感じです。そこでいま少し発言の出易いような仕掛けを作ろうと思いました。9月の委員会までには、少し目に見える形にしたいと思います。
なお話は変わりますが、9月の18日にはこの委員会も協賛して「お宝市」というのをやるそうです。材木屋さんの倉庫に眠っている「今なら貴重な品物」を組合員から提供してもらい、セリにかけます。さてどんな商品が出品されるのか楽しみです。この結果は新東京木材商業協同組合のHPに載せる予定との事。まだ先の話ですが、結果を楽しみにしていて下さい。

なお、新東京木材商業協同組合のHPはこちら。

http://www.zaimokuya.or.jp/

2001/07/18(水) 晴れ


[ 7月17日は ]
7月17日は


7月17日は石原裕次郎の命日である。昭和62年のその日は夕方から雨になり、妙正寺川の水位は上がり、土手から1メートルのあたりを行き来していた。私は、妙正寺川沿いに住んでいた妹の所にいた。夜十時過ぎ、帰りのタクシーを呼んでもらい、その中で、石原裕次郎が亡くなったことを知った。
そのタクシーの運転手さんは、石原裕次郎より、大映映画の方が好きだったらしく、本郷功次郎のほうが「はるかにいい芝居、してましたね」と話してくれた。私には、そのようなことはどうでもよく、昭和のスターも亡くなってゆくのだな、という感慨だけが頭の中を回っていた。
私とは17才違うから物心ついた時には、すでにスターだった。別格だった。カッコ良かった。だが、それはリアルタイムではない。どちらかというと、「噂」で聞いていたという範囲になるかもしれない。
だが、家のすぐ近くにいた小林栄一君は4年ほど先輩だったが、慎太郎刈りの頭で石原裕次郎のかっこよさを話してくれた。昭和35年から40年頃(中学生)の話である。
その後私は、赤木圭一郎のファンとなり、「清水の暴れん坊」や「鉄火場の風」で裕次郎の姿を見ていたが、のめり込むということは無かった。
やがて大学を卒業し、裕次郎の中年ぶとりが話題になる頃、テレビの深夜放送で、邦画や洋画がたくさん放映された。その中の一つとして、裕次郎映画があった。
「喧嘩太郎」や「青年の樹」「天下を取る」などのサラリーマンもの。浅丘ルリ子と共演した「銀座の恋の物語」「憎いあンちくしょう」そして「風速40米」「錆びたナイフ」「勝利者」「嵐を呼ぶ男」「狂った果実」「太陽の季節」「俺は待ってるぜ」(以上北原三枝と共演)などなど。
中でも左ききの殺し屋を演じた「赤い波止場」は裕次郎の持つ「甘さ」「明るさ」を上手く伝えていて好きである。


2001/07/17(火) 晴れ


[ 小山隆 ]
小山隆


小山さんは同志社寺代の一年先輩である。だから友人というには語弊があるかもしれないが、すでに故人となられている事もあり、あえてこの言葉を使う。
九段高校から同志社に入り、卒業後は教師として正義感あふれる熱血教師として頑張っていた。
小山さんといえば思い出すことがある。クラブ対抗の野球があって、いくつかの組が出来たとき、「大野が来たのか。大野が入ったんじゃ負けだな」といわれ、事実その通りになった。
2回生の終わりに小山さんは歴研の幹事長になった。それまで目立たない存在だったので、「勤まるのかな!」などといううがった気持ちを持っていたが、杞憂だった。幹事長を引き受けてからどんどんたくましくなった。人間はかっこよく成長するものだと教えてもらった。主役を張れる「華」のある人だった。
率直で正義感の強い人で、その分利口に立ち回るなどということは出来ない人だった。それは後年まで続く。

1970年当時こんな唄があった。
「青年の瞳は美しい それは希望に燃えているからだ。
青年の瞳は美しい それは澄み渡る青空のように 
平和と自由をこよなく愛するからだ」
この歌を聞くと小山さんを思い出す。この唄のように光り輝いていた小山さんを思い出すのである。かっこいい人だった。
小山さんは大震災の年の1月8日に亡くなられ、通夜告別式は河内長野市のメモリアルホールにて行なわれた。46歳だった。あと一週間生きて、阪神大震災を目の当たりにした時、小山さんなら「どんな感慨を持っただろうか」
死後5年。私も小山さんと同じように髪に白いものが目立つようになった。

2001/07/15(日) 晴れ


[ 坪井義典 ]
坪井義典

「もう十年経ったのか」
不思議な感慨に駆られる。坪井が亡くなったのは、1991年1月23日のことだった。その前年から体調を壊し、入院加療中であったことは聞いていたのだが、死に至る病とは想像だにしなかった。
話はさらに二十年遡る。1971年4月、自分と似た雰囲気の人間と出合ったと感じた。吉田素子さんを真ん中にはさんで、坪井と私の三人は今出川のキャンパスを歴研の木の下から歩いてきた。おそらく通りを隔てた向かいの「わびすけ」か「トリオ」あたりに向かっていたのだろう。それは行きつけの喫茶店だった。
どんな話をしたのだろうか。今となっては思い出すことが出来ないが、「青春の熱弁」の渦中にあったことは疑いない。
シモンズが好きで、チェリッシュが友達で。ドラゴンズのファンで。名古屋弁で。いつも早口でしゃべっていた。そのスピードのままの人生だった。39歳での死は無念という言葉以外に見当たらない。だから私はすぐには死ねない。
彼の死後、「追悼文集」を仲間達が作った。今回読みなおしていて、「ほのぼの」するものがあった。彼は人に多くの笑顔を記憶させている。
「あんたはエライ」「おさえて・おさえて」という合いの手が上手い話。名古屋に知人が来ると市内観光に連れて行くといいながら古本屋回りをした事など。「ああ。そうだった」と想い出すことばかり。
もう十年経ったのだね。
自分にも楽しい思い出を残してくれてありがとう、坪井。





2001/07/14(土) 晴れ


[ 則ちゃんに聞いて見た所 ]
則ちゃんに聞いてみたところ


菊地桃子が出ている「トステム」のCMを見たことがありますか。材木屋さんの感覚から「いまさらなんで低ホルムなの?」という疑問を持った方がおりました。そこでそれについて普通の人である則ちゃんに聞いてみたところ、「低ホルム宣言」自体もまだ一般の人にとって馴染みの少ないものなので、他のメーカーに先駆けてCMを流したのではないか、ということを言われました。
例えば、このCMについて「トステム」では、
「安心もトステムの品質です・・低ホルムアルデヒド宣言」と銘打って、
宣言1=すべての木質建材の「E0」「FC0」化を完了
宣言2=業界初「空気環境性能」最高級を示す独自のシールを貼り付け
宣言3=「低ホルム」の安心を従来販売価格でご提供
とホームページに載せてあります。
このように全製品がE0・FC0材で出荷してること。住宅表示制度にも対応していること。それを証明する「シール」が貼ってあること。だからといってコスト高にせず、従来どおりの価格におさえていること。総じて「良くて安い安全な商品」を提供していることをアピールしたかったのではないでしょうか。宣伝としては上手いと思いますよ。それは、私たちもよく経験することですが、どのメーカーを選ぶかで、住まいが決まってしまうからです。トステムを選ぶのか、松下電工にするのか、大建工業を用いるのか、それとも住建産業なのか。建築図面を見て、どのメーカーなら納まるかを考えます。つまり私も、出来上がったときにとりあえず「まとまっている」ものを目指しています。それは作るのも楽で、予算にも見合うからです。
ですが、私たちの視点としては、自然の素材である木材を用いた住まいを提供したいと思っています。柱になるのか、内装材になるのか、木を見える所に使っていただきたいと思っています。木を見える所に使った住まいは、年月を経るほどに味わい深さが出てきます。10年経って後悔しない住まいを作るのでしたら、木を見せましょう。ただし木にもホルムアルデヒドは微量含まれているので、これを「ノンホルム」というと正確でないかも知れません。


トステムのHPはこちら。CMも見られます。
http://www.tosutem.co.jp/

2001/07/13(金) 晴れ


[ 目を閉じて音を聞く ]
目を閉じて音を聞く


この所、あまりのんびりしていない。楽しいことも多いが、あたふたしている。7日の日には、松村さんと近藤さんの三人で会食した。1年振りである。天の川の導きだったのだろうか。
翌日は、松戸の義兄の家に行った。義母の生活がスムースに行くように導線に手摺りをつけようとのことである。
姪の亜美は5日で18歳になった。生まれて半年のときからの付き合いだからかなり長い。そして月日の経つのが早いと感じる。簡単なお祝いをした。
則子の姪の佳美さんが今月の28日に結婚式を挙げる。それまでに4キロ減量する予定だったが、断念し、アジャスター付きの礼服を買う。これで式に出られる。
そして昨日、則ちゃんを迎えに行った。彼女は水曜日にはテニスを習っている。体育館に着いて練習を見る。その時、目を閉じボールの音を聞いてみる。ひときわ「バシッ」と重たい音がすれば彼女だとわかるようになった。


2001/07/12(木) 晴れ


[ 高齢者のための改修 ]
高齢者のための改修


このところ手摺り取り付け工事の話が多くなった。又、高齢者のいる住宅の改修の話が増えている。先日、「滑らない床はないか」という問い合わせがあり、思いつかなかったので問屋さんに聞いた所、大建工業なら「オーキッドMP」がありますとの返事を得た。
確かに「すべりにくい」という表示もあり、「耐キャスター」「車イスOK」の表示もある。これなら使えそうだ。
品確法が昨年スタートして、それが今年からは本格的なものになる。メーカーのカタログも情報が満載だ。われわれはそれを活用できる所にいないと意味がない。
ところで、最近、ひざを痛めた。また足の先が痛いなど、足にまつわる事件がおきている。例えば年をとって足を痛めるとどんな生活が待っているのだろうか。父の所を見ても和室にカーペットをひき、テーブルにイス、ベッドの生活に変わった。堀こたつは使われなくなり、冬場はホットカーペットを使う。そうなると和室は?
和室を作る必要性はますます薄れるのだろうか。それでも私は柱を見せて使いたいと思うのだが。

2001/07/11(水) 晴れ


[ 区商連から ]
区商連からの連絡

中野区商店街連合会では、この10月から「Heart beat Nakano」というホームページを開設するとのことです。
この合同ホームページには、生活に役立つ区内の地域情報を掲載するほか、会員の皆さん、すべての店舗情報を1店舗ごとのホームページとして掲載すると書かれています。
私のところでは、中野新橋商店街に属していますので、そこを通してホームページがもてます。しかも無料で。写真とお店の紹介文くらいですが、時代が進みましたね。
中野区の商店数は約3700店舗あるということですから、中野区だけを考えても色々な人との出会いや拡がりが期待できます。少しでも商店街を活気のあるものにしていこうとする試みは嬉しいものです。


2001/07/07(土) 晴れ


[ 休憩が一番 ]
休憩が一番

毎日暑い日が続いています。体調を崩している方はいませんか。私もここの所疲れが残っていて、その分だけ良く寝ています。昼寝もしますし、夜もなるべく早くに休みます。今朝は一足早く起きた則ちゃんが団扇で扇いでくれていたので、目覚ましがなるまで寝ていました。ああ気持ちよかった。


2001/07/05(木) 晴れ


[ 島忠へ行く ]
島忠へ行く


7月1日は「島忠」へ行き、ラティスとすだれを買い求め、屋上の菊に日除けをつけました。お昼前に中野店に行ったのですが、かなり混んでいました。1880円のラティス2つに、脚を二組。すだれを大小4つに庭土や鉢などあわせて12000円くらいの買い物でした。
家に着くと則子さんは早速、菊の植え替えからはじめました。昨日は暑かったですよね。長袖シャツに帽子という出で立ちでせっせと仕事をしています。
私は一息ついたあとに、ラティスに脚をつけて模様替えの開始です。今まであったものを取り外し、フェンスと垂直にラティスと立て、その上に、すだれを取り付けて終了です。
そのあとはすだれの中に菊や日に弱い花を入れてみました。一つ誤算だったのは菊の成長が早くてすだれに届いてしまったことです。このため一鉢は外に置きました。菊のために作ったのですが、少し改良が必要ですね。
でもこんな感じになりました。

変更前



変更後





2001/07/02(月) 晴れ


[ みんなのいえ ]
みんなのいえ



三谷幸喜の「みんなのいえ」を見てきました。映画です。ストーリーは紹介によれば、
シナリオライターの直介と民子の夫婦が念願のマイホームを建てることに。だが設計を手がけた若きデザイナー、柳沢と施工担当で民子の父親である大工の長一郎は意見の違いから対立。間に入った直介はオロオロするばかりで……。
自らの体験をベースにしてマイホーム建築にまつわる騒動を軽妙に描く。笑いのツボを押さえた演出は、まさに絶品!
となっています。
出演者は直助に田中直樹。その妻民子=八木亜希子。若きデザイナー柳沢に唐沢寿明。民子の父親で大工の長一郎の田中邦衛といった具合です。
見にいかれた方はいますか。

初めは少し冗漫ですが、だんだん面白くなります。デザイナーと大工の意見の対立から始まって、お互いの仕事に対する熱情を理解する辺りから、二人の力はひとつに溶け合って「みんなのいえ」を作ります。いろんな人の力が一つになって出来上がっていく様は感動的でさえあります。
でも見ていていくつか腑に落ちない所がありました。

@ 誰が設計した図面で建てたのか、わからない。設計図面はいくつか候補が上がりましたし、それをネタに面白おかしく展開していくのですが、どんな感じの住まいになるのか出てきません。建坪50坪くらいの総二階で大黒柱のある大きな家ですが、ここに二人で住むのかしら、という疑問も涌いてきます。
A 大工が和室にこだわるのに、和室は大壁つくり、柱が見えない。話の中で6帖の和室を大工の一存で20帖にしてしまうのも非現実的ですが、すべて大壁というのも解せません。予算の関係でしょうか。クライマックスのところで、大工の長一郎が手ガンナで「うす削り」をする場面があるのですが、建てられている住まいに柱がないのでリアリティーに欠けてしまいます。
B 材木屋が出てこない。鳶やペンキ屋は出てきますが、材木屋は出てきません。これは当然なのでしょうか。材木屋も登場する映画を作りたいです。

いくつか気のついたことを書いてみましたが、こんなこと考えないで無条件で楽しんだ方がいいのでしょう。住まいを作るのは一生一代の仕事ですが、この映画のように紆余曲折はあってもハッピーエンドでいきたいものです。
最後に明石家さんまがどの場面で出てきたのかわからなかったのと、八木亜希子の身体は柔軟性に欠けるのがわかりました。
皆さんもご覧下さい。

2001/07/01(日) 晴れ


( 2001/08 ← 2001/07 → 2001/06 )


[ 管理者:大野満生 ]


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