映画のことなど


●京一会館

 京都の北東部に一乗寺という場所がある。京福電車を一乗寺で降りると、西に歩いて2、3分したところに「京一会館」があった。京都の一乗寺を略してその名になっている。

 今を去ること30年近く前にここを何度も訪れ、日本映画を堪能させてもらった。当時一日4本を週代わりで上映しており、一月通えば16本映画を見ることが出来た。しかも一回120円から200円の会場代だったと記憶している。だから一番館ではない。昼飯のパンを買いこんで見に行くと、会場を出る頃には夕方の6時を廻ってしまう。当然学校には行かない。その代わりに多くの日本映画に接する事が出来たのである。

 ここでの特徴は、企画が良いことだった。俳優や監督、脚本家特集があり、またシリーズものの特集を組んでくれた。黒澤明あり、ゴダールあり、勝新太郎もあれば渡哲也もあるという具合である。私が好きなものは、母校の先輩である梅宮辰夫が主演した「不良番長シリーズ」や山城新伍の喜劇ものである。が、毎週のように通うようになると、大島渚であったり、篠田正浩であったり鈴木清順など、こちらの好みに関係なく、情報として映画を見る事になった。これは今風に言えば、インターネットの世界である。

 さて、この場所で私は、200本以上の映画を見せてもらった。私が二十歳前後のほんの2年ぐらいの間の出来事である。だが今になってみるとかけがいのない財産を得た気がしている。若い時の一年は今の私の十年分に相当しそうだ。1999年2/10

 京一会館で見た映画の一覧

戻る

●関東で見た映画など
 子供のころは映画はテレビで見たり、また無料券が手に入りましたので、それを活用して、新宿あたりまで出かけました。昭和30年代の話です。新宿ではミラノ座が多かったです。又近所(鍋谷横丁を中心にして)にも3件ほどありましたから、松竹や東映映画は見ています。日活は不良が見る映画だといわれていましたので、母親同伴で見に行った記憶があります。

 さて、京都時代の後半に再び映画の味を思い出した私は、東京へ戻ってきてからも、映画を見ています。ベルイマンやサタジットレイなどもありますが、ほとんどが邦画でしかもB級というのが私の特徴です。赤木圭一郎の「打倒」を平塚まで見に行った事や渡哲也の「東京流れ者」を見た後などは主人公になりきって映画館を出てきました。木ノ内みどりの「野球狂の詩」も良かったですし、「ドカベン」は小学生と一緒に並んで見てきました。

 当時「ぴあ」などの情報誌が出始めて、これを見ながら出かけました。池袋の文芸座の地下。新宿歌舞伎町。浅草映画館街。横浜、蒲田、大森、八重洲、早稲田、飯田橋、錦糸町、上板橋、西荻。中でも浅草はまだかなりの映画館が残っており、はしごをした思い出があります。

 秋吉久美子の「16才の戦争」、朝加真由美の「純」、竹下景子の「祭りの準備」などのデビュー作にも出くわしました。浅野温子の「高校生大パニック」も見ていると思うのですが、記録にありません。

 一覧の中では、「釣りバカ」でおなじみの二人が競演した「襤褸の旗」や梶芽衣子が太田雅子といっていた時代の「残酷おんな私刑」などは見ている方は少ないと思います。

 ともあれ70年代にも映画を見ることが出来ました。これ以後は、映画はもっぱらビデオやテレビになり、劇場に足を運ぶことが少なくなってしまいました。

 関東で見た映画の一覧

戻る

●赤木圭一郎の思い出
 私はあまり、新聞を読みません。その中で一度は目を通すのが、テレビ欄と死亡記事の欄です。死亡欄で一番記憶に残っているのは、赤木圭一郎という日活の俳優さんです。私が小学校5年生のときです。読売新聞の夕刊を裏から見開いたとき、漫画の下にスーツ姿の写真入で、彼の死を告げていました。小学5年の記憶としてはその記事と、60年安保のフランスデモの写真が、鮮やかな記憶としてあります。

 ともあれ、赤木圭一郎という名をはじめて知りました。時は流れ、5年の歳月が経ち、その人の生きていた姿を見る機会がありました。リバイバルブームということで「トニー」こと赤木圭一郎の映画が、テレビで放映されました。「抜き打ちの竜」「打倒・ノックダウン」「霧笛が俺を呼んでいる」「男の怒りをぶちまけろ」「幌馬車は行く」「海の情事に賭けろ」「錆びた鎖」「不敵に笑う男」「明日なき男」「電光石火の男」「大学の暴れん坊」と次々に欠かさず見ました。ただ、遺作となった「激流に生きる男」は修学旅行と重なり、見ることが出来ませんでした。

 チョイ役で出た「俺は淋しいんだ」や裕次郎と競演した「清水の暴れん坊」「鉄火場の風」などもテレビで見ました。テレビでのブームは「紅の拳銃」という最期の封切り作品を劇場で再映すると云う事態を招きました。私は新宿日活で、これを見ました。今は丸井になってしまいましたが、当時は伊勢丹新宿店の真向かいにありました。併映は西郷輝彦主演の「星のフラメンコ」でした。

 孤独と哀愁、日本人離れした風貌。野生と知性を兼ねていた彼は、和製ジェームス・ディーンと呼ばれました。彼の人生は21年でしたが、その足跡は35年経った今でも私の心に刻まれております。

 最近彼の出演作品が26作になると「赤木圭一郎写真集」に書かれてありました。私が見たのはその内の19作品です。

 従来、出演作は25本とされていましたが、今回「狂った脱獄」を入れて26作品が出演作とされています。私は「清水の暴れん坊」より後の作品は見ております。ではそのいくつかを紹介します。

 赤木圭一郎が出演した映画の一覧

戻る

●赤木圭一朗の歌
 私が赤木圭一郎を確認したのは、テレビであった。没後5年、1966年のことである。当時フジテレビの夜8時から次々に放映される主演映画に目を奪われ、ときめいていた。それを助長させたのは、歌声であった。決して上手くないその歌が耳に残ったのだった。「打倒」「男の怒りをぶちまけろ」「邪魔者は消せ」「霧笛が俺を呼んでいる」そして一つのピークは「抜き打ちの竜」の主題歌「黒い霧の町」だった。

 黒い霧の降る町 肩をすぼめて 俺はひとり行く

 どこか淋しげな歌はいつも心に残り、また口ずさむことによってそれは助長された。もっと聞きたいと思った私はレコードを買うことにした。新宿にある「おかめや」レコード店に行って赤木圭一郎のレコードが欲しい旨を伝えると二種類のLPを出してきた。セリフ入りの「ベスト」版と全曲集だった。悩んだあげく全曲入りのものにした。はじめて自分で買ったレコードだった。だから何度も聞いたし、大事にもしてきた。35年一緒だったのだが、ここの所の引越しなどで現在行方不明である。そこで最近では、「ベスト」のカセットを買い求め、ひとりで運転する時などに聞いている。聞いてると眠気が覚め元気が出てくると勝手に思っている。だから不思議な存在として彼は自分の中で生きている。

 やや蛇足ではあるが、彼の魅力について触れてみたい。一つは若くして事故死をしたため今なお若いこと。二つ目には端整なマスク。三つ目には自分を素直に表現してきたこと。四つ目には時代背景にぴったりはまったこと。だから煙草を吸うしぐさ一つで1960年前後の暗い重苦しい雰囲気を背負い込むことが出来たと思っている。

 歌う赤木圭一郎

戻る

●赤木圭一朗の詩

 映画「海の情事に賭けろ」において恋心を抱く女性にランボウの一節をそらんじるシーンがある。それは映画のワンシーンというだけでなく、彼自身をあらわすものだった。赤木圭一郎は詩人でもあった。ことばとして残っているものは少ないが、心に響くものがある。スクリーンでの彼と一味違った面を楽しめるのではないかと思っている。

 赤木圭一郎(赤塚親弘)の詩+遺稿

戻る

●赤木圭一朗に関する本

私の持っている赤木に関する本をご紹介します。

私がファンの一人になったのは1966年。もうすぐ40年になります。いつもいつも気にしていたわけではないのですが、人生の節々に現れて私の記憶に残っていく赤木圭一郎を50歳を過ぎた今からもう一度見つめなおしてみようと思い初めました。

1966年フジテレビの番組で赤木を知りました。巨人戦が雨で中止になると赤木の映画に切り替わったのです。端正なマスクと孤独に溢れた表情にすっかりとりこになってしまし、テレビから流れる彼の映画を食い入るように見ていました。翌67年、高校二年生のときに初めてかったレコードが、「赤木圭一郎全曲集」でした。世界堂というレコード屋さんには、今ひとつ「台詞やインタビュー入りの選曲集もありましたが、両方は買えなかったので、前者を選びました。

翌68年には「紅の拳銃」を新宿日活で見ました。一人で映画館に入って見た映画として初めてだったと思います。このようにファンの心理は人を変えていきます。

この間「近代映画」という雑誌を買い、その中にあるトニー(赤木)の姿をいやというほど眺めました。そこに書かれている「詩」を真似してノートに書き綴っていたのも高校生の頃です。

その後、「赤木圭一郎を偲ぶ会」主催の「トニー展」が開かれました。大手町のサンケイホールだったと思いますが、このときには数日前に新聞で知って、すぐに行ってきました。確か3月22日に行われたと思います。なぜ覚えているかといえば、私の誕生日だったからです。このときにすぐに「偲ぶ会」に入会すればよかったのですが、まだ大きな遠慮があって、躊躇いました。時期が少し過ぎてから「偲ぶ会」に電話をしたのですが、「もう使われていません」でした。

それから数年の後、平塚市に雑誌「ぴあ」で知って「打倒(ノックダウン)」を見に行きました。

三十代に入るとテレビの深夜放送をよく見ていて、あるとき小林旭主演の「群衆の中の太陽」に中にトニーの姿を見つけました。

それから10年が過ぎたでしょうか、場所を忘れてしまいましたが、神保町辺りではなかったかと思いますが、やはり「偲ぶ会」主催でトニーの映画「浮気の季節」と「激流に生きる男」の二本を上映し、江木俊夫さんがゲストとしてトニーの思い出を語ってくれたのを覚えています。正直に言いますとそれはとてもつまらなく、又そのときに司会をされた女性の方も上手くなかったので、映画を見ただけといっても過言でもないと思います。

このホームページを作るにあたって、自分が継続的に何をしてきたのかを考え始めた時、「歌が好き、映画が好き、お笑いが好き、」ということに気付き、その中でも影響をうけた大きな一人として赤木圭一郎のことははずせないと思うようになりました。

 私の手持ちの赤木に関する本

戻る