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時々更新mn日記

( 2015/04 ← 2015/03 → 2015/02 )


[ 桜がきれい ]
桜が綺麗


ここ数日の暖かさで桜が一気に満開になりました。

3月30日には、茗荷谷にある播磨坂の桜を見に行ってきました。ここには15年前にも一度訪れたことがあります。その後配達などでも来ていますが、桜の時期ではなかったと思います。桜祭りは4月3日からでしたが、桜はほぼ満開のこの地、月曜日でしたが、人出は多くて学生や主婦を中心にお花見の最中に私も行きました。午後1時を過ぎた頃のことでした。

坂を下りながら、上から見る桜、振り返って見上げる桜、名所になる所はその数が違います。花で埋め尽くされていました。



ここから、簸川神社(ひかわじんじゃ)へと足を延ばし、文京区林町へと足を進めました。ここへ来るのは5年ぶりくらいでしょうか。あっという間に時間が過ぎていきます。「スーパーかみもと」の看板が見えてきました。ここは昔「八百梅」という八百屋さんでした。苗字は大野。出は飯能。我が家の縁戚筋にあたる方です。詳しい関係は知りませんが、戦争後すぐにここの2階に祖父母や父ら兄弟が疎開して約1年間お世話になった所です。その斜め前には二葉書店という本屋さんがありました。祖父の弟がやっていた本屋さんで父も少しの間店番をしていた所です。




(かみもとの斜め向かいの写真です。右のサイディングの家が戦後すぐには書店でした。)


そこを後にして林町から六義園を目指します。歩いて10数分でしょうか。途中白山通りで信号待ちをしていた時に宇田川木材さんのトラックが材木を積んで横切りました。荷台の上にはラーチ合板が30から40枚ほど見えました。この辺りまで来るのだ、と感心しました。

六義園の周りは新築のマンションが増えていました。また高級そうな住宅が並んでいます。2時前でしたが、六義園はかなり混んでいました。お目当てのしだれ桜の周りは人だかりでした。5年くらい前に来た時には少し時期が遅くて終わりかけでしたが、今回は丁度良い時でした。



ここを後にして駒込から日暮里に移動しました。谷中の墓地の中で桜見物です。桜のほかに幸田露伴の「五重塔」で有名なその塔の跡や、有名人のお墓も見てきました。相撲の31代横綱出羽の海や長谷川一夫、牧野富太郎のお墓などをお参りしてきました。




ここから谷中銀座へと足を進めました。有名な富士見坂から写真を写してみました。遠くに見える3つのマンションの向こうには富士山が見えていました。昔はです。今はすっかり隠れてしまっています。




谷中銀座から西日暮里に出て新宿区の早稲田へ降り立ちました。穴八幡に来ました。いつもは暮れから正月にかけてしか来たことがないので、今日のように閑散とした境内には少し違和感がありましたが、普段はこんなものだと思います。お参りをして家に戻って来ました。4時間ほど歩きました。


「穴八幡」のしだれ桜。小ぶりでしたが満開です。

2015/03/31(火) 晴れ


[ 今どきの賃貸住宅 ]
今どきの賃貸住宅


この所自転車で移動することが増えています。その際必ずといって行うことは、建物を見て回ることです。最近の新築物件は木造住宅であれば、外部がサイディング張りです。いわゆる建売住宅には一つの特徴があります。それは外部のサイディングはその色を二ないし三色使うことです。今まで住んでいた方が建て直す住宅はサイディングが一色が多いように思います。

そんなことを見て考えながら、これから建てる賃貸用のアパートをどんな色でまとめるか、頭を悩ませています。小さな、しかも二階建てでそれぞれ一戸、全部で2戸というアパートです。変形地に立つので割高ですが、こんな小さなアパートでも一丁前に一通りのものはついています。

TVドアホン、温水洗浄便座、システムキッチン、バストイレ別、室内洗濯機置き場、BSアンテナ、CSアンテナ、エアコン、洗髪洗面化粧台、バルコニー、クローゼット、ガスコンロ(2口以上)、フローリング、都市ガス、シャワー、照明、シューズボックス、追い炊き機能、浴室乾燥機です。これに駐輪場が付きます。これだけの設備を付けるのが、今どきの賃貸住宅です。

ここまでしてその上で賃貸人を募集できます。初めの頃には良い方が入ってくださいます。それが幾年かが経つと必ず空きます。そして直します。クロスの張替位ならば、大したお金がかかりませんが、水回りが絡むようになると、採算が取れなくなります。そして空きが増えると経営が成り立たなくなります。私もこれで失敗したことがあります。

ともあれ4月4日に地鎮祭を行うことになりました。




2015/03/30(月) 晴れ


[ 今年も桜が・・・ ]
今年も桜が・・・


今年も桜が咲き始めました。

先週の土曜日、哲学堂の桜はまだ先初めでした。おそらく31日ごろが満開かと思います。

さてそれに先立ちその前日の金曜日には荻窪まで自転車で行きました。我が家から35分くらいで着きます。駅前の銀行に用事がありました。その帰り道善福寺沿いまで行き桜の状態を見に行きました。善福寺川は杉並区にある善福寺池から始まり、荻窪の南側を通って蛇行を繰りかえしながら善福寺川公園、和田掘り公園と続き、環七を超えてからは神田川と合流して、中野区に入ります。中野区からは神田川です。

この川沿いは緑地公園になっており桜が植えられています。この日はまだ蕾でした。なるべく川沿いを走って桜の状態を見てきました。途中学校などで川沿いを走ることが出来ませんでした。また少しだけショートカットして右に左に自転車は行きます。このため、目的の川沿いから離れてしまうこともありました。それでも都立杉並高校の東側をお通り、善福寺川公園から、南下して和田掘り公園を突っ切って方南通りに出ました。この日はです。

さて、今日29日には桜が7分くらい咲いたので自転車で見て回ることにしました。我が家から南下し水道通りに出てさらに6号通りを突っ切り、甲州街道へと自転車を勧めました。今日の第一の目的は、同業者仲間でもある光和木材さんが新しいマンション建設されてその完成内覧会を見に行くことでした。大原の交差点から南に行ったところにありました。4階建て19戸のマンションでした。この建物は大東建託で建てたもので、また私の所のメゾンみのりUと同じ監督さんが現場監督として常駐した所です。私の所より上手に出来ていました。私の所での失敗の轍を踏んでいて、うまく仕上がっていました。

その後、環七から羽根木公園、代田橋駅、松原の交差点から井の頭通りに入り、神田川沿いを進むことにしました。桜を見るためです。途中から西北西に進路をとり、和田掘り公園へ向かいました。和田掘り公園というと私たちの年代にはわかりにくいので、大宮公園と云います。旧名です。こちらの方がなじみがあるのでそれを使います。ここには、川に枝を落とし咲き誇る桜を予定していましたが、生憎護岸工事でフェンスがあり、「おくまい橋」まで桜を見ることはできませんでした。この辺りには釣堀である「武蔵園」があります。また名前は忘れましたが、すぐ近くに休憩所があり、ラーメンを食べたりビールを飲んだりできるお店があります。

以前このお店の横にある物置を直したことがありました。懐かしい場所でした。ここの以前のママさんは今から十年以上前でしょうが、このお店の真向かいにある自宅に火をつけて焼身自殺をしてしまいました。そんなことを思い出しながら、途中買い求めた「こがね庵」の団子を食べました。





お腹が膨れた所で、善福寺川を遡り、川の両側に咲く桜を見ながら自転車は善福寺公園まで来ました。桜は7分か8分咲でした。花見のお客さんがたくさん出ています。桜祭りは4月3日からだと案内板に書かれていました。ここからこの近くにある焼き鳥屋さん「鳥一」へと進みます。テニス仲間がおいしいと話していた所です。さらにこの近くにある「好味屋(こうみや)」へ行きました。ここは則子さんが高校時代から贔屓にしていた所で、50年近く前から買っていた所です。「インディアンプリン」がお好みですが、これはケーキの端で作るので常備品ではありません。今までこの店に10回くらいは来ていますが、一度しか出会えていません。

この日は「鳥一」の焼き鳥と「好味屋」で菓子パンを買いました。これが今日の夕ご飯です。変な組み合わせになってしまいました。









2015/03/29(日) 曇り時々雨


[ いつもの道を ]
いつもの道を


テニスへ行くのにいつも決まりきった道を通ります。自転車は自然とそちらに向かいます。しかしその日は昼飯に「コンビニのおにぎりを買う」命題があったので違う道に漕ぎ出しました。確かこの日まで100円均一だと思っていたのでそうしました。しかしそれは昨日まででこの日は通常でした。「ガセネタじゃん」妻に言われました。

そこからテニスコートに向かいました。青梅街道を突っ切り、「右、左」と聞かれたので「右」と答え、右に曲がりました。彼女が先に行きました。すぐの道を左に曲がりました。私はもう一本先の道を曲がろうと思っていたのですが、彼女が曲がったのでついてゆきました。そして50メートル云ったくらいの所で一人の男性とすれ違いました。行き過ぎてから、私は思わず「小林君じゃあない?」と叫びました。さらに下の名前を呼びました。彼は振り返ってくれました。

この近くに実家がありました。彼は高校時代の友人でした。30数年ぶりでした。結婚して北九州市にいき、そのまま子供も孫も生まれたので、実家に遊びに来たのかと思いました。それにしても30数年ぶりにその顔を見ました。

彼は立ち止ってくれて落ち着いたら大野にも連絡しようと思っていたと話してくれました。もうすぐ65歳になるし、しごとは「もお、いいかな」と思って東京に帰ってきて引越しが終了したばかりだ」と話してくれました。

彼とは学校帰りに遊んだ仲間でした。彼は世事にたけていてチャレンジ精神が旺盛の人でした。海洋学部に進み、就職した時は東京で、結婚式も霞が関の36階建てのビル内で行ったのを記憶しています。その後は北九州に行き、会ってはいません。お父さんの葬儀で顔を合わせたくらいでした。ちなみに彼の父親と私の父は谷戸小学校の同級生で、親子で友人という関係です。

高校の同級生ですが、同じクラスになったことはありません。クラブも一緒だったkとはありません。それでも電話で連絡しあったり、賀状の交換はしていました。そして一番不思議なので、「ばったり会う」ことが数多くありました。中野駅の南口出であったり、地下鉄の同じ電車というのもありました。思えば縁があるのでしょうか。今回も少し時間がずれただけでも会うことはありませんでした。この出会いを大切に彼ともつながりを持っていきたいと思います。


2015/03/28(土) 晴れ


[ このところの愉しみ ]
この所の愉しみ


毎朝5時から6時の間に目が覚めます。時たま3時くらいですが、それでも6時過ぎには再び目を覚まします。その結果、起き出してテレビをつけます。決まって日本映画専門チャンネルから始めます。そこでは日活の1950年代から60年代にかけての映画が放映されています。石原裕次郎や小林旭、吉永小百合など黄金期を支えたスターが登場しています。2月には赤木圭一郎が出た「浮気の季節」も放映されていて見ました。主演は益田喜頓と云う喜劇俳優さんです。

午前7時を過ぎる頃から、チャンネルを東宝の喜劇に切り替えます。2月から3月にかけては植木等の無責任シリーズを良く見ていました。一週間同じものを同じ時間に放映するので、同じ映画を見て同じところで笑っています。喜劇は好きです。

そんな中、2月には日活の映画で「愛は降る星のかなたに」というものを放映していました。戦前スパイとして処刑された尾崎秀実をモデルとしてその後半生を映画化したものです。初見でした。そこで尾崎秀実はどんな人なのか興味を持っています。スパイであったか否かはこれから調べるのですが、近衛内閣の参与として末は総理大臣を目指していた方だと「ある特高の回想」(宮下弘著)には書かれていました。

さて今朝は5時から錦織圭のテニスの試合をガオラスポーツで放映していました。2時間ほど見てしまいました。その後朝9時から4時間ほどテニスを楽しみましたが、なんとなく見ていた余韻があり、今日はうまくいきました。今日(3月17日)は寄合です。そして先週の土曜日は新東京木材昭和会のボーリング大会でした。年に一度ボーリングをしますが、今年も少し投げることが出来ました。







2015/03/17(火) 晴れ


[ ここ一週間は ]
ここ一週間は


ここ一週間は久しぶりに忙しい日々でした。毎日やるべきことがあると疲れが溜まります。良く年寄りが椅子に腰かけたままで居眠りをしている光景を見ていましたが、自分がそうなりました。椅子で眠りにつくだけではなく、そのまま布団に駆け込むこともあります。30分くらい寝てしまいます。そして起き出して動きます、働きます。すっきりして動きが良くなります。年を重ねると連続して動くだけの体力は無くなりつつあります。そこの所を良く考えて無理なくいくことが年寄り流になります。

さて、アパートの新築工事も近隣のあいさつ回りが終わり、いよいよ解体です。小さい物件なので今月中に終わるでしょう。

この月曜日には白山にある東洋大学に行ってきました。私の友人の出版記念シンポジウムを聞いてきました。人の話をお聞きするのは久しぶりなので、途中うとうとしてしまいましたが、何とか頑張れました。終了後、パネラーの方々と友人で居酒屋へと行きました。学生時代の友人がそのシンポジウムのまとめ役だったので、私は話すことがないので、その友人の学生時代のことなどを話させていただきました。あまり関係ないことしか話せませんでした。

このシンポジウムで興味深かったのは、パネラーの方が秋田県小坂町、北九州市、群馬県富岡町、新潟県燕三条市の方々でそれぞれ日本の近代化に貢献した「近代化遺産」を持っていること。それを基礎に「観光産業」で人を呼び寄せようとしていること。などなど。多くの共通点を持っていました。それにも拘わらず、その町に来ていただく人の数は富岡の100万人から数万人単位の街まであります。その個別の状況を取り上げていました。

まだその段階です。地域差を確認している段階でした。パネラーの方はそれぞれの地域で中心的にその町を発展させようとしている方々ですので、発表すればするほど、他の地域の取り組みから影響を受けたことでしょう。お持ち帰りの宿題が多いように思えました。

私が面白いと思ったのは、北九州市に、「角打ち」という立ち飲みの習慣があるのだそうです。労働者が家に帰るまでちょっと一杯ひっかける所です。これが最近観光客に受けているとのことでした。

また、「日本でクリスマスを一番初めに始めた場所はどこでしょう」この答えは秋田県小小坂街だそうです。横浜よりも2年ほど早いとのことでした。小坂町は「小坂鉱山」があり、そのためドイツ人の技術者を明治6年に迎えた所、その方がその年のクリスマスを祝ったのが最初だとのことでした。明治時代は外国の技術を積極的に取り入れて「欧米に追い付け」と号令をかけられていた時代です。そんなこぼれ話をお聞きすることが出来ました。

人の話を聞いた入り、本を読んだり、美術館に出かけたりという習慣を作っていかなければならないと思っています。



2015/03/13(金) 晴れ


[ 15年経つと ]
15年経つと



15年経つとお店も変わります。

川島商店街や中野新橋商店街でここ十五年間お店を維持している所はどれくらいあるのでしょうか。

中野新橋の食べ物屋さんで行きつけの所で残っているのは蕎麦屋の丸福とお総菜屋の上州屋くらいになりました。

「ブルマン」「つくしんぼう」「山小屋」「望月」「香港屋」「雅楽多屋」「皇華飯店」「かつ味」「銀座いそむら」「そば道場」「寿司元」「日比谷こまち」などは無くなりました。昼飯を食べに行くところも「築地」「ひょうたん」「モスバーガー」「ドトール」などもありません。

ここ十年くらい前に出来た「とり花」や「タベルナパパ」へは今でも通っています。

「みゆき寿司」は今でもありますが、ランチをやめてしまったので行くことが無くなりました。

15年経つと変わります。48歳の私が、63歳。60歳だった方が75歳。急がないと人生の方が待ったなしです。



2015/03/06(金) 晴れ


[ 父の思い出 ]
父の思い出


父の思い出です。

父が中野の弥生町に店を出したのは昭和24年の8月でした。その土地は祖父が手に入れてあったものだと聞いています。祖父は戦前、中野の城山町で八百屋をしていました。12歳で米屋の丁稚奉公に上がり、二十歳の時に元手が少ないので米屋にはなることが出来なくて八百屋になりました。「八百省」という屋号で谷戸小学校の西に所に第一号店がありました。この八百屋は戦時の統制でやめさせられましたが、その15年余りのうちに支店を出し、また家作をいくつも手に入れました。現在の堀越の南側だと聞いています。これが残っていれば私も「ボンボン」でいられたのですが、戦後の混乱期に一つを残して無くなってしまいました。

父は戦争には行きましたが、九州の大刀洗という所で終戦を迎えました。あと一週間か十日戦争が長引けば朝鮮半島にわたっているので、生きていたかどうかわからないと話していました。また戦時中に「死人」を見たことがないとも話していましたので、二十歳で召集されて戦争に行きましたが、運が良かったのだと思います。

戦争が終わって、東京についた時に、やはり戦争に行っていた3歳下の弟と偶然再会して家に戻って来たそうです。そうはいっても城山の家は焼けていましたので、文京区林町の「八百梅」さんと云う同じ飯能出身の八百屋さんの二階に住まわせていただいて、落ち着いたものから板橋へ、中野へと移動していったようです。

父はこの間、林町にある「二葉書店」の店番をしたり、結核の療養に群馬県の伊香保温泉に行っていました。身体の弱い父の身を心配した親戚が中野の地に材木屋を出していはどうかという話になって、飯能にある「平沼木材の東京営業所」という感じで店を出すと様になったと聞いています。平沼木材は父の母の実家でした。

さて話を少し戻すと、祖父と祖母は埼玉県飯能の出です。従兄妹同士です。祖父が22歳、祖母が19歳で父喜平が生まれました。年子で妹と弟が出来ました。祖母は私の記憶でも身体が弱く、料理も下手でした。そんな若い夫婦の長男に生まれた父は、幼いころから仕事の手伝いから家の家事まで、仕事が一杯あったそうです。学校へ通うまでの仕事がたくさんあったといつも言っていました。

その後、工業学校を優秀な成績で卒業して確か三菱重工業に勤めたと話していましたが、その記録はどこにも見つからず、厚生年金をもらうことはありませんでした。そして戦争です。そして結核の治療です。そのあと材木屋になりました。

昭和24年の8月にお店を出して、その年の12月に母と結婚しています。母との出会いは中野の新井薬師に北の方に静岡県の富士宮(母の郷里です)から出てきて材木屋を始めていた佐藤さん(下のお名前が出てきません)と云う方の所へ父が来ていた時に、母を紹介されたそうです。結局二人は結婚することになり、佐藤さんが御仲人でした。この佐藤さんはその後材木屋を廃業して神奈川県の茅ケ崎で「屑屋」をしていました。その事業が当たって、げんざいでは宝飾関係の仕事をメインに事業を拡大して富士宮でも有名な方になりました。奥さんの名前は佐藤多喜乃さんとおっしゃったと思います。その息子さんもすでに鬼籍に入られました。

父は材木屋を始めました。母と共に仕事をしていましたが、商売は一向に上向きではなかったようです。それでも井上さんと知り合い、坂本材木店さんに新宿市場の保証人になっていただいてから少しずつ仕事が増えていきました。昭和26年に私が生まれ、昭和30年に妹が生まれたころから上昇期に入りました。昭和35年に「大野材木店」十周年記念旅行に熱海に行った頃は一つのピークでした。

その頃の材木屋は自転車のサイドカーの所が大方でしたが、いち早くオートバイのサイドカーを運転していました。妹が生まれる頃には父もオートバイの免許を取っていました。ちなみに十周年の頃に自動車免許も取りました。当時NHKの2チャンネルで免許の講習のテレビ番組があり、それを父は見ていました。無事合格しましたが、番組を見逃したところは点が取れなかったと言っていたことを今思い出しています。

自動車を手に入れてからは飛躍的に事業が伸びて、番頭さんを増やし、バイトの学生さんも使っていました。私が18歳になるくらいの話です。昭和で云うと44年くらいまででしょうか。一つだった土地をいくつか増やしていきました。最後に買った土地が昭和42年だったともいます。この40数年は全く停滞しているということになります。

父が始めた頃は戦後の物資が足りない時だったので仕入れが出来れば、大体儲かったと話していました。また台風の時などは、売るものが無くなってしまうほど売れたそうです。母も割烹着のポケットがお金で埋まったと言っていました。

いい時代だったのだと思います。

わが社も材木だけで生活するのではなく、土地を買い求め一階に材木を置き、二階を賃貸住宅にするというやり方で生活基盤を作ってきました。父は身体が弱かったので、十年にうち2年くらいの感じで病気をしていました。怪我はあまりしませんでしたが、血圧が高く、治療のために機械を買ったり、いろいろな治療を試みていました。時にはいい先生がいると聞くと大阪まで行きました。一番効いたのは子供の頃から行っていた「吸い付き」だったと思います。良く父の背中に「吸い付き」をさせられましたが、膿が出てくるのが嫌だった記憶ばかりです。あと小学生の低学年の時には、肩甲骨や土踏まずに乗って足踏みすると身体が楽になると言っていました。(これは私も40歳を超えたころから肩甲骨に凝りを感じるようになって修也にさんざん乗ってもらいました。今では整骨院で手押ししてもらっていますが、)

わが社も幾度か潰れそうになりましたが、その度母の力で盛り返しました。子供心に父よりも母の方が人間的にも上であり強いと感じていました。その間上げは今でも変わりません、父もそこそこだったと思っています。少なくても私よりは・・・・

私も身体が強くはないですが、なんとか40年過ごせました。父と母の残した有形無形の財産で今生きています。親はありがたいものです。



2015/03/04(水) 晴れ


[ 井上唯雄さん逝く ]
井上唯雄さん逝く



井上材木店社長である井上唯雄さんが亡くなりました。92歳でした。

井上さんは私の亡くなった父喜平と同じ年の生まれで、父とは50年以上親交のあった方でした。父とは材木屋仲間であるだけでなく、友だと思います。朋輩だと思います。戦争体験、商売を始めた時期、共通点が多かったのだと思います。私も詳しく父から聞いたことがないのではっきりしたことは言えませんが、A木材で知り合って、自分の店を持ってからも助け合って生きてきたのだと思います。深川の材木問屋さんも同じ所から仕入れていました。ただし普段売っているものはかなり違いました。井上さんの所は台湾桧やヒバ材を、床板も15ミリの上の単板の厚いものを売っていたのに対して、我が店は尾鷲の桧など柱材は高級品を扱っていましたが、床板などは普及品ばかりでした。

土台で見える所にヒバを使うお客さんがいました。玄関回りなどの見える所だけヒバを用いるのです。その仕事が決まると決まって井上さんの所から数本のヒバを売っていただきました。

それだけではありません。良く旅行をされる方でした。行った先々の土産物や土産話を持って自転車でわが社を訪れては、父とのんびり話をしていかれました。父がいないときには私が変わって話を聞くことがありました。山梨生まれの独特の言い回しはありましたが、含蓄のある話しっぷりを思い出しています。

父も井上さんのことを糖尿病を克服した人だと感心していました。井上さんも歩くことで病気を克服したので、どんなつらい時でもあと少し歩くんだと、自分を勇気づけて歩いていると話してくれたことがあります。その言葉が「井上君がんばれ、井上君がんばれ」というものでした。私も動くのがつらくなった時にはあと少しだから「大野君がんばれ、大野君がんばれ」と自分に言い聞かせて歩いたり走ったりしています。人の言葉は耳に残っている分だけ、その人の声で蘇ります。

さて、父が亡くなって丸9年。その数年前に父は井上さんの自宅を訪ねました。則子が付き添って連れて行ってもらいました。それが二人の最後だったと思いますが、それから十数年が過ぎて、その井上さんも亡くなってしまいました。最後は自宅でと理想的な最後だと思います。色々な話をありがとうと思っています。人が亡くなるのは世の常ですが、お世話になった方が亡くなるのは辛いものです。




2015/03/02(月) 晴れ


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[ 管理者:大野満生 ]


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