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[
歴代支部長の話
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歴代中野支部長は
中野支部の歴代支部長は、現在から戻っていくと、伊藤、亀山、大田、大野、田中、山口、石橋、春木、大田、輿石、西尾、関・・・(敬称略)だったと思います。漏れている方がいるかもしれませんが、 伊藤さんと亀山さんは長くやっていただいています。そのほかの方は2年から4年です。本部理事の人数も今は2人ですが、基本支部員10人におひとりですので、中野支部が50人規模でいた時には5人の本部理事を出していました。歴代支部長で一番若かったのは西尾さんの45歳。本部理事では高木さんの38歳が一番若かったと思います。 関さんの時には、支部員を増やすことに時間を費やしました。少しずつ減った中野支部を50人規模に戻しました。またわが社によく来ていました。私の妹と関さんの長女が高校の同級生という関係もあり、父を月報委員に誘いに来ましたが、父は断っていました。 西尾さんは45歳で支部長になりました。少し早く支部長になったのは買い上げと人柄に加えて当時の年寄り連中が、あまりやる気がなかったからだと思います。4年間支部長過ごして、その後もう一期支部長を務めれば理事長コースだったと思います。50歳を前にして相談役になってしまいました。後年がんを患い69歳でこの世を去りましたが、私が世話になったおひとりです。 輿石さんは52歳で支部長になりました。45歳で新東京昭和会の二代目会長になり、普通に行けば本部の理事長コースを歩んでいましたが、病魔に勝てず、就任二年目で亡くなりました。まだお父さんが社長で、専務のまま支部長になったただおひとりの方でした。この方は「平は嫌だが長なら受ける」という方で町会長なども引き受けていたと思います。支部長になった時に先輩である豊玉木材の佐藤幸市さんに相談に見えた時に、お会いしたのと、当時従業員慰安会でビールを注ぎに来ていただいたのか思い出です。葬儀の時にはまだ息子さんが高校生だったと記憶しています。 その後を継いだ太田さんは当時の新東京の買い上げが上位3番までに入る方でした。春木さんの木の文木材から独立した方でした。茨城県出身でした。わが社が新東京で栂の13×15を5万2千円で買っていた時に、太田さんのところでは、4万3千円でした。量は違うといえばそれまでですが、それだけ違うとわが社でも新東京では買いきれないので東京新宿木材市場で買うと4万8千円になります。当然新宿市場で買いますよね。太田さんは支部長のあと常務さんになります。さらに相談役になります。相談役は副理事長経験者という内規を越して相談役になりました。その後20年間中野支部の重鎮として私も頼りにしていました。 そして春木さん。早稲田大学を卒業して木の文材木店を継ぎましたが、三男さんでした。本部の監事を経験してから支部長になりました。輿石さんと一緒で10年くらい支部長を務めていただける人材だと中野支部では考えていましたが、小脳が委縮する病気に勝てず、任期途中で石橋さんに支部長代理をお願いし、またそのご引退され鎌倉に転居されました。まだ50歳でした。このこと辺りで、中野支部では支部長なると病気になるというジンクスが生まれました。春木支部長の時に十四日会が出来ました。春木さんからはお手紙を何通過いただきました。その一つは若手会を作り仲間になっていくこと、材木屋は色々な下職を束ねて工務店化してゆくのではないかというご意見をいただきました。 春木さんのあとを継いだので副支部長だった石橋さん。温厚な人柄で知られ新宿市場の買い上げが多い方でした。春木さんが十年くらい支部長を務めていただける予定でしたから青天の霹靂だったと思います。同じ二班から出た初めての支部長ということもあり、班を挙げて応援しました。この後、田中さんが支部長になった時には支部活動に2班が協力しなかったので「二班はさくら」といわれました。支部長時代には十四会日会が出来てしばらくした時でしたから協力していただきました。また、支部総会や二班の会合のあとには二次会に行き、さらには三次会ではおごっていただきました。お酒はあまり飲まれなかったのにお付き合いはほとんど付き合っていただきました。 石橋さんのあとは山口さんでした。石橋さんよりも年齢が5歳上で本来ならば山口さんお方が先だったのかもしれませんが、流れで山口さんが後になりました。お酒をあまり飲まれなかったのと地味な方だったので、周りの方がイベントの準備をされていました。勝又さんや船越さんがメインにいたと思います。頭のいい方で難しい話をされていましたが、私には理解できませんでした。 田中さんになりました。月報委員3期、理事6期。会計、副支部長を経て順当に支部長になりました。新東京中野支部をおひとりで背負っている方でした。副支部長に舟越さん、会計に亀田さんという布陣でした。中野の大地主のご子息でしたが、あまりそういう雰囲気のない方でした。あまり事務的なことに目がいかずにいつも太田さんに後押しされて支部運営をされていました。私が印象に残ったのは会計時代に会計報告が出来ずに総会を迎えましたが太田相談役の、「使い込んだわけではないから」の一言で会計報告が通りました。副支部長時代には、新年会の遅れてきた方から「今小田原につきました、これからオカダに行きます」の電話に「帰れ」といったのは生で聞いています。 その後を継いだのは私です。父の介護の最中でお断りしたのですが、押し切られました。事前の相談もないままぶっつけ本番で決められました。理事経験はなくしかも支部長になりました。2年間頑張りましたが、その後も2年行うことになりました。皆さん悪い話はたくさん聞いていると思います。私は好かれてはいません。うまく立ち回ることはしていません。 そのあとを3年目の時に亀山太田大野の三人で相談して、亀山さんに支部長を太田さんに副支部長をお願いしました。役員改選の前の年の9月だったと記憶しています。半年後、事情が変わり太田さんが支部長になりました。 私が支部長時代に、石橋さんから支部長としてもう少し勉強するように言われました。「支部長日誌を読むように」といわれましたが、私までそれは伝わっていませんでした。どの時期かは確定できないのですが、役員会でしたか、石橋山口田中さんがいました。石橋さんの発言に対して私は「支部長日誌は知りません」と答えました。私は舟越前副支部長から小さな風呂敷に入った領収証いただいただけで、それだけが引き継ぎでそのほかのものはいただいていなかったのでそう答えました。その時田中さんが、「俺が全部捨てた」といいました。それに反応した石橋さんと山口さんの顔は忘れられません。唖然としていました。
2026/03/09(月)
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