さらば友よ
沖田幹夫
その年は、いつになく不気味さを備えていた。世に学園紛争と呼ばれるひとつの高揚があった。東京大学の入試中止に代表されたその年に私は東京を離れ4月から同志社大学に入学した。沖田君とは演習で一緒になり、私がはじめて友人となった方のうちの一人である。彼は演習のリーダー役としてクラスをまとめた。国の安全保障を巡る問題から、ハイキングの世話まで。そんな中で私との接点が出来たのは、二つあった。私は入学して二週間もしないうちに怪我をして、入院生活を送る羽目になったからである。あるときはクラスの皆と、またあるときは一人二人で、まめに来てくれた。私も体調が良いと無断で外出していたから、「お前どこに行っていたんだ」などとしかられることもあった。そんな中、「同うた」という催しがあった。そのチケットを預かったが、うまく捌けず私が困っていたら、沖田が「俺が捌いてやる」といって持っていってくれた。ありがたかった。それから三週間しないうちに彼は宮津の海で死んだ。彼の死を知ったのは、ラーメン屋で昼飯を食べているときだった。京都新聞の片隅には彼の死と岩倉の教会で告別式が行われることが載せてあった。すぐさま、その教会まで行ってみたが、すでに誰もいなかった。そしてそのままになった。彼の写真は一枚も持っていない。想い出が残るだけである。
山崎正一郎
1971年5月末、当時京都にいた私は友人と二人で東京にくる用事があり、東京に向かっている最中であった。東京に着いたら「奴に電話しなくっちゃ」そういう思いに駆られた。胸騒ぎを感じたのだ。結局用事を済ませると電話せずに京都に帰ってしまった。しばらくして彼の死を知らせる電話が入った。「夏には青森までドライブしよう」そんな計画を立てていた矢先の出来事だった。彼と平野、真仁田、大野の4人は早稲田中学・高校時代の歴史研究部の同期として行動をともにすることが多かった。毎日のように学校の屋上でミニサッカーをやり、一楽のタン麺を食べ、たまにボーリングに行くといった具合だった。彼は学年の五指に入る優等生だったが、気取った所もなく、写真が好きで自宅には暗室があった。お城を写したり、山を好んでいたが、その山で足を滑らし帰らぬ人となった。「花を知れば山がもっと楽しくなる」とは彼の言である。
小山隆
小山さんは同志社寺代の一年先輩である。だから友人というには語弊があるかもしれないが、すでに故人となられている事もあり、あえてこの言葉を使う。
九段高校から同志社に入り、卒業後は教師として正義感あふれる熱血教師として頑張っていた。
小山さんといえば思い出すことがある。クラブ対抗の野球があって、いくつかの組が出来たとき、「大野が来たのか。大野が入ったんじゃ負けだな」といわれ、事実その通りになった。
2回生の終わりに小山さんは歴研の幹事長になった。それまで目立たない存在だったので、「勤まるのかな!」などといううがった気持ちを持っていたが、杞憂だった。幹事長を引き受けてからどんどんたくましくなった。人間はかっこよく成長するものだと教えてもらった。主役を張れる「華」のある人だった。
率直で正義感の強い人で、その分利口に立ち回るなどということは出来ない人だった。それは後年まで続く。
1970年当時こんな唄があった。
「青年の瞳は美しい それは希望に燃えているからだ。
青年の瞳は美しい それは澄み渡る青空のように
平和と自由をこよなく愛するからだ」
この歌を聞くと小山さんを思い出す。この唄のように光り輝いていた小山さんを思い出すのである。かっこいい人だった。
小山さんは大震災の年の1月8日に亡くなられ、通夜告別式は河内長野市のメモリアルホールにて行なわれた。46歳だった。あと一週間生きて、大震災を目の当たりにした時、小山さんなら「どんな感慨を持っただろうか」
死後5年。私も小山さんと同じように髪に白いものが目立つようになった。
坪井義典
「もう十年経ったのか」
不思議な感慨に駆られる。坪井が亡くなったのは、1991年1月23日のことだった。その前年から体調を壊し、入院加療中であったことは聞いていたのだが、死に至る病とは想像だにしなかった。
話はさらに二十年遡る。1971年4月、自分と似た雰囲気の人間と出合ったと感じた。吉田素子さんを真ん中にはさんで、坪井と私の三人は今出川のキャンパスを歴研の木の下から歩いてきた。おそらく通りを隔てた向かいの「わびすけ」か「トリオ」あたりに向かっていたのだろう。それは行きつけの喫茶店だった。
どんな話をしたのだろうか。今となっては思い出すことが出来ないが、「青春の熱弁」の渦中にあったことは疑いない。
シモンズが好きで、チェリッシュが友達で。ドラゴンズのファンで。名古屋弁で。いつも早口でしゃべっていた。そのスピードのままの人生だった。39歳での死は無念という言葉以外に見当たらない。だから私はすぐには死ねない。
彼の死後、「追悼文集」を仲間達が作った。今回読みなおしていて、「ほのぼの」するものがあった。彼は人に多くの笑顔を記憶させている。
「あんたはエライ」「おさえて・おさえて」という合いの手が上手い話。名古屋に知人が来ると市内観光に連れて行くといいながら古本屋回りをした事など。「ああ。そうだった」と想い出すことばかり。
もう十年経ったのだね。
自分にも楽しい思い出を残してくれてありがとう、坪井。

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