「縦の世界」から


「縦の世界」PDF版

「縦の世界」の全文をPDF化いたしました。是非御一読下さい。

PDFを見るにはAdobe AcrobatReader5.0以上が必要です。
AcrobatReaderをお持ちでない方は下記のバナーをクリックして下さい。

Get AcrobatReader


目 次


縦(たて)と横(よこ)

 縦は「いとへん」なのに、横は「きへん」ですね。何故ですか。こんな疑問を抱いたことはありませんか。何かを思えば、何故なのかと調べてみるのも面白いものです。

 木材ネットワークやつくば緑友会との交流はいわば「横」の連携です。横で集まろうとするのは「個」が小さくなったからです。本来同業者はライバルなのです。しかし目の前にもっと大きな脅威があるので仲間を募って「対抗」しているのです。その中で同志が出来、親友が出来るという、育ち方は個人の人生にとっては大事で楽しい事です。

 しかし、その輪が奥行きや広がりを見せるには、縦方向に目を向けなくてはなりません。木を多く用いた木造住宅を作ろうという呼びかけを流通の立場から考えていくと、必要なものを必要とする人のところへ道をつけることが大切になります。これを私などは工務店に対してしか行わなかったのですが、いま少し視野を広げたものが、木材ネットワークであり、成果としてはCANと緑友会が本としてその形を見せています。

 そうだとすると、頭の中には、より広いものを描いておく必要があるように思えます。先日手に入れた本の題名は「生産者と消費者の連携」というものでした。産直住宅などの紹介が主なものではありますが、産地からエンドまで視野に入れた縦の活動はかなり活発になっています。材木屋としてもこの事に早く取り組まないと遅れを取るだけです。逆に「生産者と消費者の連携」の中に飛び込むことが出来れば、良いものを早く安く提供できるし、流通の役割が変わるのではないかと考えています。私達なりのネットワークを構想しませんか。それにはインターネットというのは適した媒体だと感じております。

目次へ戻る


これからの住宅産業の流れ

 これからの住宅産業はどうなっていくのだろうか。あるいはどうしていくのが良いのだろうか。積み重なった課題は大きい。アトランダムに書いていくと

  1. 新築需要が減り、リフォームが主流になる。
  2. プレカットが主流になる。
  3. 性能表示.PL法が絡んで、高規格高性能の住宅が増える。
  4. 健康住宅=地球環境に優しい。長持ちする。省エネ。シックハウスからの開放。
  5. 低価格の進行=施工性の追求。流通はカットされる。手間は安くなる。(電気、ガス、水道工事手間や大工、工務店の手間の部分の縮小。)
  6. デザイン性の確保=CADの活用。

 ここまでは、その1を除いて「数値で表すことが出来る」ということはまず、数値で表せなくては勝負にならないということだ。(この部分はそこそこでなくてはなるまい。平均点は超えなくてはなるまい。)となると、私たちに残るのはやはり「木」しかない。「木材」である。この個性的なものを扱って、「手作りの良さをどう表現していくのか」「癒されたり、やすらいだり」という人間の生命のリズムに訴えるのには何が必要なのか。皆さんも考えて下さい。

目次へ戻る


亡き母の教え

 母親が癌宣告を受けてから、早いもので5年が経つ。それまで病気一つした事が無い母親だったが、その前年に脚をくじいてから、運勢の転落が起こった。過去に悪い種をまいた結果でもある。この母親の性格はかなり私に影響を及ぼしている。それを一言で表現すると頑固、わがまま、強情となる。こういう人の子供であるから私も、その性向が多分にある。

 その母親から一つだけ云われていることがある。友人の丁野君と比較して「丁野さんは100ある力を70出していけば、世間並みのことが出来る。お前は60しか元がないのだから、60以上で走り続けることは出来ない」と。

目次へ戻る


一枚の写真

 昔「ぴったしカンカン」という久米宏の番組があった。この中に1枚の写真というコーナーがあり、幼少時の写真からゲストを当てるものだった。私にも記念すべき1枚の写真がある。父親の弟つまり私にとっての叔父さんが、カメラに凝っていて、写してくれたものである。B5サイズに引き伸ばされた写真は今でも残っている。この写真にはかねがね疑問に思っていたことがひとつあった。私一人しか写っていないし、どこで移されたものかわからなかったからである。そこには一才三ヶ月の私と物干しらしい二本の棒と横に竹が渡してあるそんな光景しか写っていない。その光景は確かに見たことがあった。それは母親の実家である。母親の実家は静岡県の富士宮市内であるが、バスに揺られて1時間ほど山を登った所にある。富士山がこんなに大きく見える気候のよいところで夏になると十日や二週間ほど預けられるのである。母屋を出たすぐ前に「写真にあるような光景」を記憶している。だからいつも母親の実家で写してくれたんだ、と思いこんでいた。

 だが、なぜ、東京にいる叔父さんが五時間かけて静岡まで来てくれたんだろう。そのとき何があったのだろうと、母親の一周忌のときに聞いてみたのである。

 「この写真、叔父さんが写してくれたんですよね」
 「そうだ」
 「これはどこで写したんですか」
 「何、馬鹿言ってんだ。おまえんちの真ん前だ。」
 「えっ」

 45年前の弥生町2丁目あたりはまだ一面の麦畑であった。

目次へ戻る


映画館のこと

 映画館へ通うようになったのには訳がある。お店が木造で出来ていた頃、その一角に看板を飾る所があり、そこに近くの映画館や新宿のミラノ座などのポスターを貼っていた。その関係でタダ券が手に入った。おかげで、洋画や邦画を問わず、多くの映画を見ることになった。昭和30年代半ばまで、私が小学生の頃の話である。私の中ではジョン・ウェーンはヒーローだった。邦画では、ダントツで東映映画。諸国物語や月光仮面(大村文武主演)、紅孔雀などが印象に残っています。松竹では怪談もの。新東宝では明治天皇ものなどを見ていますが、日活は不良が見るものといわれ、高校生になるまで見ませんでした。ですから石原裕次郎も、劇場でと限ると1970年の「戦争と人間」まで下ると思います。

 しかし、今はビデオですが、当時は、劇場で公開されたものは数年でテレビで見ることが出来ましたから、特にB級映画といわれたものほど、テレビで放映されましたので、学校をずる休みしては、テレビを見ていた記憶があります。午前中の10時頃からやっていました。ついでに言いますと、夕方には、関西系の吉本新喜劇や渋谷天外、あるいはデンスケ劇場などもやっていましたので、よく見ていました。この流れは二十代になるまで変わりません。私はテレビっ子です。

 話を元に戻すしますと、1969年に始まる大学生活では、体を壊した関係から、肝炎ですが、あるいは、京一会館という映画館を知った関係から、1971年、72年は映画ばかりを見ていました。この時に200本ほど見ておりますので、これもひと財産です。

 その後東京へ戻ってきてからは、東京で知り合った友達と、オールナイトを楽しんだり、池袋の文芸座やその地下などへはかなり通いました。その波も1977年の青春の門・自立篇(田中健主演)あたりを最後にしぼんでいき、劇場で見たものは、小泉今日子の「生徒諸君」(1984年)、原田知世の「満月」(1991年)ぐらいしか思い浮かびません。(ただし、ドラえもんを除く)

 こうして縦系列で見ると、映画もかなりくだらないものばかり見ていることになります。泉谷しげるの初監督作品「拳銃殺陣師」とか、所ジョージ主演の「下落合焼き鳥ムービー」とか、山城新伍の初監督作品である「ミスターどん兵衛」なども印象に残っています。たまには、ベルイマンであるとか、サタジット・レイなども見てはいます。

 さてこの一本となると、何になるのでしょうか。石原裕次郎だったら、「赤い波止場」、赤木圭一郎だったら、「打倒・ノックダウン」、梶芽衣子だったら、「野良猫ロックシリーズ」などが浮かびますが、やはり渡哲也の「無頼」シリーズか、「東京流れ者」に落ち着くのだと思います。自分の感情に刻まれたものはしみついていて、今でもやはり好きです。もっとも、なぜ渡哲也が好きなのかに対する答えは難しいですが。

目次へ戻る


甘く切ない青春がいま甦る

 渡哲也の「純愛のブルース」が好きで、いつも口ずさんでいた。もちろん若い頃の話である。いつかまた聞きたいと思っていたが、渡哲也の自伝を描いた「俺」を読んでいたら、レコード会社の関係で絶版になっていると書かれていた。だからもう聞くこともない、自分の頭の中だけで歌詞がグルグル回っているだけだと思いこんでいた。

 先日何気なく、インターネットをつないで「純愛のブルース」で検索してみると渡哲也の復刻板CDが発売されたことが書かれていた。そこで早速買い求めて聞いてみる。

 先ずは「東京流れ者」。同名の映画の主題歌で、緑川アコや竹越ひろ子のものとは歌詞が違う。これを聞くと「流れ者に女はいらない」「俺の射程距離は100メートルだ」などの映画のシーンがよぎる。

 そしてお目当ての「純愛のブルース」。「俺が死んだら幸せな恋をしとくれ頼んだぜ・・・」このフレーズを久しぶりに口ずさんだ。私はデビューしたての渡哲也の素朴なことろが好きです。

目次へ戻る


好きなことだけが残る

 仕事が暇な人がいますか。その暇なとき、あなたはどうしていますか。下小屋の片付けですか。それも終わって、帳面をつけていますか。それともボーっとテレビですか。子育てに追われて忙しいですか。その中でも、1日30分、自分の好きなことに時間を使って見ませんか。

 私には体力がありませんから、配達や担ぐ仕事が忙しい時は別として朝一時間、何も仕事がなくても材料を移動して、汗をかくようにしています。それで着替えて、さっぱりしてから、メールを書いたり、パソコンをいじったりしています。この所、小学、高校、大学とクラス会や同窓会が続いて、メール友達も増えました。彼ら、彼女らへメールを書くのも一つの楽しみです。では今私が一番好きなことは、昔のCDを聞くことです。ゴルフの好きな人はそれを、釣りの好きな人は、スキーの好きな人は…結局好きなことだけが残るように思えます。材木屋という仕事も好きでないと続けることが出来ません。あなたはこの仕事が好きですか。仕事の中味を、どう変えていこうと思っていますか。

目次へ戻る


好きな作家のことなど

 自分のプロフィールなど書くことはないと思っていましたが、この度のことで書いてみました。どんな本を読んでいたのかと考え始めた時に五木寛之が浮かびました。松本清張や森村誠一などと並んで、数は読んでいます。そして初期の作品集は全部持っていると思います。(どこかに)この三者の共通点、その魅力は何でしょうか。読みやすさと結末のどんでん返しだと思っています。「見る前に跳べ」を書いた大江健三郎氏などは何冊か買って持っていますが、たいてい二ぺージぐらいで「おやすみなさいになってしまう」ので、見たり聞いたりはしていますが、中身は知りません。「ここを跳べ」という題名を聞いて、大江の名前を想像する方が多かったのは当たり前でしょうね。

 ちなみに自分の大学の先輩である岡林信康のレコードにも「見るまえに跳べ」というのがあります。五木寛之の中では「風に吹かれて」や「ゴキブリの歌」、「第三演出室」、最近では「雨の日には車をみがいて」が好きです。では一番のお気に入りはと尋ねられれば、「戒厳令の夜」をあげたいですね。この作品はインパクトが強かったです。私の文体や展開の仕方に特徴があるとすれば、五木の影響は多分にうけていると思います。

 それにしても月日の経つのは早いものです。25年も前に読んだものを今ごろになって思い出すというのは私も大分歳になりました。五木にまつわる話を今一つ思い出しました。大学受験の時、かの有名なK大学の二次試験で面接官に「尊敬する人は?」と聞かれ、何人かの名前の中に五木寛之をあげました。「君は変わっているね」と面接官が言ってた意味が今やっと分かりました。五木は早稲田の露文の中退。K大学はライバル校だったのです。大野 (97年1月15日)

目次へ戻る


人の歳を越す

 昨日、歌番組を見ていたら、「宇多田ヒカル」の親が「藤圭子」だと知った。その関係もあって、昭和45年の歌謡曲に耳を傾けていると、ドリフの「いかりや長介」の若いこと。今の自分よりも20歳も若いときに当たるので、当然といえばそれまでなのだが、藤圭子18歳、前川清21歳など、みんなピチピチしている。

 それはさておき、私もだいぶ年になった。赤木圭一郎の歳を越え、高杉晋作、吉田松陰、坂本竜馬、市川雷蔵、松田優作など。思い浮かぶだけでもかなりの人の名を言えるようになった。これらの人は私よりもこの世にいた時間が短かった方々である。とは云うもののなした仕事は比べ物にならない程大きい。言葉の多い少ない、時間の長い短いだけではない。人間には今やっておかなくてはならないことが沢山ある。

 人の歳を越した時、自己を見つめ自分の人生を振り返るのである。だが、私が『きんさん、ぎんさん』の歳を越すまでまだ60年の歳月が必要である。(98年2月4日)

目次へ戻る


次の一手を探れ

 先日、東京都内材木商8団体の若手会の代表が、集まりを持った。自分達の仕事の現状や先行きの不透明感を反映して、都内の材木屋に何が出来るのか、これから考え、行動しようとしている。もちろん、個別の単位では勉強会や木工教室、市場組織の所は市民に市場を開放したり、最近では学園祭のバザーに乗り込んで、住まいが汚染されている実態を明らかにし、それに対して材木屋側から自然素材を使った健康住宅を提案するに至っている。そのような個別の動きを進める一方で、もう少し輪を広げるのが、今回の目的であろう。

 さて、そのためには私ども材木屋の役割は何か。その前に材木屋とは何者なのか、これに答えを出さなくてはなるまい。私なりに答えを出してみると、木を縦軸に住宅を横軸においた時にその重なり合った所に位置しているものが、材木であり、材木屋であると考えている。とすると、木材の良さを伝えることと木造住宅の良さを伝えることが社会的な役割になる。総じていえば、木の文化を伝えることにある。

 では誰に伝えていくのであろうか。さらにどういう風に伝えていくのであろうか。今までは大工職人という技術者と共に、あるいは職人が主になって、これを現してきた。真壁造りの家には素材である木材の存在感と作り手である大工職の腕が反映され、住む人に安らぎを与える。もちろん施主自身も木の家の良さが分かっているから、仕事を頼んだのであってその逆ではない。

 ところが、そのような構造は都内では大分少なくなった。少なくとも自分の会社では、この十年間で鉄筋鉄骨の内部造作が主流になり、また木造住宅があったとしても大壁仕様のものである。そのような家で生まれた子供にとっては「柱や梁は見えないもの」である。このまま放置してあと十年もすれば、それが普通の状態となってしまい、木を見る機会は失われる。

 これを書いている今の時点では、桧材の値下がりが伝えられている。また、円安が伝えられ、栂材との価格差が曖昧になっている。この事は内地材を製材しているものにとってはピンチであるが、売り手にとってはチャンスであろう。もちろん安くなれば、悪いものも出てくる。これは気を付けねばなるまい。それよりもこのチャンスを生かすこと。土台と柱ぐらいは「産地と年間契約」して栂よりも安く供給できないものか。etc。

 話が脇道にそれたが、私たちも自らの殻に閉じこもってばかりいられない。自分に出来ること、自分達に出来ることを行動に移す中でその次の広がりを期待したい。そのためには個々の団体の特色を明らかにし、その過去を都内というレベルだけでも共有し、それが出来なくても「お互いを否定しあわない関係を作り出そう」ではないか。

 各団体の履歴を文書で披露し、刺激しあう中でお互いの人間自身を育てよう。そして、あなたはどんな家に住んでいますかと問いかけ、木を見える所に使う努力をしようではないか。木は、おそらく地球上の生物で、一番大きくなり、また長生きの生物だからである。(97年12月4日)

目次へ戻る


「戻る」